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第七章



1 立村上総の朝から昼まで


 来週からくずれるらしい天気も、日曜の今日はさっぱりと晴れていた。

「上総、ほら、さっさと乗りなさいよ」

 母が朝八時半に迎えに現われた。自分でバスに乗っていくつもりだったのだけど、

「あんたに来る途中で倒れられたら段取りおかしくなっちゃうでしょ。今回だけ特別よ。全く、軟弱なんだから」

「手伝わせるんだったらそのくらいしてくれたっていいだろ。交通費どうせ出ないんだし」

「親に向かって言う言葉なの? 全くあんたって子は」

 大抵母は気が立っている。催し物が控えている日はなおさらだ。茶会の時も、華展の時も、いつも上総がパシリとしてひっぱりだされる時に、機嫌のいい日はまずない。

「どうせ制服で行けばいいだろ」

「そんなわけないでしょうが。持ってないわけじゃないんだから、黒のいいスーツ着ていきなさいよ。まさか、つんつるてんになったわけでもないでしょ。あんた背、伸びてないんだから」

 ──人の気にしてることをよく言うよな。

 言われた通り、晴れの日用の黒いスーツに着替え、ちゃんとネクタイも締めた。そこでもまた母からチェックが入った。

「だから上総、なんで喪服みたいな格好にするのよ。ネクタイは少し遊んでいいのよ。あ、和也くん、この子に合いそうなのはない? ほら、少し緑が入ったチェックの持っていたでしょ。あれ貸して」

 抵抗することなくわざわざ自分から持ってくる父が情けない。目と目が合った。「わが身を思えばさからうな」と言いたいのだろう。過去の経験からして。受け取って自分で締め直した。さすがに母は、「締めてくれる」ことはない。その辺だけははっきりしていた。

「それじゃあ、上総を借りていくわ。また後でね」

 父は何も言わずに頷いて、見送ってくれた。


 下ろしたてのワイシャツとスーツ、ほんのりと樟脳の匂いが残ったネクタイ。首筋から嗅ぎなれない匂いがよじ登ってくる。すぐに車の窓を開けた。助手席で外を眺めながら上総は母のお言葉を聞き流していた。

「今回は小道具大道具みな、会館の人に任せてるって話だからそれほど心配してないのよ。まあその分お金かかるけどね。とにかくあんたは私の部屋で待機してもらえればいいのよ。衣装とか化粧とか順番を呼びに行ってもらったり、花束届いたら運んだり、楽屋にたどり着けない人がいたら連れて行ってあげたりとかね」

「私の部屋って、母さん専用の部屋あるのかよ」

「当たり前でしょ。せっかくだからって、今回無理を言って」

 ──横暴極まりないよな。この人は。

 たぶん楽屋の案内が中心なのだ、とは見当がついた。何度か手伝いをしているのでその辺のパターンはつかめている。女性の手伝いの方もいるのだろうし、楽屋内でうろちょろするのは、やはり気が引けるということもある。また、母の顔で「ごあいさつ」にいらっしゃる方も想像以上に多いのだろう。

たぶんそのあたりをさばけばいいってことだ。

 ──ほとんど外に出なくていいってことか。

「ところで上総、あんた風邪良くなったの?」

 初めて母は、上総を気遣うような言葉をもらした。

「もう大丈夫。今日のために学校四日間休んだから」

「そうね、今日倒れられたらしゃれにならないわ。学校なんてしょせん、いくらでも代えられるけれど、舞台はそうじゃないからね」

 ──簡単に変更できるわけないだろう? この人何考えてるんだ?

