第三章
第三章
1 立村上総としては当然のことだと思い
全く状況は変わっていない。
「あのさ、立村も何やってるんだかねえ。美里を怒らせるようなことしたわけ? あんたにはもう少し気合入れてがんばってもらわないと、こっちの方が大変なんだからね」
朝一番、古川こずえのやかましい声が耳をつんざいた。
「古川さんに何迷惑かけたっていうんだよ」
「羽飛と美里がくっついちゃったらどうするのさ」
靴をすのこの上で履き替えながら、上総は深くため息をついた。
「それでもいいだろ、別に」
昨日、美里を追いかけて貴史まで姿をくらましてしまったことに、きっとこずえは動揺しているのだろう。そうに違いない。一年の頃からこずえは「羽飛がんばれー!」の絶叫で並み居るクラスメート一同を凍らせていたのだから。非常に分かりやすい「好き」の表現者だ。
もっとも貴史は全く無視しているらしい。タイプではないらしい。何のことはない。貴史の場合アイドル鈴蘭優ばりの美少女でないかぎり、女を感じないのだからしかたない。
──羽飛もな、人のことばかり面倒みてないで自分のことも。
上総から見ると、こずえと貴史はなかなかいいコンビになりそうな気がする。妙にいちゃいちゃしない、からっとした、他人様にも迷惑をかけない感じの仲良しにだった。南雲と奈良岡彰子ほどくっつきあっていない。自分と清坂美里ほど隔たりがない。
──でも、そんな面倒なことしたくないってのもわかるよな。
しつこく顔を覗き込んでくるこずえを手で追い払った。
「古川さん、俺以外にもかまいたい相手がいるんだろ。ほらさっさと行けば」
「なあに言ってるのよ。エッチの対象外だから安心して話せるんじゃないの」
「あのさ、朝から話すことじゃないだろ」
よくわからないがこずえは決して上総のことを嫌っていないというのがよくわかる。だから安心して下ネタの応酬ができるってわけだろう。裏を返せば色恋の対象外だと割り切ってくれているから、何を話しても傷つけないで済む。こういう付き合いだったらいくらでも受けて立つのに、なんで。
──清坂氏とはうまくいかないんだろう。
──付き合うって、やっぱり、よくわからないよな。
外は黒雲に覆われている。驟雨の到来か。上総は三年側の靴箱を、身体斜めにして覗き込んだ。A組の、下の段が乱れていないかを確かめた。本条先輩の靴がその辺に並んでいる。来ていたら靴箱が開いたままになっているはずだった。
「ほらほら、行くよ」
憎まれ口を叩きながら待っていてくれたらしい。好意を無にするのもなんだってことで、上総はこずえと並んで歩いた。階段を昇りがけに、また一発、
「でさ、今日あんたも朝、大丈夫だった?」
「なにがだよ」
「朝立ちあった?」
いつものパターンだ。さらりと流した。
「あったらどうする」
「いや、ストレスたまるといろいろ男子って大変だってきくからさ。お姉さんとしては気にしてやったのよ」
「そういうのを、よけいなお世話っていうんだよ。女子のみなさんには気遣いのひとつとして覚えておいた方がいいと思うな」
顔をしかめて見せたこずえ。やれやれといった風に片腕をぐるんと回した。
「あのさ立村、あんたどうして女子みたいな発想するわけ? 昨日あんたが美里を追いかけなかった気持ちもわかんなくはないけどさ、でも」
「話を蒸し返すようだったら、今のネタを全部羽飛に言いつけるからな」
こずえの弱点を知っている上総の逆襲技。貴史の前ではもう少し可愛く見せたいと思う乙女心だ。みんな承知しているのにつっこまないのは、後でこずえに下ネタ攻撃されるのが怖いからだろう。その点、上総は一年半、猥談攻撃に慣らされていた。
「わかったわよ。ほんっとあんたって反抗期よね」
三年A組の教室に寄ってからにしようと決め、二階まできたところでこずえと別れた。来週の評議委員会に関する資料、十月末の学校祭、および二年限定合唱コンクールに関する意見書を本条先輩に渡したかったからだった。理由はある。
「なあに逃げてるのよ」
とはこずえの捨て台詞だった。
用事があるのだから仕方ない。
三年の教室にはだいぶ人が揃っていた。顔見知りの先輩も並んでいた。
上総が扉を開けて覗き込むと、
「まだ本条来てねえぞ」
と声をかけてくれた。二年間しつこく通い続けたかいあって、すっかり「本条里希の弟分」としての認識を持たれているらしかった。クラスにいづらくなって休み時間、本条先輩のいる場所に避難したことも一度や二度ではない。無理やり用事を見つけては側にくっついていて、時間をつぶすだけのことだ。十分いやされた。
少し待つつもりで廊下の窓辺にもたれた。
外にいのししめいた雲が通り過ぎているのが見えた。
昨日と違いだいぶ冷え込んできたのが肌で感じられる。首筋、手の甲の皮が堅くなっていた。上総は外をぼんやりと眺めながら、銀杏の葉が黄葉していないかを確かめた。一枚もその気配なし。かばんからノートを取り出した。昨日の夜は眠れなかったから、十月の学校祭、球技大会、二年限定合唱コンクールの手はずについて書き込んでいただけだった。
ゆっくり動いていく黒い雲。
