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第九章


1 立村上総が受け取ったもの


 ──俺は、清坂氏の求めるつきあいをすることは、できない。

 たったこれだけのことを伝えるのが、どうして大変だったのだろう。 

 口にしてしまった後、美里に激しく食って掛かられたことも、それどころか「つきあい」を続けることを求めてこられたことも、上総にとっては信じられないことだった。

 ──とっくに俺が振られたってことになってるはずなのにな。


 上総は三年A組の教室前に佇んでいた。

 一週間近く本条先輩と連絡を取っていない。学校を休んでいたというのもあるけれど、あえて自分を甘やかしたくなくて口を閉ざしていた経緯もある。十月中旬からは学校祭やら体育祭やらで忙しくなるのだから連絡をしないのもおかしいだろう。

「よお、立村、お前顔真っ白だなあ。どうした」

 肩にかばんをひっかけて、ブレザー制服のネクタイを緩ませて本条先輩が上総の顔を覗き込んだ。やはり、休んでいることを知っていたのかもしれない。

「先週風邪引いて休んでました。連絡遅くなってすみませんでした」

 棒読みで上総は答えた。

「ふうん、そうかそっかそっか。生きてるだけでもめっけもんだ。立村、とりあえずだな、冬休みの評議委員会演劇ビデオの予定を早めに出しとけよ。ほら、お前ら二年が仕切るんだからな。それと学校祭とか、体育大会とかやったらめったら行事は目白押しなんだぞ。体力持たないとやっていけねえぞ」

 頭をぐりぐりと撫でつけるのはやめてほしかった。首を振った。でも離れなかった。

「俺だってな、来月辺りからはさすがに真面目な顔で受験生の顔せねばなんねえんだからな。わずかな俺との時間を大切にしろよ、おい聞いてるのかよ」

 ──来月、十一月か。

 本条先輩は公立を受験するはずだった。今のところ知っているのは、上総を含む一部の連中だけのはずだ。

「本条先輩」

 ぶるっとふるえが走り、肩を思いっきり竦めた。まだ咳が残っていてむせた。

「なんだよ」

「まだ、誰にも話してないんですか」

「何をだ」

「先輩が、受験すること」

 横にひっぱられるような本条先輩の口。ゆっくりと元の形におさまった。

「俺のことをか」

「はい。先輩」

 身体がすうっとかたくなっていくようだった。背筋が寒かった。

「俺はまだわけを聞いてません。本条先輩、どうして、公立に行くんですか」

 自分の口にした言葉を、本条先輩は受け止めた証拠に上総と目と目を合わせてくれた。答えない。ただじっと見つめられるだけだった。美里にあのことを告げた時と同じ、覚悟の必要な言葉だけが流れた。

「本条先輩、プライバシーの侵害と言われてもかまいません。どうして、青大附属を出て行くんですか」

 初めて七月の評議委員会合宿で告げられた本条先輩の公立高校受験。

 打ち明けてくれたのは上総が最初だと言ってくれた。

 その場でも何度か尋ねたが、「プライバシーの侵害だ」とごまかされてしまった。本条先輩に逆らってはならないという上総なりの判断で、今日までずっと聞かずにいた。なのに、口が勝手に動き出した。言いたいけどいえなかったことを、すらすらとしゃべることができた。

「立村、あのな」

 廊下に他の三年連中がいないかどうかを確かめるように見回し、本条先輩は片腕で上総の頭を抱えた。汗臭い匂いでむせた。

「俺ひとりでうちの親にくっついて転校するか、それとも青潟に残るかって言われたとする。お前ならどっちを選ぶ」

「どっちと言われても」

 いきなり口篭もる。転校なんて考えたこともない。想像つかない。

「俺は青潟に残ることを選んだ。年子の兄貴とな」

「先輩、それは」

「ふたりで下宿なりなんなりするんだったら、親にあまり金せびれねえだろ」

「ああ、私立だし」

「だったら公立でいいじゃねえかってことだ」

 腕が離れ、上総は何度か首を振った。

「転校するって、どこに」

「どっかわからん外国か、青潟とは違う場所かのどっちかだ。けど、俺は青潟でもう少し遊びてえってことでだ」

 かばんの角で上総を軽くはたくようにして、本条先輩は自分の教室に入って行った。取り残された上総は一礼すると階段に向かって歩き出した。

 まさか本条先輩が教えてくれるとは思わなかった。

 どうしても聞きたくてたまらなくて溢れた言葉。

 ──本条先輩。青潟に残るんだ。

 詳しい事情はわかるようでわからなかった。納得できるようでできなかった。ただ、上総が感じたことはひとつだけ。

 ──青潟に、いてくれるんだ。本条先輩。

 三ヶ月、ずっと聞きたくて聞けなかった言葉を、封印していたものが、こんなにすらすらと引き出されていくなんて信じられなかった。

 

 二年D組の教室に入ると、一部の連中から、

「立村お前生きてたのか! 台風で飛ばされたかと思ってぞ」

「しかし、精魂尽き果てたって顔してるなあ」

「人生長いんだからな、気を確かに持てよ」

 励ましてくれてるのか物わらいにしているのかわからない言葉の雨に打たれた。笑って受け流すことも、このクラスではできる。すでに到着していた古川こずえに授業の状況を尋ねたり、いつもの朝の漫才をかまされたり、ごくふつうの一日が始まりつつあった。変わっていたのは机の中の大量プリント類くらいだろうか。一枚ずつ折ってかばんに詰め込んだ。

「立村くん」

 熱中しているうちに、聞き慣れた声が、聞き慣れた調子で聞こえた。

「あ、清坂氏」

 それしか言葉が出なかった。教室に入ってきてすぐに上総の机前に来たのだろう。さっぱりした笑顔で立っていた。

「あのね、企画書。あとでひとりで読んで」

「企画書って?」

 条件反射で尋ねてしまった。昨日あれだけ修羅場をやらかしたというのに、美里の顔は後遺症を残していない。傷が治らないと泣いているのは、上総だけなのかもしれなかった。

「だから企画書だってば」

 ──学校祭の行事関係なのかな。それとも。

 周りはたぶん、ふたりが仲直りしたと思っているのかもしれない。

 もしくは火曜の段階で美里が上総に愛想尽かしをしたと思っているのかもしれない。その辺は想像するしかない。上総がわかっているのは、美里が渡してくれたものが決して、評議委員会関連の「企画書」ではないことくらいだった。

