2-C らんの過去
小言はその後も10余分続き、ようやくらんと晴日は解放された。
時刻は、午後9時過ぎだ。
「はあ……。初恵さんと一緒に帰っとったらよかった」
らんは溜め息をついた。
「きっと呼び止められてたわよ。シンゴ、こういうことには細かいから」
晴日もしょげ気味だ。
「お腹空いたわ。何か食べに行こ」
2人は、浜松町駅の方向へ歩き出した。
現在地からすれば、それよりも近い駅はある。だが、自宅の最寄り駅まで乗り換える回数を考慮すると、山手線か、それに並行する路線を利用するのが、好都合だ。
「そう言えば、ウチの仙骨が発現して、ウチが典儀課に出入りするようになったんも、1年生の4月やったっけ」
「らんちゃんの仙骨が発現したいきさつ、私も今まで、聞いたことなかったんだけど、よかったら教えてくれる?」
晴日にせがまれて、らんは3年前の今ごろ、自分がどういう経過で魔法使いになり、辰午らと知り合ったのかを、語り始めた。
それは概要、次のような内容だ。
――らんは、小学校を卒業するまでは兵庫県にいて、成鸞館中学に入学するのと同時に、1人で東京に引っ越した。
移り住んだ当初は、大都会にある、あらゆるものが新鮮に感じられた。その上、らんは生来、外出好きだ。
そのため、中学1年生のときはほぼ毎週末、どこかしらへ出かけていた。
4月のある日、らんは新宿駅の周辺を探索した。
本人は西口を出て、明治神宮の方面に抜けるつもりだったのが、誤って東口から出てしまった。
そのためいくら歩いても、神宮の境内に広がる杜が、一向に姿を見せない。途中で引き返せばよかったものを、らんは意地になって歩き続けた。
その結果迷いこんだ場所は、見るからに治安の悪そうな所だった。
半数以上の店が、怪しげな看板を掲げている。歩いている者の人相も、のきなみ悪い。
不安になって、新宿駅に戻ろうと思い踵を返すと、2人の男が視界に入った。
男たちは、まっすぐこちらを見つめ、ゆっくり近づいてくる。彼らをふり切ろうと思って再度、方向転換すると、その先にも男が1人いた。
3人は無言で、らんをとり囲んだ。
らんは、そのうちの2人の間を、すり抜けようとした。しかしあっけなく、片方に右腕をつかまれた。
なおも振りほどこうともがく。が、腕をひねられ、痛くて動けなくなった。
らんは大声を出そうとして、息を吸った。すると、先ほどの2人のもう一方が、らんの口に手の平を当てた。
「叫んではいけない! 静かにしなさい」
3人はらんを、付近の建物に連れこもうとした。
屋内に連れていかれたら、何をされるか分かったものではない。らんの恐怖が、絶望に変わる。
その後、らんが何をしたのかは、自分でもよく覚えていない。
我に返ると、自分が引きずりこまれかけていた建物の壁が、勢いよく燃え上がっていた。らんはすぐ脇の道路で、尻餅をついた状態だ。
3人の男は、どこかへ逃げていた。
やがて、消防車のサイレンが聞こえ始めた。
ほどなく、らんのへたりこんでいた小道から出られる大通りに、赤い車が停まった。消防士が、ホースを持って、降りてきた。そして5分もしないうちに、火を消し止めた。
消防士を見て安心したのも束の間、警察官がやってきて、らんに言った。
「事情を聞きたいので、近くの交番まで来てもらえない?」
らんはすっかり、怖気づいてしまった。それで、彼に求められるまま、最寄りの派出所までついていった。本当は、任意同行には応じなくてもよいのに。
そこでらんは、先ほど自分が体験したできごとを、説明した。
しかし、警察官は全く信じてくれなかった。
「でもねえ……。君の言うような男3人組を見たなんて言う人は、1人もいないんだよ」
「じゃあ、指紋とってくださいよ! ウチ、右腕とか、口の周りとか触られましたから」
「だいたいねえ。建物に君を連れこもうとしておきながら、君をその外に放置して、建物の外壁に火をつけるなんて、おかしいと思わない?」
これと同様のやりとりが、5時間以上続いた。
警察官ははなから、らんが放火したと決めつけているようだった。
らんは弁明に疲れ、嘘でも自分がやったと言ってしまったほうが、楽になれそうな気がし始めていた。
ちょうどそのとき、交番に1人の老婆が入ってきた。
痩身で、眼鏡をかけていた。背筋がぴんと伸び、身長は160センチメートル近くある。