 少しむかついた。返事をせず、遠めで青く透き通っていく山々を眺めていた。

「これだけは言っとくわ」

 信号で車を止めて、マニキュアの光った爪でつんつんと肩をつついてきた。当然無視だ。

「上総、いくらでも学校なんて代えられるのよ。逃げたかったら逃げ出しな。でも、死んだら終りだってことは忘れるんじゃないよ」

「わかってるよ、うるさいな」

 自分の両親が友だちの親と異なる学校観を持っているのは小さい頃から知っていた。無理に学校に行かなくてもいい。どうしても耐えられなかったら学校を休んでもいい。ただし勉強は家で続けること。それが条件だった。大抵の家庭では通用しない論理らしく「どんなことがあっても学校に行け!」と怒鳴られるらしい。

 ──でも、うちの親にそう言われると休みたくなくなるんだよな。よくわからないけど。うちで勉強するよりもそっちの方が楽だとか思ってさ。

「まあ、最悪の場合だけど」

 母はアクセルを踏みながらつぶやいた。

「住所登録だけを私のアパートにして、他の公立中学に転校ということもできるから、いざとなったら考えときな」

 ──品山の学校に行かなくても、いいってことか。

 情けないことだけど、すうっと肩から力が抜けた。断固として窓を向いた。今の完全に溶けきった自分の顔を、母にだけは見られたくなかった。青大附中を退学するという最悪の場合でも、本品山中学に編入することだけはないと母は言いたかったらしかった。


 青潟市民会館の楽屋口に到着した。すでに人がだいぶ揃っているらしい。車を駐車場につけた後、紙袋を四つ上総に持たせて入って行った。

「おはようございます。本日はどうぞ宜しくお願いいたします。うちの師匠、まだいらしてません?」

 受け付けの方に尋ねるとまだらしい。母はすばやくスリッパをふたりぶんすのこ脇の籠からひっぱりだした。

「それじゃ、まずは掃除ね。上総、ほうきとちりとり、あとバケツ持ってきて。私はお茶の準備するから」

 返事をしたくないので上総も受け付けの人に、掃除用具の場所を尋ねすぐに労働体制に入った。自分を単なる働くマシンとして位置付けると、母に何を言われてもめげずにすむ。めげないふりができる。


 畳二十畳くらいの大部屋が出演者の楽屋、四畳半の部屋を四部屋とってあってそこが、会主、および他の先生たち、最後に水組み場隣りの小さな部屋がありそこだけが母の場所となるらしい。部屋といえるところではない。ただお茶くみの方がちょっとだけ腰を下ろす場所という感じみたいだった。実際問題、上総と母が身を寄せ合って正座する程度の広さしかない。荷物をざくっと置いて軽く部屋の掃除を行った後、母のいい付け通りに動いた。上総が昨夜のうちに書いておいた出演者案内用張り紙をそれぞれの部屋前に貼り付けること、お茶菓子を籠に分配して部屋に置いておくこと。お弁当到着後の分配についてなどなど。かなり早口で機嫌悪げだが、出す指示そのものはわかりやすい。

 ──本条先輩並みだな。

 比較するのが本条先輩というところだけは、認めてほしいと思う。

 しくじって落ち込む暇がないので、楽だった。うっかり空いた時間ができると、忘れたいことを思い出してしまうから。

 ──羽飛、清坂氏たちくるんだろうな。

 ──まあいいか。どうせ、俺は楽屋にかんづめだろうし。

 ──けど、顔を合わせた時は、もう、終わりだろうな。

 少しずつ現われる出演者のみなさまたちに、「おはようございます。宜しくお願いします」と一つ覚えの言葉を繰り返す。みな華やいだ着物や、裾にだけ柄の入った着物やら、背中に紋の入った着物やら、まとって現われた。みな共通しているのは、和装ケースをはじめとして手に荷物がわんさと抱えられていることだろう。ほとんどの場合蒔物だろう。

 気になった一人を探した。やはり、一番後から現われた。

「ほら、詩子、あんたがとろとろしてるから!」

「そんなの私のせいじゃないんだもの」

「今日は大変なんだから、機嫌よくしなさいよ」

 相変わらず言い合っている親子の声が聞こえた。若草色の地に銀色の模様が裾と胸元に入った和服を纏った少女が、いた。帯は銀色の、遠くから見てもきらきら光る素材のもの。背中に亀が張り付いたような感じで結ばれていた。頭のてっぺんにくるくるとまきつけられ、鹿の子模様のりぼんで覆われていた。口紅だけが真っ赤だった。尖らせているのがもったいない、と上総は思った。


