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第六章

1 立村上総は青空のもとに闇をみる

 

 火曜日。台風の朝。貴史に小突かれ美里に罵られこずえに救われた時、上総は言葉を返す手段を見つけられなかった。

「ごめん、俺が悪かった」

 と繰り返すだけだった。四日たった土曜の朝、今ならば冷静に言い返してもよかったのではと思えるけれど。

 三日間ずっと同じ言葉を夢の中で繰り返してきた。

 ──すべて悪いのはわかってる、だから。

 ──ごめん、本当に、こんなことを考える俺が馬鹿なんだ。だから、だから。

 今なら、と上総は唇をかみ締め思う。口に出してみた。人前では言えない言葉だった。

「でも、許せないことは、許せないんだよな」


 上総が目を覚ました時、すでにカーテンは開け放たれていた。父が早朝、部屋に入ってきたのだろう。よどんだ空気を入れ替えてくれたのかもしれなかった。

 窓いっぱいに広がるのはなめらかな青空だった。秋らしく、玉子の白身を薄く延ばしたような光だった。枕から頭を持ち上げなくてもすうっと見える。

 南雲と一緒に、黄葉山のホテルで同じような空を眺めたことを覚えていた。

 ──もう、一ヶ月たったんだよな。

 だいぶ熱は引いた。

 実際高熱でうなされたのは火曜の夜からだった。台風の影響もあり、四時間目で早帰り。クラス全員の前での公開吊るし上げ。クラスの連中は当然、詳しい事情を探りたそうな顔をしていた。

 上総が評議委員かつ、野郎連中に日常から恩を売りまくっていることもあって、直接

「ねえ、結局なんで美里にあそこまで言われるわけ?」

 と追求されずにすんだ。クラスのために力を注ぐと見返りが返ってくる、ひとつの例だった。

 水曜の朝、父が仕事に行く前、車に乗せられて近所の病院で点滴を三十分打ってもらい、だいぶ体調はよくなった。しかし薬が合わなかったのだろう。一切食べ物が受け付けられない、無理して口に入れると吐き出してしまう、口にできるのは水だけという悲惨な状態に陥った。

 さすがに放任主義の父もまずいと思ったのだろう。食事を毎日上総の分だけ作ってくれた。取材の合間にはバイクで戻ってきて様子を見に来てくれた。一人ぼっちでうなされつつも、木曜にはだいぶ落ち着き、コーンスープくらいはおとなしく胃に収められるようになり、金曜にはおかゆを平らげた。だるいけれども、学校に行けないほどの体調ではない。

 ──いつもだったら、すぐに学校に行くのにな。

 天の青空をそのままローラースケートで走りたい気分。一年前だったら。

 青大附属に通うことが辛くなることなんてないと思っていた。

 ──小学校と同じことやってるのかよ。俺って学習能力なさすぎだよな。

 四日間風呂に入っていないのでシャワーを浴びたかった。棚の時計だと八時十分。間に合わないけれど、臭いままで出かけたくはない。急いで水浴びだけし、ブレザーに腕を通した。なんとなくするりと入る。身支度をして靴を履こうとした。

 父が後ろでけげんそうに上総を見ていた。

「上総、大丈夫なのか」

「わかんない」

 意味不明な返事を返した。

「無理するなよ」

 なんでチェックのからし色シャツにチノパンという軽い格好なのだろう。父にしては珍しかった。普段は形だけでも背広を手放さない。父と似ている好みだ。

「父さんも、今日はうちにいるの」

「有給消化さ」

「うん、わかった」

 意味が通っていない返事を返した。父の視線が背骨あたりにちくちく刺さった。


 午前八時半過ぎ。もうどうやったって学校には間に合わない。

 でも行けば遅刻扱いとはいえ出席になるだろう。あまり休み過ぎると後で補習の嵐となる。川べりのサイクリングロードをとろとろ進んだ。途中で漕ぐのがしんどくなり、自転車から降りた。

