母を死に追い詰めたクズ元カノ。千億の女社長とスピード婚した俺は、奴に負け犬のごとくピアノを弾かせる!
1.彼女が「夫だけ」と言ったピアノ
東京白石室内楽団の新人採用の日、新しく入団した青年、瀬戸奏多が、ふいに清水凛音のそばに置かれた黒いスタインウェイのグランドピアノを指さして、笑いながら尋ねた。
「このピアノって、清水先生の未来の夫だけが弾けるって聞いたんですけど、僕も弾いていいですか?」
清水凛音は深く考えることもなく、ただ一言だけ返した。
「いいわよ。」
その瞬間、会議室にいた同僚たちの視線がいっせいに僕へ向いた。僕が清水凛音を七年待ち続け、それでも結婚までたどり着けなかった“未来の清水さん”だということを、誰もが知っていた。無名だった彼女を、今や東京のクラシック界で注目される存在に押し上げたのも僕だった。それなのに僕でさえ、彼女の母親が遺したあのピアノには、一度も触れさせてもらえなかった。
同情、詮索、そして嘲りを含んだ視線が身体に突き刺さる。その時、僕はようやくはっきりと悟った。清水凛音とのこの関係は、もう終わらせるべきなのだと。
その日の採用面接が終わった後、楽団の事務局長から電話が入った。声は少し言いづらそうだった。
「佐伯さん、清水首席と予定していたピアノ連弾ですが、準備しなくて大丈夫です。首席が、ウィーン公演の相手を新人の瀬戸奏多に替えると言っています。」
予想していた結果ではあった。それでも、胸の奥が鈍く痛むのを止められなかった。僕は問いただすことも、抗議することもなく、ただ静かに返事をして電話を切った。それからしばらく、誰もいない事務室に座り続け、最後に長く連絡していなかった番号へ電話をかけた。
「一条月乃。前に、ウィーンの金色ホールで僕と結婚式を挙げたいって言ってくれたよね。今でも、そう思ってる?」
電話の向こうはしばらく静まり返っていた。まるで眠っていたところを起こされたようだった。やがて、鼻にかかったような月乃の声が、おそるおそる返ってきた。
「私、夢を見てるの?」
「断ってもいい。」
僕が言い終える前に、電話の向こうから大きな鈍い音がした。まるでベッドからそのまま転げ落ちたような音だった。次の瞬間、月乃の震えるほど興奮した声が飛び込んできた。
「したい! したいしたいしたい! 夢に見るくらい、ずっとしたかった!」
僕は思わず苦笑した。その一言で、この日ずっと胸に積もっていた最悪の感情が、ほんの少しだけ和らいだ。
清水凛音がマンションに戻ってきた時、僕は荷物をまとめていた。彼女は足元のスーツケースに気づくこともなく、襟元を緩めながら、いつものように何気なく命じた。
「酔い覚ましのスープを作って。今日は楽団の新人歓迎会だったの。あの子が騒ぐから、少し飲みすぎたわ。」
僕は彼女の口紅が唇の端で乱れているのを見て、動かなかった。
「清水凛音、別れよう。」
彼女は一瞬固まり、それからようやく僕のそばに置かれたスーツケースに気づいた。苛立たしげにこめかみを揉み、僕を見上げたその目は相変わらず美しかったが、本当の動揺は少しも浮かんでいなかった。
「奏多にあのピアノを弾かせたから? 佐伯悠真、そんなに心が狭い人だったの? 私はただ、楽団に必要な人材を引き止めただけよ。」
入団初日で、一曲の中に十か所以上もミスをした新人が、彼女の口では“必要な人材”になる。僕はそれを指摘しなかった。ただ静かに立っていた。けれど清水凛音はもう浴室へ向かい、どうでもよさそうな声で言った。
「早くスープを作って。余計なことを考えないで。」
「清水凛音。僕は前にも言ったはずだ。三十五歳までには結婚する。それが僕の人生設計だって。僕は今年、三十五歳になった。」
彼女の足が止まった。かろうじて装っていた忍耐は、その瞬間に崩れ落ちた。
「佐伯悠真、何度も何度も結婚を迫って、楽しい? そういうことをされるたびに、あなたが本当に安っぽく見えるの。何度も言ったでしょう。楽団は今、上り調子なの。こんな時に、結婚みたいなくだらないことへ労力を割けるわけがない。」
彼女の一語一語は、鋭い刃のように、僕の一番柔らかい場所へ突き刺さった。七年かけて、東京白石室内楽団はゼロからここまで来た。増えた公演も、新しく入った協賛も、企業との提携も、すべて僕が健康診断の赤い数値と引き換えに手に入れてきたものだった。それでも最後に返ってきたのは、彼女の「安っぽい」という一言だけだった。
彼女の時間は高価なものらしい。ピアノには割ける。入団して一日も経たない男の子には割ける。椅子の座り心地や、新人歓迎会が楽しかったかどうかを気にかけることもできる。けれど七年付き合った恋人である僕に割くものは、どんなに大事な話でも、くだらなくて無駄なものになるらしい。僕は小さく息を吐き、彼女を見た。
「清水凛音、僕は疲れた。だから、結婚するか、別れるか。どちらか選んで。」
僕の言葉は、彼女の最後の忍耐を完全に使い果たした。彼女は上着を脱ぎ、苛立たしげにソファへ投げ捨てた。
「別れたいなら別れれば。好きにして。」
浴室から、すぐに水音が響き始めた。僕はリビングに立ったまま、遅れて押し寄せてきた悲しみに呑まれていた。もともと僕は、清水凛音にとって最良の選択肢ではなかった。彼女の周りに言い寄る男はいつだっていたし、僕にあったのは、ほかの誰より少しだけ執着が強かったこと、そして彼女が一番落ちぶれていた時に離れなかったことだけだった。だから彼女は、道徳心に縛られるようにして、僕を追い出さなかっただけなのだ。