 会主の師匠が現われ、パシリその一たる上総は大部屋に走った。もちろん母の命令だ。

「先生がいらっしゃいましたので、みなさん集まってください」

 みなまだ、荷物を受け取ったりばたばたしたりと落ち着かない様子だった。ふくさに封筒を包んでみなぞろぞろと出て行く。中には着物を脱ごうとしている人もいた。

 上総は完全にその点部外者なので、出演者が集まっている間はおとなしく母の部屋にこもっていた。母の話からすると、あとは言われるとおりこき使われればそれでいいらしいし、お弁当ももらえるらしい。自分の頭で不必要に考えなくてもいい手伝いらしかった。そこんところが評議委員会とは異なる。楽なところだった。

「あとは衣装さん、地方さん、顔師さん、大道具小道具さんたちにお弁当を運んでよ。ほら、今届いたから」

 いつものことである。返事をしないで上総は立ち上がった。この辺はもうお手の物だ。人数分をメモした後、赤いじゅうたんの上を走った。頭の中によけいな隙間を作りたくなかった。まだ開演まで時間がある。仕事がたくさんあって、貴史や美里のことを考えなくてもいいようにしてほしかった。


 楽屋の廊下を走っているとだんだん大部屋の人々が出入り激しくなっていった。どうやら一斉に浴衣へのお着替えが始まったらしかった。ふつう女子更衣室なんかを覗き込もうもんなら半殺しにされるのは目に見えているけれども、なぜかここでは違和感がなかった。男の自分が用事あってひょこひょこ出入りしても、誰も気にしていない様子だった。まあ上総からしても、白いドレス姿でうろうろしている人々の群れ、としか映らないので、グラビア写真集を見た時のような心臓の鼓動は感じない。肌襦袢とすそよけ、と呼ばれる和装下着でもって構成はされているらしい。細長く畳まれた浴衣を引っ張り出し、簡単な帯で腰を結わえていた。最後に桃色、橙色、その他いろいろなうわっぱりを用意して上から羽織っていた。だいぶ落ち着いたらしくみなお茶をすすっていた。

 どうしても目が行くのが、一番奥でぶっきらぼうに膝を抱えている藤野詩子の姿だった。相変わらずすねているのだろう。上総も正直なところ、ごもっともなとこだと思っている。下ざらいで母と一戦交わしたのも関係しているのだろうが、あれ以来ずっと詩子は上総をにらみつけてくる。どうしてかわからないけれども、怖いのでうつむいて目を合わせないようにはしている。母と繋がりのある人々とは不要な会話を交わさないようにしておくのが、わが身を守る方法だ。

 上総としては決して彼女が嫌いなわけではない。同じクラスだったら、たぶん近寄らないタイプだろうと思うけれども、あいさつはするだろう。清坂美里の友だちらしいとも聞く。たぶん、それなりに会話を交わしたりはできただろう。あくまでも、学校では。

 でも、いったん日本舞踊というフィルターがかかると話は変わってくる。上総にとって、母の繋がりで垣間見る「日本伝統芸能」の世界は、やはり嫌いではないし、むしろ面白いと思う。三味線や鼓の響きも、洋楽のロック系のものよりはなじみいい。あまり人には言えないけれども、はるかに心が楽な音楽の系統だ。しかし、一度その幕がかかると、ふつうに会話できる人々がどんどん遠くなっていく。決して先まで進んではいけない、という大きなたて看板が目の前に見えるような気がする。

 その典型が藤野詩子だった。

 たぶん同じ年だろう。でも、お互いに会話を交わすことを頑なに拒んでいる。できればこのまま一切口を利きたくない。嫌いだからではなくて、この空気の中では繋がりを最低限のものにしておきたい。それが関係を保っていく唯一の方法ではないだろうか。他の日本舞踊関係の女性に対してもそうだけれども、特に、藤野詩子には強く感じていた。

 ただ、

 ──あの衣装は、辛いだろうな。

 下ざらいでちらっと見た清元「玉兎」の衣装だが、袖なしのちゃんちゃんこみたいなものを羽織り、膝くらいの着物をきっちり纏い、頭には耳鉢巻をつける。兎の耳がついている。鬘は時代劇のちょんまげを小さめに結ったような感じだった。下ざらいだから化粧はしていない。なおさら違和感があったのかもしれない。

