第一章
第一章
あれ、ここどこ?
目が覚めて最初に目に入ったのは、車のフロントガラスだった。
外の景色が高速で流れ去っていく。どうやら僕は、車の助手席に座っているようだ。
まだ少し頭がフラフラする。何かの薬を打たれたようだ。
「お目覚めですか?」
運転席に座っていた女性が、僕に声をかけてきた。先ほど会った女性だ。
「……随分と乱暴ですね」
「当然です。あなたを連れてこなければクビになってしまいますから」
女性が全く悪びれずに答える。どうやら、何を言っても無駄のようだ。
「で、この車はどこに向かってるんですか?」
「横浜です」
「横浜?」
「はい。そこにウチの本社がありますので」
本社ときたよ。
「申し遅れました。私は、鉄壁紀子。ウチの会社の会長秘書をしております」
……すごい名字。テッペキさんって呼ぼう。……心の中では。
「その会長さんが、僕に会いたいって人なんですか?」
「はい」
「ちなみに、その会長さんのお名前って……」
テッペキさんは答えない。っていうか、ただの高校一年生を攫う会長って……。
全く心当たりがない、と言いたいところだが。
実は、僕には一人だけ、その人物に心当たりがあった。
テッペキさんに、目的地に着いたと言われた瞬間、僕の憂鬱は頭痛に変わった。……ハア、やっぱり。
車を降りた僕の目の前に聳え立つのは、首を痛くするくらい見上げないとてっぺんが見えないバカでかいビル。そして、僕はココをよく知っている。
富持グループ。日本最大の電機メーカーである富持エレクトロニクスを中核とする、日本屈指の企業グループ。エレクトロニクス事業とゲーム事業においては世界トップレベルのブランドイメージを持つ。ここはその本社だ。
ちなみに、その富持グループの会長は僕の祖父。CEOは僕の父だ。
つまり僕は、俗に言う御曹司ってやつになる。
そして、ここに来て頭痛を覚えたのは、テッペキさんの言った、僕に会いたいという人物が誰なのか分かったからだ。
エントランスを通り、十個あるエレベーターの内の一つに乗って最上階へ。
来る度に思うんだけど、社員の人、いちいち僕に頭を下げるのやめてくれないかな。
そして、最上階の五十階に到着。会長室と書かれた部屋のドアノブを、テッペキさんが握る。
「覚悟はよろしいですか?」
「よろしくないって言ったら、帰ってもいいですか?」
「ダメです」
じゃあ、聞かないでよ。
テッペキさんがドアを開ける。
「いよぉ、スケベ! 元気にしとったかぁ!」
中から響くハツラツとした声を聞いた瞬間、僕は心の中で盛大にため息を吐いた。
僕の目の前にいたのは、白髪を短く刈り込み、アロハシャツを着て、右目に刀の鍔みたいな眼帯を着けた一人の老人。
紹介したくないけど紹介しよう。この富持グループの会長にして僕の祖父、富持金助である。
ちなみに、右目の眼帯はただのおしゃれアイテム。両目とも健在である。何でも、隻眼ってなんかカッコいいという僕には到底理解できない考えを持っており、眼帯もその考えに基づいてのことだった。
昔は、富持グループを一代にして今の規模にした豪腕経営者だったらしいが、今はただのクソジジイだ。いや、ほんとに。その証拠に……。
「な、な、スケベ。モン○ンやろ、モン○ン。最近、紀子君が構ってくれないから寂しいんじゃよ」
と、こんな感じだ。
ちなみに、じいちゃんの趣味はゲームだけではない。エロゲー、フィギュア、同人誌にアイドル。数年前、ばあちゃんが先立ってからは、いわゆる典型的なオタクになってしまっていた。
「いや、モン○ンはいいから。それより、何の用事?」
じいちゃんが、名残惜しそうにP○Pを机に置く。
「じつはのう、スケベ。ワシ、お前にちょっとしたお願いがあるんじゃ」
「ふ~ん」
「冷た! なんじゃ、そのどうでもよさそうな反応は。普通、孫はじいちゃんを敬うもんじゃぞ」
