11-D 九頭竜との戦い
その翌日、影郎たちは式神退治に出た。
場所は、東京都江東区の南端。影郎が4月に、初めて晴日やらんと共に饕餮の群れと対峙し、〈帰神法〉に失敗した場所だ。
戦いには影郎、晴日、らん、早月のほか、ライナも来ていた。
ライナは、シュミーズ、ボディス、スカート、ジャケットといった装いだ。
全体的に、白が強調されている。だがその白には、非常に淡い桃色がかかる。
らんは〈十絶陣〉を敷き、5人はその中央で、南を向いて敵を待ち受けた。
4月に、晴日が〈スルヤストラ〉で、図らずも空き地の一面を、焼き払ってしまったはずだ。
ところが、辺りは再び雑草で覆われている。自然の力は偉大だ。
視線の先には、海が広がる。この日は天気こそよいものの、少々波が高かった。
――僕どもをお救いくださいませ。絶佳なる造化の神よ、
恵み深きかむときの主よ、僕どもをお守りくださいませ、
息の急き立てられることのないよう、
母の子が投げ下ろされることのないよう、
生ける被造物の間より、
汝命の総べ治める被造物より。
かむときの主よ、最上であられるかたよ、
至上の処にあられる、僕どもが厳父よ、
僕が縁辺に、炎の外套をお投げくださいませ、
燃える胴衣にて、僕をお包みください、
僕が守護の下にて闘諍し得るよう、
掩護に浴しつつ、臨戦し得るよう、
僕がいかなるまがごとをも、恐れなくてすむよう、
僕がくしの乱れることのないよう、
きらめく剣の打ち合わされるときに、
鋼の穂先の交わるときに――
ライナはこのような韻文を述べた。
その周りを、薄紅の光が包む。彼女の衣装と同じく、桜の花びらよりも、さらにさらに彩度が低い。粉雪のように、上からゆっくりと、ライナに降り注いでいるように見える。
「今のは?」
晴日が尋ねる。
「〈ラウル〉の呪歌です。戦いに臨む際に加護を求めるもので、ティエラ先生は〈守護〉と呼んでいます。少しは有利になると思って、唱えてみました」
日が暮れると間もなく、式神が影郎たちの前に現れた。敵は数百メートル先の海中から顔を出した時点で、その姿が容易に視認できた。なぜなら、それが途方もない大きさだったから。
「でっか……」
「まるで怪獣やな」
相手の姿を見て、早月とらんがあっけにとられる。
式神は蛇のような体型だった。
太さは、大人の男が抱きついても、反対側で両手がつながらない程度だ。長さは想像もつかない。
あかがね色のうろこは、1枚1枚が人間の手の平ほどある。
体のところどころから、別の胴体が生えている。ちょうど、木の幹から枝が伸びるような具合だ。
枝に相当する胴は8本だ。幹にあたるものと合わせて、9つの頭がある。
「な、何ですかこれ!? どうしよう。大変だわ!」
ライナの声が、恐怖にふるえる。彼女がとり乱すのも、むりはない。
「大丈夫だよ、ライナ。よく見て。頭の数は9だし、おまけに何もかぶってないよ」
早月はライナを落ちつかせようと、努める。
「本当に……?」
「九頭竜って言ってね、日本だと箱根とか福井とか、割と色んな地域の伝説に出てくるんだ。神社にまつられてる例もあるみたい。――カルチャーショックはなはだしいと思うけど」
早月が説明した。
「とはいえ、まだ安心はできんで。ウチらも初めて戦う相手やし、どの魔法が効くか分からへん」
らんは式神の動静に目を光らせつつ、他の者に注意を促す。
「見たところ、は虫類ですよね。氷の魔法なら、動きが鈍くなったりしませんか?」
ライナが提案した。
「今まで、その発想はなかったな。は虫類の五行四大は木で、氷は水だから。でも、試してみる価値はあるかも。こっちも、どんな形の式神に、どういった魔法が有効か、みたいなデータは集めてるし」
早月はフレイルを掲げ、何かしらのルーンを装填しようとした。
「待って。わたくし、〈寒冷〉を使います」