──本条先輩、公立高校行くんだよな。
誰にも打ち明けていないと、本条先輩は夏の評議委員夏合宿の夜話していた。
確認していないけれども、まだ他のクラスから「評議委員長本条里希が公立高校を受験する」噂が流れてこないところ見ると自主的に話をしてはいないらしい。知っているのは上総だけなのかもしれない。男女問わず交流の多い本条先輩だが、とりわけて親友と言える相手がいるわけではなさそうだ。上総も一年半じっくりと観察してきたが、男性との友情関係はつかず離れず、上手に取っているふうに見えた
──いなくなっちゃうんだよな。
もう一度心でつぶやき、上総は二階に下りていった。すれ違うかと思って何度かきょろきょろした。全く気配がなかった。二年D組の教室にたどり着くまでの間、友だちとは顔を合わせたし挨拶もしたけれど、結局本条先輩の姿は見かけなかった。
「立村、お前なあ」
開口一番。
貴史が上総の机に寄りかかって腕組みをして待っていた。
「ああ、羽飛、昨日はごめん」
「そんなのどうでもいい。あのな、よく聞けよ」
機嫌は決して良くなさそうだった。腰を低くして貴史の側に寄った。
「ごめん、俺も悪かった、だから」
「黙ってろ、お前美里があの後どうしたのか知らねえのかよ」
美里の席はからっぽだった。貴史の首の陰から覗き込むが、他の女子が勝手に椅子を借用してだべっているだけだった。
「清坂氏、まだ来てないんだ」
「当たり前だろ! ここだけの話だがな、立村」
声をくぐもらせて貴史が耳にささやいた。
「美里、お前に相当愛想尽かしたみたいだぞ。あいつ、真剣に今後のこと考えねばって言ってたぞ」
「今後って、なんだよ」
にやっと笑って上総のネクタイを軽く引っ張った。
「お前は一年半しかあいつのことを見てないから知らんだろうが、美里は結構、上級生受けする性格なんだ。かなり、今までもちょっかい出されてたらしいんだ。でも立村がいるからってことできっぱり断ってきたらしいけどな。聞いてねえか。でも、言ってたぞ。『一回、まともな人と付き合ってみて、それから立村くんとどうするか考えた方がいいかも』ってな。まあまだ、相手を選ぼうとか、そういうとこまでは進んでないみたいだけどな。立村。お前本当に、このままだと美里に縁切られちまうぞ」
「縁を切られるって言っても」
上総は貴史と互いの顔を見交わした。嘘を言っていないか、もしかしたらたくらみごとを隠しているのか、どちらかを確認したかった。
「昨日お前、結局美里を追っかけなかっただろ。あいつのことだ、もしかしたら立村が引き止めてくれるんでないかと真剣に思っていたらしいぞ。せっかく追っかけてやったのにさ、俺なんておよびでなかったみたいだしな。しゃあないから、俺があいつをとっつかまえて聞き出したところ、そういうことだ。立村、本当にこのままだと大変だぞ。まあ、俺には関係ねえけどな」
以上、一切、周りのクラスメートには聞き取れない声でささやき、貴史は自分の席に戻った。誰かがいきなり蛍光灯をつけた。初めて教室が暗く、人の顔色を読み取れないくらいだったことに気が付いた。
──縁を切られるったって、羽飛。
扉をもう一度眺めやった。
「ねえねえ、何話してたのよ。羽飛とさ」
「なんでもないよ」
席につくやいなや隣りでせっつくこずえをあしらい、もう一度前がわ、後ろ側の扉に目を走らせ、あきらめた。来てもこなくても、どっちにせよ。
──俺はどうすればいいんだろう。
美里が入ってきたのは後ろ側の扉からだった。上総の席の隣りを行き過ぎる際に、一言、
「昨日は、ありがと」
そっけない礼を告げた後、さっさと自分の席に付いた。
見るからにご機嫌はよくなかった。
「あのさ、清坂氏」
「あ、もういいから」
目を合わせずに上総の言葉を打ち切った。二の句が継げない上総を一切無視し、教科書の準備をし始めた。貴史に向かって軽く手を上げてなにやらひそひそ話をしている様子だが、当然声は聞こえない。
「あんたねえ、本当に男としてやることしなくちゃだめよ。立村、あんたさあ、美里と羽飛くっつけてどうするのよ。ほらほら、浮気されてるかもよ」
「別に、それはそれで」
するするっと言葉が流れた。
「俺は羽飛と清坂氏が付き合うようになったとしても、そのままでいられると思うけどな」
決して深い意味はなかった。
少なくとも上総はそういうつもりで言った。
「立村、ちょっとこっち向きな」
平らな声で呼ぶこずえ。振り向いたとたん、筒のようなものが目に入り、避ける間もなく頬をはたかれた。地図帳を丸めて制裁を加えたつもりらしい。本の角が頬を擦った。
「なんだよ、冗談やるにも程があるよな」
「お黙り。お姉さんの言うことをよく聞きな」
片方の耳が少しハウリングしている。上総は頬をさすりながらぎっとこずえをにらみつけた。当然の権利だ。
「古川さん、なぜそういう暴力的なことをするんだよ」
「正当な意味での体罰は必要ってことよ。あんた、自分が何を言ってるかよくわかってないんじゃないの。まずあんた、誰に答えた?」
「そりゃあ、古川さんに」
「私が誰に熱上げてるかよく知ってるよね」