「敬えるじいちゃんならね」
「つ、冷たいのう……。死んだお前の両親が泣いておるぞ」
「死んでないから! 勝手に殺さないで!」
「ムウ、そうじゃった。息子の奴、嫁と二人で十六回目の新婚旅行とか言って、会社そっちのけで海外に行っとるんじゃった」
「そうだよ。二人っきりでね」
自分の子供が心配じゃないのかと言いたい。
「まあいい。それはさておき、お前にお願いがあるんじゃ」
「さらっと本題に入らないでよ。僕は聞かないからね」
「で、そのお願いなんじゃが」
「僕の話聞いてる?」
「あいや、スマン。歳のせいか、最近耳が遠くてのう」
こ、このジジイ。
「フウ。分かったよ。で、何なの、そのお願いって?」
じいちゃんが満面の笑みを浮かべる。
「ワシ、再婚したいんじゃ」
「はっ?」
僕の目が点になる。
「じゃから、ワシ、再婚したいんじゃ」
「す、すればいいじゃない。別に反対する気ないし」
というか、むしろさっさと再婚してもらって、その奥さんにしっかりと手綱を握ってもらいたい。そうすれば、少しは大人しくなるかも。
「うむ。じゃがのう、一つ問題があるんじゃよ」
「へ、何? ひょっとして、向こうのご家族に反対されてるとか?」
それはありうる話だな。もし、僕が相手のご家族の一員で、結婚相手がこのじいちゃんだったら、死んでも反対するし。
「いや、その相手というのが十五歳なんじゃよ」
「…………」
僕、ちょっとフリーズ。
「……え~、ちょっとよく聞こえなかったな~。ひょっとして、鉄壁さんに打たれた薬がまだ残ってるのかも。もう一回言ってくれる?」
「じゃから、再婚相手が十五歳なんじゃ」
「…………」
どうやら聞き間違いじゃなかったみたい。あ、頭痛くなってきた。
「じ、じいちゃん、自分の歳言ってみて」
「今年七十三」
「で、相手の歳が?」
「十五」
「死ね、このクソジジイ!」
僕の熱い拳が、じいちゃんの顔面にめり込む。
じいちゃんが、近くにあったやたらと高そうな机にぶつかって倒れこむ。
「い、痛いぞ、スケベ! 何するんじゃ!」
「もういいよ。じいちゃん」
「は? な、何がじゃ?」
「もういいから……死んで!」
僕は、少し腰を落として呼吸を整え、裂帛に気合と共に掌底を繰り出す。
「チイ!」
じいちゃんは、初代○ンダムのパイロットのような声を出しながら、僕の掌底をすんでのところでかわした。
クソ、歳の割りに素早いな。
「ス、スケベよ。今の発剄は、どう考えても自分のじいちゃんに打っていいレベルじゃないぞ」
「ううん、違うよじいちゃん。じいちゃんにだから打つんだ。他の人になんか絶対打たない」
そう、実は僕、結構強かったりする。理由は簡単。一時期、この目の前にいるクソジジイによって、ある高名な武道家に弟子入りさせられたのだ。もちろん強制的に。
おかげで、こんな顔でからまれることも少なくないにも関わらず、喧嘩で負けたことはない。でも、普通の人には本気出さないよ。出すのは、この目の前にいる老害だけ。
「な、なんてひどい孫じゃ。死んだ婆さんが泣いとるぞ」
「ううん。僕には、『助平、早くそのクソジジイを殺して、私の元に連れてきなさい』って言ってるように聞こえるよ」
「つ、冷たいのう。紀子君、君からも何か言ってやってくれたまえ」
「助平様、さっさとそこのクソジジイを始末してください」
「の、紀子君、血迷ったか! ワシが死んだら、君は無職になるのじゃぞ!」
「ああ、そうでした。さすがに、この歳で無職は困りますね。助平様、ここはひとつ、私のためと思って、矛を収めていただけませんか? 今ここで無職になると、たった一人の家族である妹共々、路頭に迷ってしまうのです」
そう言われると、やめざるをえないな。
「分かりました。あくまでも、鉄壁さんのために、ここは引きます」