 ──授業中、だったら読んでいてもわからないよな。

 上総は机に素早くしまいこんだ。隣りの古川こずえに覗かれたりなんかしたら、大変なことになる。

 チャイムが鳴るぎりぎりに貴史が飛び込んできた。ちらっと目を向けたが、すぐに席に付いたので会話はなかった。上総の隣りに南雲が悠々とやってきてすわり、すぐにミュージックテープ交換を始めたので、はたしてふたりが何を考えているのかは見通せなかった。羽飛はシャープを鼻と唇の間に挟み込み、何とかして動かないようにしようとくしゃくしゃの顔をしていたし、美里は黙ったまま近くの女子たちとテレビ番組のネタで盛り上がっていた。その辺はよくわからない。


 菱本先生が入ってきて、ちらっと上総の方を見た。

「立村、もうだいぶよくなったのか」

「はい」

 最低限の返事だけ返した。

「他の先生たちのところへ、ちゃんと補習用のプリントもらいに行ってこいよ」

「わかりました」

 腫れ物に触るような態度だが、それでもかまわなかった。菱本先生に関してのみ、遮断用シャッターは下りていた。はたして父と珈琲を挟んでどういう会話をしたのかは想像つかないが。手におえない息子のことをぐちったのだろうか。宿泊研修のごたごたについて不満たらたらだったのだろうか。

 ──他の奴にも同じようにできればいいのにな。

 隣りで古川こずえがささやいた。

「なあに、反抗してるのよねえ。まったくあんたったらガキなんだから」

「悪かったな」

 上総はつくえの中で手を動かし、封筒から「企画書」だけ抜き取り、ノートに挟み込んだ。教科書と重ねて机の上に置いた。授業が始まってから、ゆっくりと読もうと思った。こずえや南雲には気づかれないように、ぱらぱらとめくった。窓辺の美里は知らん顔して近くの席の子たちと明るくしゃべっている。

 そっと、めくってみた。レポート用紙に小さく「企画書」と上書きされていた。評議委員会関係の書類の顔をしていた。上の方でステイプラーによって留められていたので、一枚ずつめくってみた。


 ──立村くんへ

 これから書くことは、私から立村くんへの提案です。

 私が立村くんになにしてほしいか、ってことはずっと前から話してきました。

 けど、昨日の話でそれができないということがわかりました。

 だったらしかたないので、私の方でどうしたらいいかを書かせてもらいます。

 もし、これでよかったら、放課後、自転車のところへ来てください。

 これでだめだったら、しかたないのでつきあいやめてもいいです。


 立村くんがあまり、私に家のこととかそういう話をしたくないってことがわかりました。

 だったらもう無理にそういう話はしなくてもかまいません。別にそういう話がなくたって、立村くんと話をすることはできます。今までそうだったし。評議委員会のこととか、クラスのこととか、そういう話をずっとしてきたんだったら、それでもいいです。

 ただ、私は立村くんに、ひとつだけお願いがあります。

 私にしか話せないことを、ひとつだけ、教えてください。

 貴史とか、南雲くんには話せないこと、たったひとつだけでいいです。

 立村くんは六月に、私のことをひいきするって言ってくれましたよね。

 別に他の人たちの前で変なことしてほしいなんて思ってません。

 ただ、ひとつだけ、立村くんの秘密を持っていたいだけです。

 なんでもいいです。本当にしょうもないことで大丈夫です。言いたくないことがあればそれはそれでしかたないと思います。それ以上突っ込んだりしません。ただ、ひとつだけ、そういうのがあれば、立村くんが私をひいきしてくれたと思えます。

 

 立村くんだけにそういうのを要求するのはフェアじゃないので、私も立村くんにだけ、秘密を話します。

 それは、あの藤野詩子ちゃんのことです。

 すでに貴史からも聞かされているかもしれませんが、詩子ちゃんと私は小学校時代ものすごく仲がよかったんです。でも、六年の半ばから、だんだん女子と一緒にべたべたするのがいやになりました。理由なんてわかんないけど、詩子ちゃんのように私にまとわりついてくるのがうっとおしかったんです。

 だから、青大附属に受かって詩子ちゃんと離れられたのがとってもうれしかった。

 こんなこと思っちゃいけないとわかっていたけど、本当にすっきりしました。

 このあたりは貴史にも話しているのでたぶん、秘密じゃないですね。


 今年の一学期に立村くんとこずえがふたりで、詩子ちゃんの写真が載っているチラシを見て話していたので、初めて彼女が日本舞踊を習っているということを知りました。前から立村くんのお母さんが日本舞踊とかそういうのに詳しいってことを聞いていたので、たぶん知っているんじゃないかなって思ってました。私も詩子ちゃんとは、後味悪い別れ方をしていたので、いつか仲直りしたいという気持ちはありましたし、たぶん立村くんも協力してくれるんじゃないかなと勝手に思ったりもしてました。本当は最初に相談したかったんです。

 でも、いろいろあって、この前の日舞の会みたいなことになってしまいました。

 立村くんが楽屋に連れていってくれてから、初めて詩子ちゃんに会いました。

 詩子ちゃんはやっぱり、立村くんの言うとおり「玉兎」という踊りを気に入っていなかったようです。 だから、ちゃんと立村くんの話していたことを全部教えました。でもそれ以上に、詩子ちゃんがわがままばかり言っているようにしか思えなくて、思いっきりひどいことを言いまくってしまいました。

 早い話、「友だちではいられない」ってことです。

 今の詩子ちゃんとでは、どうしても友だちとしての付き合いができないし、私もがまんできないと思ったからです。詩子ちゃんにとっては、もしかしたら私は友だちなのかもしれないけれども、また小学校の時のようにべったりした付き合いをしたいのだったら、私は耐えられないと思いました。

