2-B 帝室庁の話
2台の車は、東京タワーのすぐ近くにある、ビルの駐車場に停められた。
この場所から東京タワーを見上げると、てっぺんは大展望台に隠れて見えない。それくらい、鉄塔が間近だということだ。
初恵、影郎、それから担架に乗せられたらんと晴日はビルに入り、エレベータで7階に上がった。
エレベータの操作盤には、地下2階から地上10階までのボタンがある。
4人が入った部屋は、診察室や手術室の類ではない。ふつうのオフィスだ。
彼らが来たとき、そこには誰もいなかった。
広さは、大会社や警察署のオフィスと同じくらい。だが事務机の数は10台もなく、開放感があった。
大きなホワイトボードが、入り口付近と奥を、緩く隔てている。観葉植物の鉢、加湿器、ソファといったものも置かれ、殺風景にならぬよう配慮されている。
らんと晴日には、見慣れた光景だ。初めてここに来た影郎は、落ちつかない面持ちだ。
前二者は、入り口にほど近いいすに座らされた。影郎には、そこから白板を挟んだ、反対側の席を、初恵が勧めた。
「それで、どこが痛いの?」
初恵が問うた。
らんは、袴の裾に通された紐を緩めて、これをたくし上げた。彼女の袴は指貫みたいに、紐で裾を絞れるようになっているのだ。
「右足の足首。何か、ひねったみたい」
そう言いながららんは、着物をはだけさせて左の前身頃を、肩からひじにかけて脱いだ。
「あと、左の二の腕。うわ、めっちゃすりむいとるやん」
患部を初めて目にし、思わぬ出血に、けが人自身が驚く。
「私も右足首。あざができてるわ」
晴日は痛い箇所を指し示した。
彼女の衣の裾は、直綴の裙子のような形状だ。もっと分かりやすくいうと、プリーツスカートみたいなデザインになっている。
「うわ、痛そう! ようそれで、自分で歩けるとかゆうたなあ」
らんが、晴日のあざをのぞきこんだ。
初恵は傷口を消毒したり、包帯で足首を固定したり、といった処置をした。
それが終わらないうちに、オフィスに誰かが飛びこんできた。
「晴日、らん! 大丈夫かい?」
声の主は、30才になったかなっていないかぐらいの男性だ。
端正な顔立ちで、身長は180センチメートル近くある。新入社員のような、ぴかぴかの背広を着ている。
「シンゴは、心配し過ぎなんやって」
らんが言った。
いま彼女が呼んだように、この男の名が辰午だ。先ほどらんが、電話をかけた相手だ。
「いや、これまで1度もこんなことなかったからさ」
「ようゆうわ。今までやって、どこもケガしてへんのに、いつもパニクっとったクセに」
「そりゃそうだけど……」
辰午は言葉に詰まる。
「はい、手当て終わり! 歩いても大丈夫だけど、2、3日は走ったり、運動したりしちゃダメよ」
初恵がらんの膝こぞうを、平手で打った。景気のいい音が鳴る。むろん、痛くはない程度に加減されている。
「今回の相手は、そんなに強かったのかい?」
辰午が尋ねた。
「全然。ウチらだけでも完封できるはずやった。けど、ちょっと詰めが甘かったかな。最後の最後で油断してん」
本当は、らんと晴日が負傷したのは、全面的に影郎のせいだ。しかし、らんはそのことには触れなかった。
「そうか。――ところで、そちらは?」
辰午は、先刻校庭で初恵がやったのと同じように、目で影郎を示す。
影郎はすぐに、自身に話題が及んだことに、気づいたようだ。
「ああそうそう。式神にとどめ刺したの、こいつねん。やから、『もしかしたら魔法使いかも』思うて、ついてきてもろうたんや」
「え!? ほ、本当に?」
辰午は、がぜん色めき立った。
「あんた、ちょっとこっち来てくれる?」
らんは影郎に手招きした。
影郎は直ちに立ち上がり、らんたちの間近くまで歩いてきた。
「適当に座っていいよ」