「ありがとうございます、助平様。聞きましたか、クソジジイ。お優しいお孫さんが、わ、た、し、に、め、ん、じ、て、手を引いてくださいましたよ。感謝しなさい。主に私に。そして、その感謝を形にして、私の給料を上げなさい」
「わ、分かった。特別ボーナスを出そう」
「よろしい。ところで、助平様。あなたにとっては、迷惑この上ないかもしれませんが、どうかこのクソジジイ、もとい会長のお願いを聞いてあげてくれませんか? このクソジジイのしつこさはよくご存知でしょう? このままだと、ずっとつきまとわれますよ」
そ、それは嫌だな。
「というかですね、このクソジジイ、最近よく独り言で『さみしいのう。再婚したいのう。このままじゃとワシ、独り身が寂しくて、百合愛さんに手を出してしまいそうじゃ』とかほざいているのですよ」
こ、このジジイ……。百合愛っていうのは、僕の母さんの名前だ。このジジイ、言うにことかいて、自分の息子の嫁に手を出すなんて……。
「じょ、冗談じゃ、冗談。ちょっとしたジョークに決まっとるじゃろ」
「ほう。では、パスケースに入っている写真が、会長の奥様の写真から、百合愛様の写真に代わっているのも冗談なのですね?」
「の、紀子君、何故それを……」
「企業秘密です」
「ていうか、じいちゃん、それ、父さんにバレたら間違いなく殺されるよ」
富持剛助。僕の父にして、富持グループのCEO。じいちゃんが一代で築いた富持グループ、その成長をさらに加速させた敏腕経営者だ。そして奥さん、つまり僕の母を溺愛している。
ちなみに、父さんも僕と同じスパルタ教育(高名な武道家への強制弟子入り)を受けているのでとても強い。
「うぐ。だから、冗談じゃと……」
「冗談にしてあげてもいいですよ。会長の態度次第では」
じいちゃんが、無言で小切手を切って、テッペキさんに渡す。
それを受け取ったテッペキさんは、僕にニッコリと微笑みかけてきた。
「嫌ですわ、助平様。さっきのジョークですよ、ジョーク。美人秘書の小粋なジョークです」
「…………」
ふ、深く考えるのはやめておこう。また頭痛がしてくる。
「……まあいいや。でも、そもそも意味が分からないんですよね。だって、相手が十五歳なら、十六歳になるのを待てばいいだけの話じゃないですか。僕に何のお願いをするんです?」
「いえ、この話で重要なのは、実は相手の歳ではないのですよ」
「えっ? でもさっき……」
「ほら見なさい、クソジジイ。あなたがちゃんと本当のことを言わないから、助平様が混乱してしまったじゃありませんか。ちゃんと真実を話しなさい」
テッペキさんが、じいちゃんの尻を蹴飛ばす。
「い、痛いぞ紀子君。え~と、そのじゃな……。すまん、助平。実は、歳のことはさほど問題ではないんじゃ。問題なのはな……」
「うん、問題なのは?」
「向こうは、ワシのことを知らんのじゃ」
「…………」
えっ? 何言ってんの、この人?
「ごめん、じいちゃん。言ってることがよく分からない」
「じゃから、向こうはワシのことなど全く知らんのじゃよ」
「じゃ、じゃあ、何で再婚なんて話になるの?」
「そりゃ、ワシが結婚したいからに決まっとるじゃろ」
…………。
「……つまり、じいちゃんが、勝手にその子のことを好きになって、結婚したいだけなの?」
「うむ」
…………。
「……鉄壁さん」
「はい、何でしょう?」
「何でこんな奴の下で働いてるんですか?」
「お金がいいので」
テッペキさんは即答した。
「……ハア。で、結局、僕に何をさせたいわけ?」
「うむ。ワシがその子達とお近づきになれるように、パイプ役を頼みたいんじゃ。分かりやすく言ってしまえば、恋のキューピッド役じゃな」
「え~! イヤだよ! 自分で直接言えばいいじゃない」
じいちゃんが大きくため息を吐く。
