3
襲撃から七日が経った日。まだ本調子ではないと聞くシュードから、リリアへ呼び出しがあった。
「どうされたのですか? お兄様」
ベッドの上の兄を見ながらリリアは首を傾げる。シュードはそんな妹の様子を、目を細めながら見て、ベッドのそばの椅子に座るよう促した。
「あのね、リリア。一つ、提案があるんだ」
「てい、あん?」
今考えるべきは兄の体のことと、貴族院の始まりが迫っていることだけだと思うのだけれど、と思いながら、リリアは兄の言った言葉を復唱する。
「そう、提案。具体的にはね、叔父上の養子にならないかってことなんだけれど」
叔父と言われて、リリアは該当する人間を思い浮かべる。一人はすでに亡くなっているし、もう一人は分家を設立しているが――そこまで考えて、ある一人の人物に思い当たった。
兄が何の気負いもなく表情を変える相手。最近家に帰ってきたばかりの、放浪の達人。
「フォートレル叔父様……ですか?」
やや困ったような顔をしながら、リリアがシュードに尋ねると、わずかに顔を輝かせて彼は首肯する。
(また、ですわ。お兄様は、もしかして……。いえ、今はそんなことを考えている余裕はありませんわ)
浮き出かけた考えを頭の奥に押しとどめ、リリアは兄の次の言葉を待つ。
「そうだ。彼だよ。……実はね、前々から言われてはいたんだ。私の覚悟が決まったら、叔父上のところに伝えよ、と」
尤も、覚悟を決める前に予定外の出来事が起きてしまったのだけれど。そう言って、シュードはリリアに微笑む。
「あ、あの……。話がよく見えないのですが」
「ああ、すまない。まだ言っていなかったね。――リリア、君、私の血を見て興奮しなかったかい?」
何も迷うことなくそう言ったシュードの言葉に、リリアの顔がザッと青ざめていく。
「そ、んな、こと……」
リリアは言いながら、声が消えていくような心地がしていた。ないといえば嘘になるが、あるというのも憚られる。何故なら、実の兄に、しかも、血液に、そういう感情を抱くことなど、リリアにとってはあってはならないことなのだから。
「あるだろう、リリア。だって、君はそういう風になっている」
(そういう風、とは一体どういうことなのでしょうか。――ずっと前にも、同じようなことを言われたような気がいたしますが……)
にこりと笑ったシュードの顔に、リリアは背筋が冷たくなるような気がした。普段と同じような笑顔の中に、そこはかとない狂気の気配を感じて。
「ああ、リリア、ごめんね。怖がらなくていいよ。いつもの僕だ」
安心させるように言いながら、シュードはリリアに手を伸ばす。その手をおびえたように見つめて、リリアはギュッと目をつむった。
「リリア、ほら。見てごらん」
いつまでも肌が触れる感触が来ないことに困惑しながらもずっと目をつむっていたリリアだったが、兄のそんな声に恐る恐る瞼を開く。――と。
金属が、目の前で、光を反射させる。
「……っお、お兄様!?」
体を壁に預け、右手にナイフを持ったシュードは、そのまま一切の迷いもなく左手の甲に刃を突き立てる。
「――っ」
悲鳴を上げたのは、どちらだったか。そんなことも気にならなくなるくらい、リリアはもう流れ出る血に目を奪われていた。
「ほら。……飲んでいいよ、リリア」
シュードはリリアの眼前に血が滴る左手を持ってきて、揺らす。
屋敷の物には遠く及ばない安っぽいベッドの上に、数滴の血が吸い込まれていった。
「ごめ、なさ、お兄様……!」
兄の言葉に、一瞬の間呆けていたリリアは、目に歓喜を映して両手で彼の腕をつかんだ。そのままシュードの小指を銜え、おいしそうにのどを鳴らす。
「リリア、おいしいかい?」
愛おしそうな目で、シュードがリリアを見る。彼女は血を舐めることに夢中で、彼のそんな言葉も届いていないようだった。
「ふふ、かわいいね。……やっぱり、僕は君を手放したくない」
いよいよ傷に到達しようとしたところで、リリアはふと口の中に違和感を覚え、動きを止めた。血の味のする口内を先ほどまで兄の手に這わせていた自分の舌で探ると、歯が二本、長く鋭くなっていた。
「あ、お、お兄、様……。わたくし、ええと……」
七日前から悶々と考え続けたあの童話が、今頃になって頭の中にもう一度よぎる。リリアは自らの悪い想像に、泣きそうな顔で兄の顔を見た。