 この話はまだ、貴史にもしてません。打ち明けたのは立村くん、ひとりだけです。


 でも、詩子ちゃんと永遠に絶交したいというわけではありません。

 もし、詩子ちゃんがあの「玉兎」という踊りに誇りを持ってくれて、あの桃太郎っぽい衣装でも堂々としていたら、私は元の友だちに戻れたかもしれません。そして、他の踊りをするようになってもっと、自信を持って私と話をしてくれたら、その時は仲良しに戻りたいと思ってます。

 この話は立村くんにしかできません。立村くんは詩子ちゃんのことをちょこっとは知っているし、日本舞踊のことも舞台のことも、私よりももっと詳しいはずです。だから、お願いします。立村くんに詩子ちゃんのことを相談させてください。貴史にはここまで話すつもりありません。


 もう一度書きます。

 もし、この条件でつきあいを続けてもいい、というんだったら放課後、自転車置き場で待っていてください。私も誰にも言いません。立村くんも言わないでください。お願いします。

 ──清坂美里


 上総は二回読み返した。授業はまだ始まっていない。すぐに目を通した後、かばんの中にしまいこんだ。

 ──放課後か。秘密か。

 あの藤野詩子があいかわらずすねた態度を取っていたのを、上総は覚えていた。

 たぶん何かひともんちゃくあったのだろうとは思ったけれども聞かずにおいた。

 ──清坂氏も、ずいぶん言うよなあ。

 納得はする。美里が詩子のような甘えたがりの女子に対して冷たい視線を送っているのは、二年の付き合いゆえ重々承知していた。でも、よりによって楽屋の中でそういうことを言うとは想像していなかった。

 ──でも、永遠に絶交したいわけじゃないとも言ってるな。そうなんだ。

 「企画書」の内容は上総の想像をはるかに超えていた。

 美里はつきあいをやめないと主張していた。さらに言うなら、上総にあまり踏み込まないという譲歩案まで出してくれている。

 ──こんなにしてくれるだけの価値、俺にあるのか?

 きっぱり、言いたいことを伝えた時の覚悟がだんだん揺らいでくるのを感じた。

 突き崩した積み木を、次の瞬間もっとわかりやすい形に作り直してくれたような感じだった。

 ──これで、突っぱねたら、俺は人間としての付き合いもできない奴だよな。

 そっと後ろの羽飛を見た。窓際の美里を見た。最後に外の空をすかしてみた。

 白い空がうっすらと広がっていた。晴れているのに、光が押さえられた曖昧な天気だった。

 ──秘密か。

 美里にしか話さない秘密。

 上総は時計版を覗き込んだ。放課後まで授業は六時間挟まっていた。

 ──清坂氏はどう思うかわからないけど、藤野さんとのことを考えたら、俺ができることはきっと、あるはずだから。だから。

 美里の求める付き合いとは違うかもしれないけれど、上総は自分のことばで、もう一度伝えたかった。もう打ち明けることが怖いと思わない。雲を突き抜けた奥にちらつく青空が見えるようだった。

2 羽飛貴史が気付いたもの


 美里の性格を熟知している貴史にとって、立村が何を言っても無駄だということはよくわかっていた。

 ──あいつは簡単にあきらめる女じゃねえからな。

 約束どおり「竜宮上」のソフトクリームをおごってもらった後も、家に戻って家族に土産話をした時も、貴史はずっと次の日の展開を考えていた。

 ──立村が美里を振ったってことかよ。まあな。あいつも相当神経参ってたみたいだしなあ。けど、美里が「告白」って形にひっくり返すって言い放ったってことは、まだまだ付け入る隙があるってことだよなあ。あいつも、どういうこと考えているんだか。

 「あいつ」とは美里なのか、それとも立村なのか。

 やたらと小ぶりで腹の足しになりそうになかった弁当を思い起こしながら、貴史は目を閉じた。いつもだったら部屋の真ん中にべたべた貼っている鈴蘭優のポスターにチューするのが日課だが、それすら忘れた。


 もし、立村が宿泊研修の時に、ああいう事件を起こさなかったとしたら。

 たぶん貴史は、別の方法で美里と立村をくっつけてやるべく手段を考えていただろう。もちろん立村のように停学すれすれのことをやらかすほどばかではない。美里を巻き込む形で、他の男子たちに協力させて、立村のジェラシーを掻き立ててやろうと思っていた。

 ──男はな、追っかけるほど、燃えるんだ。この前教えただろ、美里。

 小学校時代の野郎連中に美里と一緒に歩かせるかデートさせるか何かして、立村に吹き込んで、思いっきり嫉妬に狂わせて、最後には美里を独占しようという行動に出させる。これは想像するだけでも楽しかった。だから二学期に入ったらふたりを思いっきりいちゃついたカップルにしてやろうというのが、貴史の思惑だった。

 しかしあっさりと予定は覆り、立村の本心らしきものをすべてめくってしまった。

 美里も気付いていたのだろうが、貴史にすらうちあけてくれなかった本心。

 ──立村、お前、本当はそうじゃなかったのかよ。

 ──俺が惚れてたのは、美里じゃねかったのかよ。

 自分がずっとこしらえてきた微妙な繋がりを、立村はあっさりと断ち切ってしまった。

 美里はもちろん、自分の「彼氏」としての裏切りを知ってショックだったろうが、貴史だって「親友」としての繋がりを拒絶されてしまったわけだ。


 どうすればよかったのかわからぬうちに、目覚めた。朝がくればいつもの儀式、鈴蘭優のシングル「風の鼓動」を目覚まし代わりにテープで流す。家を出て美里を誘う。いつものように学校に向かう。

