第四話「凶兆の一閃、残酷なる稟議は即決される」
通路の空気が、張り詰めたまま固まっていた。
刃、銃、拳。
湿った配線の匂い。
奥のフロアからは、相変わらず柔らかな音楽が漏れている。
狭い一本道の中央で、ロウガだけが重心を落とし、呼吸を乱さない。
セラはその背後で、テーザー銃のグリップを握り込み、引き金に触れた指だけが固まっている。
先頭のドス腕が、左腕の刃を懐に抱えるように沈めた。
腹を抉り裂くための、体当たりに近い低い突進だ。
「——行くぞォ!」
床を蹴る音が一つ。
刃は右脇腹を狙って、低く、まっすぐ。
ロウガは動かないように見えた。
実際は、上体だけがわずかに流れている。
刃先が空を切る。ごく僅かな体重移動。
その刹那——右前腕から肘で、刃の腹を叩くのではなく“弾く”。
硬い衝撃音。
刃の軌道が斜めに逸れ、壁の継ぎ目に噛んだ。
ドス腕は体勢を戻そうとするが、抜けない。
刃が、壁に深く深く噛み込んだ。
「チッ——!」
見かねた機械拳が、右手を大きく振りかぶった。
喧嘩パンチのストレート。肩ごと叩きつける、雑で重い一発。
ロウガは体重を右後ろへ移して、拳の軌道を外へ流す。
ストレートが空を切った瞬間、機械拳の左脚——軸足の内側に、ロウガの右足が滑り込む。
内股側から足払い、体軸が抜ける。
機械拳の身体はコントロールを失った。
崩れたところへ、ロウガの右掌が伸びる。
狙いは顔でも胴でもない。右肘の内側、曲げたときに一番弱い窪み。
掌底が肘窩に沈み、機械拳の右腕が“折れないまま止まる”。
機械拳の身体が左壁へ押し込まれ、壁材が削れて火花が散る。
衝撃は、壁と右腕がまるで一つのものだったかと錯覚させる。
右壁には、刃を噛ませたままのドス腕。
左壁には、押し付けられて固定された機械拳。
通路の中心だけが、妙に静かになる。
最後尾の拳銃腕が息を呑んだ。
「な……ッ」
恐れが目に出たまま、銃口が上がる。
狙いはロウガ——だが、その狙いは定まらない。
乾いた発砲音が連続する。
ロウガは半歩ずつ角度を変え、銃口が自分を追うたびに“壁際の二人”の方向へずらしていく。
弾はロウガの位置を捉えきれず、壁に噛んだ刃や、壁に押し付けられた拳の外装を裂いた。
「手前ェ!どこを撃っていやがる!」
撃ち尽くし、拳銃腕はポケットから弾倉を掴む。
右前腕側面のスリットへ押し込み、乱暴に装填した。
弾が途切れるその一瞬を捉える。
ロウガが右壁のドス腕の頭を踏む。
踏み台にした足が壁を蹴り、影が跳ぶ。
拳銃腕の視界からロウガが消えた。
「——ッ!?」
ハッとした顔のまま、拳銃腕は反射で引き金を引いた。
慌てた乱射が、壁と天井に散る。
天井のスプリンクラーを弾が裂き、冷たい散水が一斉に噴いた。
細かい噴射が空間に広がり、通路全体が急に白く濡れる。
散水が視界を白くした瞬間、ロウガはもう懐に入り込んでいた。
拳銃腕の襟元が引かれた。
左手で襟元を掴み、右手で腰のベルトを掴む。
軸を抜き、捻る。
拳銃腕の身体が宙を滑り、壁に縫い付けられた二人の側へ放られた。
ぶつかった衝撃で、押し付けられていた機械拳が壁から剥がれ、刃を噛ませたドス腕も体勢を崩して引きずられる。
金属と肉の塊が三つ、濡れた床へまとめて転がり落ちる。
三人が固まった場所へ、水が溜まり始める。
仰向けの拳銃腕の視界が、逆さの世界で揺れる。
その先にセラがいた。