辰午が周囲の事務机に目をやる。下にいすがあるから、それを使ってほしい、という趣旨だ。
「はい」
影郎は、目にとまった事務机の1つから、キャスターつきのいすを引っ張り出し、それに腰かけた。
「僕は桜井辰午。君のお名前、教えてくれるかな」
辰午もいすに座った。
「人見影郎です」
少年は答える。
「ウチらと同じクラスみたいねん」
らんが補足した。
「わたしは鈴城初恵よ。よろしくね」
初恵は、自身の胸にとめてある名札を指さした。
「1つ、訊いていいですか」
影郎が再び口を開いた。
「何なりと」
辰午が答える。
「さっき、『魔法』って言いましたよね」
「ああ、まずはそっからか」辰午が手を叩く。「僕らの間では、『事象の予測と制御に関する、実用に供し得る技術であって、自然科学の見地から、相関関係または因果関係の証明を経ないもの』を、魔法と呼んでいるんだ。『実用に供し得る』っていう限定があるから、効果のない迷信は含まないよ。それに、『自然科学の見地からの証明を経ない』必要があるから、風水とか近代魔術の一部みたいに、心理学の分野なんかで説明できるものは、除かれるよね」
「まあ要は、科学技術とパラレルねん。科学かって、将来なにが起こるんか予想したり、あわよくば思い通りのことを起こしたりするために、自然の法則を探っていくやろ? で、非科学的やけど確かに有効な技術を寄せ集めたもんが、魔法っちゅうこっちゃ」
らんが、噛み砕いて説明した。
「そんなものが本当にある、と――?」
影郎が重ねて問う。
「あるで。どこにでもあるようなモンとちゃうけど、現にウチと晴日が使えるんやし。あんたもさっき、見たやろ?」
その後らんは、影郎が魔法使いではないかと、自分たちが考えた理由を挙げた。
〈十絶陣〉の中に進入できたこと。式神が見えていたこと。式神にとどめを刺したこと。その際に白い光を放っていたこと。
以上の4つだ。
「今らんが言ったことに、間違いはない?」
辰午が影郎に確認した。
「はい。ただ、白い光があったかは覚えていません。それと、あの蛇を踏みつけたりしたのは、魔法じゃないと思いますよ」
「いや。魔法やないと、式神はよう倒さんねん」
らんが口を挟んだ。
「式神?」
「本当は、〈陰陽道〉に固有の概念なんだけど、僕らは『人が呼び出し、または創り出して使役する霊』一般を、式神って呼んでるんだ。西洋の魔術で呼び出す、精霊や悪魔なんかも、式神だね。夕方、君たちが戦った奴もそうだよ。式神も含めて、霊には物理的な現象は、全く影響しないんだ。ほら、幽霊を殴ろうとしても、すり抜けそうなイメージがするでしょ?」
式神についても、辰午が説明した。
「でも、魔法によって引き起こされた現象は、霊にも影響があるの。だから、ただ踏みつけただけに見えても、現に式神を倒したのなら、何かの魔法が作用したと考えられる、てワケなの」
晴日がつけ加えた。
「でも俺、魔法なんて使えませんよ」
影郎は少し、困惑したようすだ。
「誰だって、やろうと思った通りのことが、最初からできるワケじゃないよ。楽器とか、スポーツだってそうでしょ? 魔法だと、意識的に使えるようになるための訓練をしない間は、本人も気づかないうちに、発動してしまうことがあるらしいんだ」
そう言うと辰午は立ち上がって、部屋の奥のほうへ行ってしまった。
「魔法って、誰でも使えるものなの?」
影郎が、らんと晴日に尋ねる。
「いや。限られた人間しか、よう使わんよ。もし誰でも使えるんやったら、さっきシンゴがゆうとった、長ったらしい定義からも外れるしな。誰がやってもおんなじ結果が発生する、客観的な法則を解明するんが自然科学やから、もしも誰にでも使える魔法があったら、それは科学的に証明できてまうねん」
