03 二人だけの朝
夜通し泣いて疲れたのか、誰にも見つからない様に隠して牛車に乗せるや、菖蒲の君はウトウトと眠り出した。それでも不安なのか、山吹の少将に身を寄り掛からせ、小さな梅の花びらのような白い手が束帯の袍袖を握りしめている。
菖蒲の君にこうして頼られていると、山吹の少将は男として何とも言えない嬉しさが込み上げてきた。これまで年の離れた姉達に可愛がられる立場の末っ子だっただけに、頼りにされた事などなかったからだ。父の右大臣も政治的に何事かあると、たった一人の息子にではなく、頼もしい長女の弘徽殿の女御に意見を求めているくらいだ。
(この小さな姫は、私だけが頼り。私がお世話しなければ、この姫は生きていけない?)
小さな姫を護る、大きな力を持った大人の男になったような気がした。
静かな夜明け、牛車がゴトゴト音を立てて進み、右大臣邸に到着しても菖蒲の君は目を覚まさない。これ幸いと、山吹の少将は軽く小さな人形姫を抱き上げ、袍袖で包み隠して自室へと運ぶ。簀子ですれ違って礼を取る女房や従者達は、少将が何か隠し持っているのに気付いてはいたが、主のしている事を敢えて尋ねはしない。
「若君様、お勤めお疲れ様でございます。すぐお着換えをなさりますか? それともお食事でも?」
自室には、乳母とその娘で少将の乳姉妹になる右近の君、その女房二人だけがいた。宮中のお勤めで疲れている若君を思い遣ってか、静かに出迎える。徹夜明けの若君のために、着替えの入った箱がスッと差し出され、すでに奥の几帳の向こうには寝所も用意されている。さすが天下の右大臣家の若君に仕える女房達なだけあって、主人を出迎える準備は完璧だ。
「着替えは後だ!」
着替えなどしたら、女房達に人形姫を見られてしまうと慌てた。見つからない様に袖で覆いつつ、人形姫を背後に隠しながら、山吹の少将はわざとらしく疲れたとばかりに用意された座にそっと腰を下ろす。
そのあまりに不自然な仕草に、チロリンと目ざとい乳母が視線を走らせた。伊達にこれまで身近で若君を育ててきた訳では無い。
「若様? いかがなさいました?」
「別に? ええと、まずは宿直明けだからサッパリ顔を洗いたい。軽く食べて、その後、仮寝したいから、静かに一人にしてほしいんだ」
落ち着きなく視線を逸らす若君は何かを隠しているのだと、乳母にはすぐに分かった。だが、普段は素直で可愛い若君が乳母である自分にこうまで隠したがるのは、男ばかりの宿直の場で、何やら人に見せられない物でも貰い受けたからかもしれないと思い至る。傷つきやすい青少年を思い遣らねば、と乳母は無理に追及しない事にした。やはり若君に「何やってるの?」と怪訝な眼差しを向けていた娘に、キッと視線で「黙ってなさい」と合図を送る。
乳母は全てを受け入れる慈愛の眼差しで微笑んだ。
「まあ、随分お疲れでございますのね、若君。角盥はこちらにございます。どうぞお顔をお洗い下さいませ。右近、おまえはお食事のお膳を持って来なさい」
「はい。お腹もお空きでございましょう、すぐにお持ちしますね」
右近は母親に命じられ、急いで食事の用意をしに部屋を下がっていく。
普段通りの二人の様子からバレなかったとホッとしながら、少将が角盥の水でチャプチャプと顔を洗っていると、背後の袍がツンツンと引っ張られた。
「あ~、乳母の君。ええと、父上に私が帰って来たと伝えに行って来てくれ。まだご挨拶していないんだ。凄く疲れているから、食べたらすぐに休みたいんだよ」
