01 夜のお約束
久しぶりの平安異譚シリーズ番外編(変)です。よろしくお願いいたします。
「んぎゃ~! 出た~!」
帝を始め多くの女官女房が寝静まった後宮を、雅やかとは程遠いけたたましい大きな足音を立てて、必死に走って逃げる公達が何人も現れた春の夜だった。
仄かに温もりがある柔らかな風が、夜の後宮を吹き抜けた。つい先日まで身を突くような冷たさがあったのに、いつの間にか春が訪れようとしている。
妙に若者をソワソワさせる新月の闇夜、御所を警護する若い公達が弘徽殿の一室に集まり、警護の宿直の夜を過ごしている。ただじっと夜を過ごすのもつまらないから、退屈しのぎをしたいと誰かが言い出した。
「でも、何をしましょうか? 宿直役ですから警護をする立場上、酒の飲み比べ、という訳にもいきませんよね」
中でもより年下の山吹の少将は、場を明るくしようと遊びを考える。この部屋は御簾内にいくつか燭台を灯してはいるが、こう薄暗くては皆でする事といってもたかが知れている。
「桂木の宰相でもいれば箏でも弾かせるんだが……。あいつ、最近、通う女でもできたのか、付き合いが悪い。今夜も誘ったのに、用事があると……」
「美形はいいなあ、すぐ恋人ができて。しばらく夢中になるのも、しようがないですよ。紅葉の中将様だって覚えがあるでしょう?」
「私は失恋したばかりだ!」
「まあまあ、中将様、お気持ちはわかりますが……。でも遊び友達が減るのは、つまらないですね」
珍しく陽気な中将が口をとがらせて不満を零す。以前は、何をするにも、陽気な中将、穏やかな宰相、可愛い山吹の少将の三人で共にいたからだ。その姿を見て、後宮の女達は「宮中二大美形と美少年!」と噂し、皆でもてはやしていた。その中将が最近ある姫に振られた事は、誰もが知っている。ただでさえ退屈な夜に場の雰囲気が悪くならないよう、慌てて他の公達が話を変える。
「そうだ! 肝試しをしないか? こんな生暖かい夜、何か出そうで面白そうじゃないか!」
その場にいた若者たちが一瞬黙った。住まう者が寝静まった広い後宮は、火災の危険を避けるため極力灯りは消され、真っ暗だ。敢えてはっきりと誰も言わないが、簀子の板床をとてとて歩く自分の足音さえも不気味に響いて恐ろしいのだ。夜の定期的な見回りも数人で、しかもぺちゃくちゃしゃべりながら行っているくらいだ。
実は、山吹の少将も暗い所を一人で行くのは気が進まない。はっきり言って、怖い。もう十七歳の一人前と言われようが、怖いものは怖いのだ。宿直の見回りも、頼りになる兄のように慕う紅葉の中将と一緒に行けるように、上手く図らっていたくらいだ。父右大臣の権力もあって、この小さな我儘はこれまで通っていた。だが、肝試しともなると一人で行かねばならない。
「男だものな、まさか怖くて一人では行けない、なんて言う者はいないよな!」
「勿論だとも!」
男の沽券に関わるということもあって、肝試し大会は行われる事になってしまった。帝の住まう御殿に近いこの弘徽殿から一番遠い桐壺北舎に行き、名前を書いた紙を置いてくることになった。くじ引きで決められた順に、小さな灯り手燭だけを持って一人ずつ行く。
「よし、まずは私からだな! ははは、この紅葉の中将の手に掛かれば、鬼だろうが妖だろうが敵ではない!」
「いや、中将様、不吉な事は言わないで下さい。出ませんから。この後宮に鬼やら妖なんて、出たら反って問題ですから!」
「む? そうか? 私はいつで出ても困らないが? では参る!」
あはは、と山吹の少将は中将の話を冗談と明るく受け止め、ニコニコ笑顔を浮かべる。実は、誰にも悟られないよう密かに怯えていた。
恐れなど微塵も無く、頼もしくも背筋をピンと伸ばして簀子を歩いて行く中将を皆で見送る。昼は気にもならなかったが、中将が身に纏っている束帯の袍の衣擦れの音すら、シュルシュルと何かが這うような不気味なものに聞こえてきた。
「鬼とか言ってたけど……」
「中将様は相変わらずお好きだな、鬼とか妖が」
