10-A らんの激怒
7月の席替えの結果は影郎にとって、以後1年間、席替えなどやってくれるな、と思えるくらい、幸せなものだった。
なぜなら、権藤太薙の隣だったから。これで、うっとうしい垓神真具那は、おいそれと近寄ってこれない。
2人の場所は窓側で、いちばん後ろの列だ。
対して、晴日、らん、早月、嶺の4人は、廊下側で前のほうに集中している。
またしても教室の反対側だ。だが、そんなことは笑って許せるぐらい、彼にとって太薙の存在は大きかった。
また7月に入ると、期末試験に向けた勉強が本格化した。休み時間になれば、クラスの半数以上の生徒が、黙々と自習をする。
それを「ガリ勉」などとやゆする者はいない。――ただ1人を除いては。
ある火曜日、太薙がカゼで学校を休んだ。
1時限後の休み時間になると、真具那はさっそく、影郎の席まで飛んできた。さながら、虎視眈々と機会をうかがっていたかのようだ。
「おい、影郎! お前、『創作マンガ研究会』に入る気はないか?」
真具那はやけに威勢のいい声で、影郎に話しかけた。
「ない。あと気色悪いから、お前は名前で呼ぶな」
太薙や嶺でさえ、影郎を名字で呼ぶのに、なぜ同僚でもない真具那から、気安くファーストネームで呼ばれなければならないのか、などと影郎は思った。
机の上には化学の問題集と、ノートが広げられている。彼は自習がしたいのだ。
「楽しいぞ。入らないと、一生後悔する」
「入ったほうが後悔するようにしか、思えないが?」
影郎はシャープペンシルを、かちかちとノックした。
「ガリ勉だなあ。友達、失くすぞ?」
「テストが近いんだよ! 教室を見わたしてみろ。いま勉強してるヤツ全員に同じことを言うつもりか?」
影郎は頭を約90度回転させて、周囲の状況を目で示す。
「ぼくが言いたいのはそういうことじゃなくて、勉強よりも大事なことがあるってことだよ」
「それもほかの奴に言え。あと、『勉強よりも大事なことがある』って、一般論としては認めないでもないが、マンガはそれに入らないだろう」
「人それぞれだな」
「言ったな。なら、俺にとって大事なことは、マンガとは限らないはずだが?」
「『漫研』はいいぞ。本当に大切なことが学べる」
このように、全く話が噛み合っていないのだ。
「ほう。例えば?」
「絵の描きかたとかだな」
「あいにくだが、そんなもん身につける必要に迫られたことは、生まれてこのかた、ただの1度もないぞ」
「これからもそうだという保証はあるのか?」
「…………」
影郎は言葉に詰まった。
口のうまい人間は、いつでもどこでも、一定数いるものだ。
そして彼らは、自分のむりな主張を通す技術を、よく心得ている。
しばしば使われる方法の1つが、「絶対にそうだと言いきれるのか?」とか、「常に例外なくそうなのか?」などと言って、困難な立証を迫る、というものだ。それも、あたかも立証に失敗すれば、相手は自分の要求を呑まなければならないかのように、それを行うのだ。
「まあ聞け。人間1人を描くのにも、セオリーってものがあるんだ。特に体のバランスは重要だぞ。これを意識するかしないかだけでも、雲泥の差がつくと思え」
「だから俺は、絵なんか描かないっての」
影郎の最後の抵抗は、真具那の耳に入りさえしなかった。
その後、真具那は、人体のパーツの長さの理想的な比率について、るる述べた。
頭と首から下の比率は、1対7ないし1対8がよい。頭頂から目までと、目からあごまでは、1対1。首から足のつけ根と、そこから足首までは、1対1.5。そういった類のことだ。
影郎は、無視して自習を続けたかった。
しかし、真横でクドクドとくり広げられる長広舌をシャットアウトできるほど、彼の集中力は、高くない。
「で、どうだ? 少しはそういった技術を学習する気になっただろう」
「ならねえよ」
「何でそんなに頑ななんだよ?」
「バイトで忙しい」
これを言ったあと、影郎は立ちどころに後悔した。先のことを一切考慮せずに、思いついたことを即座に口に出した、己の軽率さを呪った。
「何のバイト?」
真具那は直ちに切り返した。こんなことは、十分に予想できたのに。
影郎は返答に窮した。
万々一、真具那に帝室庁の存在を知られでもしたら、とり返しのつかないことになる。
ここで、影郎に助け舟がさし出された。
「声張り上げて、なに口論しとるん?」
声の主はらんだった。彼女は影郎の席の背もたれに手をかけ、体重を預けている。
ついさっきまで、晴日たちと勉強していたのに、何の用で教室のいちばん奥のここまでやってきたのか。そういった疑問を持つ余裕は、影郎にはなかった。
「影郎が『バイトで忙しい』とか言って、漫研に入ろうとしないんだ」
真具那がらんに、理解を求めた。
(また下の名前で呼びやがって!)