(だってこれではまるで――本当にわたくしが化け物みたいではございませんの……)
どうしたの、と首を傾げる兄の鈍色の瞳の中には、まごうことなき真紅の色が輝いていた。
「……おにいさま、わたくしは、いったい何なのですか?」
血の気が引き、いっそ冷静になったリリアの口から、そんな言葉がこぼれ出る。シュードが、殊更に笑んだ。
「君は、吸血鬼だよ。真祖の。僕が召喚したんだ」
おいで。
唇が、そんな形をとった。その秩序に、彼女は従うほかなく、だから――彼女の背中に回された右腕も、まるで騎士のように口づけさせられている左手も、抗うことなどできなかった。
つたない接吻のように固く閉じられた唇の間から、シュードの血液がにじむ。甘美なそのささやきに、リリアの理性が押しとどめるのも聞かず、本能に任せ、彼女の小さな舌はチロチロと傷口の周りを舐め始めていた。
「……っ。いい子だね、リリア」
いまだ収まる気配のない流血に、一滴の血もこぼさないように飲むリリアを、シュードがなでながらほめる。箍が外れたように、リリアは吸血鬼らしい「食事」をとっている。その様子が、シュードには何より愛おしく、喜ばしいものだった。
自分のエゴで召喚し、申し分ないほどの大物だったとわかったあの日、シュードはただ彼女を利用することしか考えていなかった。それが、今ではこのような愛着まで持ってしまっている。そんな自分の内心を滑稽だと思いながら、彼は一心不乱に血を吸い続けるリリアの、赤が少し薄れてやわらかい桃色になった髪を見ていた。
「そろそろ終わりだよ、リリア。僕も少し、きつくなってきた」
鈍い痛みを訴える頭を押さえながら、シュードはリリアに呼び掛ける。手が離れ、リリアがシュードを見た瞬間、彼女の色彩が元に戻っていく。それは伸びた牙も同様で、鼓動一つ分もないその間に、リリアは普通の人間と遜色ない外見に戻っていた。
「よかった。リリアも満足してくれたみたいだね」
シュードが彼女を撫でると、リリアは気持ちよさそうに目を細める。そのまま撫で続けていると、ハッとリリアがシュードから離れる。いつの間にか乗っていたベッドから降り、椅子の上で居住まいを正した。
「お兄様、その……」
顔を見てしまうと、反射的に頬が熱くなるのを感じながら、リリアはそらした視線をさまよわせて、消え入るような声で言う。
(こんな醜態……これでは、淑女になんて到底なれませんわ……。それに何より、お兄様にずっと見られていたということが恥ずかしくてたまらない……)
ならば他の人であればいいのかと問われると、そうでもないけれど、と思いながら、リリアはまとまらない言葉を必死に考える。
「ああ、そうだ。ねえ、リリア」
名前を呼ばれてリリアが少しだけ顔を上げると、目を見ろ、とばかりにシュードは彼女の頤に手をかけ、強引に前を向かせる。
「んっ、お兄様、何を……っ」
「ちゃんと僕を見て、リリア。……ねえリリア。さっきの話だけれど、フォートレル叔父上の養子になる気はないかい?」
「その、それは……どうして、ですか? わたくしを捨ててしまうのですか?」
それで、ジスキネゼルとエンフィールディア侯爵家を続けていくおつもりなのですか――。そんな言葉を発する前に、何も言わず、シュードがリリアの体を抱き寄せる。
「そうじゃない。そんなこと、思ったこともない。リリア、僕は――僕はね、君と結婚したいんだ」
シュードの口から出てきた思わぬ言葉に、彼の手から逃れようともがいていたリリアの動きが止まる。それをいいことに、シュードは言葉を重ねていく。
「だから確実に顔を見られ、覚えられる貴族院には行かせたくなくなった。……だって、もしも君の顔がエンフィールディアの名とともに覚えられたら、血は繋がっていなくとも、教会の禁忌を犯したととがめだてをされてしまうからね」
「そのような、理由で……?」
確かに教会は異端審問にかけられることもあるから厄介ではあるが――吸血鬼という存在を生み出したことそのものがまず異端審問に掛けられるべきなのではと、リリアは率直に思う。しかしシュードはそんな彼女の考えを見通しているとばかりに笑って言った。
「大丈夫だ、リリア。君は確かに真祖の吸血鬼だが、術者の僕がまだ小さくて、力が弱かったせいか、吸血能力に秀で、吸血という行為が少なからず必要であること以外は普通の人間と変わらない――例えば、あのウェルディアスという男のように人を襲うことなどはあり得ないんだ」
