第一章
第一章
1 立村上総のまだ伝えてない言葉
どこかで見たことがある。いやというほど会ったことがある。近づかなくても一発でわかる顔している。
あそこにいるのは、あの人だ。
上総は廊下奥で数回頭を下げつつ、声高にしゃべっている女性の姿を認めると、窓際に移動し立ち止まった。応接室とよばれる部屋が一階には用意されていて、学校を訪れるお客様の多くはそこに招き入れられる。たまに掃除当番で入ることもあるけれども、ちゃんとお茶やらソファーやら、何から何まで用意された豪華な部屋だった。もっとも人がめったに来ないので、掃除することもないくらいだが。
──何しに来てるんだよ、あの人。
舌打ちしつつ、様子をうかがう。
髪は軽く束ねている。焦げ茶のブレザーとズボンで身をまとめている。たぶん口紅だけは真っ赤だろう。見た目二十代後半くらい。好みにもよるがきれいと思う人は思うだろう。
──実際三十四だって分かってるからな。俺の方も。
たぶん言わなければわからないだろう。彼女に、今年十四才のひとり息子がいることなんて。しかもその息子が。
「それでは、また機会がございましたらよろしくお願いします」
深く一礼した後、その人は大股に歩き始めた。向かう方向は来客用玄関。これまたこぎれいにされていて、ふかふかのスリッパが用意されているというところだ。生徒が遅刻した時にもここを使用する。違反カードと一緒に入ることを許される、生徒にとっては覚悟の場所でもある。
一歩近づくごとに感じる強烈な威圧感。
──よりによってこんなとこで。
上総は観念して、窓辺にもたれかかった。九月の半ばともなるとブレザーを羽織ってもへんに思われなかった。すでに夏服から冬服への切り替えも行われている。うつむいて、できれば気づかぬまま通り過ぎてくれればいい、そう思った。
甘い。速度を落とさずにその人は廊下を斜めにつっきって目の前に立った。
「上総、あんたなんでこんなとこにいるの」
「母さんこそ何の用だよ」
廊下には誰もいなかった。それが幸いなり。上総は母がやっぱり、服に合わない派手な口紅をつけてきているのを見て取った。
「先生に呼び出されたわけではないんだろ」
「仕事中にあんたの成績が悪いこと知らされたって、別に私には関係ないわよ。そんなに甘やかしてもらえてるなんて思うんじゃないわよ」
相変わらずだ。この人は。
廊下の天井を見上げ、冷たく答えることにした。左側を指した。
「ほら、客用玄関はあっちだから」
「ははん、上総、あんたここで相当悪いことしてるんでしょう」
「なんでそういうことになるんだよ」
「早く私を追い出したがってるんだから」
「用事があって通っているだけだろ。なんでそうつっかかってくるんだよ」
母の口調からすると、応接間での出来事はいまひとつ気に入らない形に終わったらしい。これが自宅だったら非常に怖いことだけれども、幸い学校は公共の場所だ。手は飛んでこないだろう。
「上総、あんた中学に入ってからすっかり親に対する態度、なめくさってるわね。こう言う時、小学校の頃のあんただったらもっと慰めとかなんとか言ってくれたもんじゃないの? 全く、この学校の先生ときたら」
そうとう母はご機嫌斜めらしい。
「わかったよ。何あったんだよ」
仕方ない。玄関まで来客をお送りするという顔をして、上総は歩き出した。肩を並べて五メートル先の来客用玄関までお送りすることにした。
背がまだ、母に追いついていないのが情けなかった。廊下に伸びた影がやはり、一回り小さかった。
「全く頭くるったらないわよ。遠い存在の日本伝統芸能をもっと身近に感じられるように、和楽器と洋楽のコラポレーションを中心としたイベントを行います。ぜひ御校の生徒さんたちにも勧めていただけませんか、ってチケットを持ってきただけよ。学生さんたちだから高いチケットじゃないわよ。招待券でいいっかってことで用意したわよ。あんたもいることだし」
「あんたって人を呼びつけにするなよ」
ようやく理由が判明した。九月にそういうのがあるとは上総も知っていた。招待状の宛名も書かされたし、当日は手伝わされた。今回もそうだろう。一学期の段階で「もっと友だちにも宣伝してちょうだい」と命令され、何人かには話していた。
「でも、どうしてだめだったの」
