5-C マロースカとの戦い(1)
金曜日の夕刻、らんと晴日の2人は、高尾山の山腹に来ていた。例の黄色と赤の着物を、身にまとっている。
今回の戦いのことは、影郎には知らせていない。
山腹といっても、ふもとから少し登った程度の所だ。
そこにポツンと、木々の生い茂っていない、開けた場所がある。直径は、150メートルあるかないかぐらいだ。
ふもとから木立ちの終わりまでの移動は、らんの〈木遁〉によった。
そこは山頂よりも、東側の斜面だ。とうの昔に、日は見えない。付近に街灯など、あろうはずもなく、早くも薄暗くなっている。
聞こえるのは、風が木の葉を揺らす音。家路を急ぐカラスの鳴き声と羽音。そして時折、遠くを走る車の音。それだけだ。
「山のふもとからここまで、所要時間は2分たらず。〈五行遁術〉って本当にすごいわよね」
晴日が言った。
〈五行遁術〉とは、対象を五行すなわち木火土金水のうち、どれか1つと一体化させ、その元素が存在する範囲内を、素早く移動させる魔法の総称だ。
自身にかけて、退却などに使用するのが、本来の用途だ。が、敵を客体として発動し、これを遠くに移送したり、監禁するという、応用的な使いかたもある。
さっき高尾山を登るのに、らんが使用した〈木遁〉も、〈五行遁術〉に含まれる。
「こういう自然のある場所やったら、確かに便利ねんけどな。ウチらがいつもおるような都会やと、どうも使い勝手、悪いんやわ」
〈五行遁術〉は全部で、〈木遁〉、〈火遁〉、〈土遁〉、〈金遁〉、〈水遁〉の5種類ある。
水や土以外のものと同化する魔法は、らんの知る限りだと、存在しない。
「だったら、らんちゃんが開発したらいいじゃない。〈アスファル遁〉とか〈コンクリー遁〉とか」
「ははっ。参考にさせてもらうわ」
その後、らんは〈十絶陣〉を敷いた。9つの方形を画する線が放つ白い光が、照明の代わりを果たす。
2人は陣の中央に立ち、北西を向いた。今回も2人は、互いからおよそ5メートル、離れている。
「影郎のこと、よう分からん」
敷設完了後、らんが晴日に、ぼそりと話しかけた。
「どうしたのよ、急に」
晴日はらんに笑いかける。
「饕餮と戦ったあと、あいつ『痛くなければ一生でも体を貸してやる』とかゆうとったやん? あれがどうも引っかかってな」
「強がってるだけとかじゃないの?」
「やったらええねんけど。何か、『ヤケクソにでもなっとるんとちゃうか』思うてな。だって、自分の体を霊に貸しとる間って、自分が感じたり、動いたりするための体がないワケやろ? そんなん、死んどるんと、大差ないやん。『一生、霊にとりつかれたままでもいい』なんて、ウチには『死んでもええ』とおんなじ意味に聞こえるわ」
「まあ、論理的に考えたらそうだけど……」
「あとあいつ、シンゴから帝室庁に入らないかって誘われたときは、『お母さんは小さいときから会ってないし、お父さんはずっと外国にいる』とも言うとったやん? それも重ねて考えみて思うてん。子供のころから今まで、あんまりいい目を見て来ぉへんかって、自分の行く末について、諦めみたいなモンでも持っとるんとちゃうかなあって。自分の境遇に意識的に無関心ちゅうか、期待せえへんようにしとるんとちゃうやろか?」
「本人に直接訊いてみたら?」
「どうゆうふうに訊いたらええんかなあ? 『あんた、ひょっとして鬱なんとちゃうん?』とは、絶対よう言わんわ」
「らんちゃんにも、人の真意が分からないことってあるのね」
「あんなタイプの人間は、初めて見たわ。――っちゅうか何なん、今の『らんちゃんにも』は? あんたウチのこと何や思うとるん?」
「だって……。らんちゃん、いつも人の思ってることとか、ズバズバ当てちゃうから」
「そんなことできるかい。試しにあんたの考えとること、ゆうてみよか。ずばり、『お腹空いた』」
「ち、違うわよぉっ! らんちゃん、わざと間違えたでしょ? ここに来る前、私がおやつ食べるの見てたじゃない!」
晴日の声が裏返った。
「ははっ。バレたか」
「らんちゃんこそ、私のこと何だと思ってるわけ?」
「ブラックホール」
「ぶ、ぶぶブラックホール!? ちょっと、何よ、それ!?」
晴日の顔が、一瞬で真っ赤になった。〈十絶陣〉のほのかな光でも、それが鮮明に分かる。
「何ちゅうとったけな。確か、『太陽の数十倍の質量を持った天体の成れの果て。とてつもない重力で空間さえ歪め、周囲にある物体は何でも飲みこむ』とか何とか」
らんは、以前なにかのテレビ番組で聞いたことを、思い出した事項から順に並べ立てた。意味は、自分でもよく分かっていない。
晴日もそうだが、らんは文系なのだ。
「そんなこと、訊いてるんじゃないの! 一番ひどいたとえじゃない!」
「だって、あんたさっき、何食べとった? カステラ2切れやろ、板チョコ丸1枚やろ、それからカップアイス1つに飴ちゃん5、6個……。あかん、これ以上、よう思い出さんわ」
「うう……」
過去の悪事を次々と暴き立てられたかのように、晴日は返す言葉を失った。
いつの間にか、夜風が肌寒くなっている。大気が冴えわたり、月が初めて見るぐらい美しい。