しかし。現に今、シュードの血を吸ったはずだとリリアは疑いの目を向ける。
「わたくしは、お兄様の血を飲みましたが……?」
「ああ、それはね、僕と叔父上がそういう風にしたのさ」
シュードはそう言いながら、領地にちょうど帰ってきている叔父のことを思い返す。
「なぜ、そこで叔父様が出てくるのですか?」
当然の疑問が、リリアから発せられる。
「僕が初めてこの力を自覚した時、そばには叔父上がいたからね。それにほら、叔父上は権威なんかには興味ないし、こういう力にも詳しいから、ちょうどよかったんだ」
シュードが不敵に笑う。その自信満々な態度に、リリアはそういうものかと納得した。
「リリアは叔父上と僕で設定して、僕が一人で呼び出した。……もちろん、力を多く使う対象物だったからかなり体力を消耗したし、それにまさか女の子が出てくるとも思っていなかったし」
結局、当初の予定通りフォートレルに預け、シュードが世話をするという形に落ち着きはしたが。
「え……それじゃあ、わたくしは、お兄様に必要とされずに生まれてきてしまったのですか?」
リリアの絶望が混じった表情に、シュードが眉根を寄せる。これから、もっと残酷なことを言わなければならないから。
リリアに怪しまれないように、シュードはこっそり表情を切り替えた。
「いいや、違うよ。僕はもともとあの時、僕の言うことを聞いてくれる使い魔のようなものを求めていたからね。君のような真祖吸血鬼が僕のもとにやってきてくれたのは、とんでもない僥倖だったんだ」
そう語るシュードの目は、どこか遠くを見つめているばかりか、普段のリリアを見るような色もなくて。
「最初は、道具として使おうと思っていたから、必要としていなかったわけじゃない」
道具。そう言ったシュードの口ぶりは、本当に何も思っていないようなもので。
リリアは、思わず伸ばしかけた指を、力なく膝の上に落とした。
「だけれど、だんだん君のことが愛おしくなってね。叔父上に頼みこんで、君を僕の正式な妹にしてもらったんだ」
シュードはリリアの手を掴む。いつの間にか落としていた視線に、シュードの左手の甲が見えた。
ハッとして、リリアはその手を胸元で包み込む。
「お兄様、傷の手当てを……」
自分から目を合わせると、シュードは驚いたような表情をして、ほほ笑んだ。
「ありがとう、リリア」
包帯を、と椅子から立ち上がって探すリリアに小さくシュードは礼を言う。医者を呼べばいいのでは、とは一生懸命に準備をするリリアには言えなかった。
消毒液と水と包帯を四半刻ほどかけて用意したリリアは、ふう、と息を吐く。慣れない手つきでシュードの手を水につけ、消毒液を掛けた。
(医者がやっていたことをまねただけですけれど……思っていた以上に難しい、ですわ。……そういえば、医者を呼べばよろしかったのですわね。まあ、あまり知られたくないことを……しておりましたし、その、わたくしがやってよかったのかもしれませんわね)
なにせ、シュードが自分で傷をつけ、リリアがずっと舐めていた傷なのだ。もうほとんど出血は止まっているし、あとも残っていないけれど――誰かに見せるなど、リリアには考えられなかった。
「あ……」
そこではたと気づいたリリアの動きが止まる。
「お兄様、わたくし、包帯の巻き方を知りませんでしたわ……」
何事かと彼女を窺っていたシュードが、そんなことか、と納得する。
「大丈夫。僕が知っているから、君はその通りに動いてくれるかい」
男の貴族は――無論少数の女性もいるにはいるが――皆、貴族院で応急措置を習う。情勢によっては、戦争に出ることもあるからだ。
「わ、わかりましたわ」
教える過程で、リリアとシュードの指が触れる。いまさら、と思いながらも、リリアはそれを意識せずにいられなかった。
「あっ」
手を掴まれたことに過剰に反応し、リリアの手から巻きかけの包帯が落ちる。落とした包帯の芯を拾い、顔を上げると、一部始終を見ていたシュードが彼女に向かっていたずらっぽく笑った。
「お兄様……」
「ほら、続けて、リリア」
咎めるようなリリアの視線に、シュードが戻るように促した。