「それができればとっくにやっておるわ。実はの、その子達の通っておる学園は、絶対男子禁制での、男子生徒はおろか、男性職員すらおらん。まさしく女の園なのじゃ。よって、ワシでは校門にたどり着くことすらできん」
「じゃあ、学校帰りでもナンパすれば……」
「無理無理。そこは全寮制の上に、基本的に生徒の外出を禁じておる。休日も許可が下りねば外出できん」
「あの~、それで、何で僕にパイプ役を頼むわけ? 僕、男だよ」
「違う! お前は男ではない。男の娘じゃ!」
「それも男だろうが! このクソジジイ!」
僕の七色のアッパーが、じいちゃんに炸裂する。
「だ、大丈夫じゃ。お前の容姿で女装すれば、まず気づかれることはない。それに、制服だってすでに用意してあるぞ。見よ!」
自慢気にそう言って、じいちゃんが女子の制服を僕に見せる。
「無理だって。大体、転入手続きとかどうすんのさ? そこ、絶対男子禁制の女子校なんでしょ?」
「心配ない。すでに、全ての手続きと根回しは完了しておる」
「ど、どうやって?」
「フッフッフ。よく言うじゃろ? 地獄の沙汰も金次第と」
「…………」
「で、具体的な作戦なんじゃが、まずお前には、その学園に潜り込み、ワシのお目当ての子達と仲良くなってもらう。そして、バイトの話を持ちかけるのじゃ」
「……バイト?」
「そうじゃ。実はその学園、女の園ではあっても、お嬢様学校というわけではなくての。一般家庭の女の子も通っておる。しかし、やはり私立だけあってそこそこの学費がかかり、それが家計を圧迫しておる子もいるのじゃよ。今は不景気じゃからな」
「で、バイトに誘えと?」
「そうじゃ。割のいいバイトを紹介すると言って、女の子達を連れ出せ」
何か誘拐みたいな響きがするよ、じいちゃん。
「でも、そういうお堅いところって、普通はバイトとか禁止なんじゃないの?」
「心配ない。すでに学園に許可はとってある。その辺の根回しは、全て完了しておるよ」
「……でも、じいちゃんのお目当ての子が、お金持ちのお嬢様だったらどうするの?」
「心配するな」
じいちゃんが、分厚いファイルを取り出した。
「すでに全員調査済みじゃ」
「…………」
このジジイ、やっぱり殺しておいた方がいいかも。あれ? でも待てよ……。
「ねえ、じいちゃん。ずっと気になってたんだけどさ。さっきから、『その子達』とか『全員』とか言ってるけど、ひょっとして、じいちゃんのお目当ての子って一人じゃないの?」
じいちゃんが、さも当然とばかりに胸を張る。
「うむ。ワシのターゲットは全部で四人。茶髪の姉御肌巨乳、ツンデレブルネットメガネ、ヤンデレ大和撫子、最後に金髪妹系ロリッ子じゃ。やはり、色んなジャンルを試してみたいからのぅ」
…………。
「鉄壁さん……」
「なんでしょう?」
「この老害、やっぱり殺しておきませんか?」
「私も、だんだんそうした方がいいような気がしてきました」
「ここ、拳銃とかあります?」
「暴徒鎮圧用のゴム弾でよければ……」
さて、狩りを始めますか。前からやってみたかったんだよね、リアル剥ぎ取り。
ハア、ハア……。クソ、なんてすぱしっこいんだ。
狩りをはじめて早二十分、しかし、僕はまだターゲットを仕留められずにいた。
すでに発射したゴム弾は五十発以上。おかげで、会長室はえらいことになっている。
まあ、じいちゃんがすまし顔で描かれた肖像画や、何かでもらった賞状やトロフィーが見るも無残なことになっているのは、正直気持ち良いんだけど。
「ハア、ハア、しぶといね、じいちゃん」
「ゼエ、ゼエ、当然じゃ。だてに生前、ばあさんに追いかけられとらんわい」
「ハア、ハア。クソ、弾切れか。鉄壁さん、スタンガンとかありませんかね? タ○爆弾でもいいんですけど」
「私が改造した、百万ボルトのペン型スタンガンでよければ」
あ、あるんだ。しかも百万ボルトって……。下手すると、食らった人死んじゃわない?