「ライブの場所がね、お酒を出すところだから未成年の学生さんはだめだって。ばかよね。頼まなかったら出さなければいいんだから。そんなこともわからないのかなあ。馬鹿みたいよ。本当にあんたの学校の人たちは」
「そういうところに入れたのはそっちだろう。鬼のように勉強させて」
「ええ、そうよ。あんた何かあるといつも泣きじゃくってたくせにね」
事実だったから何も言えない。すのこの上に立ったまま、母がパンプスに履きかえるのを見ていた。スリッパを渡された。早くしまえ、ってことだ。
「それとね、上総。十月五日のことだけど、人数に数えさせてもらっていいでしょう? 当然よね。あとで家に電話かけるわ」
さっと手を挙げて母は、来客用玄関を出て行った。
玄関のたたきにうす橙の光が広がるのを上総は黙って眺めていた。秋のかすれたほこりっぽい匂い。咽が痛くなりそうだった。
一度教室に戻ってから図書室に寄るつもりだった。今日は委員会もないし、取り立てて用事もない。放課後の時は貴重だ。日が暮れる前に大急ぎで帰ろうと決めた。
「立村、おい」
振り返ると、羽飛貴史がワイシャツ姿のままで待っていた。
「ああ、羽飛か、どこ行ってた?」
「美術室に呼び出されたんだ。それよかお前さっきさあ、すっげえ美人と歩いてただろ」
にやにやしながら貴史は上総の肩に手をやった。
「見たぞ、ほら応接室から出て来た人とさあ。お前、知り合い?」
軽い口調だった。
──よりに寄って。羽飛に見られてるのかよ。
──しくじったな。
どこまで見られているのかわからない。話まで聞かれていたら一発でばれるだろう。自分のことを「上総」と呼び捨てにするのは親しかいない。とにかくみっともない。
「まさか、そんなんじゃないよ。知らない人」
さらっと答えた。
肩から貴史の手が離れた。一緒に日が落ちるように笑みが消えていった。
こういうことに上総は敏感すぎるほど敏感だ。
「あ、っそ」
口先で吹くように言葉を返した後、貴史は黙って廊下を突っ切っていった。並ぶと貴史の方が影長かった。
──別に隠したわけじゃないけどさ。
──なあに言ってるんだよって言われたら、「ごめん、うちの親だって」って答えたってよかったのに。
──いつもの羽飛じゃないな。
──いや、九月に入ってからはいつもかな。
原因は自分にあるとよく自覚している。外の街路樹も、学校内の樹木も、まだとりわけて色を変えているわけではない。銀杏が黄色く色づくのも、紅葉がうっとおしいほど熱く燃え滾るのも、まだまだ先の青潟の気候だ。なんとなくななかまどの実が青から黄色にふくれはじめている程度だ。こんな景色で「もう秋ですね」なんて言う奴がいたら、よっぽど植物に詳しいか自分と同じく夏が苦手で気温の下がる季節を求めている奴かのどちらかだろう。 ──どうすればいいんだろう。
図書室に向かい歩き出し、途中先生とすれ違っては一礼した。誰も上総に向かって何かを言うわけではない。誰も怒っていない、誰も気づいていない。それでも上総にはわかっていた。
──絶対に、傷つけてるんだ。
でなかったら、もっと違った答えが貴史から返ってくるはずだった。
──あいつだったら絶対、「なあーに、冗談言ってるんだよ。あれ、お前の姉さん? 腹違いのなんとかってよくあるだろ? だってそっくりだったもんなあ。それともなにか? 美里に内緒の年上の彼女? ちくらねばならねえぞそれだと!」とか言って、茶化してくれたはずなんだ。
図書室で借りた本を二冊取り出し、カウンターに渡した。本棚に目を走らせるのも、借りたい本を選び出すのも面倒くさかった。数人残っていた友達に一声かけた後、上総は図書室を出た。
──どうすれば、つぐなえるんだろう。
──どうすれば。]
──それにどうして俺は、嘘ついてしまったんだろう。
入学式の日、初めて声をかけてくれた同級生、それが羽飛貴史だった。
廊下に整列させられてたまたま貴史の前に並んだのがきっかけだった。
「立村って、言ったよな。俺は羽飛。よく覚えておいてくれよな」
ぽんと肩に手を置かれて笑顔で話し掛けられたことを覚えている。
ろくに言葉も出なくて、ひたすら教室では学校パンフレットをにらみつけ、何とかぼろが出ないようにしようと、椅子に浅く腰掛けていた日のことを覚えている。