2人は先ほどまでの言い合いも忘れて、月に見入った。
そのとき、木に亀裂が入るような、パチッという音がした。それからあまり間を置かず、もう1度。
音の間隔がだんだんと狭くなり、音そのものも、次第に大きくなってきた。
「らんちゃん、あれ」
晴日が、正面の木立ちを指さした。
「待ちくたびれ――!」
目を凝らしたらんの表情が凍りつく。
林の中から現れたのは、大柄の老人だった。
身長は2メートルをこえ、がっしりとした体つきだ。
髪も眉毛もひげも真っ白。そのひげは、胸まで伸びている。
青く染められた毛皮のコートと帽子をかぶり、両手に手袋をはめている。そして右手には、細身の杖を握る。
芽実の遺したファイルにも、この精霊の項目があった。
これに関する伝承と、歴史的事実を読んだとき、らんは、絶対に相まみえたくない相手だと思った。
「マロー……、スカ……」
らんの膝が、がくがくとふるえ出した。畏懼のためなのか、すでに相当低下していた気温によるものなのか、本人にも分からない。
らんには見えていないが、晴日も同様に、顔面蒼白になっている。
この時点で2人は早くも、戦意の半分以上を失っていた。
らんがマロースカと呼んだ式神の動きは、思いのほか敏捷だった。
彼は〈十絶陣〉に進入し、飛び跳ねるように、らんたちに近づいてきた。
「晴日、〈バヤビヤストラ〉や! ウチは〈風吼陣〉を敷く」
らんは、我に返って叫ぶ。
「うん!」
直ちに晴日も気をとり直し、風天に献ぜられた明呪を口ずさんだ。
らんは桧扇を閉じ、いつものように〈十絶陣〉を操作した。目の前に第4の陣、〈風吼陣〉を展開する作戦だ。
芽実のファイルに引用された記述によれば、マロースカは寒波を運ぶ冬の精だ。そして、彼の不興を買った者は、ほぼ例外なく、凍死させられる。
この精霊に遭遇しながら生還した例として、風を味方につけ、寒気を吹き飛ばしてもらった、旅人に関するものがある。
そこでらんたちは、風の魔法で応戦しようと考えた。
しかし、〈風吼陣〉と〈バヤビヤストラ〉のいずれも効果を生じぬうちに、老人は2人の間近に迫った。
その太く、たくましい腕をもってすれば、らんたちの首など、容易にへし折れそうだ。だが彼は、そのようなことをするそぶりを見せなかった。
そうする必要がなかったからだ。
らんは相手に扇を向ける。ところが式神がひと睨みしただけで、右の手首から先が、凍りついた。
「きゃあっ!」
らんは悲鳴を上げ、得物をとり落とす。かえって熱いと感じるほどの冷たさだ。右手はかじかんで、動かない。
次いでマロースカは、晴日に向けて冷たい空気を送った。
「慶幸を運びつつ、僕どもの心に癒しの芳香を吹きこみくださいませ。僕どもの天命を長からし……ううっ」
晴日も思わず、顔を手でかばう。
祈りの言葉が中断される。晴日の環はどこかへ吹き飛ぶ。
らんと晴日は、しゃがんで両足を腕に抱き、体を丸めた。
「ほっほっほ。暖かいかね、お嬢さんたち? え? 暖かいかね?」
老人の目には、嗜虐的な光が宿る。
「ええ、とっても」
「暑いくらいやわ」
らんと晴日は、口々に答えた。
マロースカに「暖かいか」と尋ねられたときは、嘘でも肯定しなければならない。この問答に3度耐え抜けば、それ以後彼は、寛大に遇してくれるという。
らんたちは、正面から戦うのでは到底かなわないと悟り、即座にこの次善の策に、移行した。
風が一段と、強く吹きつけた。急激な気温の変化に耐えきれず、辺りの木がピシピシはじける。周囲の温度は、2月の夜よりも低くなっている。
らんたちは、さらにぎゅっと縮こまった。
「口げんかするなんて、いけない子たちだね。どうだい? これでも暖かいかね?」
精霊が再度、問うた。
「口げんか? 違う! あれはただのじゃれ合いで――」
「らんちゃん!」
らんが言いわけをしようとして、晴日に止められた。
マロースカ相手に口答えなどするのは、賢明でない。
「快適よ」
「今、真夏なんとちゃうん?」
2人は答えた。
強情ともとれる言いかたをしているのは、この言葉の半分以上が、自身に向けられたものだからだ。
ますます気温が下がった。
もはや目も開けられない。耳が痛くて、頭までズキズキする。
体のふるえが止まらない。立ち上がるなど、まずもって不可能だ。
(逃げたら、よかった……)
らんは思った。風の魔法でならば攻略できるかも、などという楽観的なことを考えた、見こみの甘さを呪った。
相手は、およそ人の力が及ぶ存在ではなかった。
「暖かいかね?」
敵の声が、曖昧にしか聞きとれない。
風の音にかき消されたからではない。らん自身の頭が、ぼうっとしてきていたからだ。
心地のいい眠気が、らんを暖かく包む。
眠ったら死ぬ。でも、覚醒に伴う苦痛から逃れられるのならば、それも悪くない。らんはこのように思い始めていた。
「寒……、なんか……」
ここまでしか、声にならなかった。
らんはしゃがんだ状態から、両腕と両膝を地面につけた。そしてそのまま、まどろみの中に落ちていった。