ほどなくして包帯も巻き終わり、手当てが完了する。医者がまくそれよりも幾分か緩いリリアの包帯に、シュードはそっと手を添わせた。何かのはずみで取れてしまいそうだけれど、リリアが手当てをしてくれたということが何よりもうれしくて仕方がなかった。
「ありがとう」
「……わたくし、お受けいたしますわ」
勢いよく顔を上げて言ったリリアに、シュードは面食らったような顔をする。
「受けるって、」
「養子のお話です。フォートレル叔父様の。……わたくしも、できることならば……」
(いまだ定まらないようなこの気持ちは、きっと物語の中にたくさん書かれている「恋」というモノなのでしょう)
言葉を当ててしまっては、いけないような気がしていた。それそのものが、いけないようなことだと理解していた。
家庭教師のグラーデルベルト伯爵子息やバルテレミー子爵婦人には再三言われてきたことなのだから。
「……リリア」
感極まったような顔で、シュードがもう一度、リリアを抱きしめた。その拍子に包帯がまた緩みかけたが、二人ともそんなことは気にも留めなかった。
「リリア、こっちを向いて」
言葉だけで、リリアがシュードの顔を見る。少しだけお互いの体を離して、どちらからともなく顔を近づけ合う。
至近距離のシュードの顔を眺め、ギュッと目をつむる。リリアの唇に、何か温かいものが、優しく触れた。
安心感と充足感と、他にも何やら言い表せないような心地を感じながら、リリアはそのひと時を謳歌していた。
「に、さま。大好き、です」
唇が離れた時、リリアはわずかに潤んだ瞳ですがるように言葉を紡ぐ。
そう言い終えた瞬間、シュードは彼女を痛いくらいに強く抱きしめた。
「っ見ないでくれ……」
首を傾けると、兄の首筋が少しだけ赤くなっているように思えた。リリアの体を締め付ける長い両腕も、先ほどの切羽詰まった声も、何もかも――リリアの知らない、シュードの顔で。
(こんなに余裕のないお兄様を見るのは初めてですわ……)
いつも人形のように薄く笑っているだけで、リリアの前でもほとんど笑みを崩したことはない。勿論その笑顔にも微妙な違いはあるにはあるのだが、それでもただの笑顔ということには変わりがないのだ。
それが、今はこうである。
リリアはなんだか、途轍もなく楽しかった。
長年自分を悩ませていた問題は解決され、兄の新しい一面も知ることができて――。
「リリア、何を考えているの」
「いいえ、何も」
つっけんどんな言葉一つ一つにも、今は愛があふれているように感じて、リリアもまた、シュードの背中に伸ばす手に力を込めた。
尤も、身長も体格も年齢も劣るリリアでは、抱きしめるというよりもしがみつくというような感じではあったのだが。
「そういえば、まだ言っていなかったね。……リリア、君が好きだ。結婚してくれるかい?」
耳元で、そんなことをささやかれる。人を落ち着かせる効果でもありそうな低音は、この時ばかりは上ずっているようにも聞こえて。
必死な雰囲気すら醸し出す、シュードの言葉に、リリアは。
「勿論ですわ」
快い返事を返したのだった。
次の日。リリアとシュードはジェイを連れてエンフィールディア侯爵領に戻ってきていた。ジスキネゼルだけはジェイと他数人の使用人と荷物とともに先に向かわせている。
二人が帰った目的は、言うまでもなく、フォートレルとリリアとの養子縁組を果たすことであった。
「やあ、シューにリリアちゃんじゃないか。どうしたの、珍しいね。リリアちゃんと連れ立ってくるだなんて。僕に何の用だい?」
開口一番、貴族としての体面すら考えず、フォートレルはそう言った。リリアはそんな叔父の様子に一瞬眉を顰めかけたが、叔父の性格上しかたのないことだと割り切って諦めることにした。
「あっ、もしかしてあの件かい? ようやく覚悟が決まったんだ。二人の育ての親として、うれしい限りだよ」
察しはいいが、軽薄。フォートレルはそういう人間だった。
「私はともかくリリアは召喚してすぐしかかかわっていないじゃないですか。雰囲気と勢いで適当なことを言わないでください、叔父上」
底冷えする笑顔でシュードが言う。それに構わずフォートレルは、シューは昔に比べてよく笑うようになったねえ、としみじみと言った。
「あの、叔父様。その、わたくしを養子にしてくださる、とお聞きしましたが」
このままではらちが明かない、と業を煮やしたリリアは強引に話の流れを変える。そうするとフォートレルはウインクをして、にこりと笑った。