──羽飛とは、嫌われないように友だちでいよう。
毎日気を張って学校に通っていた一年、いろいろあったけれども男子連中とはうまくやり、女子も清坂美里という、もったいないくらいの彼女ができた。信じられない。自分に似つかわしくないことばかりだった。どうしても受け入れられない部分があるのはしかたないけれど、友だちとしてはみな最高の奴だ。だから、絶対に裏切らないようにしよう。そう決めていたはずなのだ。
──あっさり友情放棄している奴が、俺だもんな。まったく。
八月末の、あの事件を思い出すと自転車をこぐ足がとろくなりそうだ。
手すりをすべり降りたい気分で上総は玄関へ急いだ。踊り場の窓からは知っている奴が見えなかった。たぶん、貴史も美里も、先に帰ったのだろう。
2 羽飛貴史のかたづいてない問題
──あの顔見たら、ばればれだろ。ったく、あいつ馬鹿じゃねえの。
美術室を出た時にすっかり舞い上がっていたのに、凧を電線にひっかけてしまった気分に陥った。貴史は廊下の曲がり角を振り向かずに歩いた。いつもだったら立村を待っていてやるんだが。「おい、なにとろとろしてるんだよ。早く来いよ」って声をかけるんだが。
なんとなく、そんな流暢なことをしたくなかった。
原因は自分でもよくわからない。いつも教室で花札やっている時とか、与太ネタでからかっている時とかだったらもっと、落ち着いて返事ができたんだろう。ここ数日、完全に自分が反抗期に突入してしまった気がする。限定、立村上総に対してのみ、だが。
そりゃあ、年増のべっぴんさんと歩いていたら何かあるのではとも思うのは当たり前だろう。しかも、立村の顔つきが愛想笑いなしで文句をかましている様子を見たら、そりゃあ答えは一つしかないだろう。
──あれだけ目が似てるんだぜ。俺じゃなくたって一発解答だぜ。
貴史の母よりもはるかに若い人だとは聞いていた。二十歳の時に上総を産んで、三十二歳の時に離婚、家を出て行ったという。話だけ聞けば不幸な家庭なのかもしれないが、語る上総の口調は明るかった。
「それでも毎月、家の状態が荒れ果ててないか試験しにくるんだよあの人は。ちゃんと季節ごとの飾り付けとか、掃除洗濯がきちんとなされているか、まともな食生活を送っているのか、コンビニ弁当なんて食べてないかとか」
上総がなぜ、男子にも関わらず家事一般および季節の行事に詳しいのか、謎はあっさり解けた。おっかない母さんに仕込まれているだけのことだ。日本伝統文化一般のコーディネーターか製作か、よくわからんがマネージャーみたいなことをしているとも聞いた。
──俺が気付かねえとも思ったのか。あほんだら。
ポケットに手をつっこむ。こういう時ほんものの不良だったら、煙草を取り出してすぱっとやるんだろうが、身体によくないことはやめたい。かっこつけるんならガムがいいんだろうが腹がすいたので、こっそり朝買ってきたチョコレートを取り出した。体温でかなり形が崩れていたが食えればよい。銀紙を引き剥がして口にほおりこんだ。たぶん、ばれたら呼び出した。
「貴史、あんたなに口の周りにべったりチョコレートくっつけてるのよ。泥棒さんのひげみたいじゃない。まったく。早く拭きな。自分のハンカチで」
待ち合わせの場所は大学の生協カフェテリアだった。たまに腹がすいた時、よくもぐりこんで「五十円の揚げたてコロッケ」「三十円の山盛りご飯」をトレイに載せ腹に掻きこんだものだった。すでに美里は、四人がけの真四角テーブルに座って珈琲ゼリーをすくっていた。
「鏡、見せたげようか」
「あれま。ほんとだ」
ほっぺたまでチョコレートの跡が、猫ひげのように伸びていた。びんぼうたらしっく、銀紙までなめたのがまずかったのだろう。手の甲でこすってみたが、取れない。美里が大げさにため息をついて、ポケットティッシュをひとパック、提供してくれた。
「いいよ。どうせ学校じゃないんだから。それよかさあ、貴史」
さすがに夕方五時前に、定食を食うのは、食事をこしらえてくれる母に失礼だと思う。貴史も大学いもを八十円分だけ盛ってもらった。
「美里、お前も食うだろ」
「やあだ。夜のご飯食べられなくなっちゃう」
「太るのがやなんだろ。どうせ」
「ご心配ありがと」
体重のことをからかうといつもなら怒るのだが、今日はおとなしい。