 あとで母に聞いたところ、本来は金太郎がしているようなひし形の「腹掛け」に、「肉じばん」と呼ばれる下着のようなものを着るのだそうだ。足首のないタイツのようなものを履いて踊るのが正式なのだが、

「やはり女の子だからね。着物にしたのよ」

 とのことだった。自分が藤野詩子の立場だったら卒倒するだろう。見る分には面白いと素直に思うけれども、ただもう少し。

 ──他の子が、振袖のかわいらしいのを踊っているんだからさ、もう少し演目なんとかならなかったのかな。その辺の事情よくわからないけどさ。

 上総はぼんやりと、藤野詩子のむくれっつらを眺めながら思った。


「そろそろ本番ですよ、みんな、髪の毛解いて顔洗ってきて。羽二重してちょうだい。ほら、化粧落としておいてよ。早くしないとあなた順番先でしょ。ほら、詩子ちゃんも顔を洗ってらっしゃい」

 順番としては「玉兎」はかなり前だった。お名取さんたちが入門の順番からか後ろに回っている。プログラムの構成らしいが、その辺もよくわからない。

「わかりました!」

 返事をしたのはお母さんだ。かなり、娘の初舞台とあって血が頭に昇っているらしかった。娘を叱り、他の人にはぺこぺこしつつも、やはり上総の母に対しては心穏やかならないものがあったのだろう。

 ──あの人は敵作るからなあ。

 楽屋にたどり着くのに迷いつづけるお客さんたちを案内したりしているうちに時間はどんどん流れていった。「浅妻船」「お染久松」「藤娘」「屋敷娘」それぞれの扮装が出来上がっていく。まだ鬘を被っていないので頭だけ紫色の布で隠したお坊さんに見えた。廊下をうろうろしつつ、椅子に座っている姿を眺めているだけでも笑えた。


 十一時開演で、序は師匠の「北州」から始まった。らしい。順番としてはあと、四番ほどで藤野詩子の出番「玉兎」だ。十二時過ぎだろう。

 手の空いている時に食事を終わらせて起きたかった。

「母さん、どうせこれからもっと混むだろうから、俺も弁当食べていいかな」

「そうね。まあ落ち着いてきたし、楽屋にあまり男がうろつくのもご機嫌よくない子いるらしいしね」

「なんだよ、その言い方さ」

 自分の方が気にしていたのだが、母は無視していたのだ。いきなり文句を言われても困る。

「いやね、あんたなんかを男だと思ってる子いないと思ったんだけどね。やはりお年頃の子がいるといろいろ面倒よ」

 ──やっぱりな。

 出所はたぶん藤野詩子あたりだろう。それとも大学生のお姉さんたちだろうか。いつもながら向けられた視線を思い返して上総はため息をついた。誰がときめくかって。

「じゃあ悪いんだけどあんた、ここで荷物見ていてくれる? 新名取の子の面倒見てこなくちゃいけないし、しばらくは他の子も手伝ってくれるから。どうせあんたにはこれから荷物運びとかなんとかいろいろあるからね。そうそう、私宛てになんか届いたら。まあそういうことはないと思うけどね。預かっといてくれる?」

 すでに部屋には、和楽器と洋楽器のコラポレーション関係で繋がりのある方から、大きな蘭の鉢植えが届いていた。ちゃんと部屋に飾られている。

「わかった。どうせ上手の方にいるんだろ。用があったら呼びに行く」

 お盆にかつサンドのつつみを置いてくれた。

 戸口には「時辻」と、母の苗字が張り出されていた。「立村」でないところがみそだ。荷物運びも大変だろう。帰り、この蘭の花、どうするつもりなんだろう。花に話し掛けてみた。

「なんか、俺って馬鹿だよな」

 あっという間に弁当を平らげた後、誰かがふすまの前に立っているようなけはいを感じた。よくあることだ。母のお客さんだろうか。お祝い持ってきたりしたのだろうか。

「すみません、母は今、上手の方に」

 言いかけて、息を呑んだ。ふすまを滑らせた手が止まった。

「……羽飛」

 