 ガクラン、セーラー服姿の生徒はひとりもいなかった。学校に吸い込まれたのだろう。

 すれ違ったのはエプロンをつけた若い女性と、五歳くらいの小さな子どもたちだった。二十人くらいはいただろうか。口をひん曲げた男の子が上総の顔を見上げて、

「顔、こわーい」

とつぶやいた。病み上がりで顔の輪郭が黒いのだろう。毎朝チェックする鏡の中、顔はくぼんでいた。

 ──幼稚園児におびえられてどうするっていうんだよ。

 幼稚園児たちの騒ぎがだんだんまろやかな響きとなり、最後は消えた。

 風がくるっと首筋を擦れて通った。漕いでいたせいか、寒気は感じなかった。

 上総は自転車を歩道に留めて、そっと土手から降りた。背の高い叢に膝を抱えて座り込んだ。雑草の中にもぐりこんでいると落ち着く。小学校時代の習慣だった。中学に入ってからはさすがにしなくなったけれども、久々のくせはやはり体になじんだ。

 目の前に流れる川は途中どくんどくんと波打った後、真っ直ぐ流れていった。空の青を水面に受けているのに、やはり陰が濃く映っていた。


 ──こんな性格の曲がった俺が悪いんだ。

 貴史も美里も誤解しているのだろうと、上総は思う。

 上総のことをいつも

「人の顔色ばかり見て気遣いばかりして」

と。

 裏を返すと思いやりがありすぎて裏目に出ている、実は憎めない奴だとみな思ってくれているらしい。だから喧嘩してもいつもかばってくれる。古川こずえも同じだった。青大附属の連中はいろいろあっても上総のことをそのまま受け入れてくれている。

 とんでもない勘違いだと大声で叫びたかった。

 ──こんな汚い性格の奴がいるかよ。わかるか、羽飛、お前は知らないだろ? 俺が小学校の時どれだけ人を見下してきたか。清坂氏、想像つかないだろ、俺が同じことをもし小学校の頃されてきたら、どんなことがあっても復讐していたにちがいないって。

 

 品山小学出身の児童が青大附属中学に合格したのは、四年ぶりだったという。合格者をめぐる地域差別が存在したのか、単に品山からの受験者が少なかったのかさだかではない。

 ──俺はあいつらと違うんだ。だから、青大附属に行く。

 さすがに口には出さなかったけれども、中学受験で勉強している間、思い上がったことばかり考えていたのを上総は覚えていた。二年前の高慢ちきな自分を絞め殺したくなる時だった。

 ──最低なのは俺だったってことに、どうしてあの時気付かなかったんだろう。

 膝を抱えて、顔を押し付けてズボンに涙を染みこませる。手で目をこすりすぎて痒くなってしまう。

 

 ──逃げたから追いかけられただけだよな。

 目を閉じると、まぶたの奥に蘇るのは壊れた自転車、土手、倒れて動かないかつての敵。

 三月、卒業式用のブレザーを着ていた浜野という名の天敵を、上総は自転車の輪でもって思いっきり突き飛ばした。ぎりぎりのラインで輪が残り、自分だけがサイクリングロードにのっかったままだった。

 ──ふつうの人だったら、こういう時、すぐに手を差し伸べるよな。

 ──涙流して感動するかもな。友情かもな。

 ──なのに俺は何をした?

 あの日まとっていった黒いマント風のコートが重たかった。決闘する以上は正装してやろうと決めていた。見下ろした時の、おなかからよじのぼってくる湯気のような感情はなんだったのだろう。見捨てて帰るのも、当然だとあの時は思った。勝利を確信して引き上げた。その後浜野が病院に運び込まれ、事の顛末について一切口に出さず、入学早々松葉杖の生活をするはめになったのを知らずにいた。

 

「こんなに私、わかろうとしてるのに、どうして逃げるのよ」

「わかってて私、あんたと付き合いたいって言ったんだよ」

「口でちゃんと、謝るか怒るかしてくれないと、届くものも届かないよ」

 いきなり貴史に

「ちょっとお前来い、話がある」

と掃除箱前に引きずられた時、何かの予感はあった。

 たぶん、怒鳴られるだろう。殴られるだろうと思っていた。でも、言い訳をしようとは思わなかった。いつかはこうなるんだ、いつかはこういう形で終りになるんだと、あきらめていた。