愛しているかどうかは、本当はとても分かりやすい。誕生日にケーキを買ってほしいと言えば、彼女は買ってくれた。けれど僕の好きな味だったことは一度もない。風邪を引いて薬を買ってきてほしいと頼めば、彼女は行ってくれた。けれどたいてい、僕の風邪が治った後で思い出したように買ってくるのだった。『結婚準備ガイド』『結婚前に確認すべき十のこと』『三十五歳までに結婚するための計画表』。僕が胸を弾ませて買って帰るたびに、彼女の嫌悪を含んだ視線の前で、それらをそっと隠してきた。
七年も続いた恋は、期待から始まり、今はすっかり心の底まで冷え切っていた。
僕は、本当に疲れてしまった。
2.彼女の偏愛は、僕には向かなかった
ポケットのスマホが何度か続けて震えた。取り出して見ると、瀬戸奏多が楽団のLINEグループに一本の動画を投稿していた。動画の中で、彼は新人歓迎会の会場に置かれたあのスタインウェイの前に清水凛音と並び、彼女の母親が遺したピアノで連弾していた。しかも清水凛音は、奏多がグラスをピアノの蓋に置くことさえ許していた。
二人は何度も視線を交わし、画面越しにも漂うほどの甘い空気をまとっていた。肩が触れ合う瞬間など、まるで偶然を装って口づけたようにも見える。瀬戸奏多は、わざと恥ずかしそうな文面を添えていた。
「入ったばかりの新人なのに、七年いる先輩より待遇がいいなんて感動です。凛音さんの特別扱い、ありがとうございます。」
まだ入浴中の清水凛音が、すぐに返信した。
「あなたには、その価値があるわ。」
二人はそのまま、グループの中で楽しそうにやり取りを続けた。清水凛音は瀬戸奏多の真似をして、可愛らしいスタンプまで使っていた。僕はふと、三年前のことを思い出した。楽団のために、業界でも獲得が難しい賞を取ってきた日、僕も普通の恋人のように、LINEグループで彼女に甘えてみたことがある。
「ねえねえ、僕ってすごいでしょ? 早く褒めて。」
そのメッセージは、昼から深夜まで、そして翌朝まで、気まずいままグループに残り続けた。清水凛音は最後まで一文字も返信しなかった。後で恥ずかしさと悔しさに耐えきれず問い詰めると、彼女は眉をひそめて言った。
「佐伯悠真、何歳なの? ああいう若い男の子みたいな甘え方をして、恥ずかしくないの? あなたが平気でも、私は同僚の前で恥をかきたくないわ。」
あの時の僕は、自分が彼女を困らせたのではないかと、本気で反省していた。けれど見れば分かる。心から特別に思う相手に出会えば、清水凛音という氷山だって、いくらでも身をかがめるのだ。違いは、彼女がそうしたいかどうか。それだけだった。
その夜、僕はスーツケースを引いて清水凛音のマンションを出た。それからは退職の引き継ぎを始め、楽団の仕事にも以前のように必死で尻拭いをしなくなった。清水凛音と瀬戸奏多がどれだけ近づいても、僕はもう見ないふりをした。
そんなある朝、突然父から電話がかかってきた。
「悠真、お母さんがお前と凛音さんが別れたことをどこかで知って、気が動転して倒れたんだ。健康保険証も診察券も、大学病院への紹介状も検査データも家にない。医師に既往歴を聞かれても、何も出せないんだ。」
心臓が強く締めつけられた。前に母の心臓専門医を探してほしいと清水凛音に頼んだ時、母の健康保険証、診察券、紹介状、検査データを全部彼女に預けていた。けれどその後、その件はうやむやになり、資料も彼女の手元に置かれたままだった。
僕は焦りに駆られ、清水凛音へ何度も電話をかけた。けれど彼女は一度も出なかった。結局、僕は直接彼女のマンションへ向かった。暗証番号を入力して、そこで初めて彼女が鍵の番号を変えていたことに気づいた。どうしようもなくなった僕は裏庭へ回り、窓を一枚割って中へ入った。
けれど、室内に入った瞬間、僕は目の前の光景に息を呑んだ。部屋はほとんど別物になっていた。かつては冷たく整ったミニマルな空間だったのに、今はロック調のポスターや髑髏の置物、男物のライダースジャケットが無造作に散らばっていた。ここが、モデルルームのように整っていた清水凛音の部屋だとは信じられなかった。
以前、僕が可愛いキャラクター柄の間接照明を気に入り、寝室に置きたいと言っただけで、彼女は嫌悪を隠さずこう言った。
「佐伯悠真、あなたの安っぽい趣味で、私の部屋を汚さないで。」
それなのに今は、瀬戸奏多の持ち物が堂々と部屋中を占領している。僕には考え込んでいる時間などなかった。すぐに母の資料を探し始めた。けれど見つける前に、背後から慌ただしい足音が聞こえ、次の瞬間、僕は強く蹴り倒された。
二人の警察官が、僕を床に押さえつけた。
「住居侵入の通報がありました。署まで同行してください。」
警察署の取調室で、警察官は厳しい目で僕を見ていた。どれだけ説明しても、彼らは僕が嘘をついているとしか思っていなかった。清水凛音のマンションには僕に関係するものが一つもなく、さらに彼らが確認したところ、今の東京白石室内楽団のウィーン公演企画責任者は瀬戸奏多だという話になっていたからだ。
「あなたは清水さんの恋人だと言う。しかし彼女の部屋には、あなたに関するものが何一つない。あなたは楽団の運営責任者だと言う。しかし確認した責任者は瀬戸奏多という人物だ。佐伯悠真さん、あなたの話に一つでも本当のことはあるんですか?」
僕は全身を震わせながら説明したが、誰も信じてくれなかった。時間だけが一分一秒と過ぎていき、取り上げられたスマホの画面が何度も光っては消えた。父からの電話に違いない。母の容体は、きっとどんどん悪くなっている。
最後には、どうすることもできず、僕はうつむいた。
