出会い
褐色の瓶が机の丸い穴から次々に上ってくる。最初の一口は苦いだけの汁だった。でもこの経験を逃すまいと無理やり飲んでいった結果。徐々に出てくる速度が上がった気がする。何本飲んだかは全く記憶に無い。今頭のなかに有るのは、言葉にならない高揚感と浮遊感だけである。何もかもが新鮮。しかしこの車内の空気。 淀んでいるったらありゃしない。入れ替えれば良いと誰かが囁く。そうではない。僕が言いたいのはそうではない。
――この吐き気催す淀みを悪とみなして何になろう。鼻から吸い、口から吐き出す。この反射性に合わせた営みの中で光るものさえ見つけたり。淀みに触れれば犬のウジの沸いた遺骸も立処にして金をも蝕む宝石の数珠を象る様に、月も又、夜の屋根に張り付いた星々共を舐めたいが為に一直線に這いまわるであろう。信仰の関節は尚も煮え立ち、血のように赤いペンキがみずみずしく湧き出る。先代の偉人は墓の底に落ち、雑草の肥やしになり果てる。その雑草に一方の頬を押し付け、もう一方に泥に塗れた素直な奴隷の靴底を感じ、屈辱の味を吟味するのは誰ぞや。灯った時間の中で、鳥肌で身を覆うのはもうたくさん。ついには蛙の後ろ足を以って黄色い大空へ……
「フーーッ、やはりダンドンの歌は最高だ。身にしみる」
隣で酒臭い息を吐き出しながらどすの聞いた声で父が唸る。身にしみてしまうのはこっちの方だ。この悪趣味で、今の状況にわざわざ合わせているかのような歌詞。自殺志願者とでも形容できそうな弱々しい声。アルコールが回っていることもあり、頭の中を掻き混ぜられるようだ。気分は最悪。今なら、ドラマで中年親父が人目をはばからず醜態を晒すことに対して親近感すら湧く。
「おい、もうそろそろ目的地だぞ。少し飲むだけとか言ってたのに、何だこのザマは」
ガラドウは呆れたような調子で言った。
酒がこんなに気持ちの悪い物だとは思わなかった。
今日は次から次へと起こることが退屈な毎日とはかけ離れていて刺激的だ。それに関してはとても嬉しいが……。
物事には程度というものが限度と同じような意味合いで存在する事が分かった様な気がする。
「芦舟大丈夫か? 吐きたくなったら言えよ。車止めてもらうから」
どうやらガラドウは本気で心配しているらしい。毎日の練習の時もこんな調子なら助かるんだが。スピーカーがオーディオ設定から切り替わり、生真面目な声が聞こえた。
「江美子様。まもなくの到着です。ご準備の方をよろしくお願いします」
「うむ」
父が間髪入れずに返事をする。
僕はというと、なんとなく車の天井を見つめる体勢でソファに小さく座っている。父の足をテーブルの上に置くというようなひどい体勢を見てのことで、ある種の反抗なのだろうか。自分でもよく分かっていない。ひどく背を曲げたままでいるので全身が凝り固まっている。
そんな時は飲んで体を温めればいいではないか。褐色の瓶に手を伸ばしたところガラドウが行く手を阻んだ。
「それくらいにしておけ。飲み過ぎだ。これ以上は許容できない」
「もう終わりか」
父は酔ってもいつも通りの調子を保つ性質なので、酔っているかそうでないかの見分けがつかない。そんな事より只、今は少し嫌な予感がするので、そのままガラドウの言葉に従うことにする。予感というのも単純に「吐きそう」なのだ。
車がガタガタと揺れた。胃の中が嫌にざわめく。どうやら道の悪いところに入ったらしい。外を見やると、一面に真白な砂利が見えた。取ってつけたようにゴワゴワした緑色の山々が辺りをぐるりと囲む。
先ほどのビル群は何時の間にか姿を消し、緑あふれる山岳地帯のようだ。奥に馬鹿でかい鳥居が見える。
鳥居を抜けると、苔が生い茂る緑色を帯びた廃墟が姿を現した。元は白い塗装であったと見え、シミの様に黒い汚れから白い地肌が見え隠れする。車はその廃虚の前で丁寧に止まった。
「到着です、江美子様。長旅お疲れ様でした。お飲み物は当車のサービスとなっております。ご会計はありませんので、ご安心下さい」
運転手の抑揚の無い声が聞こえる。父とガラドウは何のためらいも無く車を降りた。僕も後に続く。
全員が下車すると待ってましたとばかりに車のエンジンが止まった。
腹の中で何か良くない物が首をもたげるのを感じた。
