第二話 間に合わない
土曜の午後は、売り場の空気が重い。
人が多いからじゃない。
言葉が多いからだ。
ハンガーが揺れて、試着室のカーテンが開いて、レジの電子音が途切れない。
香水と新品の布の匂いが混ざって、息が浅くなる。
その合間を縫って、俺は声をかける。
「ご試着いかがですか」
「この色、顔色が明るく見えます」
正解の言葉を、正解のタイミングで。
丸く終わるように。
誰も困らないように。
俺だけが、少し削れるように。
そこに、二人連れの女性が来た。
母親と、たぶん娘。
同じ香水の匂い。似た髪の色。
鏡の前で、コートの前を行ったり来たりしている。
「それ、肩がきれいに落ちます」
「丈も、今のボトムと相性いいです」
母親が笑った。
軽い笑い。会話の端を丸める笑い。
「日本語、お上手ですね」
来た。
俺は反射で笑う。
「ありがとうございます」
娘さんが目を丸くして、母親に小声で言う。
「外国の人?」
母親が、悪気なく頷く。
「そうそう。ね、すごいよね」
“すごい”は褒め言葉だ。
褒め言葉なら、俺も正解を返せる。
笑って、頷く。
その時、母親が続けた。
「日本ってすごいよね。外国人でも働けるんだ」
……言葉が、一瞬だけ遅れて刺さった。
働けるんだ。
“できる”側じゃなくて、
“許されてる”側に置かれる言い方。
悪意はない。
ほんとに、ない。
だから困る。
俺は笑わなきゃいけないのに、
笑いが間に合わなかった。
口角が、動かない。
頬の筋肉が、指示に遅れる。
ほんの一秒。
でも売り場では、その一秒が長い。
音が遠のく。
レジの電子音も、ハンガーの金属音も、薄い膜の向こうで鳴る。
娘さんがこっちを見る。
母親が、しまった顔をする。
空気が止まる。
そこで、別の声が割って入った。
「こちらのコート、今週いちばん人気なんですよ〜」
同僚だった。
明るい声。プロのテンポ。
俺の一秒を、なかったことにしてくれる声。
母親もすぐに乗る。
「ね、そうなんだ。じゃあ試着してみようか」
カーテンが閉まる。
空気が、また動き出す。
俺は、少し遅れて笑う。
正解の笑顔を、貼り直す。
「ありがとうございます」
でも、さっきの一秒は戻らない。
レジのあと、娘さんが小さく言った。
「……ごめんなさい」
母親が慌てて、娘の肩を叩く。
「ほら、そういうの言わないの」
その“そういうの”に、俺が入っている。
言葉の箱の中に、俺が片づけられる。
俺はまた丸く返す。
「大丈夫です。ありがとうございます」
正解。
無事に終わる。
閉店前、バックヤードで同僚が言った。
「さっきの、変な意味じゃないよ。悪意はないよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ冷える。
悪意はないよ。
──それは、話を終わらせる言葉だ。
俺の中で起きたことを、起きなかったことにする。
「うん、分かってる」
俺も正解を選ぶ。
同僚は安心した顔をして、在庫の箱を抱えて戻っていく。
一人になったバックヤードは、静かだった。
ハンガーの金具の音だけが残る。
鏡に映る自分の顔を見る。
さっきの一秒。
笑えなかった俺。
“感じのいい人”の仮面が、一瞬だけ剥がれた顔。
俺は思う。
悪意がない言葉に、
どうやって傷つけばいいんだろう。
傷ついたことを、
どうやって説明すればいいんだろう。
売り場に戻る。
トルソーの肩を直す。
タグの向きを揃える。
服は整えられる。
でも、心のしわは、うまく伸びない。
それでも明日になったら、俺はまた笑って言う。
「ありがとうございます」
……たぶん。
でも、もしまた同じ言葉が来たら。
今度は、間に合わせたい。
笑顔じゃなくていい。
正解じゃなくていい。
せめて、自分の言葉に。




