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わがまま公主と辺境小隊長の縁談

 鎮守府では、ジンランに替りロクシャンへ戻る一行が旅立つ準備をしていた。宮中に痛くもない肚を探られるわけにはいかない、護衛は最小限で、しかし武器や食料はたっぷりと。少人数精鋭の護衛部隊にはジンランの護衛としてやってきた者もいた。ジンランとともに都には残らず、兄と共にロクシャンへ戻るという。ジンランとしては腹心の部下を、両の手足をもぎとられるような思いだった。


 幼い頃から共に育ち、形式上は将と兵卒であっても、将軍次兄の立場では無くジンラン個人を見てくれていると思っていたが、実際はそうでは無いのだという事をいやというほど思い知らされた。


 彼らはあくまでもロクシャン将軍カザンの部下であり、ジンランは小隊の長にすぎないのだ。父が命じれば従う他無く、誰の隊であっても置かれた立場で力を出すよう努めるだけなのだ。


 そしてジンランにとってはさらに不本意な処遇が待っていた。


「猩紅公主……とは?」


「紫垣王とは同母の妹だ、紫垣王同様太上皇帝陛下の覚えもめでたく、たいそうな美女だとか」


 女好きの父が好色そうな笑みを浮かべないという事は、言葉通りの美女ではあるまい、と、ジンランは思った。息子の妻だろうと、大将軍の妻だろうとおかまいなしなのはいっそすがすがしいほどな、漁色家の父カザンは『試さずにはいられない』性質のようで、幕僚の妻の中には『味見』と称してそうした饗しを強要する事もあった。


 ただし、ジンランにとって美女だろうとそうでなかろうとリュセでなければ誰だろうと同じなのだ。


「俺ごときにそのような高貴なお方が……どのような技をお使いで? お父上」


 公主との縁談をとりつけるための苦労を思えば、ジンランにはそれを断る事などできないと理解している。


「お前には知る必要の無い事だ、だが、お前はせいぜい公主様のご機嫌をとっておくがいい、母親譲りのその顔でな」


 下卑た顔にうんざりしてジンランは拒絶も否定もしなかった。自分は父にとって都合のよい駒にすぎない。……そして、リュセも。


 今はまだ、駒でいる他無いのだ、と、ジンランは牙を隠すつもりでいる。


 自分の立場もリュセも、いずれはひっくり返して見せると、心密かに思っていた。


「……わかりました、父上」


 頭を下げるのは、心情がのぞいてしまいそうな瞳を父に隠すため。そう自分に言い聞かせながら、ジンランは耐えていた。


--


 婚礼といっても、ジンラン自身は特別何かを整えるという事はしなかった。屋敷の者達に言われるままに、指示通りの装束を着せられて、花嫁がやってくるのを待つ。


 名実ともに花嫁とする意志はもとより無い。聞けば、猩紅公主は祖父である太上皇帝に溺愛されたわがままな娘らしい。結婚相手が野卑な辺境産まれ、かつ、異民族の風貌である金色の髪に緑色の瞳であれば、床入り前に恐れて自ら縁談を断る事も考えられる。


 花嫁の乗った花轎が着くと、先頭の豪奢に仕立てられた輿から紅蓋頭をかぶった花嫁が降りてきた。


 紅い頭巾は夫婦の寝室に入るまで取り払わない習わしであった。


 ジンランはようこそ、とだけ言って一瞥し、花嫁と共に神への礼拝を済ませた。


 寝室まで来ると、花嫁に付き添っていた者達も居なくなり、ジンランは残された花嫁、猩紅公主へ向き直り、頭巾に手もかけず、一礼してから言った。


「猩紅公主様、この度縁ありまして夫婦となりましたが、俺はあなたと夫婦の契を結ぶつもりはありません」


 静かに、しかしきっぱりと言うジンランに対して、猩紅公主は動ぜず、言葉を発した。


「……それは、他に思う方がいらっしゃるからでしょうか」


 たおやかな、弱々しい声か、もっと高慢な声だとばかり思っていた猩紅公主の声はジンランの予想に反して凛とした声だった。


 背筋をピンと伸ばし、朗々と語る様子からは、高い身分ゆえの矜持なのか、傲慢さより、誇り高さが感じ取れた。


「英明な公主殿、おっしゃるとおりです、俺には心に決めた人がおります、今はまだ婚姻を約する事はできませんが、いつか必ず思いを遂げたいと考えております、……ですから」