外の砂利を痺れた足で踏みつける。車内の淀んだ空気とは一変して、ひんやりとした風が頬をなでた。ガラスを通してではなく、直接見ると山々は圧するかのように立ち上り、驚くほど重たい印象だ。家の庭に申し訳程度に生えている木とは根本的に数も存在意義もかけ離れていた。
これ程、木々が犇めき合っているのに鳥の囀り一つ聞こえない。しんと静まり返っていて、風の冷たさとは別の薄ら寒さすら感じさせる。
「この辺に政府関係者が待機しているという話だったが」
やはりお酒には強いのだろうか。父はいつもの様に淡々としている。
「人を呼びつけておいて、待たせるとは何事か。あと10秒待って来なかったら、帰るぞ」
ガラドウはいつも考えが短絡的すぎる。もう少し相手の事も考慮に入れても良いのでは無いだろうか? 僕らが早く着いてしまったという可能性も少なからず有るだろう。そうだ時計。今は何時なんだろう。家から出て、だいたい1時間位? あっ、でも運転主さんは2時間とか言ってなかったっけ? 駄目だ、酔っているのか記憶がかなり薄い。その間にも悪い予感は悪寒に変わり、波は近づいて来た。額に冷や汗が滲むのが分かる。
「1~つ」
ガラドウが数え始めた。子供が隠れんぼでもするかのような気の抜けた声。
「2~つ……3~つ……」
誰も現れない。どころか、静か過ぎてガラドウの声がよく響く。
「4~つ…」
例の廃虚の数少ない窓の内、1枚がキラリと僅かに光った気がする。
「5つ…」
やはり、今光った窓に異変が起こった。窓を囲むように青く輝く円が見え、微かに耳に響くような高音が聞こえ出した。
「6つ?」
『6つ?』じゃねえよ。ここは『あれは何だ!?』とかそう言う驚きの声を上げるとこ――
「何だあれは……7ッ」
ガラドウが7を数えた直後青い光が大きく瞬いた。円が中心に向かって閉じたように見えたが。視界は飛び散る砂利に遮られた。
何かが目の前で炸裂し、砂埃で近くにいるはずの二人共々凄まじい砂埃に飲み込まれた。むせ返ると胃から逆襲を受けるような気がして、なんとか息を止め、腕で顔をなんとかガードする。肌という肌に高速の小さな砂が引っ切り無しに突進し、足元をふらつかせながら後退した。
視界は完全に奪われ目を開けない。腕で顔を覆っているが、それでも髪やまつ毛までも細かい砂がびっしりと付いてしまっただろう。
だんだんと空気の狂ったような荒れも収まり、恐る恐る薄めを開ける。じっと目を凝らすと、大きく抉られた砂利の中心で長い髪がなびいているのが見えた。真っ黒な黒髪。白い砂埃に映えて、川のように流れる。
隣で父とガラドウがまだ居るのを確認して安心した。この二人は何というか、微動だにしていない。
恐らく炸裂したのは爆弾などでは無いという事がぼんやりと分かった。
視界がある程度回復した。目の前の人影をまじまじと見つめる。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。黒い軍服を身に纏っているにも関わらず、体のラインが見事に通っている。粉塵の中でも僅かに見えた髪は、やはり長く、艷やかさをこれでもかと言うほど湛えている。
肌は雪のように白く、大きく見開かれた目は見た男性を吸い込んでしまうかと思われるほど、魅力が滲んでいる。
息を飲むほどの美少女である。こちらを真っ直ぐ見て浮かべた笑みは、空気中に溶けて無くなってしまいそうなほど輝かしかった。
そのまま敬礼を表して形の良い口を開く。
「はじめまして。慌ただしい顔合わせで申し訳ありません。国家技術隊中尉 蛍原山目と申します。この度はご協力感謝します。つきましては、今回の任務の打ち合わせに早速入りさせて頂きたいと思います」
透き通るような声だった。愛らしさの間に真面目さが滲んだ調子の話し方にいつまでも聞いていたい衝動に駆られる。が、脳に到達した衝動はそれだけではなかった。付いて回った忌むべき衝動。
突如、喉の辺りに旋律が走った様な感覚が襲った。汗がどっと滲み、目の前の美人には見せたくないような表情が自分の顔に刻みこまれるのが分かった。
話を始めようとする3人を前に、砂利が吹き飛ばされて裸になった地面に手をつく。
そのまま、悪寒を一気に吐き出した。