「分かりました。認めます。でも母が今、危篤なんです。病院へ行かせてもらえませんか。」
警察官は冷たく笑った。
「今度はお母さんが危篤ですか。こちらを騙せると思っているんですか。清水さんとその恋人は、被害状況の確認が終わるまで帰さないでほしいと言っています。」
僕はそのまま、警察署に二日二晩足止めされた。
三日目になってようやく、清水凛音が現れた。
3.これは駆け引きじゃない。本当に終わりだ
清水凛音の後ろにいたのは、妙に着飾った瀬戸奏多だった。二人と一緒に、楽団の同僚たちまで来ていた。瀬戸奏多は小走りで近づくと、いかにも申し訳なさそうな顔で僕を見た。その表情は、まるで本当に後悔しているように見えるほど巧みだった。
「ああ、悠真さん、本当にすみません。部屋に入ったのが悠真さんだって知らなかったんです。凛音さんにウィーン公演の企画責任者を任せてもらったばかりで、みんなを旅行に連れていく準備をしていたら、こんなことになってしまって……僕のせいです。ちゃんと謝ります。」
清水凛音は、そんな奏多の腕を引き止め、冷たく言った。
「謝らなくていいわ。別れたのに私の部屋へ来たのは、どう考えても彼が悪いもの。」
僕は赤くなった目で彼女を見た。胸の奥に何かが詰まって、息をするだけで血の味がするようだった。それでも今は、それについて言い争う気力などなかった。ただ彼女を睨み、必死に問いかけた。
「清水凛音、母の健康保険証と診察券、紹介状、検査データはどこだ。病院で必要なんだ。早く返してくれ!」
清水凛音は、僕が口にしたのがその話だとは思っていなかったらしく、顔色を変えた。ようやく少し焦ったようにバッグを探り、部屋の中も探すよう人に指示した。だが彼女は、そもそも母のことを本気で気にかけていなかった。そんな彼女が、とうの昔に頭から消えていたものを今さら見つけられるはずがなかった。
その時、僕のスマホが戻ってきた。画面が光り、父からの着信が表示される。僕はすぐに電話に出た。受話口の向こうで、父の声は別人のようにかすれていた。
「悠真。お母さんが、逝った。」
手から力が抜けた。身体の中身が一瞬で空っぽになったようだった。僕はまだ何かを探そうとしている清水凛音を見て、小さく呼び止めた。
「もう探さなくていい。もう、必要ないから。」
清水凛音は複雑な表情で僕を見た。僕は彼女が何を考えているのかなど、もうどうでもよかった。重い足取りでその場を離れようとした時、瀬戸奏多が僕を呼び止めた。
「悠真さん、警察署に何日もいることになったのは、本当に僕のせいです。でも、あなたが住居侵入をしたのも事実ですよね。念のため、バッグの中を確認してもいいですか。部屋のものを持ち出していないか、確かめないと。」
僕が反応するより早く、彼は僕のバッグを奪い、中身を床へぶちまけた。さまざまなデザインの結婚式の招待状が、ばらばらと床に散った。それは数日前、一条月乃が僕に選ばせるために送ってきたものだった。
瀬戸奏多は口元を押さえ、大げさに驚いた声を出した。
「えっ、悠真さん、まだ凛音さんと結婚するつもりだったんですか? 健康保険証が必要だって話も、もしかして全部自作自演だったんじゃないですか?」
もう彼と言い争う力もなかった。僕はただ床に膝をつき、招待状を一枚ずつ拾い集め、バッグへ戻した。
「確認は済んだだろう。お前たちのものは何もない。」
瀬戸奏多は望んだ効果を得たらしく、それ以上何も言わなかった。僕はそのまま立ち去ろうとしたが、数歩進んだところで清水凛音が追ってきた。彼女は僕の手首を掴み、唐突に尋ねた。
「今、どこに住んでいるの?」
「君には関係ない。君と瀬戸奏多で、幸せにやっていればいい。」
清水凛音は冷たく笑った。
「やっぱり嫉妬しているのね。」
「好きに思えばいい。」
彼女は眉を寄せて僕を見た。まるで、聞き分けのない子どもを見るような目だった。
「佐伯悠真、いい加減にして。何日もこんな騒ぎを起こして、そろそろ引き際を分かりなさいよ。あと数年待ってから結婚することが、そんなにできないの? どうしてこんなやり方で私を追い詰めるの?」
僕は彼女の手を振りほどいた。自分でも驚くほど、声は静かだった。
「僕は結婚する。でも、花嫁は君じゃない。もう二度と、君に結婚を迫ることもない。清水凛音、分かった?」
清水凛音の顔色が一瞬で悪くなった。だがすぐに、彼女はくだらない冗談でも聞いたように小さく笑った。
「佐伯悠真、あなたもう三十五歳でしょう。そんな子どもみたいな嘘、やめなさいよ。今のあなたのそんなみすぼらしい姿を見て、私以外の誰が結婚してくれるというの?」
「そこまで心配してもらわなくて結構だ。」
僕は背を向けた。さすがに自分の言葉が過ぎたと思ったのか、清水凛音は声を少し柔らかくした。
「土曜日はあなたの誕生日でしょう。前から私の父に会いたいと言っていたわよね。清水邸で誕生日会を開いてあげる。それでいいでしょう?」
正直、清水凛音がそんなことを言うとは思わなかった。これまで彼女の誕生日を覚えていたのは、いつも僕だけだった。僕の誕生日を、彼女がまともに覚えていたことは一度もない。
4.彼女が他人に与えた居場所
日曜日、僕は結局、清水邸へ向かった。清水凛音が急に変わったからではない。彼女が送ってきた招待客リストの中に、僕が今どうしても知り合っておきたい音楽界のスポンサーや劇場関係者が何人かいたからだ。東京白石室内楽団を離れる以上、僕は自分の人脈を広げる必要があった。