「これは、あなたのお父上のカザン将軍と、我が祖父、太上皇帝陛下のご意思によって定められているという事はご存知ですか?」


「……ええ、ですが」


 言いよどむジンランに対して猩紅公主はきっぱりと言った。


「古来より、婚姻によって縁を繋ぐ事は多くございます、女の私がこうして覚悟を決めてやって来たにも関わらず、男であるあなたがやわな覚悟でここに至ってぐずぐずと、失望しました」


「な……ッ」


「思う相手がいるというならば、何故行動を起こさなかったのでしょう、そしてそれができないのならば、お父上に諾々と従うのは何故ですか?」


 紅い頭巾の中から繰り出される容赦の無い舌鋒に、ジンランはたじろいだ。


「しかしそのような無責任な行動を起こせば彼女に対して迷惑が……」


「ならば黙っていればいいでしょう、思う相手に操を立てたい、土壇場になっての発言、これではどちらが公主だかわかりませんね」


 頂から繰り出される侮蔑ににた笑み。挑発されている事がわかっても、図星であるがゆえにジンランは不快だった。


「ええい、公主様と思い下手に出れば……あなたにそのように蔑まれる覚えはありません」


 取り澄ます事ができず、感情から思わず叫ぶと、公主もそれにのってきた。


「ならば! 今すぐこの頭巾をお取りになればよいでしょう? あなたを侮辱する不躾な女一人、どうにもできないほどあなたは弱腰なのですか、ロクシャンで一軍を預かるお方にしては、性根も座っていらっしゃらないご様子」


 たまりかねて、ジンランは花嫁の頭巾に手をかけた。


「……いいでしょう、あなたがそこまでおっしゃるのならば」


 本来であれば、そっと新郎の手で引き上げられるはずのそれが、乱暴に剥ぎ取られた。


「あなたが……猩紅公主……」


 頭巾を取り払い、ジンランの前にいる花嫁。


 目の前で武人でもある男が声をあらげ、乱暴に振る舞っているにもかかわらず、臆する事なく毅然とした眼差しは、ジンランも知っている人物のものだった。


「フェン……殿? なぜあなたが……」


 しかし、気丈に振る舞いながら、フェンは、わずかに震えているようだった。


「初めてお目にかかった時、身分を偽った事はお詫びいたします、ですがこの婚姻、不成立にさせるわけには参りませんでしたので」


 そう言うとフェンは頭を下げた。


 ジンランは、どのような顔をしていいのかわからず、沸いた怒りの矛先をどこへ向けるべきか戸惑っていた。


「……少し、お話させていただいてもよろしいでしょうか」


 驚きを隠せないジンランに対して、顔をさらし、身分を偽っていた事を詫びた事で、フェンの方はどこか吹っ切れたようだった。


--


「あなたの思う相手とは、リュセの事でしょうか」


 先日書簡を預けた相手でもある、今更ごまかす事はできない、と、ジンランは頷いて見せた。


「そして兄を、紫垣王を恨んでいらっしゃる?」


「いえ、決してそのような事は……」


「ですがよくは思われていないのではないでしょうか」


 フェンの瞳はどこまでも真っ直ぐだった。初めて会った時と変わらない、何もかもを見透かすような瞳にジンランはたじろいだ。


「恨んでは……いません、リュセは請われて宮女試験を受けたわけではありませんから、あれは彼女の意志です」


「では質問を変えましょうか、リュセは貴方の気持ちをご存知なんですか?」


 それは、真っ直ぐではあるが、ひどく残酷な問いかけだった。ジンランは、フェンの真っ直ぐな瞳に、戸惑いがちに答えた。


「彼女が俺に対して持っているのは肉親の情だ、幼馴染で、兄妹のように育った、俺のリュセへの思いと、リュセからの思いは、恐らく性質の異なるものだろう」


「それがわかっていながら何故……」


 フェンの問いかけに、ジンランは辛そうに、しかし微笑みながら答えた。


「愚かな事だと、自分でもわかっているんですよ、公主」


--


 フェンは、心臓を掴まれたような痛みを堪えていた。ジンランの思う相手がリュセだろうという事は予想がついていた。しかし、本人の口からその言葉を聞くための準備は足りなかった。