「ごめん、忘れてた」
「それはいいよ。どうせ脈ないって思ってるだろうしね。それから、美里とあんたはどういう関係?」
「関係って、まあ、一応」
「彼氏彼女ってことは、了解あればキスもできるしエッチもできるってことだよね」
過激な朝の漫才。この辺りはポーカーフェイスで通すことにした。
「立村、あんたそういうことを自分の大切な相手が他の男とそういうことしているって想像できる? 羽飛にされたらどうするか想像したことある?」
「だから別に、友だちなんだから」
言い終わる前にもう一発肩を殴られた。避けられない。
「あんたの言ってること、美里のことなんてどうでもいいっていう意味に取られたってしょうがないよ。あんた、英語は天才的だけど、日本語の素養全然なってないよね。少し反省しな。もし立村、あんたがおんなじこと言われたらどうするのさ。美里に、私とあんたがくっついても付き合いできるって言われたら」
少し考えて、上総は答えることにした。
「そうしたら古川さんが逃げるだろ。でも、仮にそうなったとしても、四人でしゃべることには変わりないんじゃないかな」
全く何も考えてないのに、なぜ目が吊り上がるのだろう。こずえが貴史にほの字だというのは前から知っていることだ。できれば二人がうまく行ってほしいと思っている。ひそかに応援してやることに決めている。
美里と貴史にやきもち妬いているならば話はわかる。
──古川さん、なんで憤ってるんだろ。
上総にはどうしてもわからなかった。
「あんた、どうして友だちってことにこだわるんだろうね。ったく、ガキなんだから」
「悪かったな」
話を打ち切りもう一度、貴史と美里の顔色をそっとのぞいてみた。こずえとのやりあいを盗み聞きそた様子はなかった。もしかしたら傷つけてしまう言葉だったのかもしれない。上総としてはただ。
──ふたりとも、俺にとっては大切な友だちだからそう言っただけなのにさ。
思えば思うほど、ずれていく言葉の地軸。元に戻したくて必死に突っ立てているのに。
授業が一通り終わるまで、上総はほとんど貴史と会話を交わさなかった。不自然な無視ではない。出席番号順に並ぶ授業がたまたまなかったことと、南雲とまたいつものように音楽の話題を交わしたり、委員会の最新情報をまじえたり、盛り上がっていたから、ただそれだけだった。
帰りの会、締めの言葉の最後に、担任菱本先生は、貴史と美里を指差した。
「今日は居残りしろよ。羽飛、清坂。終わったら生徒指導室に来い」
真面目な顔をしているけれども唇からは笑みがあふれんばかりだ。決して鉄拳制裁を加えようとはしていないらしい。
ふたり、肩をすくめ、目配せしてなにやら合図しているらしい。
上総は終礼が終わるとちらりと背中に視線を走らせた後、大急ぎで教室を出た。
──昨日のことで絞られるのかな。
──次は俺が呼び出されるかもな。その時はその時だ。
外は土砂降りだった。廊下に少し、傘から落ちた雨粒が染み付き床を濃い色に染めていた。
2 羽飛貴史としてはここで押さえておかねばならないと思い
「いい? 貴史、部屋に入ったらなにはともあれすぐ、ごめんなさいってするのよ。そうすればあとはこっちのペースなんだから」
「美里もずいぶん、計算高い性格になったよな」
帰りの会が終り、立村が脱兎のごとく教室を飛び出していったのを見届けて、貴史は美里に返事をした。
「何考えてるんだろうな、しっかしあいつも」
「知らない、そんなの知ったことじゃないって。もう」
美里の演技も相当なものだと貴史はうなっていた。前の日に授けた「男心をかく乱させるためのテクニック」を、美里はすっかり身に付けている。女って、一時間で変わるもんだ。つくづく感心しつつも、思う。
──いざという時は俺も、気をつけれってことだよな。美里と立村で、俺の将来の勉強をするってわけかよ、なんだかなあ。
窓ガラスを叩いている雨の音。この中を走って帰ったとは思えない。立村の姿を探したけれどいなかった。きっと、三年A組の本条先輩にぐちりに行ったに違いない。美里に嫌われたんでないかと真剣に相談しに行ったに違いない。
──俺には話さないことでもな、本条先輩にだけはホモみたいにくっついてるからなあ。
男相手に嫉妬するなんてもったいないことはしない。それが貴史の主義だった。しばらくは放っておくつもりだった。
美里がかばんに教科書類をしまいこむのを待ち教室を出た。いまさらひゅうひゅう言う奴はいないけれども、なんとなく細い視線がからみつく。振り返ると、B4版のスケッチブックを開いて他の連中としゃべっている南雲から発せられていた。ずいぶん、きざったらしいまなざしだ。髪も裾をぎざぎざにそろえ、前髪の付け根を軽く持ち上げたすタイルだ。こっちを見ているだけだ。
──ったく、何か文句あるのかよ。
見られているだけでむかつく。時間があればいちゃもんつけてもいいが今日のところはがまんしてやろう。貴史は音を思いっきり立てて扉を閉めた。
「貴史あんた、ちょっとでかい音立てすぎだよ。みんな白い目で見てたよ」
「いいじゃねえか。どうせ」