美里が言い返さないのは、何か真面目に話がある時だ。
今朝、学校に行く途中で、「ちょっと放課後、小学校時代のネタで相談があるんだけどさ、大学のカフェテリアでどう?」と持ちかけられた。別に一緒に帰ったっておなじじゃねえかと思うものの、食い物があるのは大きい。美里も同じだろう、ということで落ち合ったわけだった。
物心ついた時からの幼なじみであり、男女合わせた中で屈指の親友。
しかもこいつの彼氏が貴史の親友ときた。
これ以上、望むところのない関係だ。
「食いながらでいいだろ。で、なんだ。話って」
「ほら、詩子ちゃんのことなんだけどさ」
スプーンを加えてすっと引き抜き、美里は貴史の顔を見つめた。
──相手が立村だったらさぞや、ぶりっこして食べてるんだろうなあ。
想像するのもなにか面倒だ。貴史は大学いもをほおばりうなづいた。
「藤野のことかよ」
「昨日ね、うちの母さんところに、詩子ちゃんから手紙が来たのよ」
あまり美里は藤野詩子と付き合いがないはずだが。どうしたんだろう。
同じ小学校の同級生だ。気にならないことはない。
髪の長い、美里と対を張るくらいの気の強い女だった。
一部に熱狂的なファンがいて、二年くらい追いかけつづけてきたものの転校というありがちな終り方だったという、哀れな奴を貴史は知っている。
「お前のとこじゃねくて、おばさんところに来たのか?」
「そう。詩子ちゃんの名前になっていたけど、たぶんお母さんが書いたんじゃないかって思うのよ。でね、中に二枚入ってたの」
「二枚ってなんだよ。話飛ぶなあ」
「『志遠流日本舞踊おさらい会』とか書いててね、ちゃんと黒くチケット代のところが塗りつぶされてるの。手紙は入ってなくて、でも私宛じゃないからうちのお母さんが電話でお礼言ってたよ」
「確か木村がずっと藤野のこと追い掛け回していて、結局日舞に藤野を取られたって泣いてたぜ」
「聞いた聞いた、宿泊研修の時に聞いたよ」
宿泊研修。
思わず、黙りこくった。
押し入れに押し込んでいたふとんが、一、二の三、で溢れてきたようだった。
「そういうこともあったよなあ。それでだ、藤野が日本舞踊やってるのは聞いたがそれとなにが関係あるんだ?」
「つまりねえ」
美里はしばらく人差し指と親指を擦り合わせていた。いきなり大学芋に手を伸ばすと、あっという間に口の中へほおりこんだ。
「ああっ、俺の貴重な食料を!」
「だっておなかすいちゃったんだもん。でね」
話を逸らして自分の罪をなしにしようとする美里。こういう奴だ。
「詩子ちゃん初めて大きい舞台に立つんだって。すっごいきれいな着物着て、衣装つけて、踊るらしいんだ。だからぜひ来てくださいって詩子ちゃんのお母さんが私に送ってくれたんだと思うんだ。お母さんは私と詩子ちゃんが仲良しだったと思っているから絶対、ね」
美里の言いたいことはわからなくもなかった。
確かに美里は小学校時代、藤野と仲がよかった。ちょっとしたことで美里がクラスの女子一部から白い目でみられると速攻、マシンガンのようにまくし立てて相手を黙らせてしまう。また美里のことを親友だと思い込み、何を考えたのか貴史にまでやきもちを妬く始末だった。一度「美里をひとりじめするのは、おねがいだからやめて」という手紙を受け取ったことがある。正直、何勘違いしてるんだこいつ、と思うものの、貴史にとって美里が当時、一番話せる相手だったことを考えるとしかたないかとも思った。
あえて言おう。六年後半までは確かに美里と藤野詩子の仲は円満だった。
美里と貴史が同じ青大附中を受験することになるまでは。
最初から美里の家では、内申書がぼろぼろだったにも関わらず成績が群を抜いていたということで、青大附属中学進学を検討していたらしい。また、貴史の両親も「たぶん美里ちゃんが行くなら貴史も行きたがるに決まってる。本気でやればあの子も意外と」という計算が働いていたらしい。あっさりひっかかって受験し、結局貴史と美里だけ合格してしまった。不合格だった女子のひとりに藤野詩子がいた。成績からしてもまず、無理だろうとは言われていたけれども、「美里が受けるから私も」と言い張ったとか。
美里ももてる女だと思う一方、つれない奴だとも感じた。
冷たくつぶやいた言葉を貴史は耳にしている。
