紫垣王府での事件
聞けば、フーチンは一時期ロクシャン府に居たのだそうだ。ロクシャンから出てきたリュセと共に、紫垣王府へ入るまでのわずかな時間を過ごしたという事で、勝手知ったる様子で近侍の者の後についてやってきた。
けれど、慣れているはずのその場所であるにも関わらず、ジンランが居る事に落ち着かない様子でちらちらと様子を伺っていた。
「どうしたの? 私一人の方がいい?」
察してフェンがそう言うと、フーチンは小動物のようにびくびくしながら首を振って、いえ、そんな、と、しきりに恐縮した。
「猩紅公主様にご相談に来たのは、紫垣王府に一度お戻りいただけないか……と、無理なお願いだという事はわかっています、でも……」
「それはいったい……」
既にフェンはジンランの元へ嫁いだ身だった、今はまだ宮女の一人にすぎないリュセの侍女であるフーチンにそのような要請をする力は無い。だからこそ、フーチンが来るとはよほどの事なのだとフェンは思った。
「リュセ様のお食事に……毒が……、紫垣王様にご相談申し上げようと言ったのですが、リュセ様がご心配をかけてはならないと……、でも、私、不安で……もちろん私もお毒味はしています、でも、毒はどうやらお箸の方に塗られていたようで、今、リュセ様はお食事もお水もとる事ができずにいらっしゃいます、公主様からリュセ様に紫垣王様に相談するよう説得していただけませんでしょうか」
フーチンの声は最後は涙声になっていた。
フェンより先にジンランが反応した。
「リュセが……命を狙われているというのか?!」
フェンが何事か言うより先に立ち上がったジンランが、急ぎ紫垣王府へと急き立てた。
しかし、ジンランの言うとおり事は一刻も早く動かなくてはならない。
ジンランとフェンは馬上の人になり、フェンは駆けていくジンランの後方をフーチンを乗せて紫垣王府へ急いだ。
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リュセは、突然現れたジンラン達にひどく驚いた様子で三人を迎え入れた。
「フェン様だけでなくジン兄様まで……、フーチン、騒ぎすぎですよ」
そう言って気丈に振る舞ってはみせたが、あわてて床上げしたようで、髪はわずかに乱れていた。
「でもリュセ様!」
心配して椅子を持ってきたフーチンの薦めでリュセが腰を降ろすと、騒ぎを聞きつけて紫垣王ことシュウがやって来た。
「何だ、何の騒ぎだ」
やって来たシュウは嫁いだはずのフェンと、ジンランの姿を見て驚きを隠せないようだった。
「フェン、お前、どうして……ジンラン殿まで」
「紫垣王殿下、ご挨拶も無く失礼いたします」
あわてて拱手をして見せたジンランに対してシュウは鷹揚に答えて、咎めるようにフェンに言った。
「フェン、お前逃げてきたのではあるまいな」
「そんなわけないでしょう、兄上、ご自身の未来の奥方の面倒くらいきちんと見て下さい」
今はまだ宮女候補ということでただしく妻にはなっていないはずなのに、シュウがぱっと顔を赤らめた。
「……どういう事? ……まさか兄上は既に……」
するとリュセもまたシュウ同様恥ずかしそうに顔を隠した。
ジンランはフェンやシュウ、リュセの表情の機微を読み取れず一人戸惑っていた。
「どういう事だ……それは……つまり」
顔面蒼白なジンランに対して、リュセとシュウは揃って頬を染めている。フェンは、まずい、と思い、あわてて名目上の夫の手をとって一旦退出した。
嫁いだとはいえ、先日まで起居していた紫垣王府の事、フェンの使っていた部屋はまだそのままになっていた。有無を言わせずジンランをひっぱって扉を閉めると、茫然自失で失神寸前のジンランを長椅子に座らせた。
「しっかりなさって下さい!」
パシン!! と、フェンの両手がジンランの両頬を叩いた。
「あなたは何の為にここへ来たのです? 目的を忘れないで下さい!」
ぴしゃりと言うフェンの言葉に、ジンランは目の覚める思いだった。
「……すまない、取り乱してしまった」
愛おしいと思っていた女が他の男の物になった事がわかったからといって、それがどうだというのだろう。もとよりそのような事は覚悟していたはずなのに、厳然たる事実を突きつけられるとジンランも取り乱さずにはいられなかった。
「それとも、横恋慕してリュセを連れてお逃げになりますか?」
フェンははっきりと『横恋慕』と口にした。リュセとシュウの様子を見れば、互いが互いをどう思っているかは一目瞭然であったが、ジンランとしては受け入れがたい事だろうとも思っていた。
取り乱すジンランは情けなくもあったが、それだけリュセを思っているのだというのをまざまざと見せつけられたともいう事だ。
だが、フェンはそんな様子を微塵も見せていない。……それどころか、ジンランへの思いすらも隠し通す覚悟もあった。
フェンの言葉に、ジンランが落ち着きを取り戻しつつあった。
「それは、できない」
そう言って、顔をあげたジンランはいつものジンランに戻っていた。
あそこまでジンランを取り乱させるのはあくまでもリュセであって自分では無いのだと強く感じる。リュセに対する思いのひとかけらでも自分へ向けてくれたならば……そう思うフェンだったが、きっとそれはジンランがフェンの兄、シュウに対しても同様に考えているんだろうと思うと、人の思いとは本当にままならないのだと実感した。
「私も、リュセを害する者を許しません、ジンラン、どうかご協力下さい、兄と、未来の姉を守る為に」
「……だが、いいのか? 公主」
「フェンとお呼び下さい、実態はどうあれ私はもうあなたの妻なのですから」
キリ……と、胸の奥が軋む音がするようだ、と、フェンは思った。
「ではフェン、我らの目的は一つと考えてよいのだろうか?」
「ええ、リュセが宮女であろうと、未来の皇太子妃であろうと、私とあなたでリュセをお守りします、その一点において、二人の目的は一致している、そう思っておいてよろしいですか?」
「ああ、もちろんだ」
ジンランの顔が明るくなり、フェンの手をしっかりと握った。