「まあいいや。それ、貸してください」
「はい、毎度。一回百万円になります」
「高っ!」
「大丈夫です。会長のお給料から引いておきますので」
「ああ、だったら安心ですね」
僕は、そう言ってスタンガンを受け取る。
「ちょ、ちょっと待った! いくらなんでも、そりゃあんまりじゃろ!」
「じいちゃんのしようとしてることの方があんまりだから大丈夫だって」
「あ、ああ言えばこう言いおって」
「だって、じいちゃんの孫だもん」
「ぐぐ、こうなったら……」
じいちゃんが妙に真面目な顔になっている……と思ったら、次の瞬間、床に寝転がった。
「ヤダヤダヤダ~。ワシのお願い聞いてくれなきゃヤダ~」
「…………」
いきなり寝転がって駄々をこねはじめるじいちゃん。その様子は、簡単に言えば五歳くらいの子供が、スーパーでお菓子を買ってもらおうとして駄々をこねているのに似ている。
が、今それをやっているのは七十二歳の僕の祖父。僕は、しばしの間、呆然となった。
「て、鉄壁さん」
「何でしょう、助平様?」
「実は僕、じいちゃんの実の孫じゃないんです」
「助平様、現実逃避はいけません。真に残念ながら、あなたの中に流れる血の四分の一は、そこで見苦しく駄々をこねている老人のものです」
「いえ、実は父に子供ができず養子をとって、それが僕……という設定にはなりませんかね?」
「ご自分で設定とか言ってる時点で無理ですね。それにそんなもの、ちょっとDNA鑑定でもすれば、すぐに分かることです」
「そこをなんとか」
「落ち着いてください、助平様。今ここで、あなたまで自分の世界に引きこもってしまったら、私は七十二にもなって五歳児並みの駄々をこねる老人と、それに耐えかねてマイワールドへと旅立った孫の、二人の面倒を見なければなりません」
「鉄壁さんなら大丈夫ですって」
「無理です。いかに私が、超高性能美人秘書でも、できることとできないことがあります」
しょうがない、こうなったら……。
「父さんに頼むしかないか」
僕の父さんは、じいちゃんが唯一恐れる存在。普段なら、こんな真似は絶対許さない父さんなんだけど、今は十六回目の新婚旅行に行ってるからな。
本当はあんまり頼りたくないんだけど、この際仕方ない。
よし、父さんに頼んで、じいちゃんを説得してもらおう。
僕は、早速父さんに電話をかけた。待つことしばし。結構待つな。ま、まさか、繋がらないなんてことは……。あ、繋がった。
「父さ……」
『申し訳ないが、ただいま電話に出られない。というか出る気がない。今、俺は、仕事や子供よりも遥かに大事な妻との新婚旅行に出かけている。よって、二人のラブラブタイムを満喫するため、誰からの電話も出る気はない。仕事の用件なら後にしろ。重要な案件でもあきらめろ。それ以外の用件ならもうかけるな。次に同じ番号でかけてきたら、お前を殺す』
……電話が切れた。
「……」
待て、落ち着け僕。大人気バスケットボール漫画『ス○ムダンク』の安東監督も言ってたじゃないか。あきらめたら、そこで試合終了だって。
まだ、終わってはいない。そう、僕にはまだ母さんがいる。
僕は、藁にもすがる思いで母さんに電話した。
頼む、繋がって……くれた!
「母さ……」
『もしもし、こちらは《この世で最も愛する人は誰? と聞かれて、即座に妻だと地球の真ん中で叫べる男》富持剛助だ。ちなみにこれは、私の宇宙一愛する妻の番号である。が、残念ながら妻は、私とのキャッキャウフフタイムに忙しくて電話に出ることができない。もし電話をかけてきたのが、妻の友人もしくは知人の方だった場合は、本当に申し訳ないが、また改めて電話してくれたまえ。そしてもし電話をかけてきたのが、少し前に私に電話して、繋がらなかったから妻にすがろうとしたクソ野郎だった場合は、この電話を逆探知して貴様を殺す。なお、もし後者だった場合の唯一の例外が、私の息子、助平だった場合だ。正直なところ、私は息子よりも娘が欲しかったので、可愛くもない息子のことなどどうでもいいのだが、愛する妻が悲しむので処刑は免除する。が、それも今回だけだ。次にかけてきた場合は、問答無用で八つ裂きにする。まあ、とは言ったものの、息子は多少なりとも私の血を引いているので、私と妻のラブイチャタイムを邪魔するような真似はすまい。だからこれは、本来必要のないメッセージだったな。いや、これは失礼。ハッハッハ。それでは』
……電話が切れた。
「…………」
「どうでした?」
「駄目でした」
「でしょうね。ねえ、助平様、ここは妥協案ということで、会長のお願いを聞いてあげてはどうですか?」
「イヤですよ。あんなバカなお願い」
「まあ、落ち着いて。あくまでもフリですよ」
「フリ?」
「そう。お願いを聞いてあげたフリをするのです」
「どういうことですか?」
「要するに、剛助氏が旅行から戻られるまでの間、会長に協力するフリをしておくのです。でないと、あのクソジジイずっとあのままですよ」
「いいんじゃないですか、あのままで」
「いえ、あれでも一応、富持グループの会長ですから。今は業務のほとんどを剛助氏が行っているといっても、全てというわけでもないので」
なるほど、あんなのでも、一応いないと困るってわけね。
「今は剛助氏もおりませんし、これでもし会社が傾きでもしたら、大勢の社員と私と私の可愛い妹が……」
「分かった。分かりましたよ」
僕は心の底から大きなため息を吐いて、視線を、実年齢七十二歳、精神年齢五歳のジジイに向ける。なんていうかさあ、普通逆じゃない?