「美里、結局、何たくらんでるんだ?」

「ないしょ」

「内緒って、まさかお前、やらしいこと考えてるんじゃねえだろうなあ」

「なによやらしいことって。そういうことを想像するあんたの方が変なのよ」

 美里の横顔は、作っているのかすっきりしていた。少なくとも「振られたばかり」の女顔ではなかった。

「しかし、お前なあ、藤野とはどうだったんだ」

「たいしたことないよ。これもないしょ」

 これ見よがしではない。さぐってほしいわけではない。ただ、内緒にしているだけ。

 ──俺には何でも話してたくせにな。何考えてるんだ、美里。


 立村が教室にいて、古川こずえたちと相変わらず漫才をかましていた。

「寝ている間何してたのさ。あ、そうっか。思いっきり自己発電してたんでしょ。ベットでね」

「古川さん、一週間会わないでいたけど、全然会話変わってないな」

「当たり前でしょ。それよりもどうなのよ。体力消耗しなかったの」

「何が楽しくてそういう話に返事しなくてはならないんだ。昨日は死んでたんだ。あるところでさんざん人使いの荒い人にこき使われてたんだ」

「へえ、そんな激しい運動してたのかあ。でも持久力のことを将来考えると必要かもね」

「ああ、激しかった。一日中駆けずり回ってたからさ」

 会話の内容を耳にするに、いつも通りだった。

 ちらっと立村に視線を送り、挨拶代わりに頷いてみせ、自分の席についた。

 美里がノート一冊入る程度の封筒を立村に渡しているのが見えた。

 ──あれか、「告白」にひっくり返す作戦ってのは。


 授業が始まる前、ずっとふたりの様子をうかがっていた。あまり露骨に気付かれないようにしたけれどもなかなかそうも行かない。消しゴムを落とした振りをしてはちらっと覗き込み、窓際の美里がいつも通りけらけら笑っているのを聞いた。ついでに南雲が立村へなにかと話し掛けているのをじくじくする思いで眺めた。

 ──なんであいつ、立村にああも話し掛けるんだ? 次期規律委員長様だからかよ。

 この前、南雲に投げかけられた言葉がまだ響いている。

 ──勘違い野郎。俺がもし美里に惚れてたら、立村に譲るなんてことしねえよ。そんなにお人よしかと思ってたのか。もしそういうことするとしたら。

 貴史はひとつだけ、例外のパターンを頭の中に描いた。

 ──美里が救いようのない馬鹿男に惚れるか惚れられるかして、人生アウトになりそうだったらだ。恋愛なんかじゃねえよ。親友を助けるために、「つきあった」ふりはするかもしれねえ。ああそうさ。そのくらいの演技はいくらでも俺だってできる。けどな、今、曲がりなりにも美里とつきあっているのは立村だ。南雲、お前みたいな奴じゃねえ。だったら、俺が動くことなんてねえってわかってるだろ。

 振り返った立村と目が合った。そのまま美里に目を向けていた。

 何かを感じたのだろうか。貴史は知らん振りをしていねむりこいたふりをしていた。

  立村は休み時間ほとんど姿を消していた。別に驚くことではない。青大附属のお約束たること、「休んだあとは補習プリントの嵐に見舞われる」のだから。四日間休んだ以上、量は半端なもんじゃないだろう。南雲と話をすることが多かったようで、結局貴史とはほとんど言葉をかわさなかった。美里も話し掛けていなかった。


 帰りの会が終わってから、軽く「お先に」と告げて去っていった立村を、貴史は見るともなしに見送っていた。が、次の瞬間美里が立ったまま立村の背を見つめていたのに驚いた。すぐに近づいて尋ねた。

「美里、どうしたんだ」

「どうしよう、帰っちゃった」

「は? そりゃ家があるんだ帰るに決まってるだろ」

「違う」

 周りにはほとんど気付かれていない。なのにふたりは会話が続かない。

「貴史、悪いけど私も帰るから」

 意味が通じない。そのまま美里は教室を飛び出した。

「おい、待てよ」


 なんで追いかけてしまったのかわからない。貴史は玄関を出るところでふと足を留めた。

 美里が精一杯走り続けたのを、九月の段階では追いかけて留めることもできた。

 でも今は、こっそりつけたほうがいい。

 ──だから美里、猿知恵だっていうんだよな。全く。

 顔を覆い、目をこすりながら美里は自転車置き場へ向かった。こう言う時、貴史は黙ってついていく。美里も貴史がひとりで行動しようとする時、いつもそうだった。気付かれないように、美里の様子をうかがうだけだった。

 銀杏の葉がだいぶ色づいていた。一枚、まだいきいきしたまま落ちている葉を踏んで歩いた。美里の足取りは重たい。相当、参ったに違いない。ふだんだったらちゃかしつつも、「なあに落ち込んでるんだ? ったく、ひとりでなに勇み足やらかしてるんだよ」と頭を叩いてやるのだろうが、そうはできない雰囲気だった。ぶら下げたかばんが揺れている。

 スパイには向いていない。自分でいうのもなんだが、こっそりあとをつけるのはいやらしい。

「美里、悪いが先に帰るからな」

 急ぎ足で貴史は美里を追い抜いた。はっとした表情を向ける美里だが、それ以上声をかけることはなかった。

 いったい美里が何を考えていたのか、わかるようでわからない。

 たぶん立村に最終通告を突きつけたのか、それとも泣き落としをかけたのか。

 ──あいつは負ける勝負をする奴じゃねえからな。

 自転車置き場で自分の愛車を引き出すと、貴史はゆっくりと校門へ回った。どちらにせよ、校門を抜けないと自転車組は学校から出られない。この辺でもう一度スタンバイしていようと決めた。

 盗み見するのは汚いけれど、待っているなら別にかまわないだろう。

 偶然を装うのもひとつの手だ。


 校門に戻り、自転車をつけた。部活に入っていない連中が貴史の顔を見て、

「あれ? 今日は清坂さんと一緒じゃないの?」

 と声をかける。おそらく美里と付き合っていると思われているのかもしれない。立村と美里が公認の関係になった現在でもそうなのだから、前はさらにそうだったのだろう。貴史は首を振ってついでに手を挙げた。関係ねえよ、の意味だ。

 ──立村は校門を出てねえのか。

 大急ぎで教室を飛び出していったのを見たから、帰ったとしたらとっくだろう。

 美里が泣き出さんばかりで「行っちゃった」と口走ったのだから。

 ──けどな、立村のことだ。評議委員会の関係かもしれないだろ。本条先輩とまた「ホモ説」のやり直ししているのかもしれねえしな。

 ──しっかし美里にせよ、立村にせよ、なんで俺にこんな面倒かけるんだよ。ったく、ガキじゃねえんだから、自分のことは自分でやれってんだよな。美里はいいさ、まだあいつだって一応は女子だ。紳士であれってことだからな。けど立村。お前、もっとましな大人だと思ってたのにな。もう少し男として、それなりのことしろよ。まるで俺はお前と美里の保護者じゃねえか。

 ──保護者?