けれど清水家の屋敷に着いて、僕はすぐに気づいた。その日は、僕のための誕生日会などではなかった。清水凛音が瀬戸奏多を清水家の当主に紹介する日だった。つまり彼女は、未来の婿を家に連れていく覚悟がなかったのではない。ただ、その相手が僕だから連れていきたくなかっただけなのだ。
引き返そうとした僕は、屋敷の使用人に呼び止められた。彼は僕を上から下まで見て、露骨に軽んじた声で言った。
「あなたが清水お嬢様に頼まれて手伝いに来た佐伯さんですね? ずいぶん遅かったですね。晩餐会はもうすぐ始まりますよ。それに、その格好は何ですか。まさか、ご自分が清水家の婿だとでも思っているんですか?」
使用人の言葉が終わるか終わらないかのうちに、大広間に音楽が流れた。清水凛音と彼女の父親が、瀬戸奏多を連れて入場してくる。三人が並んだ姿は、まるで本当の家族のようだった。僕は使用人に半ば強引に引かれ、会場の端へ追いやられた。
清水凛音は壇上へ上がり、マイクを手にした。声は冷たく澄み、そして誇らしげだった。
「本日は、音楽界の皆様に、私の愛弟子である瀬戸奏多を正式にご紹介したいと思います。」
会場には、スポンサー、レコード会社の幹部、音楽財団の理事たちがずらりと並んでいた。僕は胸が詰まり、ほとんど息ができなくなった。ふと、昔のことを思い出した。ある年、僕は全国規模のピアノコンクールで決勝まで進んだ。父と母は毎日、テレビ中継を待ちながら、僕が舞台に立つのを楽しみにしていた。だが決勝の前日、僕は有力者の関係者に枠を奪われた。
僕は清水凛音に、公平な機会を取り戻せないかと頼んだことがある。その時、彼女は淡々と僕に言った。この世界に絶対の公平はない。普通の人間が、自分のような後ろ盾を持つこともない。だから僕は、彼女の力で特権を得ようとするのではなく、この現実に慣れるべきなのだと。
けれど今、彼女は瀬戸奏多のためだけに、これほど大がかりな推薦の場を用意している。
これが彼女の言う公平だった。
「それでは、奏多の自作曲をお聴きください。」
清水凛音の誇らしげな声が、僕の回想を断ち切った。瀬戸奏多は彼女と視線を交わして微笑み、舞台中央の黒いピアノの前に座った。流れるような旋律が響き始める。だが聴けば聴くほど、僕の胸の奥に違和感が広がっていった。
これは、僕が子どもの頃に母と一緒に作った曲ではないか。
懐かしい旋律は鍵のように、封じていた記憶を一気に開いた。七歳の年、母は心臓病だと分かった。家は貧しく、ピアノを買う余裕などなかった。母は食卓の上に指で鍵盤を描き、一つ一つ音を教えてくれた。ある夕方、母はベッドにもたれ、窓の外の夕日を見ながら、小さな旋律を口ずさんだ。
「悠真、これはお母さんからあなたへの歌よ。名前は『夕陽の約束』にしましょう。」
僕は母に合わせて歌った。やがて二人で、その短い旋律を一つの曲へ育てた。大人になってピアノを学んだ僕が最初にしたことは、この曲を譜面に書き起こすことだった。それは僕と母だけの歌だった。それがなぜ、瀬戸奏多の“自作曲”になっているのか。
この曲は、清水凛音にしか聴かせたことがない。
考えられる可能性は、一つしかなかった。
彼女が、僕の曲を瀬戸奏多に渡したのだ。
信じられない思いで清水凛音を見ると、彼女は僕の視線に気づいたように、後ろめたげに目をそらした。すぐに、僕のスマホへ彼女からメッセージが届いた。
「騒がないで。奏多はもうすぐ私と金色ホールで連弾するの。実力を疑う声があるから、これも楽団のためなのよ。」
僕の指が少しずつ強く握り込まれていく。その間に、瀬戸奏多は最後の一音を弾き終え、会場は大きな拍手に包まれた。清水凛音は舞台へ上がり、彼の隣に立った。その目には誇らしさがあふれていた。
清水家当主も立ち上がって拍手し、満足そうな笑みを浮かべた。
「奏多くんはピアノの腕だけでなく、作曲の才能も一流だ。凛音にこんな弟子がいることは、清水家にとっても幸運だ。もし清水家にこんな婿が来てくれたら、なおさら喜ばしいことだな。」
清水凛音は笑った。否定するそぶりは少しもなかった。瀬戸奏多は恥ずかしそうにうつむき、素直な声で言った。
「清水のお父様、褒めすぎです。全部、凛音さんが教えてくださったおかげです。」
僕はその場に立ったまま、爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握りしめた。やがて、自分の声がかすれて、それでもはっきりと響くのを聞いた。
「待ってください。この曲は、僕と母が一緒に作った曲です。瀬戸奏多の自作曲であるはずがありません。」
会場が静まり返った。すべての視線が僕へ向く。清水凛音は眉をひそめ、瀬戸奏多の顔色は一瞬変わった。だがすぐに、彼はいつもの無邪気そうな表情を取り戻した。
「悠真さん、あなたがずっと凛音さんと結婚したかったのは知っています。でも、嫉妬で僕をそんなふうに陥れるのはひどいです。」
清水家当主の顔も、目に見えて険しくなった。
「君が、七年も凛音につきまとっていた男か。礼儀も知らないとは。凛音が君と結婚しなくて正解だったな。」
清水凛音は、僕を庇おうとしなかった。彼女はただ疲れた顔で僕を見ていた。まるで、いつまでも聞き分けのない人間を見るような目だった。
「悠真、もう騒がないでくれる? こんなところまで結婚の話を持ち込むなんて、本当に息が詰まるわ。」
招待客たちが、ひそひそと話し始めた。あの男はいつも清水凛音の周りをうろついていた、本当に婚約者なのかと思っていた、清水家はもう瀬戸奏多を紹介しているのにまだ食い下がるのか、結婚したくて頭がおかしくなったのではないか。声は大きくなかったが、一つ一つが針のように僕へ刺さった。