──なんで詩子ちゃん、そんな私にくっつきたがるんだろう。
このあたりから天秤のバランスが崩れていたのだろう。
美里が合格発表の日に、貴史に抱きついて涙ぐんだ時。
「あんたと離れたら、私、誰にも本当のことがいえない」
つぶやいた言葉が耳に残っている。
あの時、藤野詩子の名前が並んでいなかったことを全く気づかなかった美里は、どんな顔して接したのだろう。貴史にはわからなかった。ただ、卒業式まで一切、藤野が美里に口を利かなかったこと。美里も男子たちと必要以上にわいわいしゃべっていたこと。女子たちとの仲が不本意なまま終わってしまったらしいということ。貴史の把握していることはそのくらいだった。
なぜいまさら美里のところに、「日舞のおさらい会」チケットが届くのだろう。もちろん来てほしいからだろうし、読み方によっては藤野が美里と仲直りしたいと考えている、とも受け取れる。だったら万万才だ。美里だって嫌いな女子ではないのだから、友情復活は待ってましたってとこだろう。
「じゃあ、行けばいいだろ。お前。おばさんと一緒に」
「それがさあ、母さんいうのよ。日本舞踊の発表会って、なんかお金を持っていくのが常識だから、いやだって。やだねえ、大人って。心がすさんでるよね。だから、貴史かこずえか誰かと行けばっていうのよ。それだったら同じ小学校の付き合いだし貴史がいいかなって思ったのよ」
「俺たちだったら金持ってかないでいいのかよ」
「子どもだから花束だけでいいって」
日本舞踊なんて貴史は全くといって良いほど観たことがない。たぶん盆踊りの延長みたいなものだろう。もしくは赤と白のふさふさ鬘をつけて頭振り回すあやしいことをするらしい。未知の世界なのは美里も同じだろう。
「詳しいことなら、お前の近くにいるだろう、日本伝統文化のプロフェッショナルが」
「ああ、昼行灯の君ね」
「お前、あれでも一応彼氏だろ」
「どうだか。向こうは違うと思ってるかもよ。わかんないけど」
なげやりに答える美里をちゃかす気にもなれず、貴史は最後の一切れを飲み込んだ。ちょこっとしか食べていないのに、やたら腹持ちがいい。
「昼行灯の君が出たところで、つなげていい?」
「敬意払って立村って呼べよ」
「だってなんか、知っている人に聞かれたらやだよ。私の直感なんだけど、立村くんもしかして、詩子ちゃんのこと知っているのかもしれないって」
──こいつ、どこまでやきもち妬けば気が済むんだ。
貴史としては一言、告げるに限る。
「会ったこともなさそうな奴にまでやきもちやいてどうするんだ、ばあか」
「違うよ。ほら覚えてる? 一学期の社会の授業中にね、うちにあるチラシを持って行って、その内容について研究するとかいうことやったでしょ」
「ああ、あったあった。そんで?」
「それでこずえがさ、夕刊に入っていた日本舞踊教室のチラシ持ってきたでしょ。それを立村くんに見せて、根掘り葉掘り日本舞踊の話でつっこんでたでしょ」
「ああ、下ネタでな。いつもの夫婦漫才じゃねえか」
美里の現在親友に位置しているのが、古川こずえだ。さばさばしていて結構いい奴なんだが、どうも貴史に熱を上げているらしくあえて避けざるをえない存在でもある。貴史の愛は、アイドル鈴蘭優に捧げられている。いきなり立村くんに向かって「あんた童貞?」とかますような相手はお呼びでない。
「そのチラシに、先生と一緒にポーズ取らされている女の子がいて、あれが詩子ちゃんだったのよ。背が高くってさ、ポニーテールにしてて、すっごく真面目な顔で。そしたら立村くんがかなり慌ててたのよ」
「またすけべネタかまされたからパニック起こしてただけだろ。美里、お前も少し手ほどきしてやれよ」
「手ほどきするのは男の役目でしょ。そういうのをあの昼行灯に求めてどうするのよ。それよりも立村くんがね」
結局最後は「立村くん」に戻している。やっぱり彼氏だ。
「お母さんが日本舞踊とかお茶とかお花とか、そういうものの仕事してるんでしょ。それで知っているんだとは思ったんだけどね。でもいつものことだけど、あの人しゃべらないでしょう。何にも」
美里の口調はいつものことながら語尾が曖昧だった。
立村のことを話す時は、わたあめをほおばったような言い方をする。
