7-A 早月の帰国
新学期の忙しさと共に、4月はかけ足で去っていった。
ゴールデンウィークの間、1度だけ饕餮の襲来があった。しかし晴日とらんが易々と撃破し、連休はおおむね平和に過ぎた。
連休が明けたあと、第1日目の朝のことだ。
この日、影郎はいつもよりも早く登校した。
人身事故の影響でダイヤが乱れ、影郎が阿佐ヶ谷駅のホームに入った瞬間、遅れてきた電車が入線した。そのため、彼はかえって早く、電車に乗ることができたのだ。
影郎は、教室の後ろ側にある、自分の席に座り、芽実の〈鬼道〉に関する蔵書の写しを読んでいた。
8時15分ごろ、晴日、らんに、嶺などいつも2人と一緒にいる数名の女子生徒が、教室に入ってきた。
その中に、見覚えのない女の子が1人、交じっている。
すすきの穂のような濃いめのブロンドを腰まで伸ばし、それを後頭部で1本に束ねている。
色白で、かつ芸能界に入っても十分やっていけそうな、均整のとれた容貌だ。
教室中の視線が一斉に、彼女に注がれる。
ブロンドの少女は、晴日たちとお喋りをしながら教室の前方、つまり影郎とは反対側の席についた。
とたんに、彼女を中心に、幾重もの輪ができ上がる。とり囲んでいる者の大半は、女子生徒だ。が、中に少しだけ、男子も紛れている。
そのうち1人が彼女に、何やら英語で話しかけた。
「発音、上手だね。ひょっとして君も、帰国子女なのかな?」
ブロンドの少女は、日本語で応対した。流ちょうな日本語というよりも、ネイティブスピーカーのそれだ。
影郎は知る由もないが、彼女に話しかけたのは、英語部員だ。
彼は日本語に切り替え、少女と二言三言はなしをしたのち、離れていってしまった。どちらかというと、英語で会話をすることが、目的だったと見える。
(転校生なのか?)
影郎も、とつぜん現れたブロンドの美少女の存在が、気になった。
かといって、人だかりに分け入ったり、ましてや自分から話しかけたりする度胸など、彼にはない。
コピーに目を通しながら、ときどきチラチラと、ようすをうかがうのが関の山だ。
3分ほどそうしていると、彼女はらんと話し始めた。
そのうち、影郎のいる辺りをらんが指さし、そのほうを向いた転校生らしき少女と、影郎の目が一瞬合った。
上弦の月に照らされた空のような藍色の瞳に、影郎の姿が映る。
彼は思わず下を向き、読書を続けた。まさか、意図して自分のことを見たのではあるまい、などと思った。
いま字を目で追っていた1文を読み終わらないうちに、彼の机に影がさした。
見上げると、そこにはブロンドの少女が立っていた。
その後ろには、晴日とらんもいる。
「で、君が影郎だね?」
初めて目にする女の子は、影郎の机の角に両手をついた。
その声は、手の平で鈴を転がすかのような、高めで可愛らしいものだ。
「そうだけど?」
影郎は、ぶっきらぼうに答える。
意図して無愛想にふるまったのではない。真っ青な目でじっと見つめられ、頭の中が白紙状態になったのだ。
目の前の美少女が直々に、しかも他の者をさし置いて自分に話しかけたのは、どういう風の吹き回しなのか。あまつさえ、「で、君が影郎だね?」、などというなれなれしさは何だ。
そういった疑問すらわかないほど、彼はうろたえていた。
「初めまして。ボク、早月」
早月と名乗った少女が、笑いかける。
「う……、あ……」
影郎は、気が動転して声が出せない。
早月のほうは、微笑を浮かべながら、たたずんでいた。こちらの反応を、待っているようだ。
「食らえ! 天地を炎上せしめる劫火の大剣、スルタロギ!」
男の奇声が、一瞬だが影郎の耳を聾した。
同時に、彼の背後から、竹でできた長さ30センチメートルのものさしが、その頭を引っぱたいた。
何かがはじけるような景気のいい音が、辺りに響きわたる。
「痛って……」
影郎は、手で頭を抑えながら、ふり向いた。
その先には、垓神真具那が立っていた。手には、竹ものさしが握られている。
後ろの席に、権藤太薙が座っている。いま起こったことが信じられない、といった感じで、目を大きく見開いて硬直していた。
