告白の行方
大学生の頃、どうして僕はあんな選択をしたのだろう。
愛のない告白をし、彼女は頷いた。
それなのに僕は、1度もデートをしなかった。
その矛盾は今も胸の奥に残り、時々、冷たい痛みとして蘇る。
これは、それを思い出した日の物語だ。
1
十二月の夜、冷たい空気が高架下の歩道にたまっていた。仕事帰り、駅へ向かう途中のことだ。
ふと、どこからか漂ってきた焙じ茶ラテの甘い匂いに、胸の奥が引きずられた。
――この匂い、どこかで嗅いだことがある。
そう思った瞬間、大学時代の記憶が一気に広がった。
缶コーヒーの自販機、古びた学生会館、晴れた昼。
あの頃の僕が恋人だった彼女――いや、恋人“という形”だけだった子――の顔が浮かんだ。
「……楓。」
名前を口にした瞬間、鼓動がわずかに痛くなる。
彼女の笑顔を思い出す。
優しく、儚く、いつもどこか遠くを見ていたような瞳の。
けれど、僕は、その笑顔の意味を最後まで理解しようとしなかった。
2
楓と出会ったのは大学の図書館だった。
僕は英語の課題に追われ、辞書を探していた。
棚の前で見つけた分厚い辞典には、すでにつり目で髪の長い女の子が手を伸ばしていた。
「あ、ごめん、取っちゃった?」
僕が言うと、彼女は驚いたように目を丸くして、それから微笑んだ。
「いいよ。譲るよ」
辞典を僕に差し出す。
「い、いや、どうぞ……」
僕が戸惑うと、彼女はくすっと笑った。
「遠慮しないで。あなた、困ってたでしょ?」
その声が耳に残った。
ほんの数分のやり取り。
それだけだったのに、胸の奥に響いた。
でも――恋ではなかった。
当時の僕は、ただ、誰かと繋がりたいだけだった。
友達でも、恋人でも、なんでもよかった。
寂しさだけが動機だった。
3
告白はひどく曖昧だった。
夕暮れのキャンパス、ベンチに座る楓へ、突然僕は言った。
「もしよかったら……付き合わない?」
胸の奥を探っても、言葉の奥に感情らしいものは見当たらなかった。
ただ、
「恋人がほしい」
という寂しさを埋めるための言葉。
楓は一瞬だけ目を伏せ、そしてゆっくり顔を上げた。
「……いいよ」
その返事は思っていたより早く、思っていたより柔らかく、思っていたより重かった。
胸の奥に冷たい何かが落ちた。
「嬉しい」
そう言うべきだったのに、僕はただ笑って「ありがとう」と言うだけだった。
4
普通なら、告白をして恋人になったのだから、次はデートをして、一緒に笑って、時間を重ねていくのが自然だ。
けれど僕は――動かなかった。
連絡を取ることすら、面倒に感じてしまった。
自分が何を望んでいるのか分からなくなった。
彼女はメッセージを送ってきた。
「明日空いてる?」
「映画行かない?」
「会いたいな」
その度僕は、
「忙しい」
「課題がある」
「また今度」
適当な言葉で逃げた。
逃げれば逃げるほど、罪悪感は積み重なり、重くなる。
重くなるほど、ますます彼女と向き合えなくなった。
気づけば――僕らは一度も会わないまま、恋人だった。
5
ある日、楓から長いメッセージが届いた。
『話したいことがあるの。時間をつくってくれませんか?』
逃げられないと思った。
けれど僕は答えなかった。
そして、そのまま季節が変わった。
紅葉のキャンパス、冬のキャンパス、春のキャンパス。
楓のメッセージは途切れ、僕は再び独りになった。
誰にも気づかれないうちに。
恋人という関係は、静かに消えた。
6
現在へ戻る。
駅のホームで電車を待ちながら、僕はスマホを開いた。
連絡先の中に、今も楓の名前は残っていた。
表示された名前を見つめながら、胸が痛む。
――どうして、あの時会いに行かなかったのか。
――どうして、理由を聞かなかったのか。
――どうして、嘘をついたのか。
答えはひとつだった。
傷つく自信がなかった。
逃げたのは、彼女ではなく自分自身だった。
ふと、スマホが震えた。
画面には予測変換で出てきた言葉。
「久しぶり」
僕は親指を迷わせた。
送信できるだろうか?
何を言えばいい?
今さら謝る?
今さら弁解する?
今さら向き合う?
答えは、分からない。
でも――もう、逃げ続ける人生は嫌だった。
僕はゆっくり息を吸い、そして吐き出した。
そして、文字を打った。
『元気ですか?』
送信ボタンに指を置いたまま、しばらく動けない。
心臓が喉の奥で暴れる。
もうここから人生が変わるような気さえした。
そして――送信した。
7
返事が来たのは一時間後だった。
短いメッセージだった。
『元気だよ。どうしたの?』
その文字を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
涙があふれるほどの言葉ではない。
でも確かに、あの頃繋がっていた気配がそこにあった。
僕はわずかに笑い、文字を打つ。
『ごめん』
短い一言。
でも足りない。
全然足りない。
続けて打つ。
『ちゃんと向き合わなかったこと、後悔してる』
指が震える。
返信はすぐ来た。
『そうだったんだね』
『ありがとう』
その言葉は、優しかった。
想像していたよりずっと、優しかった。
8
僕は楓と再び会うことはなかった。
恋が始まることも、許しが完全に得られることもなかった。
でも――心の中に曖昧な痛みとして残り続けた後悔が、少しだけ形を変えた。
逃げていた真実と向き合ったことで、
僕はようやく、自分がどれほど不器用だったかを知れた。
愛のない告白は、誰の幸福にもならない。
寂しさを埋めるために始まった恋は、
相手の心を傷つけ、自分にも傷を残した。
けれど、あの時間がなければ、
僕は今の僕になれなかった。
そして思う。
もう二度と、
誰かの気持ちに嘘をつかないと。
楓の名前は、
連絡先から削除しなかった。
唯一の、償いとして。
夜の街を歩きながら、僕は小さく呟いた。
「ありがとう」
その声は風に溶けて、どこか遠くへ消えていった。
終わり