生徒指導室は三階の視聴覚教室隣りに配置されていた。放課後に問題のある生徒を呼び出すための場所だから、あまり人気のないところがよいという配慮からなされたものだという。実際は遅刻の多い奴が説教されたり、公立高校受験などで相談する人が先生に呼び出されたりとか、そういう使われ方が多いらしい。
「貴史、生徒指導室に呼ばれたことあったっけ」
「なんども。違反してる格好だとか、髪にポマードつけるのやめろとか」
「それって趣味の問題よね。校則がどうのこうのっていう以前にね」
軽口を叩きながら人気のない生徒指導室の前に立った。
「あんた、入れば?」
「わあった。じゃあノックは美里、お前がしろ」
人差し指を鉤型にして、奥ゆかしく美里が扉を叩いた。
「どうぞ」
菱本先生の声だった。
「じゃあ、行くわよ。いっせえのーで!」
結局美里が扉を開き、ふたりで合唱した。
「先生、昨日はごめんなさーい!」
先手必勝。あっけに取られているのか菱本先生はうすく唇を開いたままだった。とにかく先に謝っておいて、深い追求を避けるようにしよう。美里と前日から本日にかけて煮詰めておいた計略だった。
「全くお前らふたり、いきなりエスケープするから心配してたんだぞ。ほら、座れ」
革張りのソファーにふたり並んで座った。真正面からは樹齢百年以上は経っているであろう銀杏の木がカーテンから見え隠れしていた。気付かなかったけれども、ずいぶん葉が黄色く染まっている。
菱本先生がげんこつで頭を撫でた。痛くない。手加減しているところみると、ご機嫌はそれほど悪くなさそうだ。美里と目配せしつつ頷いた。
「じゃあまず罰の宿題だ。国語、英語、数学、社会。このプリントを明日までぜんぶやって来いよ。昨日の授業分、ずるけたんだからそのくらいはやれよ」
立村がコピーしてくれたノートのことを思い出した。
「すみません。けど、全部やるんですか?」
すっかり気を抜いた様子の美里が、渡されたプリント類をめくり、うんざりした顔を見せた。そりゃあ貴史だってあきあきする。
「出来ねえよ、先生。反省してるんだけどなあ」
「ばか者、一日休んだら授業についていくのに骨だと思ったから、俺が他の先生に頼んで作ってもらったんだぞ。感謝しろ」
これ以上つっこんでも意味なし。判断して貴史はかばんにしまいこむことにした。美里も真似をしていた。
「それはともかく、羽飛、清坂。ここだけの話、いきなり学校を抜け出したりするのには、それなりに事情があったんだろ? 話せることだったら話してみろ」
「人生いろいろあるもんで」
茶化してごまかすつもりでいた。美里も大きく頷いた。
「いじめとかいやがらせとか、かつあげとかじゃないから安心してください。まあただなんとなく、って感じ」
「なあにふたりでおちゃらけてるんだ。あのな、清坂。ここだけの話、立村と何かあったんだろ?」
──知らん振りしろ、美里。
貴史の方を見て、物言いたげに「どうする?」という視線を送るのはやめてほしかった。ばればれじゃないか。
「先生、なんで立村のことなんて出るんだ? 誰かそんなこと吹き込んだのか?」
ため口を叩いても菱本先生は怒らなかった。嬉しいのだ、きっと。
「朝、クラスの連中から聞いたぞ。みんな心配していたんだ。立村を含めた三人組で口げんかしていて、清坂が激怒して飛び出していって、羽飛が慌てて追いかけていってと」
「で、立村が取り残されてってわけかよ」
ぼろっと口からこぼれてしまった。いかんと思ったが遅かった。やっぱり菱本先生は大人である。にやっと頬の筋肉を持ち上げた。
「無断欠席はまあ誉められたことじゃないが、まあ、騎士が姫を守るために飛び出したということで、そうだな。お前たちの家に報告することだけは止めておこうか」
「どうせ一学期の出席日数、通信簿に書かれればばれるけど」
よけいなことを言う美里。どうやら美里も完全に菱本先生の手に落ちたらしい。立村のように大騒ぎ起こすよりも、適当に妥協しておくのもひとつの方法だ。
──どうせ、関係ないもんな。菱本さんとはな。
貴史も部屋の中ではへらへらすることに決めた。
菱本先生は両手を組んで二人の眼線にあわせるようかがみこんだ。
「羽飛。ここだけの話、立村とはあの後、うまくやってるのか」
美里に尋ねないところがやはり、教師だ。貴史にとって立村は「親友」だが、美里にとっては「恋人」だ。中学生の恋愛なんておおっぴらに認めたくないのだろう。「友情」で通すしかないだろう。
「別に、なんもないけど」
「宿泊研修の時のことを、まだ引きずったりしてないか。あいつは」
宿泊研修三日目後遺症がかなり残っているらしい。貴史はつんと鼻を天井に向け、ちょっとだけ考えた。隣りの美里がぎゅっと口を引き締めている。聞かれても変なこと答えるもんか、と言いたげだった。
「先生、ショックだったよなあ。気持ちわかるよ」
「そうか、わかるか。羽飛」
苦笑と一緒に小さく頷き、菱本先生は立ち上がった。後ろの方に缶ジュースを用意してくれていたらしい。三本、ガラステーブルに置いた。だいぶぬるまっていた。
「内緒だぞ」