「やっぱり、その話かい、シュー。……大きくなったねえ。うん、いいよ、僕が請け負おう。書類はもうずいぶん昔に作ってある。どこにやったっけ」
座っていたソファから立ち上がり、フォートレルは旅行鞄の中をまさぐる。ずっと旅に出ていた彼は、ドレスなんて一着しか入らないような小さな鞄を常に持って、大事なものを保管していた。
しばらくそうしていた叔父が、唐突に顔を上げる。
「ああ、あったよ。ここにリリアちゃんのサインを入れれば完成だ」
リリアはフォートレルに渡された万年筆を、息を吐きながら見下ろした。
感慨深いのか、何なのか。彼女自身にも説明のつかない想いが頭の中を巡る。
そんな彼女の内面を知ってか知らずか、叔父はリリアの目の前に紙面をつき出した。
リリアスフィア・リーヴァル・エンフィールディア。そうしっかりと記入された契約書を見て、フォートレルはリリアとシュードの頭をなでた。
「これで君は、晴れて僕の養子になる準備が整った。……シュー、よかったね。リリアちゃんも」
契約書は、フォートレルとリリア、そして彼女の保護者扱いになっているシュードの連名だ。三つ並んだ名前を見て、シュードもにこりと笑った。
両親が生きていた頃には決して見ることのなかったその緩んだ表情に、フォートレルも満足げであった。
「叔父上、これで私とリリアはただの従妹ということになるのですよね」
「ああ。国王にも話は通してある。契約書は受け取られた後、正式に国王に受理されるよ。……これは魔法契約だからね」
フォートレルが入手した最高レベルの魔法契約書は、契約の間という場所において国王が処理する。その特性故恐ろしいほど高価だが、フォートレルとしてはシュードがその金で笑顔になるというのならばどれだけかかってもよかったのだ。
それは彼の分かりにくいようなたった一人の弟子への愛情であり、それ故――たといその契約書が正式に入手したものであり、その話はシュードたちの婚約に関するものであったとしても――彼は、国王には大きな貸しがあるからね、と嘯いたのだった。
「感謝します、叔父上」
「うん、よろしい。ところでもう一つ契約書があってね」
フォートレルはいそいそと懐からある書類を出す。
「これって……」
差し出された書面を見て、リリアが目を瞬く。
「そう、君たちの婚約に関する契約書だよ、リリアちゃん」
リリアの顔が、一気に赤く染まった。
「や、やっぱり……。その、気が早過ぎではありませんか……?」
察していたのだろうに、とフォートレルが嘆息し、リリアから万年筆を回収した。
「ほら、シュー? 僕の名はもう書いてあるから。後は君たちが署名するだけだ」
シュードが名を記すのを横目に見ながら、フォートレルはリリアに向き直った。
「……リリアちゃん。君はもう貴族院に行くのだろう? であれば、侯爵家であるリリアちゃんは――今はその分家ということになるが――誰かが欲しがることもあるだろう。なんたって、リリアちゃんはかわいいからね」
茶目っ気のあるウインクに、リリアの眉根が寄る。しかし、フォートレルのいうことは尤もであり――故に、リリアは何も言えずに押し黙った。
侯爵家の名を持つ家は現在この国に4つしかない。権力に縋りつくような輩はどこにだっているものなのだ。貴族院に行く前の子供は、それまでにお披露目を済ませているのでなければまだいないものとして扱われる。リリアはシュードに守られていた。
もちろん、下心ありきではあるだろうが。
「わかりました。わたくしも署名いたします」
それでこそだ、とフォートレルは満足に思った。シュードが召喚した彼女は、姿かたちや習性こそ吸血鬼のそれだが、過ごした時間は人間としてのものだ。
もともと利用するため召喚させたつもりであったが、あの時以来シュードの顔つきが変わっていくのを感じてこの計画を練ったのだ。もちろん最初は妹としてのつもりであり、シュードもそれに同意していたのだが――成長するうちに、考えが変わっていったのだろう。
最終期限ぎりぎりだったが決断してくれてよかったと、フォートレルは思う。事件に遭ったと聞いたがそれが彼の意志を明確にしたのだろうとも。
そういう意味であれば、シュードとリリアはウェルディアスには感謝しなければならないのかもしれなかった。当人たちは全力で拒否するだろうが。