「はあ。でもお着換えは?」
「夜着に着替えるくらい、一人でできるよ。ほら、父上が心配されるから早く行ってきて!」
(そんなに恥ずかしい物をもらってきたのですか、若君? 男と言うものは取り繕うのが本当に下手ねえ……)
無理矢理な口実で、乳母である自分を追い払おうとする姿に呆れる。だが、やれやれ仕方がないと、若君が恥ずかしい物を隠す時間を与えるため、御簾をくぐり右大臣のいる棟へと向かった。
同じように食事のお膳を持ってきた右近も、適当な用事を言いつけられて部屋から出て行かされた。
「ああ、見つからずに済んで良かった。で、菖蒲の君、どうされました?」
モゾモゾと袍袖の下から菖蒲の君が這い出てきた。
「私の部屋を用意せよ、女房を呼べ。私も顔を洗って休みたい」
「と、言われても……。こんなお姿の菖蒲の君を女房に会わす訳には……。皆驚いて逃げ出してしまいますよ、昨夜の様に」
「そなたも最初は悲鳴を上げて逃げたものな」
ふっと鼻で笑いながら山吹の少将を見上げるが、無理に強気な態度を取っているのが見え透いて可愛らしく思える。日の上った明るさの中で改めて見ると、薄汚れた紅色の袿に包まれた体は、本当に細く小さい。長い黒髪もぼそぼそに乱れて哀れな様子だった。普通ならば、確かに姫君を世話をする女房が必要な有様だ。だが、女房に会わせる訳にもいかず、山吹の少将は困ってしまう。
そこへ菖蒲の君が仕方がないと、ビシッと袿袖で少将を指して強く命じた。
「ならば、そなたが女房の代わりをせよ。私はいつまでもこのような情けない姿ではいたくない! 角盥を用意せよ、顔を洗いたいのだ!」
「……ここにありますが、菖蒲の君には池並みの大きさですよね。……しようがない、私がお顔をお拭き致しましょう」
「む~、致し方ない。許します」
不満げではあったが、よほど汚れが不快なのか、菖蒲の君は目を閉じて小さな顔を山吹の君に向けた。
仕方ないと少々は手拭いの端を角盥の水に浸して湿らせ、指先でそっと人形姫の顔を拭いだす。なぜか硬いはずの人形の顔が指先には柔らか気に伝わり、ドキッとする。
(女の子の顔を拭くなんて初めてだ……。なんかドキドキする?)
世話されてばかりの少将には、姫君のお世話が新鮮に感じられる。不思議なときめきが胸に湧いてきた。
きゅ~くるる……。
小さな空腹の訴えが耳に届く。途端、拭われて白くなったはずの人形姫の顔が朱に染まる。菖蒲の君はすぐさま袿の袖で、愛らしい紅い顔を隠してしまった。
「菖蒲の君、私のお腹が鳴ってしまったようです。失礼しました。いかがです? 私とお食事をなさいませんか?」
「あ、ああ。そこまで言うなら、私も食事に付き合いましょう」
姫君としてははしたなくもお腹を鳴らしてしまった事を庇ってくれた少将に感謝したのか、ツンと高貴に取り繕いながらも紅い顔で頷いた。
食事、とはいっても山吹の少将のためのお膳は、道具の全てが菖蒲の君には大きすぎた。お椀一つすら深すぎて飲むのも危険だ。箸なども杭といってもいいほどだ。いい香りが漂うお膳を恨めしそうに菖蒲の君は睨み上げていた。一生懸命に立って伸び上がっても、膳の上にすら届かないのだ。むむむ、と不満げに口元がひくついている。
その姿をみて、少将は笑ってしまいそうになるが、菖蒲の君には一大問題なのだと堪える。
「笑わないで! すべてが大き過ぎるのがいけないのよ!」
(おっ? 口調が変わった? 尊大な態度を取り繕ってたのが取れたかな?)
