第五章
1 立村上総の観た舞台裏
日曜日は母と約束した通り、朝十時に青潟市民会館へ出かけた。前夜も母の手伝いに狩り出され怒鳴り散らされかなり神経磨り減っている状態だが、そんなことを言ってられない。
「じゃあ上総、悪いけどここの椅子とテーブルを全部奥にたたんでちょうだい。それからござしいてちょうだい。あとそうね、この辺にある御菓子を全部、籠に分けて入れてちょうだい。ちゃんと均等にするのよ。あとでいろいろ言われるのいやだから」
口早に命令する母を無視しつつ、やることだけはきちんとする。
母を操縦するにはベストの方法だ。
何も考えずまずは長いテーブルの足を折りたたみ、抱えてどんどん積み上げていった。下ざらいそのものはきちんと別の部屋をあつらえて行うのだが、みなが揃って着替えたり準備したりする楽屋代わりの場所を用意しなくてはならない。
「おはようございます。上総くん、いつもありがとう。今日もよろしくね」
会主の先生が笑顔で現われた。まだござをしききっていなかったので慌てて敷き詰める。秋の柄が入った薄茶の和服を纏っていた。
「あら先生、こんな汚いところじゃなくて、ちゃんと和室とってあるんだからそこでどうぞ、ゆっくりなさって。今日は忙しい日なんだから」
「沙名子さんも早いわねえ。本当に助かるわ。そうそう、今日は地方さん用の部屋も用意してあるの?」
「もちろんですよ。ちゃんと和室ありますから大丈夫」
よくわからないが、他の関係者たちはいい部屋を用意しているらしい。弟子一同が二十人近く集まることになると聞いている。運動会の父母場所取り大会を思い出してぞっとした。
「母さん、もう一枚ござ、ないの」
どうみてもこれじゃあ足りない。二十人が座りきれるとは思えない。
「十分よ十分、みんな譲り合って座ってもらえばいいんだから。それに他の先生たちも別部屋にするし。上総、あんたよけいなこと考えなくていいのよ」
──どう見たって間に合わないぞ、これじゃ。
そりゃあぎっちりと膝と膝付け合って座るのならば、余裕もあるだろう。でも上総の記憶する限り、楽屋の中では脱いだ和服やら浴衣をたたんだり、お弁当を積み上げたりいろいろと大変なはずだ。人によっては蒔物を置く場所が足りないといって大騒ぎになるかもしれない。何度か母に付き合ってみてきた経験からして、そう思う。これが青大附属の学校祭とか、評議委員会関係の演劇とか、そういう場にいたらためらうことなく文句を言うだろう。でも。
──いろいろあるんだろうな。
ひとりでせわしなくして気が立っている母を眺めながら、上総はたたんだテーブルの陰に、くるくる巻いたままになっているござの場所をチェックした。覚えておくに越したことはない。
「じゃあ上総くん、申しわけないんだけど、お弁当を下から運んできてもらえないかしら。さっき頼んでおいたのが十一時前に届くはずなのよ」
──ってことは、ちゃんと食事は出るってことか。
愛想なく「わかりました」と答えたけれども胃袋を満たしてくれるのだったら、弁当にだけは笑顔が出る。
前の晩は例の「和楽器と洋楽器のコラポレーションライブステージ」の手伝いだった。といっても決して上総が外に顔を出すことはなかった。単なる切符のもぎりと、いただいた花束を飾り付けたり楽屋に運んだりする程度だ。もっとも数えることが大の苦手である上総にとっては結構面倒くさい仕事でもあり、母には思いっきり怒鳴られた。もちろん怒鳴り返す。酒の出る場所ということで未成年出入り禁止になっていたのは残念だが、上総はちゃんと気付いていた。一年の杉本梨南とその両親、友だちが堂々とやってきていたのを。ちらっと見ただけなので声を交わしはしなかったが。
一階の入り口をきょろきょろしていたら、ダンボールを抱えた男性が現われた。目的のものはこうやってあっさり発見した。受け取りにサインだけして受け取り階段を上がっていった。思ったよりも軽い。サンドイッチ程度のものだろう。少々失望したけれども、女性陣がほとんどということを考えるとそれもしかたないことだろう。そんなに食うもんじゃないだろう。
「ありがとう、じゃあ次、みんなに配っていって。地方さんたちに十箱、うちの先生の部屋に五箱、音響さんに二箱、あと残りを他の人に持って行ってよ。そのくらいできるでしょ」
馬鹿にしているものだ。思いっきり「ふざけるなよな」と言い返したいのをこらえつつ、紙箱を取り出した。人数分重ねて舞台の袖に持っていく。みな忙しそうに「ああ、ありがとうございます」程度の声しか聞こえない。一通りお運びさんをした後、手持ちぶたさでぼおっとしているお弟子さんたちにもっていくことにした。上総が会議室を離れている間にいろいろ人は揃ってきたらしい。あまり会ったことのない女性、子ども、がござの上で浴衣を広げたり、正座したまましゃべったりしていた。ざっと観た感じ、若い女性が多い。小学生、大学生が中心らしい。お互いあやとり遊びで盛り上がり、気の立った母親に「ほら、早く浴衣に着替えるよ」と叱られていた。