甘いんだけど、口にまとわりつくというか。
「あのなあ、美里。お前ら一応付き合ってるんだろ。奴に聞かねえのかよ」
「貴史こそ立村くんと親友なんでしょ。男同士でそういうことオープンにしないの?」
──痛いところを突かれたよな。
じっと見つめあう。恋人同士のまなざしじゃない。一緒にいた時間が長いからわかる気合だ。
「女子と違うんだって言ってるだろ、そんなべったべたしたような付き合いしねえんだよ。野郎同士は」
「私もそういう方が好きだけどね。別に立村くんが詩子ちゃん知っててもおかしくないとは思うけど、隠すことはないでしょうよ。隠すことは。いつもそうだよ立村くんって。宿泊研修の時だって」
禁句二度目。
「そのことは言わないって、決めただろ。俺も美里も」
「わかってるけどさ、あんたとだったらかまわないじゃない。そりゃ、私だって無神経なとこあったかもしれないよ。頭に来てたかもしれないし、ぐあい悪かったならしかたないかもしれないよ。でもね、貴史、私だってできるだけのことをしてるんだよ。わかったげようとしてるじゃない」
──何も俺の前でそんなこと言うことねえじゃねえか。奴に言えよ奴に。
貴史は黙ったまま聞いていた。水を飲んでいた。
「隠し事ばかりしてるんじゃないよって怒鳴りたくなること、なあい?」
地雷を踏まれた。
3 清坂美里のいいたいことすべて
すでに三人の間で、「宿泊研修」という言葉は禁句になっていた。
貴史が、美里と約束したことだった。
「あれっきりにしろよ。美里。立村と続けるんだったらな」
「うん、わかったよ」
──絶対に、あの日のことを口に出さないって決めたんだ。
──わかってるけど、でも。さ、やっぱり。
まだ部屋には姉、妹ともに戻ってきていなかった。姉が夜遊びに徹しているのは周知の事実だし、妹も今ごろは塾だろう。美里と同じ青大附属に進学したいからだそうだ。六年後半は山場なのだそうだが、たぶんそういうもんなんだろう。美里のようにあっさりと、「もうここで勉強するより家でやったほういいもん」と切ることもしないようだ。
──まあね、受かっちゃったらあとは天国だもんね。
一学期の段階でコピーしてもらった立村くんの英語リーダー訳本、通称アンチョコを丸写しして、明日の予習はおしまいだった。まず間違いはない。ファッション雑誌をぱらっとめくってみたり、化粧品の宣伝を見ては小遣い額を確認したり、つめみがきで磨いたり、自分なりの「美」を磨くレッスンを続けていた。
──十月五日かあ。
ギンガムチェックの真っ赤なワンピースを来た女の子が卓上カレンダーの中で微笑んでいる。人気ファッションモデルの子だ。貴史の好きな鈴蘭優よりもずっとかっこいいし、美少女だと思う。赤丸をつけた。
チケットを取り出し、見直す。木の皮をはがした時に見える白い肌の色だった。和紙で「志遠流日本舞踊おさらい会」と綴られている。場所は青潟市民会館大ホールだそうだ。広いだろう。おーいと声をかけて届くかどうかってところだろう。
──日本舞踊かあ。すっごくきれいなんだろうなあ。
美里も日本舞踊というのがどういうものなのか全く見当がつかない。立村くんのお母さんが日本伝統芸能のマネージャーらしきことをしていることくらいは聞いているけれども、本人があまり話したくなさそうだったので聞かなかった。
隠し事の多い彼氏を持つと、いろいろ大変だ。
本当だったら、母が心配していた通り「ねえ日本舞踊の会に招待されちゃって、貴史と行くことになったんだけどね、どういうもの持っていけばいいのかなあ?やっぱり花束?」とか聞けばすむのだ。ついでに「そういえばこの前、立村くん、志遠流とかいう日本舞踊のチラシ観てたでしょ。あの写真の子なんだけど、もしかして知ってる? もし知ってたら聞いてみてよ。清坂美里のこと覚えてるって」と、気軽に言ってしまえば楽なのだ。詳しい人に教えてもらう方が一番いい。ましてや、大の仲良し、のはずなのだから。
──それができればね、いいんだけどね。
──結局相談相手は貴史になるってとこが、問題なのよ。
六月に美里の方から付き合いをかけ、それから三ヶ月近く経つ。
付き合いの場合、一週間で終わる子もいれば、小学校時代の恋人がまだ続いている子もいる。いちがいにどのくらいが平均期間とは言いがたい。ただ、こずえに言わせれば、