 風が首筋をすり抜けた。

 ──そうだぜ。南雲さっさと気付けよ。俺と美里と立村とは、お前と奈良岡のねーさんとは違うんだ。単に別れてくっついていちゃついてって、そんなあっさり終わるような関係じゃねえんだ。どっちがくっついても別れても、ずっと盛り上がっていけるんだ。そんなことも気付いてねえなんて、所詮お前もそれまでだな。

 どこにいるのかわからない南雲に思いっきり、悪態をついてやった。

 生で口には出さない。自分だけがわかってれば十分だ。

 自分の位置を見極めているから、貴史は今、校門にいる。

 美里がひとりで戻ってくるか、それとも立村を捕まえてふたりで帰ってくるかは神のみぞ知る。

 だいぶ人がひけた。校門の前で空を見上げながら漫画を引っ張り出して読んだりしているが落ち着かず、後ろばかり振り向いていた。

 ──美里、おせえなあ。

 「ないしょ」と秘密めかした口調を思い出し、貴史は深く深呼吸をした。

 ──だからお前だって俺に男心の研究についてもう少し突っ込めばよかったんじゃねえのか。まさか別のところで泣いてるなんて言わねえだろうなあ。立村と別れて修羅場だったなんていうなよな。

 三十分近くたったけれども、まだ立村が通った形跡はなかった。また美里もいなかった。自転車通学の連中の中にふたりはいなかった。

 ──まさかまさかとは思うが、もっとすげえことしてるんじゃねえだろうなあ。

 よく学園漫画のエピソードに出てきそうなラブストーリーが思い浮かび思いっきり受けた。

 美里がヒロインだなんていったら笑いすぎて臍が取れそうだ。

 

「美里、おい、美里か」

 目を凝らすと、見覚えのある自転車が砂利を弾いていた。貴史が知らず知らずのうちに名を呼んでいた。

 遠くから見ても美里だと分かるおかっぱ髪が遠めでも揺れていた。表情はわからなかった。

 ──ひとりだ。

 ──立村はいないか。

 ──待ち人、来ないって奴か。

 貴史は校門の影から出て、真っ正面から美里を待った。途中で自転車を止めた様子。美里らしき自転車の主が降りて、ゆっくりと引いて進み始めた。かすかに頷いているように見えた。手は振らなかった。

 ──泣いてなんか、ねえよな。


 貴史は仁王立ちのまま、じっと目を凝らしつづけた。美里が逃げずに近づいてくるのを待った。


 


3 清坂美里の受け取った答え


 昨日、徹夜して何度も書き直したレポート用紙。表紙には「企画書」と書いておいた。

 ふつうの手紙で書こうものなら、他の男子連中に立村くんが奪われてしまい、物笑いになる可能性大だからだ。美里なりに最善を尽くすとこういう形になる。

 ──これでも、いやだって言うならしかたないよね。

 夜中の三時にやっと納得できるものが仕上がった。もう一度机の中におさまっている着物姿の立村くん写真を取り出し、両手で温めた。闇の中、じっと胸に抱いた。

 ──どうか、うまくいきますように。


 貴史には詩子ちゃんとのことを話さなかった。話すタイミングがずれただけだった。

 一応立村くんに突きつけられた三行半の件のみ、伝えた。

 最低限の会話だったし、貴史もめずらしくつっこんでこなかった。だから、今のところ詩子ちゃんとの会話は美里の胸に収められている。

 簡単に言いたい話題ではなかったからなおさらだった。家に帰ってあらためて思うと、自分でもずいぶん残酷なことを言ってしまったものだ。美里は嘘をついたつもりがない。むしろいつかははっきりと口にしなくっちゃと思っていた。でも、その重さが楽屋の中では和菓子の甘さ以上にくるものがなかった。

 ──だって、せっかく一生懸命踊ったんだから、もっと堂々としててほしかったんだもん。詩子ちゃんは小学校の時ずっとりりしくて、くだらない男子の悪口を無視して、気に入らない女子たちとは堂々と喧嘩してたんだ。そんな詩子ちゃんが私は大好きだったんだよ。けど、どうして六年になってからああなっちゃったのか、私にはわかんない。

 ──中学違ったって、友だちでいられたはずだよ。ふつうにしてればね。

 ──私は詩子ちゃんと、ふつうの友だちでいたかっただけだよ。

 ──そんなべたべたした、トイレに行くのも一緒、どこにいても私と同じ班になりたがる、そんなのがすごくいやだっただけだよ。そういう子じゃなくなっていたらって、どっかで思ってたのに。

 ──全然変わってないじゃない。詩子ちゃん。

 身勝手かもしれないけれど、美里の方が裏切られた気持ちだった。親姉妹、そして貴史にも言えないことをつい、詩子ちゃん本人にぶつけてしまった。自分だったら百発くらい言い返すだろうが、詩子ちゃんはただにらみつけるだけだった。たぶんこれで友情らしきものは終りだろう。立村くんにせよ詩子ちゃんにせよ、どうして自分はここまで人間関係を壊すのが得意なのだろう。後悔はしないからなおさらやっかいだ。

 ──こういう時、誰かに話したいよね。

 桃太郎風のベストっぽい衣裳に桃色の短い着物を着た少女。兎の耳を白い鉢巻につけていた詩子ちゃん。

 ──詩子ちゃん、衣裳は変だと思ったけど、蟹股踊りは変だと思ったけど、でも舞台では堂々としてたよ。あんな詩子ちゃんだったらよかったんだよ。

 ──そうだよ、昨日の立村くんみたいに。

 「立村くん」という言葉が浮かんだとたん、一気に明日の答えが紡ぎ出されてきた。どうすれば立村くんに前言撤回させることができるだろう。ぼやけていた答えが、詩子ちゃんの舞台と会話を思い出したとたん、あっさりと思い浮かんだ。