──あの人は来てないのかな。
藤野詩子のことを思い出した。「玉兎事件」のあの少女だった。
まだ、荷物も置いていないらしい。
──まさか、清坂氏と友だちだったとはな。
──へたしたら、当日羽飛、清坂氏と顔合わせてしまうかな。
仕方ないだろう。上総も覚悟を決めていた。
「これで全員揃ったかしら。ちょっとみんな何やってるの! ほらちびちゃんたちも遊んでちゃだめよ。早く順番が来る前に浴衣に着替えてちょうだい。ほらほら、衣装着てみるんだから。ちゃんと紐も三本持って。それとお母さんたち、ちゃんと衣装さん、鬘さんのお礼、持ってきましたか? ほらぽち袋用意したの?」
自分の息子だけではない。母のヒステリーはお弟子さんとその家族たちにもぶつけられている。同情すべきものがある。観ていて腹が立つのもわからないことではない。誰も浴衣を着ないで黙ってしゃべっているだけなのだから。上総が弁当を持っていくまで誰も動かなかった様子が全てを物語っている。弁当を運び終え、いただきものの菓子を籠にあけ、ばたばた運んでいる間、ほとんど誰も手伝ってくれなかった。もしこれが評議委員会関係の行事だったら、即座に本条先輩から殴られているだろう。
「あのう、時辻さん、いいですか?」
恐る恐る母を呼び止める声があちらこちらから聞こえた。ふんぞり返ったかっこうで母はひとりひとりから質問を受け付け、高飛車に返答する。もっとやさしい声で話せばいいのに、と思うのだが上総だって母を怒らせたくない。何も言わず黙ってお茶を注いでいた。
「ほら言ったでしょ。この前。ちゃんと帯を用意しておいてちょうだいって。いつ外に出かけるかわからないんだから、伊達締めだけで外うろつかないようにしてって。ホテルと一緒よ。いいホテルでは浴衣で廊下を歩かないようにしてくださいって言うでしょ。前にも言ったのよね」
──別に借りればいいじゃないかよ。
母に言い負かされた犠牲者の数が増えるにしたがって、隣りの部屋からは三味線を爪弾く音や琴を爪弾く響きとか、いろいろなものが交じり合って聞こえた。洋楽の匂いが一切しない、純正の和楽器だった。
「あと誰来てないの? 藤野さん? まったくあの親子ったら」
頭にわざとらしく手を当てて、大げさにため息をつく母。しかし時間がないらしくさっそく命令をお弟子さんたちに出した。
「とにかくみな、衣装さんが準備出来たらすぐに着替えられるようにして頂戴よ。ほら早く」
後ろのドアが開いた。上総が振り向くと、噂をすればなんとやらの親子連れが腰をかがめている。頭を下げているのだが、あまりにもへりくだった感じだった。やはり荷物を抱えている。上総はすぐにドアを支えてやった。
「ありがとうございます。おはようございます。本日は遅くなりまして申しわけございません」
藤野詩子の母だとすぐにわかった。そして、腰をかがめているのが母親だけで、当の藤野詩子本人が唇を結んだままぺこっと頭を下げていたのも見た。相変わらず、態度が正反対の親子である。
「藤野さん、あなたたちだけじゃないんですから。ほら詩子ちゃんもすぐに着替えて」
返事をしない。母には一瞥を投げただけで座ろうとする。上総はすぐに、最後のサンドイッチパックを二箱取り出して藤野親子に持っていった。これで全員分配りきったことになる。
「ほら、詩子ちゃん、ごめんなさいって言いなさい」
「うるさいってば!」
考えてみれば藤野詩子のご機嫌麗しい時をまだ一度も見たことがないような気がした。上総が持っていった弁当も、結局受け取ったのはお母さんだけだった。ぷいと顔をそむけたままだった。たぶん、顔を見るのも嫌なんだろう。慣れているのですぐに引き下がった。が、
「もっと端っこ行きたいんだってば!」
お母さんを相手になにやらまた愚痴っている。藤野親子が落ち着こうとしているところは、ござの真ん中らへんで、お弟子さん同士に挟まれている。角にいる方がほっとするタイプなのかもしれない。隠れていたいのかもしれない。その辺の気持ちは上総もわかるが、どうしようもない。
「ほら、またわがまま言ってるの? 詩子ちゃん。もう中学二年なんだから」
「わかりました!」
──完全に藤野さんとうちの母さん、天敵だな。
ごもっともの事件を知っているだけに上総はあらためて感じた。
──母さんもなんでこんな露骨に馬鹿にした言い方するんだろうな。きっと相手がどう思ってるかなんて考えてないよな。この人。