「じいちゃん、分かったから。じいちゃんのお願い聞いてあげるから。早く起きて説明して。でないと何もできないでしょ」
すると、じいちゃんがいきなり駄々をこねるのをやめて、起き上がる。
チッ、やはり芝居だったか。まあいいや、今は置いとこう。
「で、さっきバイトに誘うって言ってたけど、何のバイトに誘うの? 富持グループでバイト?」
「違う違う。メイドカフェじゃ」
「は? メイドカフェ?」
「うむ。今は学生だけで食堂を経営したり、スクールアイドルなるものが活躍する時代じゃ。そこでワシは考えた。学生だけのメイドカフェ、すなわち、スクールメイドカフェを作ろうと」
「…………」
カッコつけて言ってるけど、全然カッコよくない。
「……で、そこにじいちゃんのお目当ての子を誘えと?」
「そうじゃ。お目当ての子と仲良くなれて、しかもメイドとして奉仕もしてもらえる。ククク、まさに一石二鳥の作戦じゃわい」
じいちゃんが、一人で悦に入って不気味な声を上げる。
やっぱりこのジジイ、さっさと殺しといた方がいんじゃないかな。
ようやくじいちゃんから解放された僕は、テッペキさんに送ってもらい、青山にある自宅のマンションに帰ってきていた。
ちなみに僕は、両親との三人暮らしだ。もっとも、今は両親がいないから一人暮らしだけど。
「それじゃ鉄壁さん、ありがとうございました」
テッペキさんに礼を言って車を降りる。しかし、すぐに走り去ると思っていたテッペキさんが、車を駐車場に置いて戻ってきた。
「あれ? どうしたんですか?」
「部屋に上げていただけますか?」
はい?
「ど、どうしてですか?」
「これを届けねばなりませんので」
そう言ってテッペキさんが見せたのは、先ほどじいちゃんが僕に見せた新しい(女子の)制服。と、その他転入に必要と思われる物一式。
「あ、じゃあ、僕がここでもらいますよ」
「いいえ、私がお持ちします」
テッペキさんは頑として譲らない。
「いや、そんなに急がなくても。また後日じゃダメなんですか?」
「何を言っているのです。転入は明日ですよ」
「はっ? 明日? いくらなんでも急すぎるのでは? 大体、今の学校にも届けを出さないと」
「そちらの方は、すでに完了しております」
マ、マジで?
「というわけで、部屋に上げてください。他の物はともかく、制服の着方や、これから女子高生として生活する上でレクチャーすべき事項が多数ありますので。ああ、ご安心を。私は年下の美少年にしか手は出しません」
「…………」
その発言のどこに安心しろと?
とりあえず、ウチに入って電気を点ける。僕んちは、広めの3LDK.トイレが二つにバスルームが一つ。駅も近いし、かなり住みやすいところだ。
「では、助平様。早速、今着ている物を脱いでください」
「はい?」
テッペキさんの言葉に、僕が固まる。
「今から、この新しい制服を着ていただきます。サイズが違えば直さねばなりませんので」
「いや、直すって言っても、もう十時回ってるから、明日の登校には間に合わないんじゃ……」
「ニヤリ」
意味深に笑わないで! お願いだから!
「わ、分かりましたよ。服、貸してください」
僕はそう言って手を伸ばす。けど、テッペキさんは、すんでのところで僕の手をかわした。
「いえ、私がお手伝いします」
「何言ってるんですか! 僕にも羞恥心って物があるんですよ! いや、それ以前に僕は……」
「ご安心を。私は年下の美少年にしか手を出しませんので」
だから、その発言のどこを安心しろと?