その時、瀬戸奏多の目に狡猾な光が浮かんだ。
「悠真さん、僕が曲を盗んだと言うなら、あなたのスマホに作曲の痕跡があるはずですよね。見せてください。本当に証拠があるなら、僕はちゃんと謝ります。」
僕はふと、スマホに昔ふざけて作った結婚写真が残っていることを思い出した。結婚雑誌のテンプレートに、僕と清水凛音の顔を合成した写真だった。消すのをずっと忘れていた。清水家当主が周囲の者にスマホを取らせようとした。もみ合いの中で、僕は床に倒れ込みながらも、スマホだけは必死に守った。
瀬戸奏多が勝ち誇ったように笑った。
「悠真さん、見せられないんですか? 証拠なんてなくて、ただ僕を陥れようとしただけなんじゃないですか? それなら僕、すごく傷つきます。」
彼は僕を助け起こすふりをして近づき、耳元で小さく囁いた。
「諦めなよ、佐伯悠真。清水凛音は僕のものだ。あなたには一生、奪えない。」
僕が一瞬呆然とした隙に、彼はスマホを奪い取った。そしてアルバムに残っていたあの結婚写真を、会場の大きなスクリーンへ映し出した。途端に会場中から笑い声が上がった。その笑いは次々と重なり、屋敷の天井まで揺らすほどだった。
「うわ、あいつ自分で結婚写真を作ってたのかよ。」
「女に飢えすぎだろ。」
「ここまで恥をかくくらいなら、俺なら消えたくなるわ。」
清水凛音は、なぜか苛立ったように表情を曇らせた。何かを止めようと口を開きかけたその時、人群の中から一つの声が上がった。
「待って。写真の花嫁、清水さんじゃなくない?」
5.笑いものにされた結婚写真
次の瞬間、会場の誰かが驚きの声を上げた。
「待って、あの女性……一条月乃じゃないか?」
「どの一条月乃?」
「ほかに誰がいるんだよ。一条テックの若きCEOだよ。先月、経済誌の表紙になったあの人だ!」
ざわめきが一気に広がった。僕は呆然として、反射的にスクリーンを見上げた。あの写真は三か月前、退屈しのぎに作ったものだった。結婚雑誌を何冊も買い、清水凛音との未来を夢見ながら、それでも彼女に知られる勇気がなく、こっそり結婚写真を作って満足していただけだった。
けれど、僕が合成したのは、確かに清水凛音の顔だった。どうして一条月乃になっているのか。目を凝らして見ても、そこに写っているのは紛れもなく月乃だった。高画質で、自然で、合成には見えない。むしろどこかの教会で、僕と彼女が本当にタキシードと白いドレスを着て、幸せそうに笑っている写真に見えた。
けれど僕は、一条月乃と結婚写真など撮ったことがない。
会場ではさらに大きな笑い声が起こった。清水凛音の写真を作ったと思ったら、今度は一条月乃か。あんなレベルの女性が彼を相手にするはずがない。蛙が白鳥を狙うにもほどがある。そんな言葉があちこちから飛んでくる。瀬戸奏多は壇上で口元を押さえて笑い転げながら、清水凛音の耳元で何かを囁いていた。
清水凛音の顔色はひどく悪かった。彼女はスクリーンの写真をじっと見つめ、眉間に深い皺を刻んでいる。僕はその写真を一条月乃に送り、一言だけ送った。
「これはどういうこと?」
すぐに、一条月乃から困ったようなスタンプが返ってきた。
「わ、もう見つかったの? あなたと清水凛音の合成写真なんて見たくなかったから、勝手に差し替えたの。なかなか上手でしょう? でも本物のほうが絶対に綺麗だから、今度ちゃんと撮りに行こうね。」
僕は力なくため息をついた。その時、いつの間にか清水凛音が目の前に立っていた。彼女は僕を見下ろし、今までにないほど疲れと失望をにじませた声で言った。
「佐伯悠真、まだ恥をかき足りないの? 私の写真を作るだけじゃなく、一条月乃の写真まで? 彼女が誰か分かっているの? あの人は、私でさえ会えば礼を尽くさなければならない相手よ。彼女を冗談に使って、清水家全体に恥をかかせるつもり?」
僕は彼女を見上げた。七年も愛してきたはずの顔が、その瞬間、ひどく見知らぬものに見えた。
「もし僕が、本当に彼女と結婚すると言ったら?」
僕の声は大きくなかった。けれど静かな湖面へ石を投げ込んだように、会場の空気が一瞬止まった。
そして次の瞬間、さらに激しい笑いが爆発した。
「あははは、あいつ、一条月乃と結婚するって言ったぞ!」
「もう駄目だ。完全におかしくなってる。」
「清水さん、その元彼、別れたショックで精神的におかしくなったんじゃないですか?」
瀬戸奏多は腹を抱えて笑っていた。目に涙を浮かべながら、それでも追い打ちを忘れない。
「悠真さん、自分の逃げ道を作りたいのは分かりますけど、さすがにそれは無理がありますよ。一条社長みたいな人、僕だって数えるほどしか見たことがないんです。あなたが知り合いなわけないでしょう?」
彼は清水凛音の腕に手を絡め、得意げに笑った。
「もしあなたが本当に一条月乃を知っているなら、僕は一条家の人間ですよ。」
周囲の誰かが面白がって声を上げた。
「奏多くん、どこで結婚式をするのか聞いてみなよ。せっかくの知り合いなんだから、ご祝儀くらい持っていかないと。」
瀬戸奏多はすぐに僕を見て、笑いながら尋ねた。
「佐伯悠真さん、どこの教会で式を挙げるんですか?」
「来週の土曜日。ウィーンの金色ホールだ。」
僕の声が落ちると、会場の笑い声はいっそう大きくなった。金色ホールは誰でも入れる場所ではない、ましてや結婚式などできるはずがない。清水凛音と瀬戸奏多も来週土曜日にそこで演奏する予定だ、そんな嘘をつくにはタイミングが悪すぎる。清水凛音も可哀想に、別れた男がここまで壊れるとは。そんな言葉が好き勝手に飛び交った。
