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 ――エンフィールディア侯爵とその夫人、馬車の魔法事故により、死亡。




 届けられた訃報に、彼女の心は冷え切っていた。冷め切っていた。母にも父にも期待をしていなかったから。愛情をくれるのは兄一人でいいと思い込んでいたから。エンフィールディア侯爵家の家族仲は、世代世代で壁を隔てているように、すこぶる悪かった。


「悲しみなさい、レディ・エンフィールディア」


 葬礼の直前、家庭教師のグラーデルベルト伯爵子息が彼女に声をかける。声をかけられた方――リリアスフィア・リーヴァル・エンフィールディアは、小さく嘆息し、頷いた。

 内心で、その方が効率的であると思いながら。


「行くよ、リリア」

「はい、お兄様」


 少女を唯一愛称で呼ぶ兄は、リリアだけに笑顔を向け、また元の無表情に戻り扉を開けるよう合図した。使用人たちもみな、機械的にその指示に従う。

 それを横目で確認しながら、リリアは気づかれぬよう顔に力を入れた。

 対外的に、自分、つまりはエンフィールディア侯爵令嬢が――ひいてはその兄が――両親の死を悲しんでいるのだと印象付けるために。




 端的に言えば、エンフィールディア侯爵家は世間で不気味と評されていた。そこに帰属する人間が、総じて感情というものを見せなかったから。大人は勿論、子供でさえも。

 そんな家の子供が――しかも、当の侯爵の実子が、彼らの死を悼んで涙を流していたら? 悲痛そうな面持ちで棺桶の方を見つめていたら?

 感情があったのだと、代変わりする次の侯爵は前侯爵とは違うのだという目で、彼女たちを見ることだろう。……事はそう簡単ではないが、少なくとも切っ掛けを作ることは可能だ。

 故に、リリアは瞳を潤ませる。傍らに立つ、兄の上着を掴みながら。感情を見せない兄の代わりに、その彼に育てられた、妹が泣く。

 完璧なシナリオだ。よもや貴族たちも、たった八歳のリリアや六つ離れただけの兄のシューベルトが裏ではこのようなことを画策しているとは思いもしなかっただろう。そう、会場に集まった貴族たちを見回しながら、リリアは思う。

 同情、憐憫、或いは、哀愍。そんな視線の数々を、涙というフィルター越しに感じながら、しかしリリアは悪い気分ではなかった。――ここにいる人間たちはみな、多少なりとも私たちの舞台の上で踊っているのだ。そう思って、リリアは心の中でほほ笑んだ。

 シューベルトもまた自分たち兄妹に向けられる視線を分析しながら、妹と同じような心持でいた。




「お茶のご用意をいたしました。どうぞ、お疲れをいやし、ご自愛ください」


 葬儀が終わった頃合い。先に退出して兄を待っていたリリアの前とその向かい側に紅茶が差し出される。

 リリアが手にとったティーカップから、香りがふわりと漂った。


「あら、いつものことながら気が利きますわね、エセルバート」


 リリアが言うと、燕尾服の男性はふわりとほほ笑んだ。


「もうまもなく、ご当主様の帰ってくる時分でしょう」


 エセルバートが言った直後、部屋の扉が開く。見えたのは蜂蜜色の髪の毛。シューベルトの色だ。

 未来予知のようなエセルバートの言葉だが、リリアは慣れていたせいか特に驚きもせず、座ったまま兄を迎えた。


「おかえりなさいませ、お兄様。エセルバートがちょうど今紅茶を入れてくださいましたのよ」

「そう。ありがとう、エセルバート。毎度、本当に最高のタイミングだな」


 兄妹二人に注目されたエセルバートは、先ほどのように笑みを浮かべたまま、壁際に控えていた。それも、この家の日常だった。

 リリアはそっとティーカップを回し、鼻腔をくすぐる香りを楽しむ。そうしていると、ふと昔のことを思い出した。

 リリアが五歳の頃、夜にシュードがよく彼女の部屋へ来ていた時期があったのだ。その兄の飲む砂糖たっぷりの紅茶の香りに大人な感じがしてリリアはドキドキしていたものだった。

 そういえば、とリリアはさらに記憶を引っ張り出した。シュードがその頃よく聞かせてくれた物語があったのだ。赤い目の翼が生えた怪物を倒す騎士たちの話。怪物がとても強くて騎士たちは苦戦するけれど、最終的にはハッピーエンドだった。そのはずだ。