「そう? じゃ、ボクらはもしもそれが効かなかったときのために、別の属性を持った魔法の準備をしておくよ」
早月は、得物を持った手を下ろした。
代わりに、ライナが竪琴を手にとる。
竪琴は、片手で支えられる程度の大きさだ。本体は曲線を描き、蝶の翅のようなフォルムをなす。
弦の数は、わずかに7本だ。
ライナはそれを左手で持ち、右手で弦をつまびいた。同時には1本の弦しかはじかず、1つの音から次の音まで、常に等間隔。
彼女はやがて、体を揺すり始め、5拍子のリズムをとった。
――霜の剣よ。私の可愛いみどりごよ、
手塩にかけて扶育せる、養い子よ、
ここを離れて、私が命じる処へ行きなさい、
私が命じる処へ、そして私が送る処へ。
あの雄偉な悪者のうろこを凍らせなさい、
精気衰えぬ、あの竜のうろこを、
蒼茫たる海原の上に、
深く開けた水の上に、
中に巣食う、その主をも凍らせなさい、
うろこに包まれた長虫を、凍らせなさい、
あれが二度とそなたの元を、逃れることのないように、
あれが今生通過する、あらゆる進路において、
私自らあれを解き放たない限り、
私自らあれを自由にせぬ限り――
ライナは以上の歌謡を口にした。
彼女が最初の1行を詠んだときから、海面が音を立てて、凍りつき始めた。
影郎たちがいる埋め立て地に接するところから、また水平線の向こうからも、凍結した面が拡がる。凍っていないのは、九頭竜を中心とする円になっていて、それが見る見る狭まっていった。
瞬く間に、氷が竜に達した。
すると敵の体の表面に、霜が降り始めた。霜は、海から這い上がるように、式神を包んでいく。しまいには、その全身を覆った。
呪歌の詠唱が終わるころには、影郎たちの目に見える範囲の水面が、全て真っ白になっていた。
辺りの気温も急激に下がり、5人の吐く息が白い。
竜はというと、ぴくりとも動かない。
「あら、思ったよりあっさり、かかりましたね」
ライナは早月のほうを向いて、ほほえんだ。
(おいおい……。早月のこと、えらく慕ってるみたいだけど、この魔法、早月のよりも強くないか?)
影郎は身ぶるいした。
それもそのはず、早月の魔法に、海一面を凍らせるほどの規模はない。
「ありがとう。とどめはボクらで刺すよ」
シブの好敵手は、フレイルをうち振った。こちらには、〈先祖〉のルーンが装着されていた。
大地の魔法を宿した棍が、敵をしたたか打つ。そして凍結した頭を、何本か海に落とした。まるで、振り杖が陸地ひとつ分の質量を有しているかのようだ。
竜の頭は、硬く凍りついた海面に落下するや、粉々に割れた。
――慶幸を運びつつ、僕どもの心に癒しの芳香を吹きこみくださいませ。僕どもの天命を長からしめくださいませ。
汝命、科戸の風の紡ぎ手よ。僕どもが厳父にして、はらからにして、盟友にておありください。僕どもを存身せしめください。
科戸の風の紡ぎ手よ。汝命が尊邸に堆然とある御食に、僕どもをして与らしめください。僕どもが存し得るよう――
晴日は圈を投げつける。
こちらには〈バヤビヤストラ〉、すなわち風天の武器が備わっていた。
円盤は、コハク色の光を放ちながら、霊の周囲を飛び回り、式神の残った頭を、全て切り離した。
ちぎれ飛んだ頭部は、早月に打ち落とされたものと、同じ末路をたどる。
らんは桧扇の先で、もはや胴体のみとなった九頭竜の上空を指した。
するとその場所に、突如として大量の土砂が出現した。体積は優に、小山くらいある。
らんは扇を水平に開き、それを相手に覆いかぶせるように、ふり下ろした。
土くれが、竜の頭上に落下する。〈移山の術〉という魔法だ。
式神の体が、押し潰されてみじんに砕ける。続けて溶けるように、その場から消え去った。
「終わったな」
らんが他の4人の顔を、順ぐりに見た。
「典儀課へ行こっか」
早月がライナにほほえむ。