「よし、揃ったね。あ、そうだ、シュー。僕も君たちと一緒に行くよ。また襲われでもしたら大変だろう? 僕ならば、君たちを守れるからね」
シュードと同様に、フォートレルも召喚術の才能があるのだから。それも、シュードより強い。よって、この言葉は当然のものなのであった。
「ありがとうございます、叔父上」
「ああ。リリアちゃんもそれでいいね?」
水を向けられて、リリアも小さく頷いた。
明くる日、リリアたちは一つの馬車に乗り込んでいた。フォートレルの従者が御者となった。彼曰く、使い魔でも力のあるものなのだそうだ。
それが功を奏したのか、それともウェルディアスが満足したのか――何事もなく、王都まで飛ばした馬車は行程を五日間に減らすことができた。勿論もう貴族院は始まっていたから、遅刻ではあるのだが。
「じゃあ僕は王城の方に行ってくるよ。幸運を、二人とも。特にリリアちゃんは初めての貴族院だからね。存分に楽しんでくるといい。……それと今の君は伯爵位になっている。くれぐれも身分の違いには気を付けるんだよ」
言い聞かせるように、フォートレルがやさしく言う。
「はい、叔父様」
リリアは素直にうなずき、傍らのシュードを見上げた。
「お兄様、いよいよですわね」
「そうだね。……それと、リリアは私を名前で呼んだ方がいいと思うよ」
唐突に言われたその言葉に、リリアが首を傾げる。しかしすぐに思い至ったのか、合点がいったように頷いた。
「……あ、そうですわね。わかりました、シュードおに……シュード様」
兄と言いかけるリリアに、シュードが苦笑する。
「まあ、無理することはないよ。ほら、行こう。私の伴侶になると決まっているから、リリアの学科はそのままだ。大丈夫、君みたいな生徒は他にもいるから。送っていくよ、リリア」
エスコートするようにシュードがリリアの手をひく。その口はまだまだ止まりそうになかった。思えば、馬車の中でもいつもより口数が多かったかもしれないとフォートレルは回顧した。
兄妹の――もう婚約者という立場になったが――姿が見えなくなるまで、フォートレルはその場から動かなかった。
それはまるで、巣立った子を見送る親の様であり――後ろから見ていた使い魔は、羨ましく思いながらその寂しそうな横顔を見つめていた。
六年後、エンフィールディア侯爵領は領民たちの喜色であふれていた。何しろ、前侯爵夫妻が亡くなってからこの方、侯爵となり善政を敷いてきたシューベルトがついに結婚するというのだから、当然である。
時々良くない噂も流れはしたが――例えば、兄妹の結婚であるとか、神に背く行いをしたとか――しかし領民に慕われているシュードは信用され、そのような噂は一笑に付されたのだった。
あれからウェルディアスの襲撃もない。そしてもしこれからあったとしても、シュードやリリアは力をつけた。勿論、人間的に。気まぐれな撤退ではなく、今度こそは、二人だけでも勝つと決めたのだ。
「綺麗だ、リリア」
教会の、神使の御前。シュードはリリアのベールを上げ、口づけを交わした。リリアが言おうとした言葉はその接吻に阻まれたが――二人は限りなく幸福だった。
祝福の光が、教会を覆う。政治的意味を持つ婚姻であることが多い貴族ではあまり見ることのない神が認めた証である。
真実の愛で結ばれた二人は、揃って新しい景色へ足を踏み出した。
「シュード様、さすがにこれは恥ずかしい、です……」
人目のある中、シュードに横抱きにされたリリアが呟く。しかし、その顔は満更でもなさそうで――シュードは本当に嬉しそうに表情を緩めた。
「愛しているよ、リリア」
「わたくしも、です。シュード様……」
幸せな微笑みを浮かべる二人に、近くから見ていたフォートレルの口元も緩んでいた。
そして、リリアを横抱きにしたシュードが――新居でこそないが――領主の館の敷居を真っ先に跨いだ。
これにて完結です。兄の何気ない一言から生まれたこの小説ですが、こんなに長くなるとは……えへへ。当の兄はその発言を覚えていないし。んもう。ちなみに僕の推しは叔父さんです。ふふ。
それはともかくとして、ちゃんとハッピーエンドを書けて良かったです。
最後に、アドバイスをくれた友人たちやこの小説をご拝読くださった皆さんに感謝を。本当に、ありがとうございました!