空腹で食事を前にしたためか、菖蒲の君の本来の姿が見えてきたようだった。
「では、私が姫様に食べさせて差し上げましょう。はい、どうぞ、あ~ん」
箸先にそっと数粒の米を乗せて、菖蒲の君の小さな口元へと差し出す。からかいを含んだ山吹の少将の『あ~ん』に頬を染めつつ、さすがにそのままパクッとは食べない。梅の花びらの如き小さな白い手が一粒を受け取る。
「熱くないですか?」
「大丈夫です。お米一粒がまるでお餅ね。三つも頂けば満腹になってしまうわね……」
はむはむと、それこそ餅を食べるように可愛らしく上品に菖蒲の君は食べだした。その可愛い姿を愛で、『あ~ん』を繰り返して姫君を怒らせつつ、山吹の少将も食事を進める。同じ家人がいつもの様に作った食事なのに、いつもより美味しく感じられた。
「あの、喉も乾いているの。飲み物を用意して」
「とはいっても、姫様用の大きさの器が……。このお膳には匙はついてはいないし……。お椀は姫様には角盥以上に大きいですよね。さて、どうするか?」
ふと悪戯を思いついて、山吹の少将は思わずニヤリと笑う。
「では、私がお椀を支えましょう。お顔を濡らさない様にお気を付けて下さい」
「まるで角盥……。仕方が無いわね」
片手で傾ける椀を支え、もう片方でか細い人形姫の体を支える。こくこくと小さな口が水を飲んでいく。昨夜から碌に食べ物や飲み物を口にしていなかったのだと、山吹の少将に伝わってきた。何か、本当に菖蒲の君の命を守り支えている実感がする。この姫は、山吹の少将がいなければ、水すら飲めないのだと。
二人何とか食事を終え、女房に立ち入られない様に御簾の外の内廊下の孫廂に、食べ終えたお膳を出してしまう。後で気付いた乳母か右近が膳を片付けてくれるはずだ。それでも、できるだけ部屋の奥に菖蒲の君を隠してしまうことにする。
満腹になって気も抜けたのか、菖蒲の君は再び袿袖に隠れながら欠伸を漏らし、ウトウトし出した。
「菖蒲の君、お疲れですか?」
「そうね、疲れたわ。寝所に案内して。私は休みます。そなたも大儀でした。下がって良い」
「いや、下がれと言われましても、ここは私の部屋なので……。申し訳ありませんが、菖蒲の君の事は邸の者には秘密ですので、この私の部屋で休んで頂くしか……」
「無礼者! 夫でもない殿方と一緒に寝よと申すか! 私は高貴なる姫です! 親し気に食事を共にしたとはいえ、そのようなはしたない真似は出来ないわ!」
すくっと立ち上がって、菖蒲の君が両手を振り回し、激しい怒りをぶつけてくる。だが、恐ろしい弘徽殿の姉女御の怒りに比べれば、子猫の不満の声にしか聞こえない。
「いや、でも……」
「呪ってやるから! う、うえ……。高貴なる我が身に、そのようなはしたない真似をさせるというなら、呪ってやるわ! うえ~ん!」
幼子の様に泣き出し、全く脅しには聞こえない『のろい』を口にする。その様子が山吹の少将の哀れを誘った。
(まあ、確かに、上流貴族の姫君なら絶対に拒否するよな。知らない公達と寝るなんて。……『寝る』だけなんだけどね)
泣き伏す人形姫を前に、山吹の少将はしばし思案した。何とか互いの妥協点を見つけて、早く休みたい。少将も色々あった夜だったので、疲れていたのだった。
「分かりました、菖蒲の君。ならば、その几帳の奥でお一人でお休み下さい。私はその手前で警護の宿直をしましょう。どうかそれでお許し下さい。姫様もお疲れでしょう」
「と、宿直か……。そうね、それぐらいならば許すわ。そなたに警護を申しつける」
ぐすぐすっと泣き声を漏らしながら、しぶしぶ菖蒲の君も提案を受け入れた。どうにもならない事も分かってはいるようだが、高貴な姫君としてのたしなみから真正面からは受け入れられなかったらしい。そっと涙を袖口で押さえ拭っている。