 その中の魔法騎士と没落貴族の令嬢の恋が、とてもリリアは好きだった。

 そんなことを考えていると、いつの間にかリリアの正面にシュードが座っていた。


「それで、シュードお兄様。これからどうなさるおつもりですの?」


 革張りのソファに深く身を沈め、あの時と同じように角砂糖を二つ投入した紅茶を楽しんでいる兄に、妹は一番気になっていたことを聞く。

 もう、夜も遅い。招待した客人は、みな屋敷から出て行っていた。それ故、妹は兄の愛称を呼ぶ。


「どう、とは?」


 シュードの視線が少しばかり険しくなる。だがそのようなことは意にも介さず、リリアは再度口を開いた。


「勿論、領地のことやお仕事のことですわ。それに……『彼』の処遇も考えなければなりませんわよ?」

「ああ、そうだったね。前者はともかく、後者は……まったく、父上にもほとほと困っているよ」


 去年の暮れに私たちの家に引き取られた「家族」。能力的には確かに秀でているが、取り立てて騒ぐほどでもない。そんな、リリアの一歳上の子供。何を隠そう、エンフィールディア侯爵の庶子だった。彼は貴族ではない。平民でもない。普通ならば処分されているはずの幼子だ。物事の道理すらまだわかっていない。

 そんな彼が生き残っているのは、貴族の基準で考えても珍しいほどの美貌と能力を持っていたからだった。

 先ほどは取り立てて騒ぐほどでもないといったが、それはリリアやシュードの基準で計った場合のことだ。何しろ二人の能力は、他の誰とも比べ物にならないほど抜きんでていたのだから。


「エセルバート、其方はどう考える?」


 シュードがエセルバートに水を向ける。今でこそ侯爵家で執事をやっているが、エセルバートは元々高位貴族の次男だった。故に使用人の中では一番学が深い。


「私でございますか。……そう、ですね。あの能力は飼い殺しにしておくにはいささか惜しいものがあるかと」

「ほう。つまり?」


 面白がるように、シュードが続きを促す。


「忠誠を誓わせ、一つ階級を落とした学び舎で道理をわからせてやるのがよろしいかと愚考いたします」

「下級貴族として扱う、か。いいかもね。リリアは?」


 いきなり発言を求められたリリアは、すねたように唇を尖らせる。


「わたくしは……あの子供が嫌いですからどうとでも。シュードお兄様の仰せのままにいたしますわ」


 投げやりな彼女の言葉に、シュードはそう、とだけ頷いて笑った。


「リリアの専属執事に教育できるかな? あの子供を上級貴族院の侍従科に進ませてやろう。そこならば下級貴族院の教育と相違ないだろう。下級貴族としても使えるようになるはずだ」

「お兄様……?」


 続いた言葉に呆然としたのはリリアだ。いつも彼女を甘やかすシュードの瞳が、暗く煌めいていることに気付いていた。

 兄は、妹の気持ちを容易く裏切っていた。


「よろしいのですか、シューベルト様」

「いいさ。それもまた一興、というやつだ」


 気が付くとそこはリリアの部屋だった。どうやって戻ったのか、記憶にない。しかしあの兄の言葉だけは鮮明に覚えていた。


「『リリアの専属執事に』ですか……」


 リリアは正直にいうと、耳を疑っていた。あの時の彼女を見据える目も、冷たい声音も、リリアではない他人に向けられてしかるべきものだった。間違ってもあの兄がリリアに向けるものではなかったのだ。


「躾のなっていない子供にわたくしの世話をさせようだなんて……あんまりにもひどいですわ、お兄様……」

「何がひどいのかな、リリア?」


 突然後ろから聞こえてきた声に、リリアの方がびくりと大きく震える。


「お、お兄さま?」

「そうだよ。君の兄だ。リリアスフィア・リーヴァル・エンフィールディアの兄、シューベルト・ガルビスク・エンフィールディアだ」


 意味もなく自己紹介をした兄に、リリアはそっと向き直る。


「せっかくの僕の最高作なのに、ここで壊してしまっては惜しいからねえ。……ほら、リリア。おいで」


 ぞっとするほど美しく笑うシュードに、まるで酔ってしまったかのようにふらふらとリリアは近づいていく。初めの言葉など聞こえていなかった。――否、聞こえていたとしても、彼女はそのような些末なこと、気にも留めていなかっただろう。

 「おいで」と、彼に言われたから。

 だから、彼の方に引き寄せられていっただけ。

 それは彼女にとって秩序(ルール)であり――また、シュードにとっても規則(ルール)であった。


「おいで、僕のリリア。僕だけのリリア。君の家族は僕だけだよ。ねえリリア。君が本当は……いや、まだ言うことじゃあないね」


 穏やかなシュードの言葉にだんだんとリリアの呼吸が緩やかになっていく。やがて眠りに落ちた彼女をシュードは抱きかかえ、ベッドまで運ぶ。

 部屋を出るとき、振り返りざまにシュードが呟く。


「本当は、君が僕とは血がつながっていないだなんて、……まだ君には言えないさ」


 そしてゆっくりと、部屋の扉が閉ざされた。




「お兄様……どこですの……」


 翌朝、午前四時。いまだ夢うつつの中にいたリリアは、うっすらと感じる兄の残り香を感じ、虚空に手を伸ばしていた。勿論掴めるものなど何もなく、虚無感を感じながら、彼女はまた眠りに落ちた。