影郎にはこれが、たまらなく不快だった。
「そやな。確かに忙しいわ。部活ら、とてもやないけど、ようせん」
らんは軽く答えた。
「同じバイトだったんだ。何の仕事してんの?」
真具那が重ねて追及する。追及よりも、尋問という言葉のほうがふさわしいか。
「ああ。役所からの委託で害虫駆除や」
らんの回答は、真実を多少反映している部分があるものの、端的に言って嘘だ。らんたちは、国から委託されているのではなく、曲がりなりにも国家公務員の身分だ。
もっとも、彼女に本当のことを言う義務など、ないのだが。
「面白そう。俺にも紹介してくれよ。時給いくら? 資料とかスクリーントーンとかで費用がかさんで、いま資金が底をつきそうなんだ」
「ごめんなあ。ちょいと特殊な技能が要って、ふつうの人にはようせんねん」
「そうか。残念だな」
ここで、真具那からの追及はいったん止んだ。
「で、漫研ってどういうことしとるん?」
らんが尋ねた。
(止せばいいのに……)
影郎は思った。
「メインの活動は、自分でマンガを描いて機関誌にのせて、それを輪読して批評することかな。ときどき絵の描きかたとか、既存の作品の傾向の分析とかいったテーマについて、話し合うこともあるよ」
答える真具那の顔からは、喜びが満ちあふれている。よほど、自分の趣味に興味を持ってもらえたことが、嬉しいらしい。
「本格的なんやな」
(調子に乗るから、その辺にしといてくれ)
「そうだ。ついこの前の傾向分析会でとり上げられた作品を持ってきてるんだ。ぜひ読んでみてよ」
真具那は、自分の席に飛んでいった。
そして机の引き出しから何かをとると、瞬く間に戻ってきた。手にしているのは、マンガの単行本5、6冊だ。
「『魔法少女申命記ミクラ』? ああ、4月ごろ、テレビでやっとったな。そうか。マンガが原作やったんや」
「逆、逆。アニメが原作で、これはそのコミカイズ」
「へえ。ミクラちゃんって、アレやろ? 何か、主人公が弓もっとって、ハルムフラウグとかゆう矢ぁ使うて、敵と戦うやつ」
「ハルムフラウグじゃなくて、ハルムブラウグね。誓い立てざる弱き枝にして、光かげらす破滅の矢」
「そ、そうなん……」
らんはさり気なく、後ずさりしていた。格好つけた詩的な言い回しに、気圧されたのだろうか。
「魔法少女って、困った人を魔法で助ける話じゃなくて、魔法で戦う話なのか……?」
影郎は憎々しげに言った。
「それが近年のトレンドなんだ。それが何か?」
「じゃあケガしたり、死にかけたりするんだろ? そんなの見て楽しいか?」
影郎の脳裏では、何よりもよぎってほしくない光景がありありと蘇ってきて、渦を巻いていた。
1つは、夜刀神に打ち倒され、目に涙を浮かべて痛みをこらえる晴日とらん。1つは、マロースカの足下で、死んだように冷たくなって、ぴくりとも動かない2人。1つは、鬼女に抱きすくめられ、首すじにナタをあてがわれる晴日だ。
いずれも影郎にとって、思い出すことさえ、いとわしいできごとだ。自ら積極的に似たような場面を見たがる真具那の態度は、どうあっても是認できない。
「まあそうムキになりなさんな。垓神くんがどうゆう趣味もったって、垓神くんの勝手やろ?」
らんが影郎をたしなめる。彼がその身を案ずる当の本人の1人は、あっさりと真具那の肩を持った。
らんの意見は、客観的に見れば正論に相違ない。
だが、辛い記憶をフラッシュバックさせていた今の影郎に、公平中立であることなど、できない相談だ。
「やっぱりお前はモノを見る目がある。そこまで熱心に求められると、手をさし伸べないワケにはいかないな」
真具那は重ねた単行本を、らんにずいと突き出した。
「え?」
らんの目が点になった。なぜ自分にマンガがさし出されたのか、理解できていないようすだ。
「だからほら、これ。読みたいんだろ?」
真具那は本の束を上下に振る。
「それは、えっと……」
さすがのらんも、二の句が継げない。
彼女はただ、「他人の趣味を、頭ごなしに否定するのはよくない」と言っただけだ。それなのに、どこをどうカン違いすれば、「面白そう。ウチも読みたい!」、という意味にとれるのか。