「長いよ。良く続いてるよねえ。美里もがまんしてるんでしょ」
とのことだが。どっちががまんしているのかはわからない。
学校を休んだら気になって電話したくなる。
体育の百メートル走やっている時は、やっぱり順位が気になる。
他の女子、特に一年の女子たちと話しているのを見ると、つい仲間に混ぜてもらいたくなる。
帰りはやっぱり、一緒に帰りたくなる。
今までは偶然を装ってすることが多かったけれども、六月を境に回りからは公認の証をいただいた。立村くんの方からなりゆきで「俺と清坂氏は付き合っているから」と言ったのもかなり影響しているのだろう。
からかわれることもなく、自然に付き合っている。
夢見た通りのお付き合い。もちろん立村くんの神経質過ぎるところとか、人の顔色ばかり見すぎて足をひっぱる所とか、不満がないとは言えない。もっとずぶとくなればいいのに。自信持てばいいのに。貴史みたいに、と思わないとは絶対に言えない。でも、付き合う前、付き合った後も全く態度変わることなく美里を気遣ってくれる。こんな相手、なかなかいないと他の女子も言う。男子は一度付き合ってしまうとがらっぱちになってしまい、態度がでかくなるという。一切、なかった。
完璧だと思っていたのに、どうしてだろうか。
──あの、宿泊研修からおかしくなっちゃったんだ。きっと。
──立村くん、どうして。
むあっと湧き出す雲みたいな気持ちが押さえられない。工作で使った画用紙の裏を机に広げ、机からクレパスを取り出した。十二色。小学時代の使い残しだ。橙色の一番長いクレパスを取り出して、美里は一気に書きなぐった。百点満点の花丸をびっしり埋め尽くしたような文字が、躍った。
──なんでなにもいわないのよ。なんで自分一人で決めつけてしまうのよ。なんで私のことを信じようとしないのよ。なんでしてほしいことなんにも言ってくれないのよ。私が信用できないの。私のことが嫌いなの。私と付き合うのがほんとはいやなの。どうしてあの時、私に相談してくれなかったの。私だって手伝うことできたのに。あんたひとりだけ先生に怒られるようなことさせなかったのに。どうして私が心配してるの気づかないのよ。昼あんどんのくせに、数学なんて何にもできないくせに、暗い文学少年してるくせに。胸大きい子好きなくせに。いじめられてたこと私知ってるんだから。みんな、私知ってるんだから。みんな隠さないでよ。嘘言わないでよ。そんなあんただっていいって、みんな言ってるじゃない。あんたなんか。
もし立村くんが幽体離脱して美里の部屋に現われたら、きっと読むなり卒倒するだろう。見ればいいんだ。読めばいいんだ。そのまんま押し付けてやりたい。あの、線の細い表情がどうゆがむのかとっぷりと拝ませていただきたいものだ。
──あんたなんか大っきらい!
文字が読み取られないよう、最後に大きく真上から書きなぐった。
まだ小学校に通っていない子どもたちの、らくがきにしか見えないだろう。
言葉をそのまんま、立村くんにぶつけたらどう答えるだろう。
縦に引き裂き、重ねて四枚、さらに重ねて破り続けた。最後は重たい紙ふぶき。ごみ箱へ、両手ですくって捨てた。
こういう気持ちを、五年の頃だったら詩子ちゃんにぶつけていただろう。
あの当時は確かに詩子ちゃんが親友だと思っていた。美里が五年の時窮地に経たされ、追い詰められた時も必死にかばってくれたことを忘れはしない。誰よりも大切な親友だと思ってくれたこと、貴史にすらやきもちを妬いてくれるくらい美里のことを好きだと思ってくれた。
いい友だちだった。なのに詩子ちゃんが美里と一緒の中学に行きたいと言って青大附属を受験すると聞いた時、どうして自分は「ふうん」としか思えなかったのだろう。六年の頃どうして、詩子ちゃんと一緒にいるのがうざったくなって離れたりしたのだろう。塾や児童館に逃げたりしたのだろう。
──だって、男子たちと遊んだりしてる方が楽しかったんだもの。
──児童館のこともいろいろあったけど、けど。
チケットの文字が美里をにらみつける。こちらも気合でにらみ返した。
──ほんっとに、ふつうの友だちだったら詩子ちゃんとも、付き合っていけたのに。どうして、私にばかりあんなべたべたくっついてきたんだろう。だから、私、いやだったんだ。
