2-A 影郎の初戦
全てが終わったとき、少年は両膝を地につけた状態で、脱力していた。性も根も、尽き果てたようすだ。
彼の体をとり囲んでいた、白い光もなくなった。
らんは、危機が去ったことを見てとった。左腕と右足首の痛みも、いくぶん引いた。わずかな距離ならば、這って移動できそうだ。
「晴日、大丈夫?」
らんは、数メートル離れた場所に横たわる仲間に、にじり寄った。
黒の長髪に、泣きはらしたような丸い瞳。天宮晴日だ。
「うん……」
晴日が答える。夜刀神に打ち倒された直後よりは、だいぶしっかりした声だ。
らんはこのとき知る由もなかったが、晴日のケガの度合いは、らんとそう変わらない。さっきは、頭を打ったせいで、軽い脳震とうを起こしていたのだ。
「あれ、どう思う?」
らんが男を指さし、晴日に意見を求める。
「分かんない。でも、式神に効いたんだから、何かの魔法ではあると思うわ」
晴日は上体を起こした。
「そうやなあ。さっきも、式神が見えとったみたいやし」
そう言うとらんは、這って少年に近づいた。このとき初めて、彼の顔をまともに見た。
自分たちと同じ、1年C組の人間ではないか。確か、人見影郎と名乗っていたはずだ。
今朝、登校するときも、顔を合わせた気がする。
「おーい。気ぃ、ついとるか?」
らんが、少年の肩を揺する。
影郎は間を置かずに、こくりとうなずいた。どうやら、意識が飛んでいるわけではないようだ。
彼は右足で、地面を踏んで立ち上がろうとする。ところが、ほどなく足ががくがくとふるえ、再びその場にへたりこんだ。
「さっき自分が何しとったか、覚えとる?」
影郎がよろけて倒れてしまわぬよう、らんがその肩に手を添えた。
「覚えてる。全部自分でやろうと思ってやった。でも今思うと、どうしてあんなことをしたのか、分からない」
影郎の答えにらんは、彼が何かしらの魔法を使ったのだという確信を、ますます深めた。
らんは晴日のほうを見やる。彼女もこくりとうなずいた。
先ほどらんと晴日は、蛇の姿をした式神に、尾で跳ね飛ばされて動けなくなった。
その元凶となった少年は、始めはらんたちの真横に屈み、「大丈夫か?」などと2人を気づかっていた。
だがやがて、とつぜん無言になったかと思うと、ゆっくり立ち上がって長虫を睨み、何やら難しい言葉を口走った。
口調や声色も最前までとはうって変わり、荒々しいものになった。
その周囲を、白い光が漂った。
影郎はまたも黙し、助走もつけずに一足飛びに、大蛇の真ん前に飛びこんだ。
くちなわは、らんや晴日のときと同様に、彼を薙ぎ払おうとして、尻尾を左右にうち振った。
蛇の尾が地面をかすめれば、少年は飛び上がる。尾がその胴を打とうとすれば、彼は身を低くする。
そういった応酬を何度か反復したのち、影郎はいつしか、ヤトの神の真後ろに控えていた。
彼は両のかいなで、蛇の首にとりすがった。そして、両手の指同士をがっちりと絡めた。
その腕を手前に引き寄せ、長虫の喉を締め上げる。
大蛇は、口を最大まで開いて、のけ反った。丸太のような尾を、めくら滅法にふり回す。
だが、鎌首にとりついた少年には、当たらない。
式神がぐったりしてくると、彼はぱっと手を放して、その頭を地に横たえた。次いでそのこうべを踏みつけ、胴体を抱えて、上に引っ張った。
やがて、みしみしという音が聞こえてきた。かと思うと、蛇の頭がちぎれて転がった。
長虫の胴体は、その後もしばらくの間、けいれんするかのように、微動をくり返した。
だが、しまいに全く動かなくなった。
くちなわの分断された首と胴は、煙のようにかき消えた。
それとほとんど間を置かず、影郎をとり巻いていた光も止んだ。彼はその場でがくりを膝をついた。
以上が、彼とヤトの神のくり広げた、戦いの全容だ。
「一応、シンゴに見せたほうがええんかなあ?」
らんは晴日に尋ねる。
「らんちゃんに任せるわ。私よりも、らんちゃんのほうが正確に判断できると思うし」
晴日は、投げ出したままだった両足を曲げ、割り座の姿勢になっていた。
らんは右手の人さし指で、少年の肩を叩く。