 愚かな事だとわかっているとジンランは答えたが、それはフェンとて同様だった。


 初めて会ったあの時から、ジンランの心に誰か定めた相手がいるのは薄々気づいていた。それでも、思う心を止める事ができなかった。


 今、互いの思う気持ちが等しく無いと苦しそうに言うジンランと、そんな彼を思う自分自身の滑稽さを、どう言葉にできようか。


 けれど、今フェンには言わなくてはならない言葉があった。ここへ、思う女のいるジンランの偽りの妻になる為にやって来たのには理由があった。


 カザン将軍、及びロクシャン駐留軍の叛意を図る事。


「私だって愚かです」


 心臓を掴むように、声を絞るように言うフェンは、涙が零れそうになるのを必死でこらえながら言った。


「ですが、あなたは私を娶らなくてはなりません、あなたがリュセを愛し続けるのならばそれでも、私に指一本触れなくても、私はあなたの妻にならなくてはならないのです」


--


 そこに、ジンランは公主の威厳を垣間見た。世界には女の王を頂く国もあるというが、シンチェンの皇族、女子には皇位を継ぐ権利は無い。過去、女皇帝が擁立し、国は荒れた。乱世から再び国を一つにまとめたのが現在の王朝の初代皇帝だった。


 同母の兄である紫垣王と紺青王の端正な容貌を思い出しながら、整いすぎた顔立ちの紫垣王と、少しやんちゃな幼さの残る紺青王、猩紅公主ことフェンはそのどちらにも似ていて、どちらにも似ていない部分があった。


 出自のせいなのか、兄二人はどこか冷めた、真正面から向かってこないようなところがあったが、皇位を担わないせいなのかフェンの視線は真っ直ぐで迷いが無い。


 初めての対面で出自を偽ったのはなるほど真実では無かったが、女性の身であればそれもやむを得ないのかもしれない。


 リュセはどこまでも優しげで守らなくてはと思わせるところがあったが、今目の前にいる女性はそういったはかなさとは無縁に見えた。


 しかし、ジンランは気づいていない。フェンの腕がわずかに震えているという事を。すくんだ足がふらついて、よろけてしまいそうになっている事を。


 ただ圧倒されたまま、ジンランはフェンの申し出を受け入れた。形だけの、名ばかりの夫婦。


「私を娶った事で、あなたは紫垣王府へ立ち入る事ができるでしょう、書簡だけで無く、ご自身でリュセと会見する事もできるでしょう」


--


 その言葉を、声を、ジンランにもう少し女性の機微を感じ取るところがあれば気づけただろう。だから、ジンランは知らない。


 どうすればジンランが自分を受け入れてくれるか、考えたすえのフェンの言葉であったのだと。


 本来、そこは初夜の新床のはずだった。


 しかしジンランは共寝を拒み、今は長椅子に長い足を遊ばせている。


 フェンは、床を共にしないというジンランを止めなかった。


 今同じ空間にジンランが居る。それだけでも幸せだと思ってしまう自分を、そっと自分で抱きしめた。


--


 翌朝、目覚めたジンランは無防備に眠っているフェンを見た。


 心から安らいで眠っているフェンはあどけなく、昨夜の気丈な様子とはかけ離れているがゆえに、ジンランは目を奪われた。


 起こすべきだろうか、と、ジンランは逡巡した。


 今確かにフェンは自分の花嫁であり妻なのだが、それはあくまでも形式上の事にすぎない。目覚めた時に自分に見られていると気づいたら、公主は気まづい思いをするのでは、と思えばすぐにこの場を離れるべきだと思うのに、ジンランは目が離せなくなってしまった。