僕はもう彼らを相手にする気になれず、そのまま会場を出た。
その夜、知らない番号から一通のメッセージが届いた。
「私を追加し直して。」
その命令口調、その言葉の選び方だけで、相手が清水凛音だと分かった。警察署を出た日、僕は彼女をブロックしていた。僕は無表情でメッセージを削除し、スマホの電源を切って眠った。
これで終わったと思っていた。
けれど、こんなにも早くまた彼女と会うことになるとは思わなかった。
タキシードの試着の日、一条月乃は急な用事で少し遅れることになった。僕がブライダルサロンへ着くと、清水凛音はすでにVIPスペースに座っていた。視線が合った。僕は礼儀として軽く会釈し、スタッフに案内されて控室へ入った。
メイク担当を待っていると、清水凛音が入ってきて、後ろ手に扉の鍵をかけた。僕が反応するより早く、彼女は僕の背後まで歩いてきていた。鏡には、相変わらず冷たく美しい彼女の顔が映っていた。
「どうして私をブロックしたの?」
その声は、まるで僕たちが一度も別れていないかのように自然だった。僕は警戒して彼女から距離を取った。
「清水凛音、僕たちはもう別れた。それに、君は瀬戸奏多と結婚するんだろう。これ以上、連絡を取る必要はない。」
「奏多は土曜日の演奏用の衣装を選びに来ただけよ。あなたが思っているような関係じゃない。ここには他人はいないんだから、もう演技しなくていいわ。」
僕は眉をひそめた。
「何の演技だ?」
「あなたがしていることは全部、私を刺激して、私に迎えに来させるためでしょう?」
正直、ここまで来ても清水凛音が僕は必ず戻ると信じていることに、僕は驚いた。そして同時に理解した。七年もの間、僕が何度も限界を越えて彼女を許し続けたからこそ、彼女はこんなにも当然のように僕が戻ると思っているのだ。
「清水凛音、君がどう思おうと、僕はもうすぐ結婚する。今週の金曜日には日本を発って、ウィーンへ行く。もし僕の言動のどこかで、復縁を求めているように誤解させたなら謝る。」
清水凛音は黙っていた。彼女は僕を静かに見つめ、しばらくしてから、ふいに口を開いた。
「私があなたを冷たく扱ったから?」
6.遅すぎた譲歩は、愛じゃない
「それは関係ない。清水凛音、僕は本当に結婚するんだ。」
彼女は僕の言葉を遮った。まるで後半を聞かなかったことにするように。
「はいはい、分かったわ。まだ怒っているのね。もうこんなに経ったのに、まだ機嫌が直らないの?」
そう言って、彼女は昔のように僕の頭に触れようとした。僕は身をそらして避け、眉をひそめて彼女を見た。
「人の話が分からないのか。僕は一条月乃と結婚すると言っている。君への当てつけじゃない。」
彼女の手は宙で止まった。目の中の温度が少しずつ冷えていき、声も低く沈んだ。
「悠真、もし私を怒らせたいだけなら、どうして一条月乃なの? 一条家の敷居は、あなたが触れられるようなものじゃないわ。」
以前と同じだった。清水凛音は、やはり僕を信じていなかった。その偏見は、彼女の骨の奥まで刻まれている。僕が一条月乃に近づけるはずがない。一条家に入れるはずもない。自分の未来を自分で掴めるはずもない。彼女はそう決めつけているのだ。
なぜだか、僕は笑ってしまった。
「君の中で、僕はそんなに惨めな人間なのか?」
彼女は眉を寄せた。
「何を言っているの?」
少し間を置いて、彼女はため息をついた。まるで大きな譲歩をしてやるとでも言いたげだった。
「分かったわ。戻りたいなら、戻ってきなさい。」
「どこへ? 楽団に戻って、また君の世話係をしろと?」
彼女の顔がわずかに曇った。
「悠真、私は譲歩しているのよ。まだ何が不満なの?」
「僕には必要ない。」
これ以上無意味なやり取りをしたくなくて、僕は彼女の横をすり抜けようとした。だが背を向けた瞬間、手首を掴まれた。清水凛音の声が低く響いた。
「あなたがそこまで結婚したいなら、私が結婚してあげてもいいわ。」
僕は振り返り、口元に嘲りの笑みを浮かべた。
「結婚してあげる? 君は、最初から僕と結婚する気なんてなかっただろう。」
彼女の顔が白くなった。
「誰から……誰からそれを聞いたの?」
誰から聞く必要もない。彼女の一つ一つの言動から、僕はずっと前から分かっていた。狭い控室の中で、空気が急に重くなる。清水凛音は薄い唇を冷たい線のように結び、初めて僕が本当に戻らないつもりなのだと気づいたようだった。
「そんな言い方、筋が通らないわ。」
彼女の声はかすれていた。まだ何かを言おうとしたその時、扉がノックされた。スタッフの声だった。
「佐伯様、お手伝いは必要でしょうか?」
「大丈夫です。今、出ます。」
清水凛音が油断した隙に、僕は手を振りほどき、控室を出た。だが扉の外にいた人物を見て、足が止まった。瀬戸奏多が新郎用の礼服を着て、控室の前に立っていた。どれほど前からそこにいたのか、どこまで聞いていたのかは分からない。
彼は僕に笑顔を向けた。
「悠真さん、こんにちは。」
僕は軽く頷き、返事の代わりにした。瀬戸奏多は一歩近づいた。
「少しだけ、二人で話せませんか?」
「無理だ。時間がない。別の控室を用意してもらえますか。」
スタッフはすぐに頷いた。
「かしこまりました。こちらへどうぞ。」
「待ってください。」
瀬戸奏多は僕の前に回り込んだ。顔にはいつもの、清潔で無害そうな笑みが貼りついている。
「僕と凛音さんの婚約披露は今月末なんです。悠真さんも来てくれますか? あなたに祝福してもらえたら、凛音さんもきっと喜ぶと思うんです。」