影郎はらんに加勢したかった。だが、何を言えば有効に真具那を撃退できるのか、全く思い浮かばなかった。
不用意に言葉を発すると、ますます相手をつけ上がらせる結果になりかねない。
「見た目ほど、読むのに時間はかからないから。頑張れば放課後までには終わるよ」
「ごめんなあ。今日、友達と勉強教え合うことになっとるんや」
「じゃあ持って帰っていいよ。明日の朝にでも返してくれれば」
「実は放課後、夜までバイト入っとんねん」
この日、東京高等検察庁の長に放たれた式神を、止めることになっていた。
「分かった、分かった。読み終わったら返すのでいいから」
「これから試験勉強もせなあかんやん? ウチらのバイト、シフトの融通あんまきかんねん。それに上司も怖いし」
らんの言う上司とは、辰午のことだろうか。もしそうだとしたら、「怖い」というのは真っ赤な嘘だ。
「1冊だけなら、大して時間、食わないでしょ。1冊読んでみて、つまらないと思ったらやめていいから」
ふつうならばこれくらい粘り強く、「都合が悪い」旨を告げられれば、真意は「角が立たぬように辞退したい」のだと分かるものだ。しかし、真具那にそのような言外の含みは、通用しなかった。
影郎はらんに強く同情した。同時に、式神どころか、目の前の凡人ひとり撃退できない自分に、嫌気がさした。
「ちょっと、垓神くん。そろそろやめないと――」
いつの間にか、嶺がすぐそばまで来ていた。
晴日と早月も、こちらのトラブルに気がつき、遠くからことのなりゆきを見守っている。
「ええ加減にせえや、しつこいんじゃ! ウチにかって、やりたいこととせなあかんことが、いっぱいあるんや。いっつもかっつもあんたの趣味にばっか、つき合うてられるかい。ボケぇ!」
らんは真具那を、これまでに見たことがないような恐ろしい形相で睨みつけ、声を荒げて罵った。
真具那は謝りもしないで、すごすごと立ち去った。両手には単行本を、大事そうに抱えている。
「けっ!」
らんは大又に歩いて、教室を出ていった。
「ああ、遅かった。でも、今のは垓神くんが悪いわね」
嶺は真具那の後ろ姿を眺めていた。
「らん、どこへ行ったんだ?」
影郎は嶺に尋ねた。
「心配しなくていいわよ。廊下で頭を冷やしてるだけだから」
「らんが怒り出すのを見こして、止めようとしたのか?」
「そうよ。あの子、詮索されたり、よしみとか友情とかいって、自分のやることを制限されたり、今みたいに自分の立場とか都合を完全に無視して、一方的に要求を突きつけられたりすると、ものすごくイヤな顔をするの」
「それ、誰でも腹を立てると思うぞ。俺だってそうだ」
「わたしも、いい気分にはならないわよ。でもらんちゃんの場合、怒りかたがほかのときとまるで違うの。さっきの見たでしょ? 多分、普段は周りとうまく歩調を合わせてるから表に出さないだけで、本当はどこかで、自分と他人の境界線を引いてて、そこに踏みこまれるのが許せないんだと思うわ」
嶺の推察を聞いて影郎は、〈十絶陣〉の白いラインを頭に浮かべた。
「確かに、あんなに激しく怒るなんてな。俺もよく注意はされるけど、らんが感情的になるのは初めて見たぞ」
「らんちゃん優しいし、わざわざもめごとなんて、起こしたがらないんだもの。これもわたしが思ってるだけなんだけど、あの子、『これ以上は譲歩できない』っていうぎりぎりのところまで、ガマンしちゃうんじゃないかな?」
「それで、怒るタイミングがそのまま、キレるタイミングになってる、と?」
「あはは。うまいこと言うわね。まあ、らんちゃんが怒り出すまで、失礼なことをし続ける人なんて、めったに見ないけどね。わたしも、あの子が怒るところを見たの、今のでまだ4回目だわ」
嶺がこの話をしているときに、らんが教室に入ってきた。まだ心なしか、むすっとしているように見える。
「しばらくらんは、そっとして置いたほうがいいのかな?」
「それは大丈夫よ。らんちゃん、たとえイライラしてるときでも、その原因と無関係な人に、当たり散らしたりしないから」
「へえ、そうなんだ」
嶺とのやりとりの中で影郎は、「人から構われたくない」という欲求があるという点では、らんと自分は似ているなと感じた。