とはいえ、上総の目からすると、浴衣に着替えるためのスペースがかなりきつきつなのも確かだった。風呂敷や和服キャリーバックを開きながら、きちんと長方形にたたんだ白に紺染めの浴衣を出してはいる。が、広げるところまではいかないようだ。ちょっと袖のところをめくっては隣りのお弟子さんとおしゃべりをし、足袋らしき白いものをひっぱりだしては、またしゃべりと時間つぶしをしている。母がいらだつのも無理はない。特に大学生くらいの女性たちはなかなか袋すら開けようとしなかった。
「ちょっとあなたたち、なんでそうもたもたしてるの!」
口篭もるみなさま。上総は退散しようと外に出ようとした。とたん、
「だってこんな狭いところじゃ着物広げられません!」
必死に押さえようとする母親を無視して、いきなり藤野詩子が金切り声を上げた。おそるおそる上総は振り向いた。母の様子を見ると、完全に見下した態度でねめつけている。
「詩子ちゃん、遅れてきてその言い方は失礼よ。あやまりなさい。そしてすぐに浴衣に着替えなさい」
「だって着替えたくたってできません!」
いわゆる体育更衣室ののりだったらかまわないのだろうが、この場所は窓からも丸見え、隣同士の肩と肩が触れ合うような小さなござだ。ポニーテールをまだ解かずに詩子が鋭く続けている。
「こんなとこで、できると思っているんですか」
「当たり前でしょう。詩子ちゃん。いいかげんわがままはやめなさい。他の人の迷惑になるでしょう」
「じゃあ私出ません。このまま帰ります」
また始まった、とばかりに母は、詩子のお母さんにうなづいてみせた。すっかりおろついている藤野母は、何度も頭を下げて、片手で詩子のスカートをひっぱっている。もちろん、振り払われているが。
──だから母さん、要はござをしきゃあいいんだろ、ござを。
上総は母の隣りをわざとぶつかるようにして通り抜け、部屋の隅に立てかけてあるござをひっぱりだした。海苔巻状態だ。ぐいと抱えた。
「これ、使ってもいいんだろ?」
「上総、でもこれ敷くと、場所が狭くなるでしょう」
「少し端と端を重ね合わせれば、通路はできるよ。当日はわからないけどさ、今日はそんなに人こないんだろ?」
母の返事を待たずに、上総はもう一枚のござを蹴飛ばしながら広げていった。くるくると広がっていくのがおもしろいかった。サッカー気分でかなりいいかげんな敷き方だが、スピードが一番だ。
母はヒールをこつこつ叩きながらも、ふんと息をついて、
「詩子ちゃん、これならどう? 好きなように使いなさい」
藤野詩子ではなく他のお弟子さんたちが安心したように、長方形の浴衣を広げ始めた。大判の風呂敷を広げて、化粧道具や洋服やら、ありとあらゆるものをたくさんばらまいている。口には出さなくとも、そうとう不満が溜まっていたに違いない。広くなったはずのござがあっという間に満員御礼だ。
上総が足先で端を整え、靴を脱いだ場所に戻った時、見たくないものと目が合ってしまいとまどった。藤野詩子が唇をへの字にして、じっと上総をにらみつけていたからだった。怖かった。そのうち、藤野詩子の母が浴衣を取り出してばらりと広げ肩にかけていたが、露骨に振り払い言い合っている声が聞こえた。
「母さん、俺の分の弁当ないんだろ。どうせ」
「え? あら、ほんとだわ。私ももらってないわよ」
「さっき配ってて気付いたけど、俺も今日一日、何も食わずにやるのはいやだよ」
「上総、あんたなにを言いたいの」
無理やり母を会議室からひっぱりだし、上総は当然の要求をした。
「まだ時間あるだろ。俺はひとりでカレー屋で食べてくるからその代金」
あっさり、千円丁度せしめることができた。母もめずらしく嫌味を言わずに、ぽつりと、
「一時までに戻ってきてよ。まったく、この調子だと先が思いやられるわ」
上総に対してなのか、それとも藤野詩子に対してなのか、それはわからなかった。たぶん両方だろう。
2 羽飛貴史の実験と計画
美里と藤野詩子との語り合いがどうなったのかは、それほど興味がなかった。貴史が知りたかったのは、はたして「藤野は立村のことを知っているのか」という一点だけだった。女子同士のいざこざには近づかないのが鉄則だ。貴史は日曜、美里と美術館で待ち合わせることにした。別に部屋に呼び入れても問題はないのだが、双方の親が立村のことを快く思っていないのを知っている以上、ためらいもある。もっとも小遣いはかなり厳しい状況なので、互いにコンビニでパンとジュースを購入して持っていくのは当然のことだった。
「結局どうなんだよ、藤野は立村のこと、知ってたのか?」
「たぶん、だと、思う。けど」
自転車を駐輪場に並べ、晴れた外のベンチに腰掛けた。午前中ということもあり人は思ったよりいない。美術館の催し物も常設展のみなので、それほど集まってこなかったようだった。
美里は髪を下ろしたままで来た。いつもだったらわけのわからん編みこみとかいろいろしているのに、珍しかった。指を絡めて、言葉を選んでいる真っ最中だった。