 ぱちり、と、フェンの目が開き、ジンランと視線が交錯する。


「す……すまない!」


 ジンランはあわててその場を離れようとしたが、固まってしまっていた。


 狼狽するジンランをよそに、フェンはぱちりと目をあけながらも視点は定まらずぼんやりとしている。見慣れない場所にいる違和感に首をかしげているものの、すぐそばにジンランがいる事には気づいていない。


 あふ、と、小さくあくびをしてから首を横にこきこきとして、目をふせて両手で顔をおおうと、そこではじめて今自分のいる場所に気づいたようだった。


 恥ずかしさゆえか、フェンの耳が真っ赤に染まっているのに気づき、ジンランが言った。


「……お、おはよう」


 するとフェンは大急ぎで布団に潜り込み、布団の中から、


「オハヨウゴザイマス」


 と、答えた。


--


 フェンは、穴が会ったら入りたい気持ちで一杯だった。遠く離れた長椅子に眠るジンランの様子をうかがいながら、眠る事などできそうにないと思い、眺めていたものの、気がつくと眠っていたらしい。


 それどころか、居汚く寝こけた挙句、無防備な寝顔をさらしてしまった事に今気づいたからだった。


 ジンランよりも早く起きて、隙のないところを見せるつもりだったのに。


 きっとジンランはあきれたに違いない。あくまでも形式上の妻にすぎないと言ったのは自分だったが、ジンランの事をあきらめたわけではなかった。


 ……なかったのに。


 こんなだらしないところを見せてしまっては、もうフェンへの恋情など湧くはずが無い。


 もうずっと布団から出るまい、そう思ったのに……。


 きゅるきゅるきゅる。


 いやああああああああああああ!!!!!


 健康なフェンの身体は朝食を求めて空腹を素直に主張した。


 ダメだ……終わった、もう、何もかも。


 そう思うフェンの頭上から、笑いをかみ殺すようにしたジンランの声がした。


「猩紅公主、朝食にしましょうか」


--


 新郎新婦、初夜が明けての朝食は、昨夜はお楽しみでしたね、といった下衆のかんぐり満載の精力を回復させるべく、肉、魚、薬膳満載で、食欲をそそるよい匂いをさせているが、全部を食べきるのは難しそうなほどの分量だった。


「……ここの料理人はロクシャンから来ているので」


 何かを察したようにジンランが言うと、


「……いえ」


 と、フェンは答えた。


 思えば、ジンランが健啖家である事は先日食事を共にした時からわかっていたし、フェンもまたしかりである事は気づかれていたのだった。


 何の配慮か給仕はつかず、ジンランとフェンは味、量ともにたっぷりした朝食を時間をかけて味わった。


 気まずさも、腹が満たされる事でやわらいだいたのか、固かったフェンの顔も次第にほぐれてきた。


 そしてついに。


「……美味しい」


 思わずこぼれた満面の笑みに、ジンランもつられて微笑んだ。


 急に婚姻などという事になってずっと身構えていたが、そもそもジンランはフェンを好ましく思っていたのだったという事を今更思い出していた。


 まだ恋とも呼べないような淡い感情であったが、不器用なジンランには、その気持ちのおきどころがわからない。


 ただ一人の女性を思い続けて、他の女に視線を移すことを不誠実だと思い込んでいるジンランは、無意識にフェンへ向ける優しい気持ちに名前を付けずにいた。


 フェンの方は、時折見せるジンランの優しげな視線に少し戸惑っていた。身分を偽った事や、公主である事で、ジンランを失望させたのでは無いかと思い込んでいたからだ。


 こうして食卓をはさんで向かい合っていると、初めて共に食事をした時と何も変わっていないのではないかと思えた。


 しかし、今フェンは知っている。ジンランの思う人は兄の後宮に入る事が決まっているという事。けれどジンランは変わらず思い人を、リュセを忘れるつもりはないのだという事を。


 けれど、形式的な夫婦だとしても、こうして寝起きを共にして、食事を共にできるというだけでも、フェンには喜びだった。


 ジンランがリュセを忘れられないとしても、フェンを軽蔑せず、少なくとも嫌悪の対象と見なされないのであれば、このままでもかまわないと、そう――思えた。

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