瀬戸奏多は整った、爽やかな顔をしている。そんな顔の下に、ここまで汚れた心を隠しているとは、誰が思うだろう。僕が答える前に、背後から清水凛音の澄んだ声が響いた。
「誰が私たちの婚約披露をするなんて言ったの?」
7.彼女が気づいた時、僕はもう花婿だった
清水凛音が控室から出てきた。彼女が姿を見せた瞬間、瀬戸奏多の顔色は目に見えて白くなった。だがすぐに笑みを取り繕い、足早に彼女へ寄って、親しげに腕を絡めた。
「凛音さん、ずっと探していたんですよ。まさか悠真さんと昔話をしていたなんて。ちょっとした冗談を言っただけです。」
清水凛音は彼を一瞥し、眉を寄せた。
「それから、その礼服は何? 着替えてきなさい。」
瀬戸奏多の笑みが一瞬崩れかけた。それでも彼はどうにか持ち直し、僕を見た。
「じゃあ悠真さん、土曜日に金色ホールであなたの結婚式を見学するの、楽しみにしていますね。」
僕はもう二人を見なかった。スタッフに案内され、新しい控室へ向かった。
土曜日、ウィーンの金色ホール。
主ホールはまばゆい光に満ち、金色の装飾が照明の中で荘厳に輝いていた。清水凛音と瀬戸奏多は、舞台裏の入口でスタッフの案内を待っていた。瀬戸奏多は彼女の腕を取り、隠しきれない興奮を顔に浮かべていた。
「凛音さん、僕、金色ホールで演奏するのは初めてなんです。あなたのおかげで、こんな機会をもらえました。」
清水凛音は淡く返事をしただけで、目はずっと人の中を探っていた。ブライダルサロンで佐伯悠真が言った「一条月乃と結婚する」という言葉が、細い棘のように胸に刺さったままだった。彼女は何度も、自分に言い聞かせた。ありえない。彼が一条月乃と結婚するはずがない。七年も自分のそばにいた彼が、そんなに簡単に去れるはずがない。
「凛音さん? 何を考えているんですか?」
「何でもないわ。行きましょう。そろそろ出番よ。」
二人はスタッフに続いてホールへ入った。金色ホールの内部は想像以上に華やかで、水晶のシャンデリアがまばゆい光を放ち、整然と並んだ座席には着飾った招待客がぎっしりと座っていた。清水凛音は舞台中央のピアノへ向かおうとしたが、舞台の装飾を見た瞬間、足を止めた。
舞台中央にあったのは、通常の演奏会の設えではなかった。巨大な花のアーチが立ち、白い薔薇と淡いピンクのトルコキキョウが美しい弧を描いていた。アーチの下には長い赤い絨毯が敷かれ、舞台中央まで続いている。両脇には燭台と花びらが整然と並べられていた。
これは、明らかに結婚式の会場だった。
「どうしてここで結婚式なんてしているんですか? 僕たちは演奏に来たんですよね?」
瀬戸奏多が小声でつぶやき、顔に浮かんでいた興奮が少しずつ固まっていく。清水凛音の心臓が一拍飛んだ。彼女は佐伯悠真の言葉を思い出していた。来週の土曜日。ウィーンの金色ホール。
あの時、誰もが彼の言葉を狂言だと思った。
彼女自身も含めて。
スタッフが微笑みながら近づいてきた。
「清水様、瀬戸様、こちらへどうぞ。お二人は本日の特別演奏ゲストです。挙式が終わりましたら、ピアノ演奏をお願いいたします。」
清水凛音はその場で凍りつき、かすれた声で尋ねた。
「誰の結婚式ですか?」
スタッフは一瞬きょとんとした後、いっそう晴れやかに笑った。
「佐伯悠真様と一条月乃様の結婚式です。一条様から、必ず清水様に演奏をお願いしたいと伺っております。佐伯様とは昔からのお知り合いだと。」
その言葉が落ちた瞬間、清水凛音の顔から血の気が引いた。瀬戸奏多の笑顔も凍りつき、まるで頬を強く叩かれたようだった。
「そ、そんなはず……あの人が、一条さんの夫になるなんて……」
誰も答えなかった。なぜなら、その瞬間、結婚行進曲が響き始めたからだ。招待客がいっせいに立ち上がり、入口へ視線を向けた。
清水凛音は、ぎこちなく振り返った。
そして、僕を見た。
僕は黒いタキシードを着て、一条月乃の腕を取って入場した。月乃は純白のウェディングドレスをまとい、長いベールを引きながら、花びらの雨の中をゆっくり歩いていた。ドレスはクラシカルなレース仕立てで、細い腰のラインを美しく際立たせ、襟元の小さな真珠が光を受けて柔らかく輝いていた。
僕が彼女を見下ろす時、目元には優しさがあふれていた。その笑顔を、清水凛音は僕の顔で一度も見たことがなかった。彼女のそばを通り過ぎる時、僕の視線は一瞬だけ彼女をかすめた。けれど、それは見知らぬ通行人を見るような、何の感情も宿らない目だった。立ち止まることも、揺らぐこともなく、僕はそのまま前を向いた。
清水凛音の心臓は、見えない手に強く掴まれたように痛んだ。彼女は口を開き、僕の名前を呼ぼうとした。だが喉が詰まったように、一文字も出てこなかった。僕と一条月乃は、すべての招待客に見守られながら向かい合い、誓いを交わし、指輪を交換した。
僕が「誓います」と言った時、目には涙が浮かんでいた。それでも僕は笑っていた。
彼女が見たことのない笑顔だった。
清水凛音はその場に立ち尽くし、ふいに七年前のことを思い出した。僕が東京白石室内楽団に来たばかりの頃、彼女には何もなかった。楽団は立ち上がったばかりで、練習室を借りる金さえ足りなかった。そんな彼女に付き添い、スポンサーを一社一社回り、公演の交渉を一つ一つ重ね、倒れるほど疲れても休まなかったのは僕だった。
彼女は覚えていた。ある日、僕が高熱を出しながらも彼女の譜面を整理していたことを。彼女が何気なく「お疲れさま」と言っただけで、僕は一日中嬉しそうにしていた。彼女は、僕がずっとそこにいると思っていた。永遠に自分のもとを離れないと思っていた。