「私の勘なんだけど、立村くんのことを時辻って苗字の人だと思ってるみたいなんだ」
「時辻って誰だよ?」
初耳だった。
「つまりね、立村くんのお母さん離婚してるじゃない? だから苗字も変わってるんじゃないかって思うんだ。時辻さんに変わってるかもしれないじゃない?」
「けどあいつは立村って」
「ばかね、貴史。離婚すると苗字が変わるけど、立村くんはお父さんのうちにいるんだから立村姓のままなのよ。でも、お母さんの手伝いで引っ張り出されているからまわりからは時辻上総だと思われてるわけよ」
「ははあ、やっと飲み込めた。けど、あいつの母ちゃんが時辻だって断言できるのかよ」
「出来ないよ。そりゃあ。ただね、今まで立村くんの態度見てて、絶対これはクロだって私は思ったね。とぼけようったって無理無理。もう私もあきれて物も言えないってね」
好きな相手に対してよく言えるものだ。無言で貴史はコーラを飲んだ。
「じゃあ、来週の日曜はへたしたら立村と顔合せできるてことだな」
「どうだか。向こうだって私と詩子ちゃんが知り合いだと知っているはずだから、姿隠すはずよ。立村くんの性格だもの、絶対そうするよ」
──さすが、奴の性格を理解しているよな。こいつも。
「だから、しばらく私も無視することにするから。貴史悪いけど」
「ああ、わかった」
南雲にぶつけられた罵詈暴言がいまだに耳から離れなかった。
土曜日の放課後、なぜ自分は一発奴をぶんなぐってやらなかったのだろう。
納得がいかなかった。
こいつがいうことには、どうやら「羽飛貴史は立村上総をいじめている」ように見えるらしい。そこで規律委員たる南雲が「注意」をしたということらしい。なあにが規律委員だ。と貴史は大声で怒鳴ってやりたい。こいつにそんなことを言われる筋合いはない。
何よりもまず、どこをどうすれば「いじめ」になるのだろうか。
「あのなあ美里」
「なによ」
「俺、あいつをいじめてるように見えるかよ。見えねえよな」
美里は少し首を傾げ、ちゅちゅとサイダーをすすった。
「全然。当然のこと言ってるだけでしょ」
「だわな。いったいどこがいじめてるってんだよなあ」
「貴史、あんたそんなこと誰に言われたのさ」
「いや、な」
南雲に言われたんだと愚痴るのは情けないことだと、貴史も自覚していた。
男たるもの、だらだらみじめったらしいところを見せ付けたくない。
「そうそう、それでね、貴史。昨日ね、見ちゃったんだ」
声を潜めて美里がいきなりささやいた。別に誰もいないんだから大声で堂々と言えよ、と貴史は思う。
「はっきり言っちまえ、なんだよなんだ」
「あのね、彰子ちゃんがね、昨日の帰り、別の男子と帰ってたんだよ。堂々と!」
奈良岡彰子のことらしい。天敵南雲の恋女房だ。
「ほお、奈良岡もやるなあ、相手は誰だよ」
「知らない奴だった。白いラインがガクランに入ってる制服でね。すごいんだよ、金銀ぎらぎらまだらに光らせた自転車に乗ってるの。なんか、いわゆる不良化の兆しってプリントに出てきそうな感じ」
思いっきり初耳だった。奈良岡彰子といえば、五月の下旬にいきなり南雲から告白をかまされてショックを受けたものの、心よく友情を保つお付き合いを引き受けたというなかなか出来た女子である。ただ、ぽっちゃりを超えてビール瓶タイプの肝っ玉ねーさんという見た目が災いして、なかなか彼氏が出来なかったのもまた事実だろう。貴史も入学式の時に、一目見て「ちょっとこいつとはご遠慮したい」と一瞬思ったことを覚えている。鈴蘭優命の貴史には、ルックスが受け付けなかっただけである。だが、貴史の美学をあっさりとくつがえしてくれる性格のよさに、男子一同みな「奈良岡のねーさん」という暖かい呼びかけをプレゼントしてしまった。恋愛対象にはならないが、しかし、という奴である。
──いやあ、奈良岡もやはりあいつの本性に気付いたんだろうなあ。正しい選択だぜ。
さすがにこれも口に出さない。いくら南雲が憎しといえども、悪口をこぼしたくない。美里の前では特にだ。
いきなり強い風が吹き、美里が小さなくしゃみをした。
「寒いのか」
「うん、けどいいよ。でねでね」
貴史はパンの袋を開けた。まずは腹ごしらえをしたかった。
「まさかねえ、南雲くんだったら浮気ってこともあるかもしれないけど、彰子ちゃんに限ってそんなことないよね、って思って声かけたら、いつものようににっこり手を振ってくれたの。ふと思ったんだけど、南雲くん知ってるのかな?」
土曜日の放課後ということは、貴史が南雲に言いがかりをつけられた時より後だろう。
──俺にさんざんいちゃもんつけてる間に、最愛の相手はどこぞへ消えてしまったってわけだ。情けねえ。
「知らねえんじゃねえか」
立村を探しにどこか行ってしまったことを考えると、結局南雲は奈良岡とは帰らなかっただろう。