 ──だから「企画書」なのよ。立村くん。

 美里は大きめの茶封筒に「企画書」を詰めて、封をしないままかばんにしまった。

 

 立村くんはたぶん、美里の求める付き合いができないだろう。あらためて思うのだが立村くんはかなり強情だ。どんなに美里が頼んでおだててみても、全く微動だにしなかった。覚悟を決めたら絶対に動かさないタイプなのだろう。なんとなくそういうところを感じないわけではなかったけれども、自分がターゲットにされるとかなり苦しい。

 でも、美里や貴史のことを「友だちとしては一番大切な存在」とも言っていたではないか。

 美里が「これはひっくり返せる!」と掴んだのはこのあたりだ。

 今まで美里は立村くんが、自分のことをどう考えているのかを掴みかねていた。もちろん多くの友だちの中では仲のいい方だと思っていたし、つきあいをかけたときだって「清坂氏をひいきする」と断言してくれた。それなりのことをしてくれた。でも、一年の杉本梨南さんや、こずえとかとはかなり仲良くしているようだし、「その他大勢」の扱いなのではという不安もないわけじゃなかった。

 ──でも、立村くんは、貴史と私を、特別な人だって思ってくれてたみたいだ。

 ──貴史と一緒ってのがちょっとね、ひっかかるけど。でも、女子では私を特別にしてくれてるってことは確かなんだ。立村くんの口からはっきり引っ張り出せたのは収穫だよ。

 嫌われているなら脈がないとあきらめるしかないけれど、脈は大ありじゃないか。

 要は、美里側の要求と立村くん側の要求をすり合わせた形で、もう一度検討をお願いすればすむことだ。

 ずっとひとりで考えた後、出した結論を「企画書」に詰め込んだ。


 次の日は天気がうす曇だった。貴史と誘い合いいつものように話をしつつ教室に向かう。やはり立村くんが先に到着していた。こずえを相手にまた夫婦漫才やらかしている。顔は青白いままだけど、こずえを相手にするのだったらそんな気を遣わないですむのだろう。こういうつきあいを立村くんは求めているのだろうか。

 ──私だってできるのに。

 美里はつぶやいた。昨日のことなんて水に流したような顔をこしらえた。

「立村くん、あのね、企画書。あとでひとりで読んで」

 和室で冷たい視線を投げかけた時の立村くんとは違い、相変わらず目が定まらない。

「あ、あの清坂氏」

「だから企画書だってば」

 ──大丈夫、ちゃんと、立村くんならわかってくれるはず。

 六時間、美里は知らん顔して通すことに決めていた。どんなことがあっても、提案した答えを教室では受け取りたくなかった。立村くんはじっくり考えて答えを出したい人だろう。だから六時間、考える時間をあげた。美里のできる譲歩はここまでだ。

 ──たったひとつだけでいいから、立村くんと私の秘密がほしいの。

 ──それだけでいいよ。私、立村くんのプライバシーをしつこく突っ込むことしないから。

 ──貴史にも、南雲くんにも言っていない、私だけの秘密をください。

 隣りのこずえが「こいつ何やってるんだろ」と言いたげな目で美里と立村くんを見つめていた。でも何も言わなかった。後ろで貴史も美里をちらちら眺めていたが、やはり何も言わなかった。

 ふたりとも、気付いていても言わないでいてくれる。

 ──ありがと、貴史、こずえ。やっぱりあんたたちは私の親友だよ。

 ──私、詩子ちゃんに言ったこと、後悔しなくていいよね。


 立村くんの様子は特別変わったところもなかった。評議委員として最低の会話を交わすこともなかった。仕事がそれほどないというのもあったのだろうか。六時間目が終わるのを時計とにらめっこして待ち、美里は号令をかけた。帰りの会が終わるまでは、立村くんを見ないと決めていた。

「お先に」

 すり抜ける声。美里は立ち上がった。

「あ、立村くん」

 思わず声が出た。立村くんは知らん顔して、一言だけ残して教室を出ていってしまった。


「美里、どうしたんだ」

 相当まぬけな顔をしていたのだろう。貴史がかばんを頭に載せたままやってきた。

 そうとうお笑いの格好をしているのに、それを笑えない。

 ──帰っちゃった。立村くんが。

 心の中でとどめておきたかったのに、貴史の側では言葉がもれる。

「どうしよう、帰っちゃった」

 日本語わからない外国人風に肩をすくめ、貴史が返す。

「は? そりゃ家があるんだ帰るに決まってるだろ」

「違う!」

 両手を握り締めた。怖くてがたがた震えてくる。強い口調にひいたのか、貴史が顔をのぞきこんできた。何か言われる前に逃げたい。どうしていいかわからない。

「貴史、悪いけど私も帰るから」

 いつもならば貴史をひっぱってってさんざん立村くんのつれなさをぐちることだろう。もしくは手伝わせて立村くんを捕獲することを考えるだろう。それが美里のいつものやり方だ。でも、立村くんにそれは通用しない。どんなに美里が言葉を尽くしたって、立村くんは「清坂氏の求めることはできない」と言い放つだけだろう。ああいうことを言える人ではないと思っていた。言わないでずっと優しくしてくれる人だと思っていた。でもとうとう美里は立村くんを追い詰めてしまった。

 ──なんでよ。どうして立村くん帰っちゃうのよ。

 ──ちゃんと自転車置き場で待っているって「企画書」に書いたよね。私。

 ──立村くん、どうして。

 勝ち目のない戦いはしない。だから「企画書」を渡した。

 でも、それが甘かったのかもしれない。

 ──そんな、そんな。

「おい、待てよ」

 貴史の声が追いかけてくる。振り切って美里は歩いた。予想に反して貴史はそれ以上追いかけてこなかった。ありがたかった。今にもぱちんとはじけそうな涙の塊を、見られたくなかった。