けれど今、僕は婚礼衣装をまとい、別の人と結婚している。
司会者の声が、彼女を現実へ引き戻した。
「それでは特別演奏ゲストとして、清水凛音様、瀬戸奏多様に、新郎新婦へピアノ演奏を捧げていただきます。」
会場に拍手が起こり、すべての視線が彼女へ向いた。清水凛音は硬い足取りで舞台脇のピアノへ向かった。瀬戸奏多はその後ろをついてくる。顔色は、冷たい灰を飲み込んだように悪かった。二人はピアノの前に座ったが、清水凛音の指は鍵盤の上で止まったまま動かなかった。
彼女の視線はピアノ越しに、舞台中央へ向かった。そこでは僕が招待客と写真を撮っていた。一条月乃が僕の腰に手を回し、耳元で何かを囁く。僕は笑いながら、軽く彼女を小突いた。目には隠しきれない愛しさがあった。
あそこは、本来なら自分の場所だった。
あの笑顔も、本来なら自分のものだった。
「凛音さん、始めないと。」
瀬戸奏多が小声で促した。清水凛音は深く息を吸い、指を下ろした。最初の音が響く。それは『夕陽の約束』だった。
僕の笑顔が、ほんのわずかに止まった。僕はピアノの方へ顔を向けた。目は静かで、波一つ立っていなかった。そしてすぐに視線を戻し、招待客との会話を続けた。
清水凛音の指が震え、一音を弾き間違えた。彼女は清水家の晩餐会で、僕が赤い目をして「この曲は母と僕が作ったものだ」と訴えた時、自分が何をしたかを思い出した。彼女は騒がないでと言った。楽団のためだと言った。僕が笑われ、辱められ、スマホを奪われ、あの写真をスクリーンに映されるのを、ただ見ていた。
彼女は何もしなかった。
ただ壇上に立ち、僕が床に倒れ込み、すべての人から指をさされる姿を見ていただけだった。
清水凛音の指はだんだん遅くなり、演奏は次第に乱れていった。瀬戸奏多が横で必死に目配せしても、彼女には何も見えていないようだった。やがて一曲が終わり、会場には拍手が響いた。それでも彼女は、すべての力を失ったように、ピアノの前に座ったまま動けなかった。
8.七年の恋は、もう奏でない
挙式が終わると、招待客たちは少しずつ退場し始めた。僕は赤いお色直しの衣装に着替え、一条月乃と並んで客を見送っていた。清水凛音はようやく立ち上がり、僕の方へ歩いてきた。
「悠真。」
僕は振り返り、礼儀正しく、けれど距離を置いた目で彼女を見た。
「清水さん、何かご用ですか?」
清水さん。
凛音でも、清水凛音でもない。
ただの、清水さん。
清水凛音の心臓は、誰かに鋭くえぐられたように痛んだ。
「あなたと、話がしたいの。」
「何を?」
一条月乃がいつの間にか僕の隣に立ち、自然に僕の肩へ腕を回した。彼女は薄く笑いながら、清水凛音を見た。
「清水さん、今日は私と悠真の結婚式です。話したいことがあるなら、別の日にしてください。」
清水凛音は諦めきれない目で僕を見た。
「悠真、私が悪かったのは分かっているの。あなたにひどいことをしてきたことも分かっている。でも――」
「でも、何? ようやく僕がいなければ駄目だと気づいた? それとも、結婚してあげてもいいと思った?」
清水凛音は何も言えなかった。なぜなら、その通りだったからだ。
僕は彼女を見た。もう目の中に憎しみはなく、恨みもなく、ただ完全な静けさだけが残っていた。
「清水凛音、僕が七年待ったことを知っているよね。七年の間、僕は何度も自分に言い聞かせた。もう少し待とう。あと少し待てば、君が忙しい時期を抜ければ、きっと僕を見てくれるはずだって。でも君はいつも忙しかった。いつも、もっと大事なことがあった。いつも、僕より力を注ぐ価値のある誰かがいた。」
そこまで言うと、僕の声は少しだけ震えた。一条月乃が僕を支えるように腕に力を込めた。清水凛音の顔は紙のように白くなっていた。
「悠真……ごめんなさい……。」
「謝らなくていい。君は僕を愛していなかった。だからもう、僕にも君は必要ない。お互い、別々に幸せになろう。」
そう言って、僕は一条月乃の腕を取った。最後に一度だけ、清水凛音を見た。
「清水凛音、今日は演奏に来てくれてありがとう。いい演奏だったよ。」
清水凛音はその場に立ち尽くし、僕の背中が金色の光の中へ遠ざかっていくのを見ていた。彼女はその時、僕が「君は僕を愛していなかった」と言った言葉が、完全には正しくないのかもしれないと気づいた。本当に愛していなかったのなら、なぜこんなにも胸が痛むのだろう。
彼女はようやく理解した。自分は最初から佐伯悠真を愛していなかったわけではない。ただこの七年、彼はいつも振り返り、いつも待ち、いつも彼女の後始末をしてくれた。長く愛されすぎたせいで、彼女はそのすべてを当然のものだと思い込んでいた。
だから彼女は、それを愛だと思わなかった。
習慣だと思った。
付き添いだと思った。
大切にしなくても、失われることのないものだと思った。
追いかけたいと思った。けれど彼女は知っていた。もう追いつけない。七年かけて、彼女はかつて自分だけを見つめていた人を失った。そしてその人は、二度と戻ってこない。
外へ出ると、ウィーンの夕日は美しかった。
金色の光が街路を満たし、僕の婚礼衣装にも、一条月乃の優しい目にも降り注いでいた。
「疲れた?」
彼女が尋ねた。
僕は首を振り、彼女の肩にもたれて小さく笑った。
「月乃。」
「なあに?」
「ありがとう。」
「何に?」
「三十五歳のこの年に、愛されるってこういうことなんだって、僕に教えてくれて。」
一条月乃は顔を寄せ、僕の額にそっと口づけた。
「ばかね。これから毎日、ちゃんと分からせてあげる。」