美里は左の二の腕を、袖の上からさすりつつ、つぶやいた。
「やっぱりみんな、仲良しに見えてもいろいろあるんだよね。なんだかなあ」
──一番いろいろあるのはお前だろ、美里。
「とにかく、どっか別のとこ行くか。俺もまじで寒いぜここ」
「うん、行こう行こう!」
となると、行く先は近所のスーパー、無料休憩所くらいだろう。クラスの連中に見つかってなんやかんや言われるかもしれないが、それはその時だ。誰か…… それこそ貴史と美里がくっついているらしいと、南雲的思考の奴が立村に言いつけたとしても……、あいつのことだ、何も言い返してこないだろう。本当にほれてるんだったら、意地でも尋ねてくるはずだ。
「美里、早めに決着つけろよ。俺もいいかげん汚いいじめやっている奴だと思われるのはたまったもんじゃねえ」
「あんた、だからどうしていじめにこだわるのよ。ほんと、貴史、変だよ」
しばらく貴史は美里を相手に、家族のことやら五日のこと、その他いろいろ馬鹿話をかましていた。無理に立村のことを避けなくても、話すことは山のようだった。立村が結局、和楽器と洋楽器のコラポレーションみたいなライブに貴史と美里を誘ってくれなかったことかも多少不満がないわけではない。美里だって同じだろう。一学期の時に誘われたのは覚えていたが、やはり二学期に入ってお互い疎遠になりつつあってからは、特別に盛り上がったりもしなかった。
目に見えないプレパラートのようなもの。
入学式の時、初めて立村と会った時に感じたものだった。当時はまだ、貴史の知らない世界を纏っている、きらきらしたかっこよさに思えたものだった。でも一年半が経ち、立村の打ち解けない部分を知るにつれて、それは防弾ガラスのようなものだったのかもしれないと感じるようになった。
──プレパラートってさ、ピンセットであつかわねえと大変なんだぞ。破れてしまって先生に怒鳴られるんだ。実験の時。でも、立村の場合そんなピンセットで拾えるようなガラスじゃねえよな。
──そういうガラスを破るには、俺だって思いっきり弾丸ぶちかますしかないだろ?
──それが、いじめだっていうのかよ。相手は全然反応しねえのに。
歩いて五分くらいのところにある大型スーパーに向かう間、貴史はもう一度あたりを見渡した。
とりあえず、立村の姿は見えなかった。それでよし。大丈夫だ。
「美里、よく聞け。これはオフレコだ」
「なによ。どうせ私たちやってること、みんなオフでしょ」
茶化されたけれども、もう一度深呼吸して続けた。
「明日も連休だろ。奴と顔を合わせるのは火曜日だ」
「まあね」
気のない声で答える美里。
「もしあさっての放課後、俺が立村にかなり厳しいやり方をするかもしれないが、いいか、お前、口が裂けても本当のこと言うんじゃねえぞ」
「厳しいやり方ってなによなに」
口を尖らせて美里が立ち止まった。道路を一台、ワゴン車が通り過ぎていった。あとは誰もいなかった。決して声を低めはしなかった。堂々とだった。
「俺が思ってたよりもあいつは簡単な奴じゃない。一発目を覚まさせてやらねえとどうしようもねえよ。お前が無視してること自体はすげえ、堪えてるんじゃねえかと思うけどな。あいつの方から本音はなかなか引っ張り出せねえよ」
「それならしかたないじゃない。結局私はあきらめるってことだから」
「そんなんじゃねえよ。ばあか。美里、あいつがあれだけ落ち込んでるってことは、言い出すきっかけがねえってことだろ? 度胸ねえから様子をうかがっておどおどしてるだけだ。だったら、俺がきっかけ作ってやろうじゃねえか! まあな、世の中にはこういうことを『いじめ』だと勘違いする奴らがいるからなあ。俺もへたしたら規律委員会につるされるかもしれないが、まあそれはその時だ」
「ちょっと、貴史、やめなよそんな。まさか立村くんを殴る……」
ちっと舌打ちした。さすがにそこまでは考えていない。
「俺が本気だしたらあいつ頭蓋骨ずたずたになっちまうぞ。それに暴力沙汰は学校の中でやらねえよ」
「けど、あんたまずいよ。そんなことしたらそれこそ停学になっちゃうかもよ」
「お前覚えてるだろ。宿泊研修三日目の時、結局立村は停学もなにも食らわなかっただろ。あれを考えれば俺が一言二言、あいつとやりあったってたいしたことにはならねえよ」
納得させられたのだろうか。美里は黙ってうつむいた。
「俺がそんなへまなんかしねえよ。全く、あいつも世話の焼ける男だぜ」
通りの店を五軒通り過ぎるまで美里は一言も口をきかなかった。まだ捨てていなかったサイダーの缶を、街路樹の側にあるくずかごにほおった。ホールインワン。見事だった。
「ほんと、そうよ。私たちやってることって、ほとんど、立村くんの親代わりよね」
──奴にはわかりゃしねえんだ。俺と立村と、美里との繋がりが。