 美里が割り込んできて、

「あんたのやらかしたこと、すべて知っているんだからね!」

と言い切られた時、上総の中で、すべてが砕けた。


 もう、この場所にはいられない。この中にはいられない。

 どうして泣かなかったのだろう。一年前の自分だったら、がまんできずにしゃくりあげていたに決まっているのに。言い返すことができるだけの自分がいなかったのだろう。

 ──結局逃げて逃げて、逃げまくって捕まっただけだよな。

 ──そうなって当然だよな。

 ひとしきり涙を出し尽くすまで流した。声は出さない。部屋か、土手か。誰にも見られていない場所でない限り、涙は流せない。

 

 ──杉浦さんは正しいよ。俺がまともな神経を持っていたら、ちゃんと浜野たちの「好意」を受け入れて、感謝できたはずなんだ。

 

 いつぞや、浜野の恋人である杉浦加奈子が上総に語った言葉が今でも、耳に残っている。

「それは立村くんをみんなの仲間に入れようとしてしたことなのよ」

 加奈子の言葉と美里の言葉が重なっていくような気がした。風のざわめきに耳を夫妻でかばんを抱いた。

 ──けど、結局俺は、浜野にされたことを「好意」だなんて思えない。俺が悪いのはわかってる。どうしようもない泣き虫だったって、テレビも見ない、普通の漫画も読んだことない、こんな奴を仲間に入れてやろうとしてくれたのに、俺はどうしても感謝、できない。

 杉浦加奈子の言葉で、今まで青大附属で築き上げてきた自分の足場が崩れた。D組の人気者ふたりと仲良くしているし、青大附属評議委員として男子たちからの受けもよくなった。すべて、青大附属にふさわしい人間でありたい、貴史、美里と同じレベルの人間なんだと思い込みたかっただけなのかもしれない。偽者が本物とうまく付き合えるわけないのに。

 ──俺は、浜野たちを憎む権利なんてない。清坂氏、羽飛に怒る権利なんてないよ。そういう価値俺にはないから。ないんだ。

 背中の汗が引いたのか、冷たく風が頬にぶつかった。背筋が寒くなる。川はひっかかる場所を何度か通って、最後になだらかに流れていった。


 背骨にクラクションの音が響いた。

 振り返ると見覚えのある濃緑の自家用車がサイクリングロード沿いに止まっていた。

 ちょうど今、狙いをつけて留めたという感じだった。

 つややかな車。運転席と目が合った。

 ──父さん。

 ずる休み、ばればれだ。時計を覗くとちょうど九時だった。二十分くらい座り込んでいたのかもしれなかった。泣いていると時間の感覚がゆるくなる。

 運転席の父は、うちわで仰いだ風に手を揺らめかせた。来い、との意か。観念するしかない。上総は立ち上がった。頬が熱かった。たぶんおたふく風邪の患者さんみたくはれあがっているに違いない。


「自転車はトランクだ。お前は後ろの席に乗りなさい」

 怒らない人だった。小さい頃からそうだった。母には怒鳴られ平手打ちも数限りなくお見舞いされたけれども、父には叱られた記憶がほとんどない。むしろ間に入ってかばってくれるやさしい父だった。

「あのさ、俺は」

 父は首を振ってドアを指差した。

 笑っているでも、あきれているでもない。母がよく

「上総はお父さん似なのよねえ」

とため息をつく時、こういう表情を自分もしているのだろう。


 後ろの席にもぐりこむと、毛布がざっくりとたたまれて詰まれていた。

「寒かったらくるまってなさい」

 車酔いしやすい上総の指定席だった。長時間乗る時はいつも、毛布にくるまって横になっていた。言われた通り、かばんを足下に載せてから身体を毛布で包んだ。芋虫状態で横になった。

「言うの忘れたが、昨日、母さんから電話があった」

「え?」

「伝言だ。学校が辛いなら無理していくな。ただ、五日の日は万難排しても市民会館に来い、とのお言葉だ。以上」

 ──なんだよ、結局俺をこき使いたいのかよ。

 母さんの言いそうなことだ。

「もう学校に休みの電話は入れておいたから、家で寝てなさい。もうひとつ」

 父がサイドミラーを首かしげて見た。

「昨日の夕方、菱本先生と珈琲を飲んだ」

 ──あいつとかよ!