「ラッキーかも! ありがとうございます!」
美里も用心していたようだが、食い物飲み物には弱い。永年美里と行動を共にしてきた貴史には、油断マークが点滅しているのがよくわかった。美里を手なづけるにはケーキがあれば一発だ。あまったるいオレンジジュースをすすった。ひじで小さく美里を小突いた。知らん振りしている。
宿泊研修三日目帰りのバス内で、立村がいきなり窓からものを落としたと騒ぎ出し、無理やりバスを止めさせ降りたはいい。しかし進行方向とは反対側にいきなり走り出し、バスの運転手は計画どおりとばかりに美術館へゆっくりと進んだ。当然、二年D組連中および菱本先生はしばし憮然呆然。美里も当然、泣かんばかりだった。
貴史も思わず、
「あの大馬鹿野郎!」
と絶叫したのを覚えている。
意外と落ち着いていたのが立村の相手をしていた古川こずえで、
「やっぱりねえ、なんかたくらんでいると思ったけどね」
わざとらしいため息を吐いてみせ、美里をさらに激昂させた。
「悪いけどさ、さっき立村、キーホルダーを落としたふりしてたけど、人差し指にひっかかったままだったよ。先生、気付かなかったの?」
かわいそうだったのは菱本先生だ。さすがに貴史もこれは同情してしかるべしだと思った。頭を抱え込み、運転手に激しく抗議し、
「運転手さん、教師にとって、自分の受け持ちの子どもは、ほんとの子どもみたいなもんですよ。それを、なぜ、そういうことをするんですか!」
見た見た。充血していた瞳を。菱本先生は熱血漢でかつ、真っ正面から受け止めてやろうと必死な男だと、貴史は認識していた。男としていい根性はしている。やり方があざといと思わなくもないけれど、貴史は嫌いなタイプの男ではなかった。少なくとも南雲のようにいつもへらへらして、女にだらしなくて、自分の見た目ばかり気遣っている奴よりははるかにましだと思っていた。
──しっかし、古川もずいぶん冷静だよなあ。あいつも見た目よりかなりばりばりなのかもなあ。単なる下ネタ女王じゃねえってわけか。
口には出さない。気があると誤解されたらもっと面倒なことになる。だから言わない。貴史はこの一件で古川こずえの頭脳明晰に一目置くようになった。さすが、美里と対で付き合える女子だ。
「先生、俺さ」
美里がジュースをすすりながら貴史に顔を向けた。無視して続けた。
「バスの中ではさすがに言えねえなあとは思ってたんだけどさあ。ここだけの話」
「ここだけの話、か。まあいいだろう。言えよなんでも」
心を開いた振りをするだけで、乗ってきてくれる菱本先生だ。
このくらい立村だってやればいいんだと、貴史は思う。
ぬるくなったオレンジジュースを頬に擦り付けるようにして飲み、貴史はぐいと身を乗り出した。
「先生、立村のこと、男として嫌いだろ」
図星を差してやった。たぶんそうだろうと前から思っていたけれど、さすがに教師だから言えないだろう。そんなこと。
「おいおい、それは違うぞ。担任が受け持ちの生徒嫌ってどうするんだ。ばかだなあ。そう見えるのか。羽飛には」
菱本先生はにやっと笑って美里に話し掛けた。貴史に言葉は返しているが、聞かせたいのは美里の方だってことだ。分かりやすい態度である。貴史はさらに続けた。
「言い方代えるとさ、先生の友だちとして付き合う場合、ああいう奴、苦手だろ」
「羽飛にはまいったなあ。まあなあ、たぶんああいうタイプで遊ぶ友だちはいないなあ」
玉虫色のお答えである。もちろん目線は美里を向いたままだ。不気味がっている美里の気持ちはわかる。でももっとつっこまないと話が進まない。
「だろ。俺も先生の気持ちわかるよ。あの宿泊研修の時、すっげえ俺も頭にきたもんな。なんで誰にも何にも言わないで勝手にやっちまうんだってさ。今だから言えるけど、一発ぶん殴ってやろうって本気で思ってたんだ」
「ほう、立村をか?」
「先生だってそうだろ?」
菱本先生は軽く握りこぶしをつくって、軽く揺らしてみせた。
「でも羽飛が殴ったら、立村ふっとんでしまうんじゃないか」
「あいつ、見た目よりも根性ある奴だから、たぶん五分だと思う。先生はたぶん知らねえと思うけどさ、立村は見た目よりすげえ喧嘩強いと思うんだ。だから俺もよっぽどのことがないと手を出したくないんだ。だから、まあがまんしたってわけなんだ、けどさ」
言葉を切って菱本先生の出かたを待った。同時に美里に伝わっているかどうかを確かめた。軽く美里の足を踏んでみた。黙ってろ、の合図だ。
「そうか、お前立村のことを結構買っているんだなあ」
だんだんひっかかってきた。もう一度美里の足を踏んづけて、こくこく頷いた。
「そうだよ。先生さ、なんで立村が評議としてずっとみんなから評価されてるか謎でなんないだろ。そういう顔、いっつもしてるもんなあ。あいつも見栄っ張りだから表面ばっかりいいようにしてごまかしてるけど、本当はずっと頭も切れる奴だってことまで隠してるんだ。俺にはわかるんだ。な、美里もわかるだろ」
じょじょに美里の顔が赤らんできた。決して部屋の中が暑いからではない。
「友だちとして、立村と会話が続くのか?」
「いや、それがさ」
