5-D マロースカとの戦い(2)
らんが眠っていたのは、時間にして、1分にも満たない。
彼女は、「晴日! らん!」と叫ぶ、聞き覚えのある声によって、再び現実に連れ戻された。
同時に、耳や手の痛さも蘇る。むりやり起こされたことは、不愉快きわまりなかった。
声のするほうを見ると、そこでは影郎が、こちらを向いて立っていた。
とうの昔に消失した〈十絶陣〉でいえば、らんから見て右側、北東の区画に相当する位置だ。
一方、らんの隣では晴日が、今しがたのらんと同じく、呆然と影郎を見上げていた。
「この野郎おおお!」
影郎は絶叫した。
「何でここが分かったん? あと、どうやってここまで来てん?」
こういう疑問がわくくらいまでは、らんの考えはしっかりしてきていた。
次の瞬間、影郎の腕と頭から、ふっと力が抜ける。またもや彼は、操り人形のような格好になった。
その周囲を白い光が覆う。何がしかの霊が降り立ったのだ。
影郎は一言も発せずに、らんたちのほうに走ってきた。
2人のすぐ脇を、大柄の老人が走り抜け、何ごとか叫びながら、飛び跳ねるようにして影郎に向かった。
マロースカは今の今まで、らんと晴日の間にいたのだ。
式神が、杖の先を影郎に向けた。とたんに、風が障害物の間をすり抜ける音がし、木の枝が揺れた。敵が寒波を送ったのだ。
影郎は真横に飛びすさる。
ひと飛びで、広場と木立ちとの境目に到達する。その跳躍力は、人間のものではなかった。
同様のイタチごっこを数回くり返したあと、2人は正面から、互いのほうへ突っこんでいった。
接触する直前、影郎が姿勢を低くし、自分の足を敵の足に絡みつかせた。老人は前につんのめり、影郎を巻きこみながら、横ざまに転がった。
2人が停止したとき、あお向けの霊に対し、影郎が馬乗りになっていた。
影郎は、両手の指を組んで大きなげんこを作り、それを相手の顔面に、何度もふり下ろした。
野太く短い悲鳴が、何度かこだまする。
マロースカは勢いよく上体を起こして、影郎の体を跳ね飛ばした。
影郎はバランスを崩して転げ落ちる前に、相手の胸を蹴って空中に舞い上がる。
精霊が立ち上がった。顔のあちこちがへこみ、鼻や口から血が流れている。杖はその手から離れ、帽子も脱げ落ちている。
式神は寒風を吹かせた。
影郎は再び、人間離れした跳躍力を見せた。
彼は上斜め前に跳んで、冷気の流れをやり過ごした。そのまま1回転するようにして、敵の真ん前に着地した。
そしていったん身を低くすると、全身をばねのように使ってジャンプし、霊におどりかかる。
影郎はマロースカに跳びついた。相手の首を両足で挟んで、頭を両腕で抱いた。
そして、自らの上半身全体を、右によじる。
何か硬いものが砕ける音がした。
影郎は敵を蹴って、飛びのいた。着地すると、全ての力が抜けて、その場にくずおれた。
マロースカは後ろに倒れた。
ぴくりとも動かない。頭があり得ないほうを向いている。影郎に首をへし折られたのだ。
それから間もなく、その姿は煙のようにかき消えた。
らんは体のふるえが止まらず、動くことができない。
ほどなくして、影郎が正気づいた。彼をとり巻いていた白い光は、もう消えている。
「おい、晴日、らん! 大丈夫か!?」
影郎が2人のほうにかけてきた。
「だ、だいじょ、ぶ……、や」
ふるえながららんは、懸命に答えようとする。
「寒いのか?」
影郎が片膝をつき、らんの顔をのぞきこんだ。同時に、彼女の背中に手を添える。
影郎に触れられたところが、一気に熱くなった。それが瞬く間に、全身に拡がる。
もちろん、魔法によるものではない。
「うわあ! 待て、ウチはええ! それより晴日や。晴日にやったって」
らんは慌てて、影郎の手を払い除けた。そして、後ずさりして彼との距離をとった。
「何いってんだ? お前、死んでるみたいに冷たいじゃないか」
影郎が抗議する。
「『ウチより先に晴日にやれ』ゆうとるんや!」
らんは断固拒否した。これ以上影郎と接していると、溶けてしまいそうだ。
影郎が晴日に近づく。
「さ、むい、よ……」
晴日はまだ、丸まってふるえている。らんよりも重傷であると見える。
「冷たい」
晴日にも同じように手を当て、影郎は言った。
そして彼は、らんのほうを向いた。どうすればよいか、指示を仰ぐ意図のようだ。
「抱いてでもええから温めてやりぃ。ウチが許すから早よ!」
影郎はなお少しの間、躊躇した。それでも最後は観念して、晴日の体を抱きしめてやった。
晴日のほうも、影郎にすがりついた。まるで彼の体に、己のそれをうずめるかのように。
