3-B 太薙との接触
入学式から数えて2日目ということもあり、この日はまだ授業はない。各種のガイダンスが行われただけだ。
年間行事計画表、時間割表、校舎案内図、部活動一覧、などのハンドアウトが次々に配られ、先生がそれらについて、ちょっとした説明を加えた。
(校舎案内図だけでも、きのう配布してくれていれば、もっと早く通学証明書をもらえたのに)
影郎は少しばかり、間の悪さを嘆いた。
出し抜けに、左隣の席に座っている生徒が、影郎の肩をつついた。
影郎は驚いて顔を上げる。
彼を小突いたのは、男子生徒だ。きのう自己紹介をしたはずだが、影郎は名前を覚えていない。
「鉛筆、貸してくんない?」
その男は、影郎の回答を待たず、手を伸ばしてきた。
「シャーペンでよければ」
影郎は鉛筆を持ってきていなかったので、代わりにシャープペンシルをさし出す。
「あざっす」
男はそれを、半ばもぎとるように、引っつかんだ。
影郎は少し、不快になった。
休み時間になるや否や、影郎はシャープペンシルを返してもらうべく、左隣の席のほうを向いた。
男子生徒は、ほどなくそれに気づき、シャープペンシルを影郎に向けて投げた。
影郎は慌ててそれをキャッチする。
(手を伸ばせば受け渡しのできる距離なのに、何でわざわざ投げるんだ?)
影郎は思った。
「いやあ危なかった。今日は授業がないから、てっきり筆記用具も要らないだろうと思ってたんだ」
男は言った。
(授業がなくても、筆記用具くらい持ってこないか?)
影郎はますます、イライラを募らせる。しかし、これらの突っこみを口には出さず、意識して好意的にふるまった。
初対面の相手や、上っ面の関係しかない相手。要は、「自分にとって有害であることが確定した者以外の人」には、友人や味方に対するのと同様に、親切にしたほうがよい。
そのほうが、無益に敵を増やさないですむ。場合によっては、のちのち自分に対しても、よくしてくれるかもしれない。
そんなことくらい、影郎も知っている。
だが今回ばかりは、そうすべきでないケースだった。
「なあ。お前、好きなマンガとかある?」
左の男は唐突に尋ねた。
「ないなあ。全っ然、読まない」
影郎は努めて、温和に答える。
「じゃあ、『高麗川青年探偵団』とか知らない?」
「初めて聞いた」
「『ダス・ドリッテ・ライヒ』は? 『パライオロゴスの神判』は? 『魔法少女申命記ミクラ』は?」
「…………」
一方的にまくし立てられ、影郎は情報の処理が追いつかなくなった。同時に憤まんやるかたなくなったが、相手の饒舌を止める方法が、分からなかった。
「おい、垓神。いったんストップしろ。困ってるぞ」
影郎の後ろにいた生徒が、なおもマンガの題名を挙げ続ける男を、注意した。
影郎はふり返る。
左の男を垓神と呼び、彼をいさめたのは、長身の男子生徒だった。
「何だよ、権藤。今いいところなのに」
垓神は、影郎の後ろにいる人物に、文句を言った。
権藤という名字を聞いて、影郎は彼について、何か知っていることがある気がした。
昨日の自己紹介で、クラスのほぼ全ての生徒は、自身の出身中学校と部活動を述べていた。それ以外の何かだ。
「でも、迷惑そうにしてるぞ」
権藤は言い返す。
「迷惑だったか?」
垓神が影郎に問う。
「ああ、とっても」
影郎はきっぱり答えた。もはや垓神を相手に、友好的な態度をとる必要はない。
「次は体育館で学年総会だってさ。早く行くぞ」
権藤は垓神に対し、暗に自分たちよりも先に行くよう、促していた。
垓神がいなくなったところで、影郎は権藤に礼を言った。
「ありがとな。助かったよ」
「まあ、よくあることだから」
権藤は謙遜する。
「あいつと、前から知り合いだったのか?」
「中学校が同じだったんだ。ナル中ではないけど」
「そうか。――というか、何なんだ、あいつ?」
「垓神真具那っていうんだ。変わってるけど、悪い奴じゃないよ。ただ何ていうか、自分の好きなものへの情熱が空回りし過ぎて、ときどき周囲に気が向かなくなることがあるんだ」
「思いっきり悪い奴にしか、思えないんだけど……。だいたい、あんなふうに迫られて、マンガに興味がわく人なんているのか? 『マンガが好きな奴は、こんな変人ばっかり』、みたいな先入観を持つ場合のほうが、多いと思うけど」
「ははは。まあまあ」
語らううちに影郎は、話し相手について、何が心に引っかかっていたのかが分かった。
彼は昨日、クラス役員に立候補していたのだ。名前は確か、権藤太薙だ。
「そう言えば、お前ってクラス役員だっけ? よく手を挙げたな」
「早く帰りたかったからね。あの後も延々と教室に居残ることになるんだったら、クラス役員でも何でも、引き受けたほうがマシだって思ったんだ」
「そ、そうか……?」
この部分には、影郎は同意しかねた。
「まあでも、それをとっかかりにして、人から覚えてもらえることもあるんだったら、やっぱりなってよかったよ」
この後2人は、連れ立って教室を後にした。晴日やらんは、もういなかった。
校舎案内図があっても、体育館にたどりつくのには苦労した。