5-A 嶺との接触
4月が半分過ぎてもなお、影郎は、晴日、らん、太薙、真具那の4人しか、名前を覚えていなかった。――真具那に関しては、逆に忘れ去りたいと考えていたが。
この日も影郎は、午前の休み時間に教室で、真具那の一方的なよた話につき合わされていた。
真具那は、「反動形成」とかいう言葉について、熱弁した。彼によれば反動形成とは、この上なく可愛らしいものであるという。
いい加減に嫌気がさしてきたころ、影郎を廊下に呼び出す者がいた。
「あの、ちょっと訊きたいことがあるのだけど、いいかしら?」
彼女はそう言ってきた。
真具那のムダ口から解放されるのがあまりに嬉しくて、影郎は頭をぶんぶんと3度も縦に振り、座席を蹴って立ち上がった。
もう少しでいすが、後ろにいる太薙の机に当たるところだった。
自分を連れ出した女子生徒について、影郎は、1階と2階の間にある、踊り場までやってきた。
1年生の教室から、最寄りにある階段ではない。
校舎の北端にある、利用者の比較的すくない階段だ。今も少し薄暗く、昇降する者は誰もいない。踊り場の角では、学校の創始者らしき老人の胸像が、いかめしい顔つきで辺りを睥睨している。
「ごめんなさい、いきなり呼び出して。すぐ終わるから」
少女はぺこりと頭を下げた。全体にかすれ気味で、葉擦れの音にさえかき消されそうな声だ。
(むしろ、垓神がまとわりついてきたときは、いつでも呼んでほしいんだが)
影郎は思った。
このとき、影郎は初めて、目の前にいる人物の顔をまともに見た。
その黒髪は、何度も何度も重ね塗りされたうるしのように照り返しが少なく、山尾根のごとく波打っている。彼女はこれを、肩の辺りまで伸ばしていた。
トビ色の瞳は、柔らかい若木の肌を連想させる。
「わたし、宇吹嶺っていうの。らんちゃんと晴日ちゃんから、色々よくしてもらってるわ」
相手は名乗った。
嶺という名は、影郎の記憶にも比較的、残っていた。
自分とらんが、晴日のお見舞いに行ったとき、らんに伝言を託していた人物だ。晴日たちの話では、弓道部と体操部を兼部しているとか。
「俺、人見影郎」
「それで訊きたいことなんだけど、人見くん、ときどきらんちゃんたちと、一緒に帰ってるわよね?」
嶺の見た目や声からは、彼女が運動神経抜群であることなど、想像もつかない。
「ああ」
影郎は、「どちらとつき合っているのか?」とでも質問されるのかと思った。
「バイト先が同じなのかな?」
「バイト?」
影郎は聞き返した。
「あれ? 違ったかしら。らんちゃんたち、中学2年のときに、アルバイトを始めたって言ってたんだけど……」
影郎は合点がいった。
帝室庁のことは部外者に言えないので、晴日たちは自分らの仕事を、ぼかし気味にアルバイトと表現していたのだろう。
「ああ、そうそう。俺、今月新しく入ったんだ」
影郎は答えた。
しかし直後に、次に何を訊かれるか察しがついて、しらを切ればよかったと後悔した。
「何のバイトをしているのか、教えてもらえないかしら? もしよかったらでいいの」
嶺は遠慮がちに問うた。影郎が危惧した通りの質問だ。
「えっと……、それは……」
影郎は言葉に詰まった。
らんによれば、帝室庁は国家戦略に関することを幅広く担う、非公開の機関。これの存在を嶺に明かすことなど、影郎の独断では、決してできない。
どのように話をそらせばいいだろう。
「あ、むりに答えなくてもいいの。らんちゃんたちも、言いにくそうにしてたから」
嶺は数秒と待たずに、こう告げる。
「申しわけない」
「ううん、謝ることじゃないわ。それで1つお願いがあるんだけど」
「何?」
「今わたしがこんなことを訊いたって、らんちゃんたちには言わないでほしいの。詮索してるとか思われたくないから」
「ああ」
影郎は、故意に気のない返事をした。確約はしかねる、という意味をこめたつもりだ。
「ありがとう」
2人は教室に戻った。ちょうど、休み時間が終わったところだ。
反動形成とやらに関する、真具那の講演を聞かずにすんだことを、影郎は天に感謝した。
授業を受けながら影郎は、このことを晴日たちに話すべきか、迷った。嶺が帝室庁の存在に通じるようなことがらに興味を持っているのを、不安に思ったからだ。
こういった心配が最終的に勝り、影郎は晴日からんに報告する決心をした。
(今日は確か仕事、なかったよな。じゃあ、学校にいる間に話さないと)
だが2人のどちらについても、伝える機会はなかなか訪れない。2人ともほぼ常に、嶺を含む他の女子生徒と一緒にいるからだ。
5時限が物理だったので、1年C組の生徒は皆、昼休みの間に第1実験室へ移動した。だがにわかに、らんは忘れ物をとりに行くと言って、1人で部屋を出た。
影郎はこれ幸いと、急いでらんのあとを追い、階段の手前で呼び止めた。
「おお。学校であんたのほうから話してくるなんて、珍しいな。どうしたん? そんなマジメ腐った顔して」
らんは、晴日や嶺に対するのと同様の気さくさで、応対する。
影郎は、けさ嶺から、自分たちがどんな仕事をしているのかを問われた旨を話した。
「そんなこと訊かれたとはウチらに言わんといてって、嶺から頼まれへんかった?」
らんが尋ねる。
「言われた。何で分かったんだ?」
影郎は驚いた。
「それくらいあの子とつき合いが長い、ちゅうこっちゃ。それはそうと、余計なお節介かもしれへんけど、口止めされたんやったら、ウチにも言わんほうがよかったと思うで」
「そう?」
「そうやろ。嶺はウチらに知られたないことを、結果としてあんたに知られる行動に出たワケやん。それは、あんたがウチらにもらさへんと思うとったからや。その信用は、大事にしたほうがええよ」
らんに指摘されて影郎は、自分が単純に、約束を反故にしたのだと悟り、悔やんだ。
同時に、反対にらんのほうから嶺に、今のできごとが伝わることを恐れた。だが彼が、それをしないでくれなどと言うのは、厚かましいにもほどがある。
「ま、今のことは、ウチも聞かへんかったことにするわ。嶺のあんたへの評価を下げるんは、本意やないからな」
うつむいている影郎に、らんが言った。
「恩に着るよ」
影郎は内心、自分の心中を見抜かれたような気がして、どぎまぎしていた。
「ホンマやったら、あんたの弱み握ったところで、ゴチになりたいとこねんけど、軽ーく恐喝やからな」
らんは笑いをこらえているのか、口に手を当てた。
「はは」
影郎も愛想笑いを返す。
「ウチらがこないだの戦いでケガしたの見て、あの子だいぶ心配しとったからなあ。それでウチらがどんな仕事しとるんか、気になったんやろ。嶺みたいなできた子ぉからここまで気ぃ使うてもらえるなんて、ウチらもつくづく果報モンやわ」
(お前だって十分できた子だよ)
影郎はそう言ってやりたかった。
が、照れ臭くなってこの言葉は、胸の内にしまっておいた。
「あ、ヤバっ! 参考書とりに行くんやった」
らんは全速力で、教室のほうへかけていった。