貴史が言いたいのはそれだけだった。所詮恋人と思っている相手に浮気されていることも気付かない規律委員に、きっぱりと言い放ってやりたかった。
──こういうやり方でぶつかってくしか、俺と美里にはできねえんだ。
──こういうやり方でないと、立村は気付かない奴なんだ。そんなこともわからねえのか、南雲。
3 清坂美里の生で見た寸劇
連休は晴れていたのに、なぜか台風到来ということで火曜日は大雨だった。風も強い。かさもきかない。しかたないのでレインコートで出かけた。めったに来たことのない真っ赤なケープ付きのレインコートは、かなり裾が短くなっていたけれども可愛くてお気に入りだった。
──立村くん、今日はバスかなあ。
品山から通うとなると、それしかないだろう。自転車で来る根性があるとは思えない。美里は「青大附中前」のバス停に降り立つ立村くんの姿を探した。やっぱりいなかった。混んでいるんだろう。
──貴史、何考えてるんだろう。殴ることはしないって言ってたけど。あいつのことだから生半可なことじゃないよね。
日曜にふたりで話をしたことがまだしこりとして残っていた。
結局貴史の提案を忘れたふりして、ふつうに遊びふつうに食べて帰っただけだった。
来週の日曜は一緒に詩子ちゃんの舞台を観にいこうと約束した程度だった。
──でも、忘れてるか。もう二日も経ったんだもんね。
貴史が考えていることがわからないわけではない。美里も反対の立場だったらきっとそうしただろう。立村くんを問い詰めて本当のことを白状させる。全くもって素直すぎることをやろうとしているに過ぎない。立村くんがいつも、裏に回って巧くいくよう努力しているのとは反対だ。貴史もそうだが、美里だってそっちの方がすっきりする。言いたいことははっきり言って相手の返答を待つ。納得いかなかったら口で返事をもらう。立村くんだって口がないわけではないのだから、それくらいはできるだろう。
──けど、立村くんは、何でも内にしまっちゃうからな。
──立村くんはいやなことがあったら黙って受け止めて、それから後で復讐するってタイプだよ。きっと。ほら、小学校の卒業式で学校の番長格の奴と決闘した話とか、一年の時に加奈子ちゃんに追い詰められて裏ノートこしらえて乗り切ろうとしたりとか。結局立村くんは詰めが甘いから、大成功はしなかったみたいだけど。そうよ、あの人詰めが甘すぎるのよ。ひとりで何でもやろうとするから、結局最後の最後でぼろがでるんじゃないのよ。だから、私と貴史に一言でも言ってくれたら、いくらでも手伝うのにさ。もちろん、嘘じゃないことが前提だよ。「裏ノート」の時みたく、嘘八百連ねてどうたらこうたらっていうんだったら、私は絶対に乗らないからね。正々堂々と話をして、それで私たちに手伝ってほしいって言ってくれたら、私、思いっきりがんばっちゃうよ。当たり前じゃない。
ずぼっと水たまりに足を突っ込んでしまった。ショートブーツがぐっしょりぬれた。母には長靴を履いていくように薦められたけれど断固として拒否した。かっこ悪いことはしたくない。でも足の冷たさにほんの少し、後悔した。ちゃんと代えのストッキング持ってきてよかった。
トイレでストッキングを履き替えた後、急いで美里は二年D組に向かおうとした。すれ違いに降りてきたのは三年A組の評議委員かつ委員長、本条先輩だった。
「おはようございまーす!」
「よお、清坂ちゃん。雨にぬれた姿も色っぽいな。奴に惚れ直されるだろ」
「先輩こそ、相変わらず大変なんですね。いろいろと!」
軽くかわして一礼した。
「ところで立村はどうしてる?」
やっぱり聞かれると思っていた。立村くんをなめるように可愛がっている本条先輩のことだから、多少は気付いているだろうと覚悟はしていた。貴史や自分には一言も打ち明けないけれども、本条先輩にだけは洗いざらいしゃべっているらしいというのは、女の直感だ。
感じた以上、ごまかさなくては。
「やあですねえ。そんなの先輩の方がご存知でしょ」
「いや、知らないんだ。ほんとになあ。あの甘ったれが全然、最近俺のところに顔出さなねえからさ」
甘ったれ、とはまさにその通り。通常の精神状態だったら爆笑してピースしてやるところだろう。本条先輩は頭を掻きながら続けた。
「来週まで評議委員会がないからなあ。別に用がないならしゃあねえけどな。しっかし毎日通いつめられていた俺としては、それが全くなくなるとやはり、なんか悪いもの食べたんでないかと心配になるってわけだ。清坂ちゃん、あいつになんかあったら、俺に教えてくれよな」
「なんかあったら、ですね。たぶんないと思いますけど」
色気も恋心も感じさせない言葉を返した。本条先輩はかすかに顔をしかめて笑い、片手を挙げて廊下へ降りていった。
──立村くん、本条先輩のところにも顔出してないの?