「何してんだ?」
影郎は真具那をなじった。その手はまだ、頭にのせられている。
「転校生にうつつを抜かすから、こんなことになるんだ」
真具那に反省するそぶりは、みじんも感じられない。
「バカかお前は!? うつつを抜かすも何も、目の前に転校生がいるほうが現実なんだよ」
影郎は追及する。
かわいそうなのは早月のほうで、彼女は、せっかく話しかけた相手の意識外へ一気に追いやられ、呆然と立ち尽くしていた。
あまりに唐突なできごとのためか、ぽかんと口を開けっ放しにしている。
影郎と真具那の間で2、3分、押し問答が続いた。
その後、真具那は大きく溜め息をついて、どこかへ行ってしまった。
去り際、「高尚なことがらを理解できない、キミの無骨さが嘆かわしい」といった趣旨の捨てゼリフを吐いていた。
影郎が前に向き直ったころには、早月も我に返っていた。
「あの、ごめんね。気がついてたらボク、さすがにあいつを止めようとしたよ。……ケガはない?」
早月は、本気で申しわけなく思っているようだった。
「ああ。大丈夫……、だと思う」
と言いながら、影郎はまだ、頭がじんじん痛んでいた。
「何なの、あいつ?」
早月は、後ろにいた晴日のほうを向き、小さくなっていく真具那の背中を指さした。
「垓神真具那くん。何だかよく分かんないんだけど、よく影郎にちょっかいを出すの」
晴日は早月に耳打ちした。
「ふうん。何が『スルタロギ!』だか……」
早月は真具那のほうを見ながら、顔をしかめた。
ここで、始業のチャイムが鳴った。
晴日、らん、早月など立っていた者は、めいめい自分の席に向かった。真具那も戻ってきて、影郎の隣の席についた。
影郎は腹の虫がおさまらなかった。
理由もなく、痛い目にあわされたのもそうだ。しかしそれ以上に、早月に対し、本人に一切おち度のないことがらで、罪悪感を起こさせたことが、赦せなかった。
間もなく、鳥尾先生が教室に入り、ホワイトボードの前に立った。彼は部屋を順ぐりに見回すと、口を開いた。
「みんなもう分かっていると思うが、4月の間休学していた土浪くんが、今日から登校することになった」
(そういえば、最初のホームルームでそういうこと言ってたな)
影郎は思った。
「というわけで土浪くん、軽く自己紹介をしておくれ」
鳥尾先生に促されて早月は起立し、白板の前に立った。
「皆さん初めまして。……まあ、半分くらいはお久しぶり、なんだけどね。土浪早月と申します。お父さんが横浜、お母さんがイングランドの出身で、ボクはあっちの、グラストンベリーっていう所で生まれました」
彼女はさらに続ける。
それによれば、早月は小学校を卒業するまで、イングランドに住んでいた。また、母は自分が生まれる前に日本国籍を取得しており、早月本人も生来、日本人だ。
両親は現在もあちらにいて、自分は春休みに彼らに会いに行っていたが、わけあって帰国が遅れた、という。
「それと、ボク最初に覚えた言葉は日本語で、英語よりもこっちのほうが得意なので、どうか皆さん、日本語で話しかけてくださいね」
早月は最後に、そう言い置いた。
「ところで、5月になったので、席替えをしよう。今日のいつやるかと方法は、クラス役員に一任するので、君たちでやっておくように」
ホームルームはこれで終了した。
1年C組は、みな部屋を出て、更衣室へ向かった。1時限が、体育なのだ。
昼休みに、太薙の進行によって、席替えが実施された。方法はクジによった。
影郎は、窓際で前から2番目の席になった。4月に、晴日たちがいた辺りだ。
代わりに晴日、らん、嶺、早月は、廊下側の後ろのほうの席になった。つまり、影郎と晴日たちの位置が、そっくり入れ替わった形になる。
真具那は晴日たちの近くだった。
影郎は、真具那から離れられたことが、何よりも嬉しかった。
晴日たちのうち誰とも近くになれなかったのは残念だし、これから1か月は真具那から迷惑をかけられるであろう彼女らを、気づかいもした。
だが、喜びが大きく上回った。