「ちょっと、あんた。もう歩ける?」
影郎はいま一度、さっきと全く同じやりかたで起立した。今度は、足がふるえたりはしなかった。
「悪いんやけど、あそこにウチらのカバンあるさかい、とってきてくれへん?」
らんは、校庭のすみを指さす。
少年は何も言わず、らんの指し示す方向へ歩いていった。
彼があまりにも言葉少ななので、らんはいく分、彼は今もまだ、先刻の催眠状態を脱していないのではないか、と心配になった。
影郎が戻ってきた。左右の手に1つずつ、カバンをさげている。
1つはらんの、もう1つは晴日のだ。
「どっち?」
影郎は両方のカバンを、らんの眼前に突き出す。
「こっちこっち」
らんは、自分から見て右のカバンに手を伸ばした。それを受けとると、中からスマートフォンを出し、電話をかける。相手は、らんと晴日のよく知る男性だ。
『らんか。どうだい? 首尾よく終わったかい?』
電話の向こうで、その男が尋ねる。
「シンゴ、ケガした。迎えにきて」
らんは、あたう限り軽い口調を保とうと努めた。
『ええっ!? ど、どれくらいだい?』
らんが辰午と呼んだ電話の相手は、露骨に狼狽した。声が裏返っている。
実のところ、これがイヤだったかららんは、むりに明るい声づかいを心がけたのだ。
「大丈夫。骨が折れたような痛さやないから。でもよう歩かんわ。晴日も似たようなもん」
らんは、辰午を少しでも落ち着かせるべく、深刻な状況でないことを強調する。
『ああ、分かった。すぐに迎えをよこすよ。今、土浦にいるんだよね?』
「ちゃう。ナル高の運動場」
『は?』
「やから、成鸞館高校の運動場! 台東区や」
『何で、そんな所にいるんだい?』
「説明は後。じゃあ、お迎えよろしく!」
らんは一方的に電話を切った。
10分くらい経つと、グラウンドに面した車道に、2台の自動車が停まった。救急車のような大型のワゴン車で、車体は黒塗りだ。
車から4、5人の大人が、2人分の担架を持って降り、らんたちのいる場所へかけてきた。
「大丈夫?」
そのうちの1人が、らんに声をかける。20代の女性だ。
身長は、女性にしては割りかた高めだ。
肩の辺りまで伸ばした黒髪が、うなじ付近できれいにまとまっている。顔の特徴は全体として、知的ではきはきした印象を与える。
「初恵さん……。うん、見ての通りや」
らんはまたも軽口を叩く。
「辰午さん、ものすごく心配してたわよ」
初恵と呼ばれた女性は、さらに続けた。
「うう、胃が痛い。ケガそのものよりも、そっちのほうが、よっぽどこたえるわ」
「気をつけなさいよ」
初恵はそう言い残し、晴日の隣に回りこんで、担架を地面に置いた。
別のスタッフが、らんの横にいま1つの担架を置いた。彼らがその上に自分の体を移すのに、らんは身を委ねた。
「大丈夫。自分で歩けます」
晴日は担架に乗せられるのを拒否して、立ち上がった。しかし、2、3歩足を引きずった挙げ句よろめき、後ろから初恵に支えられた。
「こら晴日。初恵さんらに、迷惑かけたらあかん」
らんは担架で運ばれながら、晴日をいさめた。
「ところで、そちらのかたは? 高校のお友達かしら」
初恵がらんに尋ねた。目で影郎を指している。
「そうねん。魔法使いかもしれへんから、シンゴに会わせよう思うんやけど」
らんが答えた。
影郎も、らんや初恵たちのほうを向いて、ようすをうかがっている。
「そこのあなた」
初恵が影郎に向けて、手を振った。
「はい」
影郎は即座に返事をする。
「ちょっと、ついてきてほしいのだけど、お時間は大丈夫かしら?」
少しだけ、時間にして10秒ばかり考えたあと、影郎は答えた。
「大丈夫です」
「ありがとう。じゃあ、前の車の助手席に乗ってくれる?」
路肩に1列に停められた2台のワゴン車のうち、前にあるほうを初恵は指さした。
影郎は促されるまま、その車に乗りこんだ。
ふつうの車ならば後部座席のある所に、らんを乗せた担架が固定され、運転席には初恵が陣どった。
「じゃ、行くわよ」
初恵が言うのと同時に、自動車は動き出した。
時を移さず、晴日の乗った後ろの車も、発進した。