らんは少し不愉快になって、顔を背けた。自分で彼に指図をしておいて、何に腹を立てているというのか。
「こういうときこそ、魔法で火を起こせばいいんじゃないか?」
晴日のなすがままになりながら、影郎が問う。
「〈烈焔陣〉なんて使うたら、広範囲を燃やしてまうで。あれあくまで攻撃用の魔法やさかい、細かい火力の調整はできんねん。かと言って〈三昧真火〉やと、水でよう消さん火ぃやし……」
らんはそっぽを向いたまま答えた。
晴日のふるえも止まったところで、3人は帰路についた。往路と同様、ふもとまではらんの〈木遁〉ですぐだった。
集落の横を駅の方向へ歩く途中、らんが影郎に言った。
「今日は醜態みせてしもうたな」
「醜態?」
今回の自分たちの戦いぶりを、らんが「醜態」と表現したことを、影郎は意外に思っているようだ。
「やられとるとこ。あんた血相変えてウチらの名前を呼んどったんやし、それは見たんやろ?」
「まあ……。でも、前は俺が何もできなかったんだから、これでおあいこじゃないか?」
「それもそうやな」
「だけどよ、お前らが2人がかりで勝てなかった相手に、何で俺なんかが?」
影郎は、仙骨が発現したばかりの自分が、あの難敵を退治できたことが、釈然としないようすだ。
「2つ、考えられるわ」らんではなく、晴日が答える。「1つは、単に影郎くんの才能が著しいせい。魔法の上達って、人間のやることの中でも特に、生まれ持った能力に依存するらしいの。だから、なりたての影郎くんが、私たちよりも高い力を発揮できたとしても、格別おどろくことじゃないわ。もう1つは、逆に乗り移った霊のほうが、強力だった場合。私、巫師じゃないから、想像で言ってるんだけど、素朴に考えても〈帰神法〉の威力は、憑依する霊の力量にも左右されるほうが自然だわ」
「なるほど」
「ところであんた、今日ウチらがここで戦うこと、どうやって知ったん。で、どうやってここまで来たん?」
今度はらんが問うた。
「それがよく分からないんだ」
「分からへんって、何でぇ?」
「本当に、気がついたらここにいた、て感じなんだ。今日、学校が終わったら図書館に寄って、そこで本を探してたら、変な声が聞こえてきた。『意礼が伴侶、このままでは死ぬぞ』とか言ってたと思う。そしたらすぐ、前にとりつかれたときみたいに、頭がぼんやりしてきた」
「それで? いつもはあんた、霊に憑依されとる間のこと、覚えとるやろ?」
「真っ暗になった。ここに来る前、最後に見た記憶があるのが、図書館の本棚だ」
「図書館におったら、急になんにも見えへんようになって、次に視界が明るなったらここに来とった、ちゅうこと? 瞬間移動でもしたん?」
「いや。けっこう長い間、暗い所にいた。それと、何だか歩いていた気がする」
「目ぇ見えへんのに歩いとった、てどうゆうこっちゃ?」
「分かんない。夢を見ているときと同じくらい、ぼうっとしてたんだから。ただ、どこかを歩いてた記憶だけがあるんだ」
「どこぉ?」
「俺のほうが知りたいよ。本当に何も見えなかったんだから」
この後もらんと晴日は影郎に、そのときの状況を、根掘り葉掘り問いただした。
だが成果はなかった。
「とりあえず、今日の戦いのことを内緒にされたのは理解できるよ。大方、足手まといになるとか思ったんだろ?」
影郎が言った。
「そやな。で、そのことねんけど、次からやっぱ式神と戦うとき、あんたにも来てもろうてええかな? 今回のけ者にしといて、虫のええことお願いするようやけど」
らんは、影郎に向けて片手で合掌した。
晴日もその隣で、小刻みに頭を縦に振る。
「俺は別にいいけど、そう思い直した理由は知りたい」
「保険のため、かな。これまでの戦いで、あんたが〈帰神法〉を行使できたん、2回ともウチらがよう戦わんようになった後やん? それで、『もしかしたら、ほかの手段でやったら式神を止められへんような状況になったら、〈帰神法〉の成功率が上がるんかなあ』思うてん。まあゆうたら、用心棒みたいなモンやな」
「用心棒なんて言われるほど、頼りにはならないと思うけど、参加させてもらえるのは光栄だな」
影郎は嬉しがっているようだ。
「でもまあ、ほとんど出番ないと思うけどな。ウチらかって、おいそれと負けへんから、商売になっとるんやし。その点は怒らんといてや」
このあと3人は、電車で帝室庁に向かった。
そこで念のため初恵に検査をしてもらい、辰午への報告や表計算ソフトウェアへの記録をおこなってから、退庁した。