「フッ。そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。確かにあなたは、私にとってはモロストライクゾーンな年下の美少年ですが、もしあなたに手を出せば、私は即クビになり、おまけに逮捕されます。こう見えても、私は馬鹿ではありませんので、金+職か性欲+逮捕のどちらを取るかくらいの判断はできます」
じ、自分で言うなよ。
「わ、分かりました。でも、着せなくていいですから! 僕には触れずに、着方だけ教えてください」
「分かりました。ニヤリ」
今、意味深に笑いましたよね?
「ハア……。じゃ、服、脱ぐんで、向こう向いててください」
「クス。ウブですね。ジュル」
ジュルって言った! 今、ジュルって言った!
若干……ではなく、むちゃくちゃ不安になりながらも、僕は着ている制服を脱いだ。そして、トランクス一枚になる。
「……いいですよ」
振り返ったテッペキさんは、少し恍惚とした表情になって……。
「まあ、すべすべ♡ ジュル」
またジュルって言った!
「ほ、ほら、早く服渡してください」
恥ずかしさと不安に耐え切れず僕は言う。
「その前に、助平様……」
「な、何です?」
「下着はどうしますか?」
「へっ?」
「『へっ?』ではありません。下着ですよ、下着。一応、今人気の縞パンからTバッグまで色々と揃えておきましたが」
テッペキさんが、持ってきた鞄の中から、緑色のボーダーパンツやTバッグを取り出した。
「な、何でそんな物がいるんですか!」
「当然ではありませんか。明日から、あなたは女の子として生活するんですよ。もし、風でスカートが捲れたらどうします? トランクスなんて穿いていたら、一発でアウトですよ」
ううっ。女物の下着を穿く時点で、男としては色々とアウトのような気がするんですが。
「わ、分かりました。じゃあ、そのさっきチラッと見えた白いやつで」
「ほう。定番の白ですか。フムフム、助平様は白が好き、と」
「何メモってんですか!」
「いえ、今後の参考までに。で、上はどうします?」
「上って、別になくても……」
「馬鹿ですか? お馬鹿ですか、あなたは? 今時、そんな平らな胸の女性が存在すると本気で思っているんですか?」
いや、いるでしょ。マラソン選手とか。
「分かりましたよ。じゃ、鉄壁さんが適当に選んでください」
僕がそう頼むと、テッペキさんは、白い下着に合った白いブラを渡してきた。
「どうぞ」
「……どうも」
僕は礼を言って受け取ろうとしたが、下着は僕の手を通過し、そのまま僕の胸に。
「鉄壁さん! 何してるんですか!」
「何って、着せてさしあげるのです。ブラの留め方、知っているのですか?」
「いや、知らないけど。と、とにかく、僕に触れないで」
「まあ、なんて失礼な。私のような下賎な者には触れてほしくないと?」
「そうじゃなくて。僕、女の人に触られると……」
そう言ってる間にも、鉄壁さんの手が、僕の背中に当たって……。
「きゅう~」
僕は、意識を失った。
あれ? ここは……。
気が付くと、そこは自分のベッドだった。
「お目覚めですか?」
テッペキさんの声がする。
「あれ? テッペキさん?」
「誰がテッペキですか! 私は鉄壁です」
「すみません。テッペキの方が言いやすいもんで。これからテッペキさんって呼んじゃダメですか?」
っていうか、僕の心の中じゃ、もうテッペキさんで確定なんですけどね。
「構いませんよ。払うものさえ払っていただければ」
「……じいちゃんの給料から引いといてください」
「そうします。しかし、会長から聞いてはいましたが、まさかこれほどとは」
そう。僕、富持助平十六歳。高校一年。いたって平凡な僕だけど、実は女性拒絶体質なんです。普通に話すのとかは全然大丈夫なんだけど、女性に触れられただけで、顔が赤くなって気絶しちゃうんです。
「仕方ないでしょ。そういう体なんだから」
「ただ単にヘタレなだけなのでは?」
「ほっといてください」
僕はそっぽを向いた。
「やれやれ。しかし、そんな調子で、これから大丈夫なのですか?」
「無理だって言ったらやめさせてくれます?」
「ダメです」
やっぱりね。