 制服姿の貴史が無言で立っていた。そこまでが上総の記憶だった。あとは覚えていない。一発、頬に張り手が飛んできた。倒れる瞬間にすばやくふすまを閉じたので、たぶん誰にも気付かれなかっただろう。もちろん貴史も敷居をまたいで部屋に入ってきている。ふたりきりで、初めて対峙した時に上総は覚悟を決めた。

 ──こうなって当然なんだ。

2 羽飛貴史の昼下がり


 開場三十分前には到着していた方がいい。そう親たちにも言われた。正式な格好をするよりも、制服で出かけた方が一番無難だという姉の意見ももっともだ。やたらと襟のきつきつなワイシャツや、丈の短くなった小学校時代のスーツとか、そんなものよりも楽な方がいい。美里には、

「あんた、なんで制服なんかでいくのさ。全く、あんたってば洒落っ気ないんだもんね」

 とあきれられた。美里の格好はというと、予告どおりひらひらしたうすねずみ色のワンピースだ。ちゃんと胸に白い花までつけてきた。そこまで気合入れてめかしこむ必要あるのか、と貴史の方が尋ねたかった。もっとも美里のことを良く知っている貴史としては、下手なことを口走ったら自分の身が危ないのでよけいなことは言わなかった。

 ふたりともあえて、口には出さない。

 あの場所で、誰に会うのかも。

 プログラムを見ると、演目の四番目に藤野詩子の「玉兎」が載っている。日本舞踊については全くわからないが、やたらと漢字ひらがなの羅列という印象が強い。どうせ、途中で何か食ってロビーで寝てればいいだろう。美里は美里なりに藤野のところへ行く用事があるかもしれないが。

 到着して、楽屋に向かうまではそう思っていた。


「じゃあさあ、貴史、先に詩子ちゃんところに行ってくるね。あんた、その辺にいるよね。まだ始まってないしね」

 めかしこんだ美里は、手鏡らしきものを取り出しいろいろ表情をチェックし始めた。

「顔しつこく見たってよくなるわけでもねえのに」

「うるさいわね。あんたの方こそもう少しまともな格好しなよ。ほんっとあんたってば」

 ぴしゃんと叩かれた。痛くはない。

「じゃあ、俺もその辺でジュース飲んでるぜ。しっかしこの辺って暑苦しいよなあ」

 チケットと引き換えにもらった「志遠流おさらい会」のプログラムを開いてすぐに閉じた。

 ロビーにたむろする集団はみな、着物を纏った女性ばかり。年齢層は広い。帯を平たくたたんで背中にしょった人もいれば、金銀の布でこしらえた亀みたいなものを背中にくっつけたきれいな人もいる。ただみな、髪の毛を上にあげているので顔の分別がつかない。みな同じ人に見える。またやたらと頭を下げて「本日はおめでとうございます」と繰り返しているのが謎だった。手には複数個の紙手提げをぶら下げ走り回る人もいた。いつだったか鈴蘭優ちゃんのコンサートで来たことのあるロビーとは雰囲気が全く異なっていた。

 ──あんときもなあ。楽屋の入り方っていい方法ないかって話してたんだよなあ。

 ──楽屋?

 キーワードがぴたっとくっついたような気がする。

 同じ年代の連中がいないかどうかをぐるっと見回し確認した。

 ──もしかしたら。

 美里が向かった先も、楽屋のはずだった。美里の推理が当たっているとするならば、そこにはもうひとり美里の会わねばならない奴がいるはずだ。四日間姿をくらましている相手がいるはずだ。

 ──立村、いるのか?

 頭の中にある鍵穴に、ぐいと入った鍵。

 行動するスイッチが入った。

 ──楽屋だな。言い訳すればいいか。美里が戻ってこないからついてきたってことにするか。

 貴史は制服のネクタイを結び直した。襟のところだけを指でなぞり、はみだしてないか確かめた。完璧だ。学校では絶対にしない、完璧な違反なしの格好だ。「非常口」のランプがついた目立たない入り口を探し、着物姿の女性群にくっついていった。やはり楽屋へ向かうのだろう。その辺貴史は嗅覚がするどかった。