ここでひとつ、爆弾を投げてみよう。貴史は美里をちらっと見やった。とにかく、美里に口出しをしてほしくない。瞬間沸騰で思いついた湯気のような案だった。かき回されたら消えてしまいそうだった。
「ご存知の通り、あいつってしゃべらねえよ。ほんっと、俺とか美里とか、あと古川とかがさんざんこけにして遊んでいるけどさ。でも、なんってのかなあ、立村とふたりでいろいろネタかましてると、俺の方がすうっと気持ちよくなるんだ。優ちゃんのレコードをネバーエンディングで聴いているのと同じような感じで」
ぶぶっと噴き出す声。美里だ。あとで蹴りだ。本当のことを言ってるだけだ。
「お前、そういう友だちってもっといると思ってたけどなあ」
やっとこちらを向いてくれた菱本先生。ぐっと目を見つめて五回、細かく頷きを繰り返した
「いねえよ。俺は友だちを選ぶんだ。だけどさ、先生。本当のところ俺があいつにどう思われてるかはわからねえけどな。いろいろ考えることあってさあ。例の宿泊研修以来」
咽が渇いてきた。口よりもまず身体の中の方が警告サインを出しているらしい。別に嘘を言っているわけではないけれど、貴史らしくないことしているという意識はあるらしい。
「ああ、そうだな。羽飛、理由は説明しただろう」
「一応、先生から聞いたことで見当はついた。バスの中でも古川が謎解きやってくれたからな。けどさ、あいつ俺だけじゃなくて、ハニーの美里にすらほんとのこと言ってねえんだぜ」
「貴史!」
とうとう美里が足をぐりぐりつぶしにかかった。美里の本気は怖い。帰りは距離おいて帰ろうと決めた。
「ハニーときたか、羽飛、お前おもしろいなあ」
笑いこけている菱本先生。当然、ここが笑いどころ、狙いである。貴史の読みは当たっている。
「だろだろ! おい美里、事実をそのまんま告げただけだ。足離せ」
「あとで覚えてなさいよ!」
大人が目の前にいるのは、うざったいことがほとんどだが今はなかなか助かる。特に担任とは。
「だから俺が言いたいのはさ、先生」
最後の締めだ。ここぞと力を入れた。へそのところに根性こめて、ふんばった。
「昨日俺と美里が学校ふけたのはまずかったと思う。その点はおもいっきし反省してる。ちゃんとあのプリントやるからさ。でも、これから俺が立村と男と男の勝負をしたいと思ってることだけはわかってほしいんだ。あいつ、ずっと俺からも逃げてるような気がするんだ。だから徹底してあいつと決着をつけたいんだ。いい奴だってわかってるからさ、なおさらなんだ。曖昧なところはなくしたいんだ。だから、そのことを昨日、美里と相談したくて大学の図書館で話してた。嘘じゃねえよ。大学の白いトレーナー着た人に聞いてもらったら絶対わかるって。とにかく、俺は」
とどめの一言をぶちかました。
「先生、男同士の頼みだ、俺と立村との果し合いには一切、口はさまないでほしいんだ。菱本先生だからわかってくれると思って、だからさ」
美里は思いっきり腹抱えてわらっていることだろう。無言で貴史の方を見つめてはいるけれども、口の脇に強いえくぼができている。菱本先生がいなかったら爆笑の渦に飲まれていることだろう。
菱本先生も難しい顔をして黙りこくった。五秒、沈黙が続いた。のるかそるか。
「羽飛、お前、男だな」
ぐいと両手を握り締め、右手を差し伸べてくれた。握手しろということだろう。貴史も腕ずもうする時のようにひじをつき、音を立てて握り締めた。
「サンキュー、先生話、わかるよなあ」
「そのかわり、宿題きちんとやれよ。いいか。清坂もだぞ」
答えず美里は黒目を右、左と動かし、ぐぐっと笑った。
──これで、よけいな奴の手出しはないぞ。美里。
美里には帰り道、口に出して説明すれば万全だ。貴史はにやつきながら握手から腕相撲に態勢を変えた菱本先生へ、ひそかに手を合わせた。大うそつき、羽飛貴史の罪悪感からだった。
──これでいきなり、菱本先生が、ホームルーム中に「立村と清坂と羽飛の間に起こった不和問題」とかいうのをネタにしないですむぜ。放っておいてくれるってことだからな。男と男の約束ってことで、俺と立村との問題には、触れないでくれるって約束だからな。言い出しっぺは美里じゃなくて、俺だってことだからな。
──あとは、美里、お前の演技次第だ。評議委員会で鍛えた演技力でとことんあいつをじらしてやれ。
3 清坂美里は自分の演技が逆効果なのではと思い
──貴史の言うことってどこまで本当なんだろう。男心? そんなもの知らないよ。あれでもし立村くんに冷たくされたら、責任取ってくれるつもりなのかな。なわけないよね、貴史は、私が気のない振りして反応なかったらあきらめろって言ってたもんね。もう、なんかわかんない。もう。
四科目の宿題で徹夜するはめになった美里は、ベットで寝ている妹を起こさないように仕切りカーテンをかけた。灯をもらさないようにするための手段だった。鍵つきの引き出しから、一年時の生徒手帳を取り出した。ひとりっきりの時にだけ、こっそり見つめるあの人の姿だった。