──私、てっきり、本条先輩のところでべたべたしてるんだと思ってたのに。
窓から雨のしぶきでガラスが解けているように見えた。水あめ状態。輪郭がぼやけた葉が揺れていた。
美里が二年D組の教室に入ったとたん、貴史の言葉が嘘じゃないことに気付いた。
貴史は嘘をつかない奴だったと、改めて思った。
気付いているのは若干名。掃除箱の前でふたり、じっとにらみ合っている。目に力をこめているのは貴史の方だった。ブレザーを脱ぎ捨て、ネクタイを緩めたまま、片手で立村くんを壁に押さえつけるようなポーズを取っている。対する立村くんは目を見開いて、ほとんど瞬きせずに貴史の顔を見つめていた。目を合わせるのが苦手な立村くん。なのにこうも大きな目でじっと動かないでいるのは、それだけ貴史の迫力が勝っているからだろう。
美里はそっと近づいていった。声をかけようとしたが、不意に肩に手を置かれた。振り向くと、真面目な顔をしたこずえが立っていた。首を振っていた。
「こずえ、いつから見てたの」
「ついさっきから。始まりから全部ね」
貴史たちの邪魔をしないようにふたり、ちらちら視線を送りながら会話を伺った。
「あのなあ、立村、さっきから言ってるだろ。俺は別に、美里がどうとか女子がどうとか言ってるわけじゃあねえんだよ。なんでそうもおどおどしてるんだ? 俺、お前になにか悪いことしたのかよ。え、言ってみろってんだ。答えられねえのかよ!」
さすが教室の中。声は低い。やっぱり外じゃないのだからしかたないのだろう。立村くんは相変わらず返事も身動きもしなかった。周りの男子たちも一部、気にするしぐさをする様子だが、すぐに別の方を向いていた。なんのことはない、水口くんが奈良岡彰子ちゃんを探して騒いでいるので関心が移っただけだ。
「お前、聞きたかったんだろ? 俺と美里があの日、どこで油売ってたか」
「いや、それは話さなければそれでいいと」
か細い声だった。こずえの視線がとうとう貴史の背中に定まった。動かす気配はない。
「お前それが本心かよ。本当は気になって気になってしかたなかったくせにな。俺は前からお前の、そういううじうじしたところが大嫌いだったんだ。言いたいことがあったらはっきり言えよな。立村、お前口があるんだろ。聞きたいことあったら聞けばいいだろ。それともなにか? 言ったら何かされるとでも思ってるのかよ」
「そんな、そんなわけないだろ」
力ない言葉だ。こういう男を自分は好きなのだと思うと、情けなくなってきてしまう。あっさり「あんたとは別れるわ」と言い切ってやれればいいのに。それができないからこうやって黙って聞いているわけだ。美里はこずえと同じ方向をじっと見据えた。四つの視線に気が付いたのか立村くんは数回、身体を揺らした。動かさないのは貴史の手だった。
「ははあ、お前さ、ずっと言えないことみんな隠しているんだろ。うっかり俺なんかに何か言ったら、裏切られるんでないかとかさ。美里を取るなとか言ったら、かえって百発くらい息の根詰まるだけ殴られるとでも思ってるんでないのか。馬鹿野郎。そんな俺が肝っ玉小さい奴と思ったか」
──貴史、あんた言うのちょっと女々しいよ。
冗談からめてつっこんでやりたい。でも出来ないのは、後ろから見える立村くんの表情が能面のようだったからだった。いつも整っているあどけない表情なのに、完全に感情が消えている。怖かった。見たことのない立村くんの顔だった。
「言えよ、言っちまえよ。俺はサイクリングロードで決闘して騒ぎを起こしたり、車の中で大法螺こいてバスの中から抜け出したりしたことねえし、どこかの誰かと違ってちょっとしたことで泣いたりなんてしない。ああ、そうだぜ。俺は全然そういうことしたことねえよ。けどな」
──貴史、それだめだよ、あんた言いすぎだよ。
こずえが手を押さえようとする。でも押さえられない言葉が湧く。
──あんた、そのこと言わないって約束してたのに、自分で約束破ってどうするのよ。ばか。
身体が勝手に動いていた。立村くんの肩を押さえている貴史の腕を、美里は両手で惹き下ろした。
「美里、お前黙ってろって言っただろ」
「いいの、あんたが言うことじゃないの。私だって言いたいだけよ」
──これは私と立村くんのことだから。私が黙ってたらいけないの。
立村くんの視線はふらふらとさまよい、最後に美里の顔で止まった。揺れている瞳をじっとにらみつけた。猫の眼だった。おびえたように光っていた。
──この人が私の彼氏なんだ。
あふれ出た。
「立村くん。貴史はね、あんたのためにみんな言ってるのよ。おととい私、貴史と話してたんだから。あんたが全然私と貴史を受け付けようとしないから、みんな頭に来てるんだって。私だけじゃないんだよ。みんなそうなんだよ。私だってずっと口に出かけていたけれども、言わないでがまんしてたんだよ。けどさ、あんた全然何にも言うこと聞いてくれないじゃない。どうしてよ。こんなに私、わかろうとしてるのに、どうして逃げるのよ。貴史と一緒のこと言うよ。あんた、口持ってるの?」
