1-C 自己紹介
入学式は、約1時間半で終了した。
新入生は、誰に案内されるとなく、1階にある、1年生の教室へ向かった。
A組からE組までの、5クラスある。人見影郎はC組だ。
座席は、あいうえお順に定められていた。影郎は真ん中より少し窓側の列で、前から3番目だ。
教室の壁は、明るい水色だ。私立高校らしく、黒板の代わりに、ホワイトボードが採用されている。
中にいる者の半数近くは、談笑の最中だ。
成鸞館高校は、1学年の定員が150人だ。うち60名は、併設の中学校から、自動的に進学できる。そして残りの90人を、試験で新たに選抜する。
成鸞館中学の出身者は、高校に入学した時点ですでに、周囲に知り合いがいる、というわけだ。
影郎は、そうではないグループに属す。この教室に、知り合いは1人もいない。
中学校においてさえ、3年間のうちに2、3人しか、顔と名前の一致する相手ができなかった。だから、自身と母校を共有する者が、同じ教室にいるかどうかすら、彼には分からない。
影郎は、教室のほぼ中央で、周囲の歓談をぼんやりと聞きながら、何も考えずに時が過ぎるのを待っていた。
20分ばかり経ったとき、ようやく担任の先生が現れた。
「きゃあーっ!」
同時に、女子生徒の何人かが、黄色い声を上げる。教員が、かなりの好男子だったためだ。
年は30代の前半あたり。春にもかかわらず濃く日焼けした顔に、太い眉毛が際立つ。身長はそれほど高くないが、横幅のある筋肉質な上半身が、それを補って余りある風格を漂わせる。どう見ても、担当科目は体育だ。
担任は、白板の真ん中のすぐ前に立つと、おもむろに口を開いた。
「さてと、今日は2つか3つ、決めごとをしたら放課だ。早く帰れるように、みんなも協力してくれ」
「はーい」
生徒たちが、口々に返事をする。始めと終わりのタイミングも、声の高さも、てんでバラバラだ。
「今年1年間、君たち1年C組を担当することになった、鳥尾優春だ。よく体育の教員だと間違われるが、教えているのは世界史なので、そのあたりヨロシク」
「本当かよ……?」
影郎は小声で言った。
「ということで、君たちも1人ずつ前に立って、自己紹介をしてもらおうか。簡単にでいいよ。というか、あまり長くならないように。じゃあ名簿順でいこう。トップバッターは――」
鳥尾先生が、1人1人の名前を呼ぶ。指名された生徒はホワイトボードの前に立って、自己紹介をした。
最初の人が、名前と出身中学校と当時の部活動しか言わなかったので、以降の者もそれにならった。
はじめの男子生徒2人に次いで、3番目に立ち上がった少女の顔を、影郎は覚えていた。
「天宮晴日です。市川市立西天白中学校の出身で、今も市川からかよってます」
校門と校舎の間に植わっていた記念樹の前で、写真を撮っていた一団の1人だ。影郎のすぐ手前を突っ切った関西弁の女の子に、小言を言っていた人物だ。
影郎は再度、彼女の姿を眺めてみた。
まっすぐ下ろされた髪は黒色ながら、光の当たりかたによっては茶色にも見えるくらい、色素が薄いことに気がつく。
また、長いまつ毛の奥に見え隠れするうるんだ瞳は、雨上がりの空のようだ。
晴日と名乗った少女は、部活動には言及しなかった。
その後、宇吹、垓神などに続き、7番目に自己紹介をしたのが例の、朝がた晴日に注意されていた子だ。
「海堂らんです。ナル中の出身です。生まれてから小学校を卒業するまでは、兵庫県西宮市に住んでいました」
敬語で話すときは、標準語と全く同じイントネーションになった。そのため、影郎は一瞬だけ、彼女と朝の関西弁の人物とを、結びつけられなかった。
兵庫県で生まれ育ったのなら、関西弁を話すのも、合点がいく。
らんの短く切り揃えられた髪の色は、晴日のと対照的に深い。それは、夜の海原を連想させた。
大きな目に宿る瞳は、いかにも意思が強そうだ。
今らんの言った「ナル中」は、成鸞館中学を指す。成鸞館の生徒や卒業生など、関係者の間だけで通じる隠語だ。
ちなみに、これに対して成鸞館高校は、「ナル高」という。
らんもまた、部活動について、特に触れなかった。
先生はその後、苗字がカ行、サ行、タ行のいずれかで始まる者を、順に呼んだ。だがあるところで、つと考えこんだ。
「次は土浪早月くん。……あ、いや。土浪くんは、1か月ほど休学するそうだ。入学早々、何をしているんだか。というか1か月も休んで、出席日数は足りるのか? ま、知ーらね」
先生は土浪なる人物を飛ばし、次は難波を指名した。
影郎も含め、全員の自己紹介が終わると、鳥尾先生がまた話し始めた。
「あと今日中にしなきゃならないことは……。そうそう、クラス役員を1人決めるんだった。何、勉強の妨げになるような負担はかけないよ。せいぜい、ホームルームの司会をしたり、生徒会からの通達を、クラスに伝えりする程度だな。誰か、やってくれる人はいるか?」
教室中が一斉に沈黙した。今しがたまで内緒話をしていた者も、だんまりだ。
影郎に言わせれば、ホームルームの司会だけでも、結構な重労働だ。それでなくても、自ら立候補して目立つことは、できれば避けたい。
「うん、困ったぞ。これを決めないと、帰れないんだよなー。どうしようかなー」
先生が、こめかみに人さし指を当てた。
数分の間、教室を静寂が支配した。
ホワイトボードの上に据えられた、掛け時計の秒針。窓の外を飛ぶ、雀のさえずり。かなり遠くで、ビルを建てる重機。
それらの音さえ、影郎の耳に入った。
およそ10分経ったあと、ようやく1人の男子生徒が、黙ったまま挙手した。
「おおっ! やってくれるかい? 君は権藤太薙くんだね。まあ今日のホームルームはこっちで進めるので、次からヨロシク」
クラス役員は、権藤太薙なる人物に決まった。
「では最後に、いきなりだけど、席替えをしよう。それが済んだら、今日は解散」
間髪をいれずに、鳥尾先生は言った。教室が少しばかり、ざわつく。
「まあお聞きよ」先生はなおも続ける。「君たちも、厳しい受験を勝ち抜いた強者ぞろいだから知ってるだろうけど、複数人で分担して勉強したときの効率は、1人のときとは段違いだ。『受験は団体戦』なんて、よく言ったもんだな。なので、君たちがナル高で最初にやるべきことは、歴史の年号や英単語を、頭に詰めこむことじゃない。クラスメイト全員の、顔と名前を覚えることだ」
彼の言葉からうかがい知れるように、成鸞館高校は偏差値でいえば、全国でもかなり上位に入る名門校だ。
(ああ、イヤだイヤだ)
影郎は思った。何しろ、前年までの3年間で、2、3人の名前しか覚えられなかったくらいなのだから。
席替えの結果、影郎は廊下側から2番目の列で、後ろから3番目になった。