7-C 早月の家族
影郎たちがSSSのオフィスに入ったとき、辰午と初恵はコンピュータを操作していた。
「やあ早月、待ちくたびれたよ」
「あら、早月じゃない。元気そうでよかったわ」
2人は立ち上がり、オフィスの入り口まで歩いてきた。
「いつ帰国したんだい?」
辰午が早月に問う。
「4月30日だよ。着いたときは夕方だったかな」
一同は各自、オフィスの入り口に最も近い辺りにあるいすにかけた。
初恵はすぐさま、忙しそうにキーボードを打ち始めた。
「ウチら、空港まで迎えに行ってん」
らんは顔を辰午に向けたまま、目で早月を示した。
「えっ? そうだったの?」
影郎が間抜けな声を上げる。
「うん。嶺ちゃんと3人で。そのあと夕食を食べに行ったわ」
晴日が言った。
「へー。そうだったんだ」
影郎は、努めて平静を装った。
内心、声をかけてくれればよかったのに、などと思っていた。
「ひょっとして、影郎も行きたかった?」
晴日が影郎の目を見る。
「うん、まあ」
影郎は本心をけどられないよう、細心の注意を払った。
同時に彼は、晴日が自分を呼ぶとき、「くん」を言わなくなっていることに、気がついた。
「ごめんな。晴日はあんたも誘おうかっちゅうとってんけど、ウチ『仕事でもないのに呼び出されるのイヤかな』思うて、声かけへんかったんやわ。ほら、その前の日ぃ、トウテツと戦ったやん? やから疲れとる気ぃしたし」
らんが片手を立てて謝る。
「ふうん……」
影郎としてはあまり面白くなかった。
「ご両親も、お帰りになったのかな?」
辰午がさらに、早月に尋ねる。
「まだイングランドにいるよ。少なくとも、年内には帰れないってさ」
「何があったの?」
「それがさあ、お父さんが『TEREBI』の楽曲の大半を書き直すハメになっちゃって」
「ええっ!? 何ごと?」
「ボクもあんまり詳しくないけど、お父さん、『TEREBI』の音楽に、ペンタトニックとかいうのを多用したんだって。そしたら、そのペンタトニックとやらが、スコットランドで伝統的に使われているらしくて、『スコットランドのことを皮肉ってるのか』って批判された、とか何とか」
「あらら……」
辰午と早月の会話の内容は、影郎にはちんぷんかんぷんだった。
「話の意味が全く分かんないんだけど、どういうことよ?」
影郎に代わり、晴日が問いただした。
どうやら彼女も、同じように感じていたようだ。
「ああ、ごめんごめん。勝手に盛り上がっちゃって」
辰午は謝り、今しがた交わされたやりとりの流れを、ていねいに説明した。
いわく、イギリスでは19世紀末に、ギルバートとサリバンという、劇作家と作曲家のコンビが、あるオペレッタを書いてヒットした。
早月も、父が作曲家で母が劇作家をやっていて、2人はギルバートとサリバンの作品を、現代的にアレンジしたミュージカルを手がけた。それが「TEREBI」だ。「TEREBI」は、原作に込められた風刺をそのまま引き継いでいて、こちらも高い知名度を得た。
ペンタトニックというのは、音階の1つ。日本の伝統音楽の多くは、これに基づいている。「TEREBI」の舞台は、日本を模した架空の国なので、早月の父は、日本的な雰囲気を出すために、ペンタトニックを採用したのだろう。
早月の話によれば、スコットランドの伝統音楽にも、ペンタトニックが用いられているようだが、これについては辰午も知らなかった、と。
「権威者の言うことを、無批判に信じこむのは危険だよ、ていう『ミカド』の問題提起の核心部分は、今でも全く価値を失っていないんだよ」
そう言って辰午は、ひと呼吸ついた。
「ふうん、『TEREBI』ねえ……。ウチ、1回も聞いたことないわ」
らんが伸びをした。
「そりゃそうだよ。そんな作品の存在を日本人に知らしめて、一体どこの放送局が得するんですか、て話さ。でも聞けば、英米やフランスなんかだと、けっこう議論を巻き起こしてるそうだよ」
辰午の口ぶりから察するに、彼はこのミュージカルが大層お気に入りらしい。
「それにしても辰午さん、ペンタトニックなんて、よくご存知ですね。俺、初めて聞きましたよ」
影郎が言った。
「ああ。僕、大学時代はオーケストラと合唱のサークルに入ってたんだ」
辰午はどこか、懐かしそうだった。
彼のパートはコントラバスとテノールで、ときどき指揮もやっていたのだそうだ。