年は、らんには60代に見えた。
道でも尋ねるのかと、らんは思った。
しかしそのお婆さんは、警察官には目もくれずに、らんの顔をじっと見つめた。
眼鏡ごしに、らんを見すえる眼光が鋭い。らんはこの人物について、冷酷そうな第一印象を抱いた。
しばらくらんと目を合わせると、老女は得心がいった表情で、独語した。
「なるほどね」
彼女は携帯電話を手にとると、誰かに電話をかけた。
「もしもし、桜井くん? 思った通り、仙骨もちだったわ。すぐに御形さんに、話をつけてちょうだい」
彼女が「桜井くん」と呼んだ電話の相手が、辰午だ。
通話が終わると、お婆さんはらんにほほえみかけた。
「安心して。悪いことは起こらないから」
このとき初めてらんは、この人が悪い人でないことを悟った。
およそ20分経って、警察官はらんに、退去してよいと言った。同時に、らんに対する嫌疑が晴れた旨と、今後らんに捜査が及ぶことがない旨を告げた。
老婆はらんを連れて交番を出、言った。
「怖かったでしょうね。今日は疲れたと思うから、家でゆっくり休みなさい。車で送ってあげるわ。――まだ名前を言ってなかったわね。私は菊池芽実よ」
これがらんと菊池芽実、すなわちらんや晴日が、かつて「おばーちゃん」と呼び慕った魔道士との出会いだった。
実は、らんのいた辺りの場所に、雷が落ちるのを見た、という目撃情報が、少し北の高田馬場から、複数寄せられていた。
そしてこの情報と、「ボヤの現場に中学生の少女がいたが、火をつける道具が見つからない」という報告の両方が、警視庁のある部署の担当者に届いた。
この日は晴天だったため彼はいぶかしみ、2つの情報を上の部署に伝えた。その結果、これらが最終的に、帝室庁に届いたのだ。
そのあとらんは、芽実について、新宿駅から目と鼻の先にある、立体駐車場まで歩いた。そして芽実が運転する車で、台東区の自宅に送り届けられた。
「今度、一緒に来てもらいたい場所があるのだけど、都合のいい日はあるかしら? 申しわけないけど、今は詳しいことは話せないわ。言えるのは、今日のボヤ騒ぎとは関係がないってことと、あなたの今後を左右する、重要な用件だってことぐらいかしら」
運転中、芽実はらんに尋ねた。
らんは、次の月曜日の放課後を指定した。
当日、芽実は成鸞館中学の真ん前まで、車でらんを迎えにきた。
らんは帝室庁の庁舎に案内され、そこで初めて、晴日や辰午と出会った。自分が魔法使いであると告げられたのも、このときだ。
以後らんは芽実から、陰陽道を習うことになった――
「そのときシンゴゆうとったわ。逮捕状も発布されてへんのに、何時間も交番に引き止めるんは違法やって。あと、『任意のとり調べなら、途中で帰ってもいい』なんてこと、中学生が知るはずないんやから、初めにちゃんと伝えなあかんやん、て」
そう言ってらんは、当時の経過を話し終えた。
「本当に、逮捕されなくてよかったわね」
晴日は笑った。
「そりゃそうやろ。火ぃつける道具らないんやから。その場にウチ以外の人がおったっちゅう情報がないこと以外、ウチとボヤと結びつける資料がないねんから、さすがに令状はよう出さんやろ」
「それはそうと、らんちゃん1人で新宿をうろついてたの?」
「嶺と一緒に行く予定やってんけど、当日の朝『貧血で来れなくなった』って、電話かかってきたんやわ。そのときウチもう家出てもうた後やってん。で、『次いっしょに行くときのために、今日は下調べしよう』思うて、1人で歩き回っとったんや」
「それで歌舞伎町にぶち当たるなんて、らんちゃんも運が悪いわよね」
「歌舞伎町ちゃうで。もっと駅から離れとる。っちゅうか、歌舞伎町はぼったくりの話ならよう聞くけど、人さらいなんてあるん?」
「それは分からないけど……」
「にしても、まだあれから3年しか経ってへんのか……」
「本当ね。何だか、物心がついたころから、一緒にいるような気がするのに」
「ホンマやな。ま、典儀課におる限り、この先50年ぐらいは、顔合わせることになるんやろうけどな。そのうちイヤになるんちゃう?」
「もうっ……。そんなことないわよぉ」
「分からんで」
2人はじゃれ合いながら、夜の大通りを歩いた。
浜松町駅付近の飲食店や、コンビニエンスストアなどの明かりが、見えてきていた。