 吐き気がこみ上げそうになるのを毛布の端をかんでこらえた。

 青大附属中学最大の天敵・二年D組担任菱本先生。

「宿泊研修のことを全部聞かせてもらった。上総、質問したいんだが、いいか」

「わかった」

 いつか報告されるとは思っていたが、こんな体調不良の時に。ついてない。

 上総は首を竦めたまま、車の天井を見上げた。

「上総、お前、どうしてA組の先生の家に直接電話をかけなかったんだ?」

た。

 A組の、まもなく退学する予定の女子たちがひっそりと別れの晩餐合宿を行っていた。その中に割り込もうとたくらむ菱本先生に抗議するため、上総はあえて強硬手段を取った。貴史が激怒し、美里が涙し、菱本先生が鉄拳を上総に食らわせた、あの事件だった。

 とっくの昔に親には連絡が行っているだろうし、一度は退学も覚悟した。菱本先生の配慮で丸く収まったことになっている。少なくとも上総はあれ以来、菱本先生とぶつかり合っていない。

 父の言葉はおだやかな調子で耳に流れた。

「お前のしたことは、冷静に考えてリスクが高い。上総、お前のやり方は成功か失敗かすれすれの方法を取って、たまたま成功しただけだ。もっと確実性のある方法を考えるべきだったな」

 ──父さん、どういうことだよ。

 わからなくなり、さらに言葉が見つからない。

「でも、二回目にしては、上出来だ」

 ──小学校のことも、知ってるのかよ。誰も、なんも、言わなかったのに。

 寒気が走った。車がゆれ、ガソリンの匂いが咽につまる。父が細く運転席脇のガラスを開けてくれた。誰にも話したことのなかった決闘事件。あのことも、このことも、すべて父にはお見通しらしかった。


2 羽飛貴史は思わぬ言葉を跳ね返せない


 土曜日、古川こずえと南雲秋世の間の席が空いたままなのを、貴史は目の隅に捕らえていた。机の上には来月分の給食献立、学年便り、学級通信、連絡事項、いろいろプリントが積み上げられているが、帰りには必ず引っ込められている。土曜の帰りも古川こずえが全部、机の中にしまいこんでやっているからだろう。誰も授業中のコピーを取って入れてやったりはしない。恋人たる美里が本来は担当するところなのだろうが、あえて何もしないのがあいつの性格だ。

 貴史は美里と目配せして、教室を出た。

 台風はとっくの昔にぶあつい雲をかっさらって北上していってしまった。代わりに汗が出そうな程の暖かさが戻り、ジャケットは脱いだまま体育着バックに詰め込んだままだった。。


 美里は廊下で唇を結んだまま貴史を待っていた。かばんを軽く振りながら、

「あんたも呼び出されたんだよね」

「同じく。まったくなあ」

 理由は明白だった。なにせ火曜日の朝に立村を吊るし上げたのは、クラス全員が知っている。なぜ誰も騒ぎ立てなかったのか、なぜ南雲が割って入らなかったのか、貴史にも理解できない空気が流れていたのは知っている。たぶん、立村が何も言い返さなかったからだろう。四時間目までは何事もなく時が流れ、給食のパンと牛乳だけをかばんに詰め込んだ立村が教室を出て行くのを、貴史は黙って見送っていた。南雲にいちゃもんつけられるかと身構えたけれども、あいつも無視したままだった。つまり普段どおりってことだ。

