序章――奥多摩個人迷宮誕生
俺の家は奥多摩にある。
昔は雑貨屋だったが今はコンビニになっている。奥多摩といえど俺の家は駅前だし、地元の人間や観光客、それに登山客なんかも居るのでコンビニ稼業は成り立っている。
とはいえ、納品トラックの配送コース的には都内西部のラストになるので、弁当なんかも17時近くになる。
だから、検品と陳列は高校から帰った俺の仕事だったりする。
その日、6月20日の陳列作業中――俺にとって最後のコンビニ業務になるのだが――そいつは発生した。
どかん。
最初に突き上げるような衝撃が店内を襲った。
「きゃ!」
バイトに来てくれてる近所の幼なじみ、下原沙織がレジで悲鳴を上げる。
店内にいた数人の客も驚いて中腰にかがみ込む。
ごごご。
と、地鳴りのような音が近づいてきた。
ああこりゃまた地震か、と軽く思ってた俺は、明らかに、徐々にこっちに近づいてくる揺れとその音に驚いた。
「……なんだ?」
店内の揺れは、その音と共にさらに激しくなり、ついに「パチン」という破裂音と共に店内の全ての電源が落ちた。
俺はつい無意識に、揺れで崩れそうになるジュース売り場の冷蔵庫のガラス扉を支えてしまった。崩れると後始末が大変だと思ったのだ。
だが、今思えばこのとき、逃げれば良かったとしみじみ思う。
グガン!
鋼鉄製のフレームがイカれる音と共に一瞬でジュースコーナーの缶ジュースが押し出され、ガラスの冷蔵庫の扉が、あり得ないことに粉砕して俺に降り注いだ。あの厚さのガラスが割れるってどんだけだよ。
で、俺はその勢いに押されてそのまま仰向けに吹き飛ばされて伸された。
身体は動かなかった。
ショックで一時的に動かないのか、と俺は思った。
だが、ぼんやりと天井に付いている湾曲ミラーに映った俺自身の姿を見て、やっと理解した。
俺の全身は、割れて降り注いだガラスでハリネズミのようになっている。
そして、左目が見えない理由。
それは、つららのようなガラスが見事に貫いているからだ。
動けない理由。それは、俺の脳がそこからやられているからだろう。
「ヒュー」
俺ののどからは、もはや声を発することが出来ないらしい。
「恭二! 沙織ちゃん、きゅ! 救急車を呼んでくれ!」
俺の様子を見に来てくれた兄貴の声がだんだん遠くなっていく。
ああ、死ぬんだな。俺。
そう思った。
そのとき。
直前までジュースが並んでいた当たりに、ぽっかりと黒い穴が浮かび上がった。
そして、そこから、霧のような真っ黒なもやと、真っ白なもやが大量に吹き出した。
そのもやは、俺にさわるに触れない兄貴に、そして死にかけている俺に止めどなく流れ込んできていた。
そこで俺の意識は、まるでテレビのコンセントをうっかり抜いてしまった時のように、ぷつりと切れた。
次に目覚めたとき、俺は救急車の中で揺られていた。
救急車のサイレンはずいぶん中で聞くとくぐもってんだな。
人生初の救急車体験の第一印象はそんなだった。
身体はぴくりとも動かなかった。
ストレッチャーに拘束バンドで慎重にくくりつけられているようだった。
「早く……早く」
うめくように兄貴がつぶやいている。
いやでも、もうこれ医者でもどうしようもないだろ?
俺は人ごとのようにそう思っている。
相変わらず声は出なかった。
救急指定の病院に到着すると、救急隊員が三人がかりで慎重にストレッチャーを降ろし、救急処置室に俺を運び入れた。
俺を一目診た医者が叫んだ。
「全身麻酔と輸血の準備!」
看護婦が兄貴に俺の血液型を尋ねる。
「リンゲル! ブドウ糖も! 急いで!」
医師の指示に看護師達もてきぱきと準備を開始する。
「せ……先生!」
俺の手に点滴の針を刺そうとしていた看護婦が、プロにあるまじき動揺した悲鳴をあげた。
そしてそれに呼ばれて飛んできた医者も、俺を見下ろして呆然とした。
そのときの光景を、兄貴は俺に教えてくれた。
まるでビデオの逆転再生のように、俺の全身に刺さった三十以上のガラス片が、俺の身体から自然と押し出されていった。
そしてそれを押し出したのであろう俺の身体の組織がみるみる再生して元通りに戻っていった。
頭に刺さったガラスが押し出され、巨大で長大な硬質ガラスが処置室の床で大げさに鳴ったとき、その場の全員はやっと再起動したらしい。
俺は、そのときには再び意識を失っていたので、なにも分からないが。
◇◆◇
迷宮浸食。
あの日の出来事はそう呼ばれた。
発見された浸食は、三日後までに全世界で九十六ヶ所。
その出現地点に規則性はなかった。本当にランダムに現れている。
ユーラシア大陸北部にぽつんと一つだけ現れて数百キロにわたって近接する浸食がないかと思えば、日本では隣町にも現れたりしていて、全くもって謎である。
おそらく未発見、もしくは分かっていても報告されない、要するに国際的に認知されない迷宮もまだあるだろう。
紛争地帯や密林、人の住まぬ凍土や海中や山中。
例え偵察衛星が地上を走る車のナンバーまで捉えるほどに緻密でも、全世界をくまなく検証するには相応の時間を必要とするだろう。
それはさておき、俺はその後、三日ほどまるで実験動物のように検査されまくっていた。
最初はまあ人間ドック程度の扱いだったはずなのに。
脳波、心電図、血圧、体温、瞳孔反射などに始まり、血液検査、CT、レントゲン、視力聴力に胃カメラ、大腸検査……。
組織精密検査だといって手術をしようとするに至って、俺もキレたが親父もキレた。
「どっか悪いところはあったんかい?」
「い……いえ。ですが……」
「ですが?」
「ご子息の身体に起こった異変は重要です」
口ごもる担当医に変わって、薄暗いスーツを着た金縁眼鏡の若造が親父に言った。
「現代医学では正直、治療さえ難しいほどの重体だったご子息が、まるで奇跡のように回復して、しかも傷口さえ残っていない。左目だけは光彩の色が変わってしまいましたが。その謎を解明するために、もう少しご協力いただきたいのですがね」
「ご冗談を。その現代医学ってヤツは俺の息子のサンプルを取るのに切り刻んだ跡を全く元通りに直せるんですか?」
「……」
「正直、ここまでの検査にかかった費用だって異常でしょ? これって、俺が払う必要があるんですかね?」
「いえ、これは被災者の特例として厚生労働省が負担します」
「じゃあこれで話は終わりだ。問題ないなら、このまま連れて帰りますが?」
「いえ、それは……」
金眼鏡がはじめて表情に焦りを浮かべる。
「何か問題でも?」
こうしてやっと、俺は退院することが出来たのだった。
その後、俺の恢復は『魔法』ということで結論が出た。
というより、その日を境に「回復魔法」が使える人間がぼちぼちと現れだして、数ヶ月後には珍しいことでもなくなった、といった方が良かった。
そう。
この迷宮浸食は、現代社会に「魔法」をもたらせていたのだった。