「そのような者、いるわけないのに」
はははと笑って、その場に残った公達がわざとらしく陽気に笑った。中将の「鬼」「妖」の言葉で、皆も恐ろしくなってきたのか、薄暗い部屋の中でも顔が青冷めてきたようだ。
しばらくすると、余裕の態度で面白かったとばかりに、中将が笑みを浮かべて戻ってきた。おお、さすが宮中に名を響かせる剣の達人、剛の者だと皆が尊敬のまなざしを向けた。
「戻ったぞ! なんてことは無いな。夜なのに賑やか過ぎるくらいだ。よし、次、行け!」
次の若者が気持ち背を縮めながら、嫌な順番だとビクビク出て行く。
ぎゃ~! ほどなく、遠くから若い男の悲鳴があがり、弘徽殿に残っていた若者達は、何事かと一瞬腰を浮かせたが、無事に二番手の者が戻ってきた。
「どうした! 何かあったのか? 警護の者を集めて……」
「そんな事しなくていい! ……何でもない、何でもないよ! 次ぎ行けよ! ほら、早く!」
何があったのか分からないが、その若者は恐怖に怯えというより、げんなりといった様子で部屋の奥で項垂れていた。
同じく、三番手、四番手も悲鳴を上げてはガッカリというか、げんなりした力が抜けた様子でとぼとぼ戻って来た。一体何があったのか、山吹の少将には想像もつかず、恐怖がただ増す。
弱虫と笑われても良い! もう、降参すると言ってしまおうかと思った時、「逃がさんぞ」と肩を強く掴まれ御簾の外へ押し出された。先に肝試しを終わらせた三人が力無く笑いながら、怯える山吹の少将にそっと小さな声で耳打ちする。
「さあ、次は君だ。無事、行って帰って来られるかな? 私は恐ろしい猫又の声を聞いたよ。二本足で立って低い声でニャーゴと、ははは……」
「それはそれは大きな鬼の影が、外御簾に映っていた。間違いなく、立派な角が頭に……」
「待て~、待て~、と姿が見えない者に呼び止められて……」
「や、止めて下さい! 僕はもう……!」
小さくカタカタと身を震わせ、少女の様に滲む涙を袖で隠す美少年の姿が、皆に気に入られてしまったらしい。中将以外の三人が山吹の少将を取り囲み、恐ろし気に肝試しの道中の恐ろしさを囁く。耳を押さえて塞ぎたいのに聞かされ、無理やり弘徽殿から送り出された。仮にも後宮を警護する近衛の山吹の少将、天下一の右大臣家の子息ならば、逃げる事など許さないと言われて……。
出発地点の弘徽殿は後宮の西側で、南の帝の住まいに近く、割と人の気配があるため恐ろし気な雰囲気は無い。また御殿の主である山吹の少将の姉女御が天虎の様に強い気性のためか、妖など近寄れるはずもないと信じられる。だが目的地の桐壺北舎は、帝の御殿から最も遠い北東寄りで、主もいない寂しい御殿だ。
山吹の少将は少しでも恐怖を和らげるため、東寄りの通り、もう一人の姉が東宮妃として住まう麗景殿の前を通る事にした。麗景殿の女御はのんびりした性格だから、これまた恐怖とは遠い雰囲気が満ちている。だが、その北隣の宣耀殿も主がいない。ここからが正念場だった。
トテトテと、暗い後宮を手燭の小さな灯りを頼りに、宣耀殿の前を一人でゆっくり進む。もう山吹の少将の目尻には涙が滲んでいた。
「ニャーゴ、ニャーゴ……」
ゆっくりと威嚇するかのような低い猫の鳴き声に、ハッと立ち止まる。まさか本当に妖が! と恐怖に目が見開き、身体がビクッと跳び上がってしまった。
猫とは思えぬ猫の様な声が、目の前の宣耀殿から聞こえてきたのは間違いない。
「可愛い小猫よ、こちらにおいで。鬼の手から逃れられると思うな。さあ、捕まえてやるぞ!」
「に、にゃ~! にゃ~!」
ドタドタッ!と御殿の中を走り回る音が、わずかに開いた出入り口である妻戸から響いてくる。怯えながらも怖い物見たさに、思わずフラフラと隙間から中を覗き見てしまった。
「ふははは、逃れられるものか! 鬼の大事な獲物だ、その柔らかきお体、全て鬼の牙で喰らってやろう!」
「に、にゃ~! 捕まえられるものなら、捕まえてごらんなさいませ! おほほほ」