「やっぱり、あのことかな」

「まあな」

「でもさ、貴史。私もあんたも、間違ったこと、言ってないよね」

 貴史は美里の瞳を覗き込んだ。どこまで本気なのかわからない。口ではそう言っても、揺れている語尾ひとつで裏返しの気持ちが読み取れる。

「古川にはどやされたんだろ」

「まあね」

 短く言葉を切った。廊下では生活委員会の週番連中が反省会を行っている。こそこそ窓際に張り付いて通り抜けた。

「貴史、あのさ」

 言葉が途切れ途切れだった。頷いて待った。

「私、いじめてるって思われてるのかな。立村くんに」

 何をだよ、と聞くのはやめた。美里の言葉だから、意味がすぐに通るから。わかったことを伝えたくて、上向き加減に頷いた。

「俺も同じことやってるんだ。おあいこだ」


 菱本先生はふたりを見つけるなり、手招きした。今日は職員室での尋問らしい。

「腹も空いてるだろ。簡単に聞きたいんだ」

 後ろからパイプ椅子を持ち出すよう指示して、座らせた。

「だいたい言いたいことわかってるって。先生」

 貴史得意の先制攻撃だ。弱いパンチだけど、勝手に割り込んでほしくない意味をこめて。

 菱本先生も言葉を飲み込んで茶色い茶をすすった。

「立村のことだろ。みんな聞いてるだろ。他の奴の告げ口かなんかで」

 ──たぶん、南雲あたりからな。

 個人名はあえて出さずにおいた。菱本先生は膝に両手を置いた後、深くため息をついた。

「お前ら、親友だって言ってたもんなあ」

「俺はな。美里は彼女だけど」

 瞬時に隣りから強烈なにらみの視線が飛んだ。後で怒られるのは覚悟だ。

「そんなんじゃないです!」

「まあまあ、わかってるわかってる。お前らふたりが、立村のことを心配しているってことはよくわかった。だから今は何も言わないでいるんだぞ。だがな、クラスの連中はそう思っていないのも事実なんだ。その辺を、今日は手短に聞きたいんだ」

「手短にこだわるよなあ、先生。もしかして今日デートかよ」

「ちゃかすなよ、まったく」

 どうやら図星らしい。独身、二十八歳。男性。彼女のひとりくらいはいるだろう。


 菱本先生の後ろで、他の生徒たちがそれぞれうろついていた。貴史と美里が並んでいるのを黙ってみているもの、何話しているか知りたそうな目で眺めているもの。いろいろいる。勝手にしろっていうんだ。悪いことをしているわけではないのだと、貴史はにらみ返した。中に数人、立村と仲のいい連中がいた。耳をそばだてているのかもしれなかった。


「立村は決してずる休みしているわけではないんだ。火曜からずっとひどい風邪を引いて寝込んでいると、立村のお父さんから連絡があった」

 ──おめでたい奴だぜ、先生。

 美里も同じ感想なのだろう。目配せしてきた。立村の場合、精神的に壊れるとまず、身体に症状が出ることを菱本先生は気付かないのだろう。

「だが、火曜の朝になにか、お互いなにかどんぱちやらかしたらしいという報告も入っているんだが、それについては本当なのかな、羽飛、清坂」

 真面目だが、鋭く突っ込もうとする様子ではない。

 ──大丈夫、交わせるぜ。

 貴史はあっさり答えた。

「いつかは言わねばなんねえなあって思ってたことがあってさ。けど、まあ、正直なところ言い過ぎたって反省はしてるんだ。先生。やっぱり人生経験十四年っていうのは、いろいろあるんだよなあ」

「だから、人生経験二十九歳の俺に相談しろって言ったんだ。まったく、羽飛もぶきっちょだな」

 あきれたように咽からため息を吐き出して、菱本先生は美里に視線を向けた。

「清坂、お前もそうとう、溜まってたらしいなあ」

 美里は答えなかった。そりゃそうだろう。自分の彼氏にあそこまで言いたい放題ぶつけたところを、あらためて省みるっていうのはなかなかできることじゃない。

「先生、美里に言うのは酷だぜ。こいつ、あとで古川にこってりしぼられたらしいからなあ」

 舌ににやけた言葉を載せてみた。美里が答えなくてもすむようにしたかった。別にかばったわけじゃない。かえってこいつの言葉で話が泥沼になるのを避けたかっただけだった。

「古川かあ、なるほどなあ」

「立村と古川は血の繋がっていない、あねおとうと、って奴だからさあ」

 うまくいった。菱本先生が声を上げて笑い出した。笑いを取れれば大抵は大丈夫だ。美里が虫歯の痛みをこらえたような顔でべそかいているのを、ちらちら見ながら貴史は続けた。