「前に、おばーちゃんから聞いたんだけど、おばーちゃん、100才まで生きた中で、国内の魔法使いは、10人も見なかったんだって。それくらい、魔法が使える人は少ないんだと思うわ」
晴日が付言する。
「ちなみに、魔法が使える資質のこと、ウチら仙骨って呼んどるわ」
「コーヒーを入れたよ」
辰午が、湯気の立つコーヒーカップを5つ、トレーにのせて戻ってきた。
カップはいずれも、真っ白で柄のない、武骨なものだ。強化ガラス製で、手触りなどは陶器に近いが、落としても割れなさそうだ。
辰午はトレーを、事務机の1つにそっと置いた。
「そう言えば喉からから……」
「お、シンゴ。気ぃ利くやん」
「わたしまでありがとうございます」
晴日、らん、初恵が、次々にカップをとった。
「すいません」
続けて影郎も。
最後に残った器を手に持ち、辰午が口を開いた。
「影郎くん。突然なんだけど、ここで魔法を勉強して、晴日たちと一緒に働いてみる気はないかい?」
「あちちちち! シンゴ!? いきなり何ゆうとん?」
あまりに唐突な話だったため、らんは驚きのあまり、飲み物を少しこぼした。
「どういう仕事なんですか?」
影郎は少なからず、興味を示している。
「そうだね、まずは帝室庁のことから、話したらいいのかな。――ここは帝室庁といって、内閣府の外局で、元々は皇室に関する事務を、宮内庁と分掌していたんだ」
辰午は、ついたての代わりになっていたホワイトボードを手で押してきて、再び着席した。
「帝室庁? 初めて聞きました」
影郎は目をしばたたかせる。
「公開されてへんからな。その秘匿性のおかげで、国内法に触れそうなことも、ムリなく扱える。やから、管轄事項がどんどん増えてきて、今は国家戦略に関する、色んなことやっとるんやって」
らんが言った。
「それで、僕らが所属しているのは、帝室庁の中でも侍衛部典儀課。僕がここの課長だよ。侍衛部は、当初は皇居警察本部と、別に皇室の身辺警護をやっていたんだけど、今は政府要人や、国賓の警護もするね。典儀課は、きょう君が見たように、皇室のかたや政府要人に向けて放たれた式神を、退治するところだよ。――儀式や行幸の日どりとか、外国を訪問するスケジュールに関して、宮内庁や外務省に、助言をすることもあるけど」
辰午が白板に、部署の名称と、所掌事務を書いていく。「宣示部:国内外の世論の誘導」、「諜知部:いわゆる諜報機関」、などといった文字が並ぶ。
侍衛部以外の部署は、実のところらんもよく知らない。
帝室庁は、国家が重要とみなした事項を幅広く扱うので、部ごとの独立性が極めて高いからだ。当然、どの局も管轄が非常に専門的なため、異動はほとんどない。
「まあゆうたら、典儀課は陰陽寮を、現代に蘇らせたようなもんやな」
らんは、白板に書かれた「典儀課」という文字を指さした。
「あ、ちなみにわたしだけ、所属は医事部だからね。帝室庁全体の職員の、福利厚生が所管。まあわたしはほぼ、典儀課に常駐してるけど。それと、この建物は帝室庁の庁舎で、7階のこの部屋が、典儀課のオフィスよ」
初恵は、空になったコーヒーカップを、トレーに戻した。
「式神なんて、誰が放つんですか?」
影郎が尋ねた。
「それが分かったら、苦労せえへんねんけどな。日本政府か、要人個人に対して害意のある魔法使い、としかよう言わんわ」
らんが皮肉たっぷりに、溜め息をつく。
影郎は不意に目線を落として、黙りこんだ。
仕事内容などが分かったので、任官するか否かを検討しているのだろう、とらんは思った。
「分かりました。やってみようと思います」
わずか2、3分で、影郎は承諾した。いくら何でも、決めるのが早すぎやしないか。
「ええっ!?」
晴日が、とんきょう声を上げる。
「シンゴ。あんたまさか、コーヒーに変な薬でも入れたん?」
らんは辰午を、不信の目で見た。発言そのものは冗談だが。