 「靴を脱いでください」と張り紙されているけれども、前の女性軍団は無視してぞうりのままあがっていっていた。当然貴史も真似をした。幅一メートルくらいはある通路、ちょうど舞台の袖が見えた。横にはスポットライトやちゃらちゃらした花飾りとか、天井からぶら下がっていた。中にはすでに、鬘を被った時代劇の女優さんっぽい格好の人が椅子に腰掛けていた。椅子って言うのがなんだか妙だ。また黒い忍者の格好をした人が顔を出してうろついている。時代劇の撮影現場ってこんな感じなのだろうか。できれば大正時代の卒業式っぽい格好を、ぜひ鈴蘭優ちゃんにしてもらいたいと思った。まかり間違っても美里には似合わないだろう。それだけは断言したかった。


 着物女性軍団についていくと、やがて突き当たりに辿りついた。途中、藤の花を背負って黒い帽子のようなものを被りポーズをとっている場所にぶつかり驚いたりもした。記念撮影を、どうやらここでは廊下で行っているらしい。藤野かもしれないと顔を覗いたが、真っ白く顔を塗ってある意味お化けじみた雰囲気だったので判断はできない。たぶん「藤娘」ではなかったような気がした。

「きれいねえ、やっぱり『藤娘』はいいわよねえ」

 ──美人がやればな。

 ようやく楽屋らしい匂いが漂ってきた。大部屋、小部屋、色々並んでいる。戸はあけっぱなしのところもあれば、きっちりと閉じている部屋もある。とにかくうるさいことだけは確かだった。なんでここまでガキの声がうるさいんだろう。またすれちがった時代劇扮装の人を眺めながら、美里の姿を探した。かなりめかしこんできた美里でも、この環境下ではありんこレベルの認識しかされないだろう。

 ──かわいそうな奴だ。まったくな。

 大部屋に向かったのかもしれない。一瞬足を留めた。湯沸し所らしきところの壁に、一枚紙が貼られていた。

 ──もしかして、これってな。

 「時辻」と、見慣れた文字が並んでいた。

 ──美里、見たのか。

 この前、コピーしてくれた立村のノートにも、同じような筆跡が残っていたはずだ。力が抜けたような、見ただけでは絶対に男の書いた文字だとは思えない書き方。習字の時間も文字だけはきれいだと誉められている。時辻という苗字が仮に、立村だとするならば。

 ──奴はいるのか。

 躊躇する暇はなかった。美里もいなかった。部屋の前には誰もいなかった。

「すみません、母は今、上手の方に」

 立村の声だった。四日ぶりに聞く、か細い声だった。

 

 器用な奴だ。敷居をまたいだと思ったとたん、真横のふすまが自動ドアのように閉まった。自分の手が奴の頬を張り飛ばしていたのは条件反射だった。

 密室を作ってしまう立村、こいつはやはり普通じゃない。

 なんだか気が抜けて貴史は立村を見下ろした。

「なにびびってるんだよ」

 一言だけつぶやいた。伸ばした片足を立てて座りなおすようにして、立村は貴史の顔を見上げていた。静かだったが、貴史のぶつけた本気らしきものは「痛み」として残っているはずだろう。

 痛いなら文句を言えばいい。

 怒鳴ればいい。殴り返せばいい。

 反応してほしかった。

 やはり立村は指先で頬をさするだけで何も言わなかった。ぐっとうつむき、片膝をかかえていた。側には食べ終わった紙の弁当の空箱が放り出されていた。食事でもしていたのだろう。四畳半もない小さな部屋には、蘭の鉢植えやら、紙の手提げ袋やら、格子のボストンバックとか、荷物だけがごちゃっと詰まれていた。立村ひとりでいるわけではないということが伺えた。