自分の中の、冷たい視線がうごめき出した。
──だから、合格発表の時、貴史と私だけが受かってたのが嬉しかったんだ。
ふたりだけの合格。詩子ちゃんが落ちたことが全く悲しくなかった。
卒業式まで一切詩子ちゃんは口を利いてくれなかったけれども、それはそれで仕方ない。そのくらい割り切っていた自分が残酷だと、今でも思う。今は後悔しているし、機会があれば仲直りしたいと虫のいいことを考えているけれども、これっきりならそれでもいい。
詩子ちゃんが日舞おさらい会のチケットを送ってきたということは、また美里に会いたい、仲直りしたいというメッセージなのだろうか。
美里は右手をチケットの上に重ねた。キューピットさまをする時と同じように、目を閉じた。
──けど、詩子ちゃんのお母さんが送りつけてきたんだよね。詩子ちゃんは私を呼びたくないと思っていたのかもしれないのよね。それに。
キューピット様のお告げが、ぴかっと頭に光った。
──立村くん、やっぱり詩子ちゃんの行ってる日舞教室のこと、知ってるのかな。
別に隠すことなんてないだろうに、と思う。たまたまこずえの持ってきていた日本舞踊教室のチラシに、詩子ちゃんらしい人が映っていて、
「ねえねえ、貴史、これって詩子ちゃんじゃない?」
「ほんとだ。藤野だぜ、全然変わってねえの」
と盛り上がった時、立村くんは必死にそっぽを向いていた。こずえがいつものように、
「ねえねえ、日本舞踊の曲ってさ、清元とか長唄とかあるんでしょ。文字で読むとさ、すっごくやらしいこと書いてるってほんと? 「松の根上がりの」ってとこ、男のあれがたってるとこなんだって? あんた、お母さんこういうの詳しいんでしょ。ねえもっと教えてよ」
と突っ込んでいたのに、うんざりした顔で、
「そんなの知らないよ。知らないってさ」
嘘みえみえの言葉を返していた。そのくせちらちらとチラシを手にとって、じっと見据えていたくせにだ。貴史も、こずえも、そして美里も、みなわかっていたはずだ。立村くんはポーカーフェイスを使っているくせして嘘がばればれの性格だってことを。素直に言っちゃえばいいのだ。お母さんの関係で日本舞踊関係の話詳しいんだってこと。男子だとそういうなよなよしたこと知っているのが恥ずかしいって気持ち、あるんだろうか。
隠し事するのは美里にとっても性に合わない。貴史とペアで出かけることだって、誤解する人にとっては浮気だと思われてしまう。冗談じゃない。素直に、言いたいことを言っちゃえばいいのだ。美里も、貴史も、そして立村くんも。一番すっきりするのはそこなんだから。
でも立村くんのことだ。簡単に白状はしないだろう。
直感に響いたものにはすぐに従うのが清坂美里流だった。
──立村くんが逃げられないように、貴史と相談して一芝居打ってやろう。
──今までずっと隠してきたことを、白状させちゃおう。
──宿泊研修のことも、日舞のことも、みんな。全部。
立村くんの前で「ねえねえ、今度日本舞踊のおさらい会に貴史と行くんだけど、知ってる? こういうとこ」と話を持ちかけてみよう。ついでに、詩子ちゃんのこととか、プログラムとかをちらつかせて、立村くんが良心の呵責に苦しむところを見てやろう。最後に、こらえきれなくなった立村くんが、
「ごめん、俺が悪かった。実は全部知ってるんだ。あのさ、日本舞踊の世界って実は……」
と白状させてやろう。美里も貴史と一緒に、詩子ちゃんへの土産を用意することができるし、立村くんもこれ以上隠し事しないですむし、詩子ちゃんももしかしたら喜んでくれるかもしれないし。いいことずくめ。ちゃんちゃんってわけだ。おなかの中が膨れ上がって大変だろうに。美里は一応立村くんの彼女だ。彼氏が苦しんでいるところを助けてやりたいと思うし、友だちとしても当然のことだろう。たぶん、きっかけがなかったのだ。きっと。立村くんはきっと言い出そうとして言いそびれているだけなのだ、たぶん。
──立村くん、一芝居打って大騒ぎ起こされた相手の立場、少しは理解してよ。私だって、一年の評議委員会演劇ビデオでは、「忠臣蔵」のお軽やらされたんだからね! 演技力、あんた以上なんだからね! ちゃんと白状しなさいよ。誰があんたのことを嫌いになるっていうのよ!ね、貴史!