一年冬休みの評議委員会ビデオ演劇「忠臣蔵」完成の記念写真だった。全員で写した写真は誰でも見られるアルバムに貼ったけれども、たまたま水色の着物にはかまを纏った立村くんと、太い縞の入った和服姿の美里のふたりで撮ったものだけは、誰にも見せないように隠しておいた。まだ美里の一方的な片想いだった頃だ。休み中会えない時はいつも、話し掛けたりしていた。もちろん誰にも気付かれないように。
──けどさ、言ってたよ。立村くん。
「俺は羽飛と清坂氏が付き合うようになったとしても、そのままでいられると思うけどな」
聞こえていないと思っていたのだろう。いつものようにこずえと夫婦漫才やっているのを、美里は聞き耳をたてていた。不思議なことだけど、立村くんの声だけはどんなに低くても、高性能マイクで拾上げることができる耳。美里も聞きたくないことまで耳で拾ってしまった。
──私と貴史とが付き合うようになったとしても、平気だってわけ?
昨日、立村くんが机の中に入れてくれた授業ノートのコピーを取り出した。なんで用意してくれたのかがおおむね見当ついた。しょっちゅう風邪を引いて学校を休んでいる立村くんのことだ。休み明けは地獄の自習課題に追われるであろうことが想像ついていたに違いない。味方は、友だちの取ってくれたノートくらいだろう。こんなのいらない、と破り捨てないでよかった。貴史もきっと同じこと考えているに違いない。ほとんどノートのおかげで、宿題は無事片付きそうだった。
──私のこと、どう思ってるんだろう。立村くん。
最後に数学の検算をした後、かばんにしまいこんだ。
なんで貴史がいきなり、生徒指導室で立村くんに対して思っていること、計画などをまくしたてたのか、途中で気が付いた。貴史らしい。要はあまり、大人に口出しをしてほしくないということだろう。美里にとっても決していやな大人ではない菱本先生だけど、でも、教師の顔して三人を仲直りさせようとするのだけはやめてほしかった。自分で計画したことは、大人に割り込んできてほしくない。当然のことだ。
──男同士の仁義を重んじる菱本先生だもんね。やっぱり単純よ。
──立村くんだってそういう手を使えばよかったのよ。あの時も。
また思い返す宿泊研修三日目のこと。机の上には、紫に桃色の花が描かれた宝石箱がのっかっていた。宝石はないけれど、緑地に黄色い格子の描かれたヘアーアクセサリーをしまいこんでいた。
生まれて初めてのおそろいだった。
立村くんには同じ色のキーホルダーを買った。まさか、あのキーホルダーが次の日の事件を起こす発端になるとは思っても見なかったけれど。バス窓の外に落としてしまい、拾いに行かせてくれと泣きそうな顔をして菱本先生に頭を下げ、よりによって反対方向に向かって走り出したのを見た時には、頭の中が真っ白になった。周りの子たち、貴史、菱本先生がわめきちらしバスの中は騒然としていた。美里も本当だったら女子評議として、毅然とした態度を取るべきだったと思った。結局、謎を解いてくれたのは、立村くんと三日目、ずっとしゃべっていた古川こずえだった。
──こずえはいいよ。頭いいもん。エッチなことばかり話してる子に見えるけど、言いたいことはすっぱり答えて何があっても堂々としていて、いいことも悪いこともきちっと、言えるんだもん。どんなに仲のいい子でも、いいことはいい、悪いことは悪いってはっきり言っちゃう子だもん。立村くんもだから、こずえとはよく話すんだよね。でも。
決してこずえにやきもちを妬いたわけではない。最初からこずえは立村くんのことを恋愛の範疇から除外していると断言している。本人を目の前にしてだ。むしろ貴史一筋のあの態度に、親友として心苦しい思いすらしていた。だって貴史は「鈴蘭優命」を公言してはばからないのだから。昨日のことを思い出してもそうだが、貴史は「しつこくされると逃げ出したくなる」タイプの男だというのが判明した。こずえのアタックは、貴史に関して言えば逆効果なんだと、つくづく思った。
──でも、こずえがあんなにあっさりと立村くんのことを見ていたのに、私、付き合ってるのに。
水色の着物にはかま姿の立村くんはりすのような瞳を向けていた。
──立村くん、はやく降参してよ。お願いだから。
宿泊研修三日目バスの中、こずえの言い放った答えとは以下の通りだった。
──つまり、立村としては二学期前に退学するA組の女子と狩野先生に、私たちD組のお元気集団をご対面させたくなかったのよ。昨日の話聞いてたらよくわかるよ。それに次。運転手さんさっき立村と話してたよね。ちらっと窓から見てたけど、なんかあいつ、泣きそうな顔して戻ってきてたよ。その時になにかあったのかなあ。さらに続けるね。キーホルダーを落としたとか言ってたけど、私見てたよ。立村の奴、人差し指にキーホルダーを引っ掛けてしばらく手を外に出したあと、すぐ引っ込めてポケットにもどしてたもん。たぶんあの時にキーホルダーを外したんじゃないかと、思うんだ。美里からもらったものを落とすほどあいつも根性ないよ。なんか考えているんだろうなあと思ったから、あいつの一芝居に乗ってやったけど、先生も羽飛も、美里もどうして気付かなかったの?
