13-D ヨリビトと生き霊との対話(1)
――影郎が新たに獲得した記憶によれば、彼女の名は小瓢尽絵という。
尽絵は福岡市に生まれ育ち、「東アジア女性解放友の会」、略してEAWRFSというNPOに就職した。
オルフスはその名の通り、女性の地位向上を目的とする組織だ。講演会などの啓発活動を行うほか、賃金格差やドメスティック・バイオレンスについての相談を無料で受けたり、各種の催し物やインターネットの掲示板などを通じて、女性同士が意見や情報を交換する場を設けたり、といった活動をしていた。
10年ばかり前、オルフスは、育児休暇の取得が事実上の退社のように扱われている現状を是正すべく、集団訴訟を主導した。このプロジェクトは、尽絵が中心となって推し進めた。
そのとき、何人かの弁護士に、原告代理人を依頼した。そのうちの1人が、萩原健活だった。
彼は当時、福岡で弁護士をしていた。男女雇用機会均等法や育児・介護休業法を専門的に扱い、この分野のエキスパートとして、全国的にも名がとおっていた。
訴訟は、原告側の全面勝訴に終わった。
尽絵は、プロジェクトをまとめ上げる手腕と、最適な業務提携相手を見つけ出す能力が評価され、給料が一気に、1.5倍に跳ね上がった。
その後もオルフスは、たびたび萩原に代理人を依頼した。
彼との意思疎通は全て、尽絵がおこなった。彼が手がけた案件はどれも、好ましい結果を挙げた。
仕事を共同で行ううち、いつしか尽絵と萩原は、プライベートでも親しい間柄となった。頻繁に食事を共にしたほか、連れ立って旅行などにも行った。
こういった関係で、尽絵は萩原が他の案件を処理するようすも、何度か目にした。
それを通して、尽絵が萩原に対して持った印象は、信念に燃え、正義感が強く誠実、というものだった。だがこれは、のちに誤りだと思い直すことになる。
尽絵は、「この人とならば、生涯いっしょにやっていける」、「彼にだったら、自分の全てを託せる」と思った。
そして、彼女は重大な決心をした。オルフスを退職して、萩原の助手になる、というものだ。萩原はこれを、快諾した。
2人はそれから間もなく、共同生活を始めた。すなわち、事実婚の状態に入った。
何度か肉体関係も結んだ。全て尽絵が独断でしたことだ。だが萩原は特に、異議を唱えたりはしなかった。
尽絵は、萩原と当然に結婚できるものと信じていた。
だが、内縁を開始してから3年後、萩原は何の前触れもなく、別の女性と結婚すると言い出した。
尽絵にとっては、寝耳に水だ。自分は萩原に、己の人生の舵とりを任せる前提で、それまで続けていた仕事を辞め、彼と同居までしたのだ。
今さら、結婚はできないと言われても、困る。
尽絵はすぐさま、行動に移した。弁護士を立てて、萩原に損害賠償を求めた。
萩原は、自身が5千万円余りを支払う、という和解案を出してきた。損害賠償の額としては、破格の金額だ。
尽絵は直ちに、これに応じた。和解契約書には、「甲及び乙は、本件内縁関係の解消に関し、本書に定める以外に、何らの債権債務のないことを確認する」との1文が添えられた。
萩原は和解金の全額を、一括で支払った。
事態は裁判に発展するまでもなく、終了するかに見えた。
だが尽絵の父が、自ら経営する会社の設備投資に、和解金を使いこんでしまった。
いくらお金を横領されたといっても、肉親はあくまで肉親だ。子が親に逆らうなど、正義にもとる。
だから恨みの矛先は、萩原に向ける以外にない。
再び、弁護士に相談してみた。だが、「和解契約書の清算条項があるので、萩原から重ねて金をとれる望みは薄い。父は無資力になったわけではないから、彼にかかっていくべきだ」と言われた。
別の弁護士事務所も数件、訪ねてみた。しかし、返ってきた言葉は、どれも同じだった。
いくら書面に「これ以外の債権はない」とあっても、尽絵の手元に何も残らないというのでは、尽絵の気が晴れない。これで解決などとしてよいはずがない。
大切なのは、被害者が満足するか否かだ。いちど交わされた約束が、守られるか否かなどではない。
尽絵は手始めに、萩原に関する悪い風聞を、世間に広めた。
彼は表では男女平等を叫びながら、裏では女性を奴隷のように扱う、多重人格者だ。自分は肉体関係を築くためだけに、だまされた。彼に紛争処理を依頼すると、必ず負ける……。そのほかにも、思いつく限りの醜聞を流した。
強制的に関係を持たされた、とも吹聴した。当時は自ら望んだとしても、いま後悔しているのだったら、それは意に反する ということでしょう?