「こら、待て、待て! ははは!」
恐怖で皿の様に見開いていたはずの目が、すぐさま糸の様に細くなってしまった。一気に脱力し、額に手を当てて、げんなりする。
山吹の少将が目にしたのは、気楽な袿姿の麗景殿の姉女御と狩衣姿の東宮だった。しかもなぜか姉は造り物の獣の耳を、東宮は角を頭に着けている。
二人は笑いながら狭い部屋の中で、几帳の陰に隠れたり走って逃げたり、態とのろのろ追いかけたりの、楽しい鬼ごっこをしているらしい。時折、燭台の灯りが暴れる二人に煽られてユラユラ妖し気に揺れ、二人のその奇怪な姿の影が外御簾に映っている。
東宮が抱き締めようとすると、するりと身を躱す女御。どちらも本気で捕まえず逃げずで、うふふ、ははは、と二人共頬を染めつつ笑顔でいる。
そっと音を立てずに、山吹の少将は妻戸から離れた。ふと、庭先の陰に人の気配がして見てみると、秀麗な口元に人差し指をそっと当てて、黙っているようにと合図する桂木の宰相が控えていた。ジッと互いに視線を交わし、そっと外し、小さなため息を零す。
誰にも言える訳がない。天下一の権力を誇り高貴な右大臣家の姫である東宮妃の姉と将来の帝が、真夜中にはしたなくも妙な仮装をし、いちゃいちゃしているなど。今宵、宣耀殿は、気品と雅やかから遠い御殿になってしまっていた。
(しようもない姉と東宮様の密かな警護、お疲れ様です。苦労人だな、あの方は。中将様が賑やかだったと仰ったのは、ここの御殿の事だったのかな……。もう、怖い物なんて無くなった気がする)
心の中で山吹の少将は宰相を労い、宣耀殿から離れた。恐怖をすっかり忘れ、難なく桐壺北舎へ辿り着き、約束通りに名前の紙を置く。あの二人の声を再び耳にすると、身体から力が抜けて胸焼けしそうだった。帰りは麗景殿の前を通るのは止めようと、北側の簀子を進む。この辺りの御殿にも主はいないので、静まりかえっていた。
トテトテと真北の貞観殿を通り過ぎ、北西の角、弘徽殿の北隣にある登花殿に差し掛かろうとした時だった。生温かい緩い風が吹き、手元の小さな灯りが頼りなく揺れた。
「待て! 待たぬか!」
(ん? 姉上、貞観殿にまで出てきて、馬鹿やってるの?)
背後から若い娘の様な声がした。すぐに思いついたのは、待て待てと楽し気に鬼ごっこをしていた姉と東宮の姿。キョロキョロと辺りを見回すが、姉どころか警護の者達の姿さえ見えず、人の気配は全く感じられない。
不意になぜか弘徽殿を出る前に脅し聞かされた、「待て、と姿が見えない者に呼び止められて」を思い出し、背筋に冷たい何かが走り、ぞっとした。
(き、気のせいだ! 姉上の声が風に乗って響いたんだ、きっと!)
「こら、どこへ行く! 待てといっておるであろう!」
再びの背後からの声に、バッと振り向き姿を探すが、どこにも見当らない。手燭灯りの届かない所から、姿の見えない何者かに呼び止められたのだ。生暖かい夜なのに、身体が凍ったように恐怖に固まる。
「どこを見ている! 私はここ、下だ!」
動かぬ体のため、見たくもないのにそおっと視線を足元に向ける。何か掌大の小さなものが、山吹の少将の袴裾をツンツンと引っ張った。
「おお、気付いたか。四人目にしてようやくだな」
雛人形だった。貴族の少女たちが着せ替えやおままごと遊びで使う、長い黒髪に袿姿の姫人形が、立って動いて裾を引っ張っていたのだ。
「んぎゃ~! 出た~!」
くるっと方向転換して駆け出そうとしたが、足がもつれてべしゃりと倒れてしまった。恐怖で手も足も身体もガタガタ震える。しばらく這いずっては前に進み、必死にやっと立ち上がる。この世で一番頼りにしている強者の姿を求め、山吹の少将はなりふり構わず駆け出した。
「あ、姉上~! 姉上~!」
気品や雅やかさとは程遠い、雷の様なけたたましい大きな足音を立てて、必死に一番上の姉が住まう弘徽殿へと向かう。幼い頃に母を亡くした山吹の少将が咄嗟に助けを求めたのは、父でも兄と慕う中将でも無く、天虎の如き強さの一番上の姉姫だった。