「でさ、先生。立村の様子はどうなんだよ。やっぱりああいうことあってから気になってしかたないんだ」

「だいぶよくなってはいるみたいだぞ。生死の境をさまよっているわけではなさそうだから安心しろ。ただな、羽飛」

 立村だったら

「なんかあると菱本先生のように『だがな、立村』って続けるのはやめてほしいよな」

と腹立たしげにつぶやく口癖だ。

 貴史だったらおとなしく聞き流す。それが一番だ。ふんふんと続けた。

「相手によっては時間がかかるのも忘れるなよ。お前たちが本当に立村のことを心配して言ってるのは俺もよくわかる。でなかったら本当のことは言えないよな。親友だからこそ言えることもあると思うんだ。ただ、かならずしも相手がそれを上手に受け止めてくれるとは限らないことも忘れるなよ。もし、まだこじれてしまうようだったら、お前らふたりだけで悩むのはやめろよ。さっきも羽飛が言った通り、人生経験十四年のお前らと、かける2の経験をもつ俺とだったら、まだまだ修羅場の数は違うんだから。ばかにできないぞ、この差はな」

 にやっと笑いかけてきた。

 ──修羅場の数か。先生。悪いけど俺も美里も、その倍修羅場を小学校で経験してるんだけどなあ。

 腹がすいて死にそうなのか、それとも彼女が待っているのか、両方なのか。菱本先生はすぐに立ち上がった。

「じゃあ、今日は帰っていいぞ。気をつけて帰るんだぞ」

「貴重なご意見、ありがとうございました!」

 結局、美里はほとんど口を利かないままだった。パイプ椅子を貴史の分もたたんで壁に立てかけるのを貴史はちらっと見て、職員室を出た。


「貴史、明日のことなんだけどさ」

 ふたりきりだと重い空気が流れる。切り替えたかったのだろう。

「ああ、そうだなあ。結局何を持っていくんだ? 藤野の喜びそうなものか?」

「うん、ゼリーみたいなするんと飲み込めるお菓子がいいんじゃないかって、お母さんに言われたの」

 美里もこの二週間は災難だろう。立村とのいさかいもさることながら、藤野詩子とのあまり楽しくない再会もあったりして、相当神経が疲れているはずだ。

「楽屋、行った方がいいよね」

「そりゃあ、招待してくれてありがとくらいはなあ」

「でも、あまり来てほしくない雰囲気だったんだ」

 言葉を濁した。そりゃまあ、そうだろう。美里と藤野との関係を考えるとわからなくもない。

「約束した以上は行かねばなんないだろう」

「でね、貴史」

 お互いの言葉の裏を、ようやく形にした。

「立村くん、来るかなあ」

「だよな」

 

 廊下で三年の男子たちと話をしている奴がいた。南雲だった。おそらく規律委員会の関係なのかもしれない。真面目な顔をした連中だった。貴史とはあまりかかわりたくないらしく、ふいっと向こうを向いていた。が、南雲だけがじいっとこちらを見つめ、返事をしろとばかりに視線を投げていた。

 売られたものは、喧嘩でなくても買うのが羽飛貴史の鉄則だ。

「なんだよ、文句あるのか?」

 三年の先輩たちを背に、南雲はつかつかと貴史と美里に近づいてきた。やはり、話したいことでもあったのだろう。貴史が思うに、菱本先生へ告げ口をしたのは南雲ではないかと予想していた。規律委員としての報告義務とでもいうのか。ちゃんと注意をしたのにも関わらず「いじめ」に近い行為をしていると、つるそうと思ったのだろう。奴なら考えられるだろう。

「別に」

 美里の方をちらっと見た。視線の意味が読み取れない。美里もきょとんとした目で見返している。女子にとって南雲のようなタイプは、決して不愉快な奴ではないらしい。こういう奴の本性を知って奈良岡も新しい彼氏をこしらえようとしたのだろう。よい傾向だ。

「言いたいことあれば俺に直接言えよ。お前だろ。立村をいじめてるとかなんとかって告げ口した奴は。別にそれはいいぜ。俺が誤解されるようなことを言ったのは確かだからな。でもなあ」

 言うべきことはここできっちり片をつけるのも貴史流だ。

 それが、といいたげに南雲は黙って聞いていた。

「なあなあで付き合い続けているお前なんかとは違うんだ。言いたいことをぶつけ合うことのどこが、いじめだっていうんだ?」

「別に、って言ってるだろ」

 何か言いたそうなのに口に出さない冷たい空気。美里も危険を察知したのか、すっと貴史の側に寄り添ってきた。初めて南雲の表情に緩んだものが流れた。

「俺はただ、いつか来る時がきたんだな、って思っただけだよ」

 耳もとに小さくささやき声を残し、去った。美里には聞こえないよう気遣ったようすだった。

「本当にくっつくべきは羽飛とお隣さんであって、りっちゃんでないんだってことだな。親友面してひでえ話だ」

「南雲てめえ!」

 ──あいつ、ぶん殴ってやる!