 自転車置き場は銀杏並木の真下に位置していた。雨にぬれないようちゃんと屋根がついていた。自転車をひっぱりだして、もう一度砂利道を横切って走り、校門に出る。 

 美里はサドルに腰を押し付けたまま、かばんを籠に入れた。

 ──来るわけ、ないか。

 さっき貴史が急ぎ足で

「先に帰るからな」

 と去っていたところを見ると、たぶん美里の計画はばれていないのだろう。貴史にも最低限のことしか話していないのだから当然だ。結構美里と貴史とはお互いの考えが読めてしまうので、心配そうにくっつかれたらたまったものではなかった。

「あれ、美里、今日は立村くんと帰るの?」

 同じく自転車通学の同級生に声をかけられ、美里は、

「うん、そうだよ」

 と答えてしまった。もう二度と帰らないかもしれないのに、条件反射で。

 一通り顔見知りの子たちが自転車と一緒に帰った後、美里は時計を覗いた。まだ十分くらいしか経っていなかった。いつも立村くんは適当なところに自転車を押し込んでいた。銀色の細身な自転車だった。手入れはよくされている。籠はついていないので後ろにひもでくくりつけていた。そっと近づいてみて、ハンドルのところを指先で触れてみた。冷たかった。


 一時間待ってもこなかったら帰ろう。

 時計の針が四時にあと五分近づいた頃だった。

「清坂氏、遅くなってごめん」

 背中で声が聞こえた。振り向く前に美里は唇を一文字に結び直した。でないと、表情が丸見えだから。

「立村くん、来たんだ」

 一本調子の声で答えた。声が震えるのをできるだけ聞かせたくなかった。

「どうして向こう側から来たの。ずっと生徒玄関の方見てたけどいなかったから」

「うん、後ろの窓から飛び降りた」

「え?」

 言っている意味がわからない。じっと美里は立村くんの顔を見つめた。嘘じゃないかを確かめた。

「四日間休んだ分、補習があるから先生たち全部に頭下げてきて、予定を決めてきた。生徒玄関から出るとたぶん、遅くなるから、職員室の窓から」

 確かに職員室の窓から自転車置き場は真っ正面だ。最短距離ではある。

「誰にも見られなかったの」

「わからない。窓はあきっぱなし」

 遠くの反射光が見えなかった。たぶんあそこから立村くんは走ってきたのだろう。

 靴が黒の上靴だというのが、嘘じゃない証拠だった。立村くんは少しだけ息を切らせていた。片手には茶封筒を丸めていた。美里の渡した「企画書」だろう。でもふらついていなかった。真っ正面から美里の顔を見つめていた。昨日よりもまだ、温もりのこもったまなざしだった。

 言葉が出なかった。出すと、泣けてきそうだから。

 立村くんは美里の目を見たまま、ゆっくりと言葉を発した。

「昨日の夜、藤野さんの様子を『なおらい』っていうか、お疲れ様の会みたいなところで観察していたんだ。俺もやはり、気になっていたところがあったから。確かに機嫌はよくなかったみたいだし、俺が清坂氏の知り合いだってことで、かなり考えるところがあったみたいだ。それ以上のことは話していないからわからないけれど、でも初舞台が無事に終わったことそのものはよかったと思っているようだった。だから、何がどうってことはまだないけどさ。でも」

 息をついで、企画書を丸めたまま持ち替えた。

「今は放っておいてやった方がいいと思う。まだまだ時間があるし、それに、俺もちょくちょくそっちの情報を仕入れて清坂氏に教えたりすることもたぶんできると思うから」

 この間一切、立村くんは視線をゆるがせなかった。

「私に教えるって、その、日本舞踊のこととか、詩子ちゃんのこととか?」

「うん。もし清坂氏がよければ。それとさ」

 しばらく口篭もるように、美里の自転車の籠をいじり始めた。

「もうひとつ、約束があったよな」

 ──私と、立村くんとの、秘密。

 さすがにここではうつむいた。立村くんは籠に企画書の入っているらしい茶封筒をぽんと入れた。

「本条先輩が、公立受けるんだ」


 ──本条先輩が?

 驚きよりも何よりも、美里の頭に浮かんだ言葉。

「本条先輩と、秘密とどう関係あるのよ」

 同じく平坦なままの言葉で答えた。

「今年の七月、評議委員会合宿の時、聞かされたんだ」

 そういえば立村くんは評議委員会合宿中ずっと、本条先輩にべったりくっついていた。泊る部屋も一緒、行動するも一緒。ふたたび「本条・立村ホモ説」がささやかれるのも無理はないような状況だった。

「でも、どうしてなの」

「今日の朝、直接本条先輩に聞きに行ったんだ。直接はっきり聞いてみた。そうしたら、家の事情で青潟から出るか、それとも上のお兄さんと一緒に青潟に残るか、選択を迫られたらしいんだ。それで、本条先輩は公立に行くかわりに、青潟に残ることを選んだって」

 立村くんは息をとめずに勢い良く続けた。

「三ヶ月聞かないでいたの? 私だったらどんどん追及しちゃうな」

「聞いたらだめだと思ってたんだ。だから賭けだった。本当のことを言っても、もしかしたらうまく行くかもしれないって思ったから」

「立村くん、嬉しかったの?」

 美里はゆっくりと尋ねた。

「うん、公立に行かれることがずっとショックだった。けど、青潟にいなくなるよりはずっといいって、今はそう思ってる。三ヶ月悩むよりも、そっちの方がよかったって、今はそう思うんだ」