「言うことを聞かせる薬って、どんな薬だい? あと、もし薬を入れてたんだったら、そのカップを直接手渡すから」
辰午は大まじめに答える。
「親御さん、心配せえへんの?」
らんが影郎に問うた。軽はずみに同意したのではないかを、確かめる趣旨だ。
「大丈夫。お父さんずっと中国にいて、帰ってこないし。お母さんは俺が3才のときに、お父さんと離婚して以来、会ってないし」
「そうだ、言い忘れてた。実は、帝室庁の設置の根拠法は、秘密条約なんだ。だから、その存在が明るみに出れば、解体される可能性が大きい。ここの職員はみんな、いつ失業するか分からないっていう程度の覚悟は持って、仕事をしているよ。特に典儀課は、政教分離に正面から反するから、真っ先に潰されるだろうね。だから、もし『公務員は身分が安定するから』みたいなことを考えているんだったら、悪いけど任官はお薦めできないよ」
辰午が念を押す。
「いいです。それでも」
影郎は即答した。
「じゃあ決まりだね」辰午は心なしか嬉しそうだ。「ということで晴日、らん。しばらくの間、影郎くんに魔法の手ほどきをしてくれないかな?」
「はあっ!? でもウチ、人にもの教えるの得意やないで」
らんは、気が乗らなかった。
「そうは行かないよ。どんな仕事だって、後輩に指導はしなきゃいけないものさ。それに、『仙骨のある人が魔法を制御できなかったら、本人や周囲に危険を及ぼすことがある』って、むかし芽実さんが言ってただろ?」
「でもシンゴぉ……」
「じゃ、職務命令で」
辰午は言った。命令しているとは思えないような、爽やかな笑顔と、甘ったるい声でだ。
「職務命令? ふーん。そんな高圧的な態度に出るん」
「しかたないだろ。僕は魔法使いじゃないから、教えられないんだし」
「ちぇっ! しゃあないなあ」
らんは、いかにもしぶしぶといった声と表情で、承諾した。本当は初めから、ダダをこねてもムダだと、分かっていたのだが。
晴日も、同意を目で伝える。
「それじゃあ影郎くん。明日、学校が終わったら、晴日たちとここに来てくれるかな?」
辰午は影郎に向き直った。
「はい」
影郎はうなずく。
「もう済んだかしら? わたし、影郎くんを送っていくわ」
初恵が、自動車の鍵を辰午に示す。
「ありがとう。じゃあお願いするよ」
「家まで送るわ。どの辺りにあるの?」
初恵が立ち上がって、影郎に問う。
「阿佐ヶ谷駅の近くです」
影郎も立ち上がる。
「杉並区か。いい所よね」
2人は部屋を後にした。
らん、晴日、辰午の3人は、座ったままそれを見送った。
「それで、どうして高校の校庭なんかで、戦ったんだい?」
辰午がくるりと、晴日たちのほうを向いた。
「だって、あそこ使えへんかったら、戦える広い場所、霞ケ浦まで行かなないんやもん」
らんが弁明する。
「だからって、私有地を勝手に使っちゃ、ダメじゃないか」
「私たち、あそこの生徒なのよ。入ってもいい場所じゃない?」
晴日も一緒になって、言いわけをする。
「学校からしたら、役人としての仕事に使うのまで、許可した覚えはないよ」
「厳しいなあ、シンゴは」
らんはタジタジになる。
「君たちだって、もしある日、何の前触れもなく警察官が家に来て、『中に万引き犯が隠れているかもしれないから、捜索させろ』とか言って、ずかずか上がりこんできたらイヤだろう? 『私のプライバシーはどうでもいいワケ?』とか、『その程度の事件で赤の他人を巻きこむな』とか、思わない?」
「まあ、そうやけど……」
「それと似たようなものだよ。学校に言わせれば、『除霊だか何だか知らないが、そんな得体の知れないことで、うちの敷地を使わないでくれる?』ってなるの!」
「うう。式神の通り道があとちょっとだけ南にずれとったら、上野公園で戦えたんに……」