 逃げ足の速い奴だ。南雲はすぐに三年連中と混じり、背を向けた。これで二回目だ。手を出して一発殴りつけたいと思っても、何も言えない自分が取り残される。美里が側で目をしばたいていた。

「貴史、南雲くん何言ったのよ」

「別に、だけだ」


 美里とは帰り道、明日の日舞おさらい会についての待ち合わせについて話しながら帰った。

 あえて立村のことも、南雲のことも話さなかった。 

 ──勘違いするのもいいかげんにしろよ。美里と俺とがどういう付き合いなのか、外見でしか見てねえくせに。馬鹿じゃねえの、南雲。


3 清坂美里は信頼できるアドバイスを受け入れられるかもしれない


 三日間、真夜中に引き出しを開けて写真を見つめているなんて、きっと立村くんは思ってもいないのだろう。真面目にノートを取って、いつコピーしても大丈夫なようにしているなんて、想像もしていないのだろう。本当に熱を出しているのだったら、ひとりで何を考えているのだろう。

 ──怒ってよ。文句言ってよ。でないと、わかんないよ。

 いつも、泣き言を訴える先はこずえとなる。火曜以降どうもこずえとは話がしずらかった。向こうはそれほど気にしていないようすで、「おはよ、なあにふけた顔してるのよねえ。もしかしてあの日?」とつっこみにくるけれども。いつも通り触れないようにして話をしているが、このままでは落ち着かない。いやだ。思い切ってダイヤルを回した。


「なあによ、もう。言っちゃったことは後悔したって始まらないよ。美里も言いたいことたまっていたんだろうし、それはそれで仕方ないよ。けどね、あれはちょっとまずいと思ったから、私はやめさせたってだけ。美里や羽飛のことを嫌いになったわけじゃないんだからさ。そこんとこは忘れないでよね。特に羽飛には」

 電話の向こうから聞こえるのはさっぱりした口調。こずえはなんでこんなに落ち着いているのだろう。こずえは毎日エッチねたをかましているだけに見えながら実は鋭い。だから立村くんも毎朝「朝の漫才」に付き合っているのだろう。

「美里、かなり後悔してるんでしょ。言い過ぎたって」

「けど、私間違ったこと言ってないもん!」

 電話の近くには誰もいなかった。だから泣きながら言える。

「わかってるよ。あんたが立村に言いたいこと何にも言ってくれなかったってこと気にしてたって。でもね、あいつの性格一年半も付き合ってればわかるでしょ。本質的にはガキだって。ガキはね、飽きずに何度も繰り返して言わないとわかってもらえないんだって。うちの弟とほとんど扱い方、同じ」

「私、弟なんていないからわかんないもん。うちの妹だってそんなことしないし」

 しばらく美里はしゃくりあげながらしゃべりつづけた。


「貴史だって、あの宿泊研修の時に打ち明けてもらえなかったことが悔しかったって言ってたの。私だってそうだよ。別に彼女だから言わなくちゃいけないなんてないけど、でも、もし私のこと信じてくれてたら言ってくれるもんだよね。信じてないんだよ立村くんは」