最初は、新たに住み始めたアパートのご近所さんに、それとなく言ったり、インターネットの掲示板や、ブログやSNSに書きこんだりする程度だった。
だがそれでは、手応えが感じられなかった。そこで、同じ内容のビラを1万通作成して、目につく範囲の家の郵便受けに、投函した。萩原が所属する弁護士会に、懲戒請求もした。
尽絵は、残された時間と労力の全てを、彼への中傷に費やした。
効果は、2か月前後で現れた。
まず、萩原の結婚話が白紙になった。次いで、弁護士事務所が閉鎖に追いこまれた。聞けば、彼は全ての信用と人間関係を失い、仕事を続けられなくなったのだという。
その後しばらく、彼の姿を見ることも、噂を聞くこともなかった。
尽絵は大いに満足した。弁護士会からの懲戒処分はついになされなかったが、結果は上々といえよう。
これが、正義と悪のあるべき関係だ。悪は名誉と財産の双方を失い、残りの全人生を、屈辱と困苦の内に歩まなければならない。そうでないと、害を受けた者の感情は晴れない。
尽絵は達成感に浸る反面、空虚さを覚えもした。悪を屈服させるという大業を成し遂げた今、自分は何を楽しみに、生きていればいいのだろう。
手始めに、尽絵は再就職しようとした。
だがどこも、彼女を雇ってくれなかった。求人広告にある番号に電話をかけ、自分の名前を告げると、すかさず断られることも、少なくなかった。
自分がそこまで有名になっていたとは、思わなかった。
それにしても、自分は最初にだまされて、職を辞し、体を委ねるよう仕向けられた側なのに、なぜこのような仕打ちを受けるのだろう? 最終的には、正義の復讐戦に勝利したというのに。
頼みの綱のオルフスは、いつの間にか、ベトナムやフィリピンに、活動の拠点を移していた。女性だけでなく、不幸な生まれかたをした子供たちを支援する事業にまで、手を広げていた。
そのため、尽絵のノウハウを活かせられる場所は、なくなっていた。
わずかに残った貯金が、底をつきかけてきたころ、萩原が愛知県警の本部長に就任した、という噂を耳にした。
何と、彼がこのポストを任されたとたん、性犯罪とDVの検挙数が、倍加したという。
あの多重人格者は、善人のふりをするのが実にうまい奴だ。おまけに、自分がしたのと似たようなことを、他人がやるのは許さない、ときている。救いようのない男だ。
それはそうと、自分はいまだ復職すらできていないのに、なぜ萩原はまたも、地位と社会的評価を得ているのだろう?
被害者にして勝利者である者は、定職どころかアルバイトにもつけない。他方、加害者にして敗者である者は、日本有数の巨大な県の公安を司る立場にある。これは、どういうことなのか。
私の信じる正義は、どこにあるのか。
尽絵は、いても立ってもいられなくなった。雀の涙ほどの金を握り締めて、名古屋に飛んだ。
彼女は、福岡でやったのと同様のことを、この地でもした。なのに前回と違い、てんで効を奏しなかった。
警察から、おとがめを受けることはなかった。萩原が職権濫用だと思われるのを恐れたのだろう。何とも小賢しい。
けれども市役所からは、たびたび注意された。
手当たり次第に通行人を呼び止めて、長々と人の悪口を聞かせること。許可を受けずに、電柱などにビラを貼ること。税務署や保健所や図書館など、あらゆる公共施設に電話をかけて、警察への不満を申し述べること。これらの行為をするなと言われた。
なぜ誰も、自分を理解してくれないのか。
自分は先に害をこうむったほうなのに。戦いに勝ったほうなのに。正義は自分にあるのに――