 体を揺さぶられていることを感じながら、少女は往生際悪く布団をつかんで離そうとしない。ふわふわの布団にしがみつくさまは動物のようにかわいらしかったが――最終的に彼女の兄にたたき起こされ、寝ぼけ眼をさすった。


「おはよう、リリア」

「んむ……おはようございます……お兄様」


 まだ眠気の覚めていない舌足らずなしゃべり方に、彼はリリアの頬をつまむ。当然、痛いとは絶対に感じさせないように。

 その手に気が付いたリリアは、はっと目を開ける。


「お、お兄様……? いくら兄妹とはいえ、破廉恥では……」


 覚醒したリリアはまず目を疑った。いつの間にか彼の膝はベッドの上に乗っており、扉の方から見るとまるでちょうど彼女がシュードに押し倒されているように見えるのだ。


「ああ、そうだね。そう思うのなら早く起きようか、リリア」


 こともなげに言ったシュードに対しリリアはうっと言葉に詰まり、何も言えなくなった。兄に起こしてもらいたいと甘えたのは、ほかならぬ自分自身であったのだから。

 無論、物心がつく前、例えば一、二歳の時も起こしてもらってはいたが、自分で起きることのできる年齢になって「起こしに行かない」と言ったシュードをその時初めて引き留めたのだ。


「お兄様はずるいですわ……」

「ふうん、リリアはじゃあ、僕と代わりたいのかい?」


 代わりたいと言えるかどうかはまた別の問題です、とリリアは内心で文句を言う。昨日の今日で、リリアは兄に対していまいち安心することができていなかった。シュードの冷たい瞳がまだ記憶の表層に残っていた。


「リリア、ほら、行くよ」

「ま、待ってください、シュードお兄様。わたくし、まだお着替えが終わっておりませんわ」


 手を差し伸べるシュードにリリアが慌てて言うと、それもそうだな、と彼は彼女の格好を見て頷いた。


「先に行って待っているからね。なるべく早く来るんだよ」

「はい、お兄様」


 シュードが出て行った部屋の中、リリアは一人息をついた。


(何故でしょう、昨日からお兄様に近づくたび、心臓が暴れ出してしまいそうになりますわ……)


 私たちは兄妹であるはずだ、といまだ収まらない心臓を抑えつけながらリリアは首を振る。先ほどのことだってそうだ。今までのリリアならば、きっと当たり前のことだと受け入れていたはずだ。


「お兄様……。いえ、着替えましょう。早くいかなければ」


 延々と思考し続けようとする頭を強制的に切り替える。リリアはそのまま、着ていたネグリジェに手をかけた。


「お兄様、ただいま参りましたわ。……貴方もいましたのね、ジスキネゼル」


 食堂の椅子に腰かけていた兄がリリアの言葉に笑顔を見せる。そんなシュードとは対照的にジスキネゼルと呼ばれた少年が、ビクリと肩を震わせた。


「座りなさい、リリア」

「はい、お兄様」


 使用人が引いた椅子に、貴族らしく優雅に腰掛ける。その様子を伸びた前髪の後ろから見つめていたジスキネゼルがおずおずと口を開いた。


「お、おはようございます、リリアスフィアさま」


 そんな様子の一歳年上の「兄」にリリアはもとより周りの使用人や果てはシュードまで、く、と唇を震わせた。不義の子ではあるが、ジスキネゼルもれっきとしたエンフィールディアの子、エンフィールディアの名を持つものなのだ。相続権も何もないとはいえ、もう少し堂々としていなければならない。……平民育ちならば、なおさらに。


「ええおはよう、ジスキネゼル。エセルバート? 後で散髪屋を連れてきてくれるかしら?」

「御意に。品質は如何なさいますか」

「どうでもいいわ。何かとうるさい父がいなくなったのだもの。それにわたくしの専属執事になるのでしょう? それならば、わたくしの好きにしてもよろしいのではなくて」


 リリアが自らのことを見ていることに気が付いたのだろう。ジスキネゼルの顔が思いっきりひきつる。髪に隠れていて相変わらず目の表情は読めないが、それ以上に顔に出た表情は専属執事など絶対に嫌だと物語っていた。


「そうだね、リリア。でも、主は執事の身だしなみにも気を付けなければならないよ。特に、ジスキネゼルは下級貴族程度には教育する予定だからねえ。……エセルバート、よろしくね」

「はい、ご当主様」


 どうやら自身の処遇はすでに決められていることらしい、とジスキネゼルは左手の甲に爪を立てる。それが彼の癖だった。

 朝食が終わり、喪に服しているとはいえリリアのいつも通りの日常が戻ってくる。

 具体的には、グラーデルベルト伯爵子息の学問の授業とシェーランシア子爵婦人の礼儀作法や音楽の授業だ。




 そして、彼らの日常は何事もなく過ぎていった。それまでの慌ただしい日々がまるで嘘だったかのように。

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