「そうだね、美里の言いたいことはわかるよ、けどさ」

 こずえが言いよどんだ。

「これは私の想像なんだけどね。立村って美里とか羽飛に対してものすごく、気を遣ってるように見えるんだよ」

「わかってる、こずえに言われなくたって」

「理由なんだけど、言いづらいなあ。これって」

 そのくせ言いたがっているんだろう。わかるわかる。こずえの口調にはどこか、

「言わせないと後悔するわよ、さあ、聞く?」

とすごむ匂いが漂っている。

「立村ってさあ、美里と羽飛をセットで好きなんじゃないのかなあ」

 飲み物飲んでなくてよかった。噴いてしまいそうだった。

「ちょっと待ってよ。なんで貴史とセットでって」

「つまりさ、私が思うに」

 こずえの言葉は、美里の想像をはるかに超えていた。


「ほら、美里気付いてたと思うけど、美里と羽飛がくっついてもかまわないって立村が言ってたこと。あいつの馬鹿さ加減にはあきれ果てるけれども、私も後で考えてみて納得したんだ。あいつうちの六年の弟と精神構造おんなじだから、まだ女子のことを好きだなんて思ったことないんじゃないかって。ところがさ、美里に告白されたじゃない。人の顔色ばかりうかがう立村のことよ、まずどうすると思う? 断ったら美里と気まずくなるかもしれない。美里と気まずくなったら今度は羽飛ともそうなる可能性大だよね。そうなったら、友だち二人もなくしてしまうわけよ。あいつのことだから悩んだと思うよ。どうしたら美里や羽飛と友だちでいられるかどうか悩みに悩んで、結局付き合うことに決めたんじゃないかな」

「こずえ、どうしてそこまで想像できるの?」

「うちの弟に聞いたから。あいつに、もし自分がそうだったらって、聞いてみたら、そういう答えが出てきたってわけ」

「立村くんとこずえの弟が必ずしもおんなじってことないでしょ!」

 こずえは笑っている。自信あるんだろう。弟くんを通した答えに。

「でもさ、かなりの確率で可能性が高いと思うよ。美里のことも嫌いじゃないけど、同じくらい羽飛のことも好きだし、ずっと友だちでいられるんだったら大抵のことはがまんするよ。うちの弟だったらね。私だったら違うけど」

「けどそういうのって、付き合う条件と違うよ」

「好きだってことでないとね、ってことよね。でもしょうがないじゃない。そういう相手が好きなんだからさ。それに立村だってやっと自分が悪いってことに気付いているかもよ。私は断言しちゃうけど、立村が三行半を突きつけることはまずない。月曜に学校に来て、『ごめん、俺が悪かった』って頭を下げるよ。いつものお約束」

 

 もうひとつ、美里は疑問だったことを尋ねた。

「こずえ、どうしてクラスの連中、誰も私たちにつっこみ入れなかったのかな」

「気付かなかったの。あれはね、規律委員様の南雲が男子連中に緘口令だしたのよ。いつものことじゃない。立村が南雲と彰子ちゃんのらぶらぶ騒動の時に指示出したのと同じだって」

「でも、なんか気になるよ。誰も反応しなかったみたいだけど」

「南雲は羽飛と犬猿の仲だからねえ。南雲も悪い奴じゃないんだけど、水と油って奴だからさ。でも立村とは仲良しっていうのがなんとも言えないよね」

 しばらくこずえと、立村くん、貴史のことについて語りつづけた。本当のことを言えばこずえだって気にはしていたのだろう。いくら貴史が間違っていると思っても、好きな気持ちは変わらないのだから、嫌われてもしかたないと悩んでいたのだろう。

「あ、こずえ、貴史ね、言ってたよ。『古川にそう言われても、しかたねえのかな』って」

「言ってた?」

 微妙に喜びの波動が伝わってきた。受話器の声がはじけていた。

「やっぱりね、あいつ、間違いを素直に受け入れない奴じゃないもんね。さすが、私の惚れた男よ」

 こずえと二時間しゃべりつづけた後電話を切った。


 ──もし詩子ちゃんにこういうことを言ってたらどういう返事帰って来たかな。

 想像はついた。無条件で美里の言い分を認めてくれただろう。ためらうことなく、

「立村くんと別れなさいよ。美里は間違ってないんだから」

 と主張してくれただろう。

 詩子ちゃんだったらきっと、美里の味方でいてくれただろう。


 ──私、立村くんに文句言ってる時、止められなかったもん。立村くんが青ざめてじっと私の顔を見詰めている時、気持ちよすぎたんだよ。私してたことって、そうだよね。


 こずえの言葉が正しいと、今の美里は思えた。

「羽飛、あんたやってること、言っちゃなんだけどリンチだよ。もしうちの弟が、友だちに似たようなことされてたら、羽飛だって許さないよ」

 あの時はかっとなったけれど、四日経った今は素直に受け入れられる。

 ──そうだよね、私、立村くんを追い詰めた浜野って奴と同じこと、してたんだよね。

 美里は引き出しの写真を取り出し。両手で拝むようにさすった。


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