こずえだって共犯じゃないか、と後ろ指差したくなる。菱本先生に、
「だったらどうしてそういわなかったんだ!」
と怒鳴られた時もこずえは、
──だって先生がこんなことを見抜けないわけないと思ったんだもん。全く。立村って子、思いつめると何しでかすかわからないって、うちのクラスの連中はみんな知ってるもんね。だからさあ、先生。今回はあいつの顔を立ててやろうよ。無理にA組の人たちと交わらなくたっていいじゃない。世の中にはね、なかなか理解できない感覚を理解しちゃう奴がいるっていうことよ。うちの弟みたいにね。
こずえには二歳下の弟がいると聞いていた。小学校六年生。口癖のように言うのは、
「立村とほんっとに性格似てるのよ。だから美里、恋のライバル視しないでいいからね。近親相姦はやだからね」
どうして立村くんの気持ちを、こずえのように受け止められなかったんだろう。
全く動けなかった。バスが静まって落ち着くまで、美里は何も言えずうつむいていた。
もどってきた立村くんに対して、いつも通りに振舞おうと決めた、それしかできなかった。
──立村くん。私、こずえみたいに細かいとこまで見てられないんだよ。どうしても言いたいことがあったら言ってもらわないとわかんないんだもん。きっと立村くんのことだから、私になんかわかんないって決め付けているんだろうね。わかってる。そのくらい。私に何にもあの時のことを話してくれないのはそういうことなんだって、気付いてる。でも立村くんはやさしいから、それ言ったら私が傷つくんだと思って、隠してるんだよね。嘘、下手だよ。立村くん。
──けど、嫌いになんて絶対にならないんだよ。貴史も、私も。
──泣き虫だったって、いじめられっ子だったって、九九が言えなくたって、立村くんのことを嫌いになんて絶対にならないって、どうしたらわかってくれるの。
貴史の授けてくれた男心操縦法。
「気のない振りしてじらしてやれ。そうすれば男はむしょうに女を追いかけたくなるもんだ」
別名、アイドル鈴蘭優にめろめろの貴史の図。
一日試してみた。小学校時代の男友だちとデートの振りでもしようかと思っていた。
でも、一日で負けそうだった。どうしても耳がよけいな言葉を拾ってしまう。たぶん立村くんは、深い意味なく使っているのだろうけれども、自分にとっては剣のような言葉ばかりを。
──ほんとに私と、付き合っていて楽しいの?
──こずえみたいにすべてを見抜いてくれる相手でないといやなわけ?
そして、もうひとつの質問をしたかった。詩子ちゃんからもらった手紙を、下の引き出しから取り出した。小さく、隅っこに綴られた文字だった。
──時辻さんという人、青大附属にいますか?
──今度会った時、教えてください。
美里の勘だと、おそらく「時辻」イコール「立村」である可能性が大だ。
まず、青大附中においてひとりも「時辻」という珍しい苗字の人はいないということ。
次に、日本舞踊関係の人もあまりいないはずだということ。
最後に、立村くんのお母さんは離婚しているので旧姓の可能性が高いということ。美里はまだ、立村くんのお母さんがどういう苗字を使っているのか教えてもらっていないけれども、だ。
今日の状況からして、それを確認するのは困難だ。たぶん詩子ちゃんと立村くんは顔見知りの可能性が膨らんできているけれども、向こうが隠したがっている以上追求するのは難しいだろう。質問してなんになるという気もする。
美里はただ、自分から本当のことを言ってほしかっただけだった。
行動で懸命に美里たちへ訴えようとするんでなくて、直接、目と目を見て、口で話してほしかった。それだけだった。
──それがそんなに、ひどいことなの? 立村くん。
──私、今週の日曜日、詩子ちゃんに会うよ。会って、「時辻」さんが立村くんなのかどうか確かめちゃうよ。詩子ちゃんから、立村くんの知られたくないこと、全部聞くかもしれないんだよ。
──だってこうしないといつまでたっても立村くん、私とさしで話、してくれないんだもん。立村くんが悪いんだよ。こんなに、こんなに。