能面がわずかに揺れたように見えた。
「私知ってるんだよ。立村くん。あんたが小学校の時に本当にいじめられてたってことだって、手におえない泣き虫だったことだって、お母さんが時辻さんって苗字だってことだって。あんたが隠したがっていることはみんな丸見えなんだよ。みんな一年の時から知ってるんだよ」
瞳がゆるんでいる。唇は堅く閉じられたまま。何か反応してと美里は叫びたかった。裏の声で叫んでいた。
「それがわかってて私、あんたと付き合いたいって言ったんだよ。想像の王子さまじゃない、立村くんと付き合いたいって言ったんだよ。なのになんで、信じてくれないのよ。ほんっとに馬鹿じゃないの。もちろん立村くんが人のこと気遣いすぎる性格なのはわかってる。ひとりでいつも背負い込んでしまうのもわかるよ。迷惑かけたくないって思ってるのもわかるよ。けどさ、この前の宿泊研修だってそうじゃない。あんたが一人合点してやってることは、みんな、私と貴史を思いっきり傷つけてるんだって、気付いてないんでしょ」
「そんなことないよ」
首を振る立村くん。能面がずれた。もっとひっぺがしてやりたかった。でも必死に冷静沈着の仮面を被りとおそうとするしぐさに、思わず憤った。隣りの貴史がじっと美里を見つめていた。こちらは完全に、怒りの素顔をさらけ出していた。
「じゃあなんで何にもしてくれないの? もしかして私と貴史がさぼった時にコピーを入れておいたからそれでチャラになると思ってたの? ばっかみたい。そんなことじゃないよ。口でちゃんと、謝るか怒るかしてくれないと、届くものも届かないよ」
「いや、あれはただ」
遮った。聞けば聞くほど美里は言葉を尖らせてしまった。たぶん言葉のやじりは針だろう。ちくちく突き刺しているだろう。身体の奥からわけのわからない夢見ごこちな感覚が湧き上がってきた。身体がふわっと浮く感じ。言葉が途切れなかった。
「あとさ、お母さんのことをどうして隠すのよ。おとといの日曜、和楽器がどうたらこうたらのライブだったんでしょ。一学期に誘ってくれたの忘れてると思ってた?」
「ごめん、あれも場所の問題で」
「いいよ、わかってるよ。誘えない理由があったんだって想像はつくよ。でも一言くらい、言ってくれたってよかったじゃない。かくかくしかじかこういう理由で誘えなくなったごめんなさいくらい。そうすれば、じゃあ今度誘ってねって笑って終わるのに。立村くんいつも言葉が足りなすぎるよ」
泣きたいのにわめきたいのに、体の奥だけ大笑いしているみたいだった。いっちゃえいっちゃえと声がする。
「あんた、覚えてないでしょ。私と貴史がもし付き合っても平気だって言ったでしょ!」
貴史の顔が完全に炎で燃え上がった風に見えた。ふたたび立村を両肩押さえて揺さぶった。
「ばかやろう! お前、正気か! 本当にそんなこと言ったのかよ」
「私、ちゃんと聞いたよ。別に悪意があって言ったわけじゃないって、信じてるけど、でも」
けらけらおなかの中で笑っている不思議な生物がいる。目をつぶり顔を伏せる立村くんに決定打を浴びせたい。浴びせちゃえと声がする。口を開きかけた瞬間、
「美里、羽飛、いいかげんにしな」
片腕を握られた。貴史との間にこずえが割って入っていた。ずっと聞いていたのだろう。立村くんの眼がこずえの方をちらっと見た。
「立村、あんたはさっさと席に戻りな。全く、一人顔面蒼白にしててどうすんの。ったくあんたはガキなんだから」
立村くんは我に帰ったように、顔を上げた。美里、貴史をじっと見上げ、もう一度、
「ごめん、本当に俺が悪かった」
いつもの決まり文句をつぶやいて席に戻っていった。黙ってそっぽを向いている貴史。見ると貴史の腕をこずえががっちりと掴んでいた。憧れのダーリンにくっついているという風ではなかった。罪人の手錠、そのものだった。
「羽飛、あんたやってること、言っちゃなんだけどリンチだよ。もしうちの弟が、友だちに似たようなことされてたら、羽飛だって許さないよ」
美里には一言も言わなかった。貴史の言葉は美里とイコールだといつしかこずえも気付いていたのだろう。ちらっと一瞥して、美里に、
「あとで、話すからね」
返事をしない貴史を置いて、さっさとこずえは席についた。隣りの立村くんにはふたこと三言話し掛けているようだった。南雲くんがにこやかに割り込んでいるようす。でも、立村くんは目を伏せたまま黙って頷くだけだった。他の連中はそれほど関心を持たなかったようすだったのが意外だった。
菱本先生が入ってきて開口一番。
「悪いが、今日な、台風が来るということで四時間目で終りにするぞ。なあに喜んでいるんだ。お前ら。外出歩くんじゃないぞ。ほら、四時間のがまんだがまんだ」
ガラスが雨に洗われて溶けていくようだった。一切声を出さない立村くん、興奮の名残が顔の汗に残っている貴史。ふと美里は自分の顔がどう立村くんに映っているのだろうかと思った。