 ずっと籠の中に目を落としたまま立村くんが話している。美里はゆっくりとつぶやいた。

「本条先輩がいなくなることって、そんなに立村くんには大きいことなの」

「こんなこと言ったらまたホモ説だとか言われるんだろうな」

 かすかに笑みを浮かべ、立村くんは片足をかけるようにして美里に向き直った。

「俺にとってあの人は、いつかああいう風になりたいっていう相手だから。どんなに口に出しても伝わらないって思ってたんだ。変な意味じゃない。ああいう風に人を上手に使って、巧く評議委員会を仕切って、それでいて後輩たちに思いやりを持っている。そんな人なんだ。けど、そんなこと言うとまた、ホモ説を吹かれるだけだと思って羽飛にも清坂氏にも言わなかったんだ。でも今の清坂氏なら、そういう気持ちをわかってくれるかもしれないってちょっとだけ思った。だから」

 立村くんが語る言葉よりも、その眼の光を美里は受け止めた。逸らさなかった。

「わかった。合格」

 まだみずみずしい黄葉した銀杏を拾った。ほおっと肩が下りたように見えた。

「だから、これからも、お願いします」

 茎をつまんで立村くんに差し出した。受け取り、ほんの少し見下ろす感じで立村くんも答えてくれた。

「先は長いけど、こちらこそよろしくお願いします」


 正直なところ、どうして本条先輩の公立進学が立村くんにとっての秘密なのか、腑に落ちないところもあった。立村くんにとって本条先輩が最大の憧れだというのは想像ついていたし、美里も公立進学という話は初耳だった。ショックがないとは言えない。成績のいい本条先輩がなぜ、そういう究極の選択をせざるをえなかったのだろう。

 ──もっと、別の秘密ってなかったのかな。立村くん。

 まだ未練が残っている自分に気付く。

 ──だって、本条先輩が公立受験するってことは、来月あたりになったらばれちゃうよ。立村くんが三ヶ月真剣に理由を聞くか聞かないか悩んでいたのはわかるけど、そんなの秘密じゃないよ。

 もっと別の言葉をほしがっていたのかもしれない。

 もっと別のことをしてほしかったのかもしれない。

 立村くんが籠に目を向けたままひとりがたりしている間、気持ちが右往左往していた。拍子抜けしたという感じだった。もっと、つきあいたい同士だったらすることがあるはず。言ってくれることがあるはず。 ──私のことを、本当はどう思ってるのかとか、ね。

 でも、語っている間の立村くんを見ていると、話の内容などどうでもよくなっていた。本条先輩が公立に行こうが行くまいか、関係ない。横顔がひきつり、何度も瞬きをして、つんとつついたら崩れそうな程早口にしゃべりつづける立村くん。あまり美里が見たことのない姿だった。 

 ──だから、今はそれだけでいいよ。立村くん。

 ──私に、今まで見せないところを見せてくれたんだから。今はそれでよしとしとく。

「清坂氏、悪いんだけど、今日はもう一度職員室に戻って補習の資料をもらってくるから。先に帰っていていい。もし羽飛がいるようだったら一緒に帰ってもいいしさ」

「え? また戻るの? まさか窓から?」

「いや、生徒玄関から。上履きの泥落としてもう一度行って来るんだ。それに開けっ放しの窓を閉めないとあとで怒られる」

 自転車を押しながら立村くんと並んで歩いた。生徒玄関の前でもう一度、頭を下げた。

「じゃあ、わかった。また明日ね」

 立村くんは素早くすのこの上で靴を脱ぎ、なんどか地面に叩きつけていた。知らん顔して上がってしまってもいいのに。こういうところが律儀な人だ。

 

 美里は背を向けて校門に向かって自転車をこいだ。砂利道の石が勢い良すぎて遠くに飛んだ。とたん、目の前にいる制服姿の男子に気が付いた。

 ──貴史、先に帰ったはずなのになんでいるのよ。

 自転車を止め、下りた。美里は一度立ち止まって正面から貴史の姿を見据えた。

 ──待っててくれたの?

 今までのパターンからすると不思議なことではない。だんだん身体が温かくなってきた。風で冷え切った手が、ぬくもってきた。今起こったことを、立村くんとの内緒部分を覗いて、すべて話すことができる相手が、そこにいる。きっと、喜んでくれる奴がそこにいる。

 ──貴史、貴史、あのね。私、立村くんと。

「どうしたんだお前」

「あのね、立村くんと」

 言葉にならなかった。立村くんの前では涙が出なかったのに、貴史の前では平気だった。思いっきりしゃくりあげた。鼻水がずるずる言う。ハンカチで押さえた。

「奴と会ったのか」

「うん、今までどおりでいいって」

「今までどおり?」

「うん、立村くんは私と貴史、同じくらい大切だって言ってくれたんだ。だから、これから」

 あとは言葉にならなかった。

「ほらほら、ひでえ顔だぜお前。ほらさっさと動くぞ。よくわからんがうまくいったんだったら今日はたいやきを一匹おごれよ。めでてえなってことでな」

 貴史があきれた顔して文句を言っている。通りすがりの鯛焼き屋さんで焼きたての二匹を包んでもらった。 

「何隠してるんだよ」

「ないしょ」

 こつんと額をつつかれた。貴史にたいやきの入った包を渡し、美里は千切って口に放り込んだ。

「貴史、これからも男子の心理についてレクチャー、よろしくね」

 美里は半分しっぽの方を千切ると、貴史の口に無理やり押し込んだ。

「おい、お前なにするんだよ。あちい、まじで口の中やけどするかと思ったぜ。」

 口をさするようにしてあがあがさせながら、貴史が必死に飲み込んでいる。面白い。にやにやしながら眺めていると、貴史ははあはあ舌をぴろぴろさせながら、

「ったく、俺って美里と立村の親代わりじゃねえかよ。世話の焼ける奴らだぜ。まあまかせとけ! 俺が全部面倒みてやるぜ」

 

 いつか自分を取り戻した詩子ちゃんと友情復活できるかもしれない。

 まだまだ先の話かもしれないけれども、できればその時まで立村くんにいっぱい相談にのってほしい。

 今の立村くんにとっては美里に打ち明けられる秘密が本条先輩のことくらいなのかもしれない。

 物足りないけど。ちっちゃな一歩だけど。

 

 ──どうせこれから、貴史と同じくらい立村くんとも秘密が増えていくはずだもんね。第一段階突破ってとこで、いいかな。ね、貴史。


 


                                       ───終───

 


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