菖蒲の君にとっては御所の門並みに大きい几帳の垂れていた帳を山吹の君が巻き上げる。すると天女が雲間に姿を隠すかのように、菖蒲の君がくぐって寝所へと姿を隠した。上着の袿を脱いで、上掛けにして寝る。
「……山吹の少将、礼を申す」
「どういたしまして。ゆっくりお休みください。小さな姫君」
元通りに帳を垂らすと、安心したのか小さな小さな寝息が几帳の向こうから直ぐに聞こえてきた。春の柔らかな風のような小さな姫君の寝息だった。
ハ~、とようやく一息ついて、山吹の少将も几帳の手前でごろりと横になって休む。思わず、ふわ~と欠伸が漏れる。
「若様! お着換えもなさらず、このような所で横になってはいけませんよ。お風邪をひかれてしまいます」
うとうとし出したところへ、いつの間にか部屋に戻っていた乳母に起こされ、ドッキリとして目が覚め飛び起きる。思わず人形姫の事がバレたのではないかと不安になり、左右にチロチロと視線だけを走らせ確認するが、特に騒ぎになった様子は無い。内心、ホッとする。
「どうされました? さあ、こちらへ。夜着にお着換えください。それから寝所へどうぞ」
「いや、その、寝所へは……」
慣れた手つきでサササと束帯から夜着へと、山吹の少将はあっという間に着替えさせられしまった。さすが優秀な女房で無駄が無い。脱がされた束帯もススっと片付けてゆく。
「うたた寝なさっていたではありませんか。春とはいえ、まだ時折冷たい風も吹きます。お風邪などひかれたらどうするのです。油断は禁物ですよ、どうぞ寝所でしっかりお休み下さい」
あわあわしているうちに、几帳の奥へ力強く乳母にグイグイ押し込まれる。その際、踏んでしまったりしなかっただろうかと、おそるおそる足元を見下ろすと、枕の横で菖蒲の君はぐっすり寝入っていた。疲れ切っていたのだろう。
本人が言うように高貴な姫君ならば、これまでの様に出歩く事などほとんど無かったはずである。右大臣家の強者揃いの姉達だって、バッタリ寝込んでしまうほどの騒ぎだったはずだ。この様子なら目を覚ますことは無いと思えた。
そっと菖蒲の君の横に寝てみる。やはり起きることは無かった。小さな口元は先程まで泣いていたとは思えないように、花の蕾がほころぶように微笑んでいた。
「ああ、そう言えば頼みがあるんだ。……という物があるはずだ。私が目覚める前に用意しておいてくれ。訳は聞かないで欲しい。秘密なんだ」
「はあ? ……わかりました。何に使われるのやら分かりませんけれども? ごゆっくりお休みなさいませ、若君」
シュルシュルと袿と袴を引き摺り部屋を出て行く乳母の気配に気を付けながらも、几帳の陰で山吹の少将は今度はそっと頭を髪を撫でてみる。くーくーと寝息は乱れることが無い。
(髪ぐらい梳いてあげれば良かった……。あれほど汚れたお姿を気にしていたのに……)
気持ち良さそうに山吹の少将の方を向き、両手を合わせて頬の下に入れている。まるでどこかでお参りしているかのようだ。
(あれ? そう言えば、乳母以外の女の人と寝所で一緒に眠るの初めてだ……)
無邪気な人形姫の薄桃色の頬を指先でそっと触れてみる。なぜか温もりが伝わってくる。不思議だった。そしてさらに不思議な事に、山吹の少将の胸もドキドキしだして顔が体が熱くなってきた。眠っている姫にとてつもなく『いけない事』をしている様な気になってしまったのだ。目の前にいるのは人形の様な小さな姫なのに。
(これも姫君の寝所に入る『夜這い』になるのかな……朝だけど? 『共寝』になるのかな……人形と寝ているだけだけど?)
小さな姫君の背を温めるかのように片手で覆い、もう少しだけ人形姫に身を寄せた。気が強く尊大な態度なのに、自分がいなければ生きていけないか弱い存在が、少将の手の中にいる。何故か不思議な満足感と親しさが湧いてくる。
(目覚めた後が怖いな……。泣くかな、怒るかな? 何て言い訳しようか?)
山吹の少将も微笑みを浮かべつつ、抱くかのように菖蒲の君に手を添えたまま夢の世界へ旅立った。