「どうして来たのかって、聞かねえのかよ」

 返事をしない。だんまりを決め込もうというこいつのやり方だろう。いらだった。ねめつけた。

「どうしてなんも言わねえんだよ」

 やはり外に声が漏れるのはよくない。閉じられたふすまに響かないよう、貴史は言葉を押さえて続けた。

「時辻って苗字じゃねえかって美里が言ってたから、もしかしたらって思ったけどな。ここまでぴったりだとは俺も思わなかったぜ」

 息を呑んだように立村が顔を上げた。

「お前の母さん、時辻っていうんだろ。この前、廊下ですれ違ったきれいな人だろ」

 答えなかった。視線を蘭の花に向けていた。

 少し耳がはもっているように聞こえた。耳の穴を指先でほじった。自分の声が、なぜかいつもと違っていた。もう一度立村の目を見つめ返し、つぶやいた。

「お前と目の感じ、おんなじだったから、一発でわかるって」

 無言でうなだれたまま、唇を噛んでいた。けど、逃げ出さなかった。うつむいて、貴史の言葉を受け止めている。動こうとしなかった。嘘ではないということだけが伝わった。

 ──こいつの答えかよ。一年以上かかってやっとかよ。

 初めて貴史は自分のことばがたいらなまま、立村に伝わったことに気付いた。


 ──俺が最初から言えばよかったんだな。こいつには。

 ──俺が、先回りして言うしかねえんだな。こいつには何を言うにしても。

 ──美里も早く気付けよ。そこんとこ。

 たぶん南雲がささやいた通り、立村は美里と貴史がカップルになったとしても、抵抗なく友だちでいられると思っているのだろう。周りでもそう思われているのだから、神経過敏すぎる立村のことだたぶん、自分を守る価値がないと、思い込んでいるに違いない。。

 ──白状しろってどんなに責めたって、こいつには通じない。こいつには、俺のやり方が通じないんだ。だったら、どうする? 

 立村をはたいた時に残ったちりちりした指の痛みが、温もりに代わってきたような気がした。

 こいつが貴史の求める返事をすることはまずないだろう。そういう奴だ。教室で問い詰めても、美里に激しく罵られても、奴は内にこもるだけで何も言い返さなかった。今この場にて、思う存分殴りつけて言いたいことを怒鳴り散らしても何もしないだろう。明日以降も相変わらず冷たい態度で通すだけだろう。貶められることに立村はきっと、慣れている。怖いと思っていないのだろう。

 そういう立村のことが貴史は腹立たしかった。宿泊研修の時も、その前の前の時も、何も相談してくれなかった立村のことが許せなかった。でも、そのやり方しか知らない立村を責めることはもうできなかった。目の前で言葉とは違う返事を返して、これからどうすればいいか内で悩んでいるらしい立村を見ていると。

 追い詰めるのではなく、おびきよせる。怒鳴りつけるのではなく、話し掛ける。

 真っ正面からでない言葉を用いて、それでもつながりたかった。

 そう思える奴は立村以外今までいなかった。今でもひとりだけだった。

 ──大人になるしか、ねえのかよ。

 貴史と美里に問い詰められて言葉が出なくて能面状態だった立村を、今まで通りにひっぱりだしてやりたかった。貴史は深呼吸した。自然と気持ちがやわらいでいった。口を尖らせて息を吐き出した後、続けた。


「立村、さっきはごめん。ってか、この前も悪かった。俺も、美里も、言い過ぎたって思ってる」

 おそるおそるといった風に立村が貴史を見つめた。おびえているのがまだ見え見えだ。

「ぶっちゃけた話、宿泊研修の時、なんで俺に話もちかけてもっと別のやり方考えなかったのか、それが腹立ってただけだ。俺だったらクラス全員を味方につけて、狩野先生に電話をかけて、とにかく最後まで菱本先生を説得したと思うんだ。お前と菱本先生は天敵同士だから俺が代わりにやってもよかったと思う。俺そういうのは得意だからなあ。けどな、立村」

 学校では絶対に言えない。美里がいる場所では決して口にできないことを、さらにつなげた。

「お前、言えない性格だよな。そういうこと。俺の方が気付けばよかったんだよな」

 小さく首をふるしぐさをする立村へ、貴史は落ち着いたまま話し掛けた。

「もしな、もしかしてだけどな、友だちなくしたくなくて美里と付き合ってるんだったら、そんなのやめたっていいんだからな。俺は誰とくっついても、お前と友だちやめようなんて思ったことねえからな。お前らが別れても美里と友だちでいるのやめるわけねえし、たぶん美里だって、同じだと思うからな」


 かぼそい声が、立村の口からもれた。

「ごめん、羽飛」

「あやまるのは俺の方だ」

 初めて気付いたかのように立村は頭をもたげた。美里のことを忘れていたのだろう。「きよ」と小さくつぶやき、改めて、

「清坂氏、来てるんだろう」

 ふすまの方を指差した。

「今ごろ楽屋探してうろうろしてる」

 手首の時計を覗き込み、立村は側にほおっていたプログラムを広げた。

「藤野さんに会いにか」

「ああ、あいつと藤野、小学校の頃いろいろあって、喧嘩別れしてるんだ。たまたま招待されたらしくて俺もセットで来るようにと言われちまってさ」

 あまり詳しいことは話さなかった。

「だから、一応付き合いで来たって感じみたいだなあ。とりあえず挨拶にって、先に楽屋に行ったんだ。けどこの辺にはいねかったみたいだし」

 親指であごの先をなで、立村は立ち上がった。いつもクラスの教壇に立って、ロングホームルームの司会をしている姿に似ていた。何かをしようとしている奴の、前座の気配だった。

「藤野さんの順番からすると、そろそろ準備でばたついてるはずだ。舞台が終わった後の方がいいんじゃないかな」

「舞台って、なんだよ。俺その辺わからねえけど」

「清坂氏がいたら、そろそろ客席に戻るように言った方がいい。舞台終わってから改めて楽屋に来た方がいいと俺は思うから。それの方が藤野さんも落ち着くと思う」

 もう、貴史に殴られてうなだれていた姿は残っていなかった。貴史を見下ろすようにして、頷いた。

「本番前の人は、大抵そうだけど緊張しているんだ。そういう時によけいなことをされたり、さっきの話じゃないけれど清坂氏と藤野さんに何かがあったんだったら、かえって迷惑になると思う。だから、終わったら俺が連れて行ってもいい。羽飛、悪いけどさ、その辺を頼む」

「俺じゃねえだろ、先はともかく、今はお前、美里の相手だろ」

 貴史も立ち上がった。南雲のささやいた言葉を振り切るように。

「どっちにころぶにしろ、立村、美里と決着つけて来い」

 

 いきなりふすまが開いた。見覚えある大きな瞳の女性が立っていた。

「あらま、どうしたの上総、お友だち?」

 あの日すれ違った年増のべっぴんさんそのまんまだった。髪の毛を上げて派手な化粧をしているところは、日舞系の人と思えなくもないけれど、目だけが違う。らんらんと輝いているところ。絶対にこれは立村と血縁関係にある奴だと断言できる。頭だけで貴史はお辞儀をした。

「あの、母さん、あのさ」

 どもるように言葉をつなげ、立村は貴史の方を見た。

「俺の、青大附中の友だちで、羽飛くん。さっき別の友だちのあいさつで、ここ見つけてきてくれたんだ」

「あら、上総のお友だちね。偶然ねえ、この馬鹿息子と付き合うのって大変かもしれないけれど、どうかこれからも面倒見てやってね」

 膝に手を握り締めたまま、なぜか立村の顔は真っ赤に染まっていた。目をすぐにそらし、歯をかみ締めているようすだった。ただ、貴史を紹介してくれただけなのに、なぜこんな様子なのだろう。

 ──なんでそんな無理なことしてる顔してるんだよ、立村。

 つぶやこうとした。でもやめた。

 ──きっと、立村にはこれだけでも辛いことなんだろうなあ。俺には想像全然つかないけど。

「いや、こっちこそいつも、お世話になってます。はい」

 いきなり貴史の腕を掴み、立村は部屋から引きずり出そうとした。ずっと座っていたのでふらついた。足が痺れていた。

「なあによ、上総。せっかくだからお弁当持たせてあげなさいよ」

 うむを言わさずに銀色の小箱を押し付けられた。両手に納まる程度のお上品な箱だけどずっしりしている。立村の母らしきべっぴんさんは、明らかに貴史に聞こえるような口調でささやいていた、

「あんた、まともな友だちがいるんじゃないの」

「うるさいな、こんなところで言うなよ」

 明らかにこの二人は親子である。もういっぺんぺこりと頭を下げた後、貴史は立村に引きずられるような格好で部屋を出た。


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