セラと目が合う。
セラの指が、初めて迷いなく引き金を引いた。
ぱん、と乾いた音。
電極が飛び、銅線が伸び、一直線に張る。
仰向けの拳銃腕。その額に電極が噛みついた。
電流が走り、金属質の額から脊椎へ抜け、水面へも広がった。
水膜が電気を拾い、床一面へ走った。
水たまりが微細に震え、三人の身体が痙攣して揺れる。
三人は同時に硬直し、そのまま意識を失った。
ロウガは、床の濡れと電気が重なる“その一瞬”だけを避けた。
壁を蹴り、天井の配管に指を掛けて身体を宙に浮かせた。
通電が途切れたと同時に指を離し、拳銃腕の近くへ着地する。
倒れた三人を背にして、ロウガは親玉へ向けてゆっくり歩を進めた。
「……面白ぇな」
親玉が、低い声で笑った。
スーツは上等だが、隠せないものがある。
左肩から先の金属フレーム。前腕に沿って格納された刀身。
右腕は銃器そのもの。内部で弾が動く、鈍い音がする。
親玉はゆっくりと、左の刃を出し入れした。
金属が擦れる乾いた音が、通路に反響する。
右腕の内部では、銃身へと給弾する音が鳴る。
明らかな挑発。
だが目は笑っていない。
(こいつは……違う)
(正面から殺り合って勝てる相手じゃねぇ)
(なら、狙うのは——)
視線が、わずかにセラへ寄る。
狙いを読まれる前に潰す。短期決戦。
対してロウガも勝負を決めに行く。
重心が沈み、間合いを一気に詰めた。
親玉は一歩下がりながら、左の刃で薙ぐ。
横一閃。
ロウガはバックスウェイで、紙一重で外す。
刃が服の端を掠め、濡れた布が裂けるが、肌には届かない。
親玉は退ききらず、そのまま追撃に繋げる。
間合いの中で、左刃の突きを連打する。
さながらボクシングのジャブのように。
頭、胴、頭、胴と打ち分ける。
ロウガは上体を振り、肩を落とし、頭の位置だけをずらして全部外す。
足は止めない。少しずつ、少しずつ、間合いを詰める。
親玉の視線が、わずかに右へ逸れた。
右の銃腕が腹元で動く。
既に射撃体制に入った銃砲。
ロウガは一拍早く、左膝を腹に引き付けるように上げ、そのまま左足で銃腕を蹴り伏せた。
銃口が逸れ、床へ弾が叩き込まれる。
跳ね、壁へ刺さり、火花が散る。
親玉はよろめきながらも、体勢を戻す。
距離が開いた。
親玉は、その距離の“向こう”を見た。
親玉は左腕で右腕を支え、銃腕を構える。
狙いはセラの頭だ。
ロウガの重心がさらに沈み、瞬時に詰める。
発砲寸前の一瞬、ロウガの拳が銃腕へ突き上がった。
銃口が天井へ跳ね上がり、弾が暴れるように撃ち出される。
天井から壁へ跳弾し、散水と混ざった水煙の中に火花が走る。
薬莢が濡れた床を跳ね回る。
水と煙と火花で、通路が白く霞む。
一瞬、全員の視界が乱れる。
だが親玉は、その霞みの中でロウガを捉え、左刃を伸ばす。
喉元への刺突、必殺の軌道。
ロウガはその左腕を取った。
手首ではない。腕の中心、力の通りを完璧に捕捉した動き。
軸を抜き、背中を落とし、捻る。
親玉の身体が壁へ叩きつけられる。
通路に、大太鼓のような一音が落ちた。配管が、その余韻で小さく共振する。
親玉は通路の壁に横たわるように倒れ込んだ。
左腕は捩れ、刃が不自然な角度で止まり、右の銃腕は拉げている。
それでも、親玉の目は生きていた。
「……ッ、は……はは……」
親玉が息を吐く。
笑い声に近いが、どこか乾いている。
ロウガは間合いを開けることはない。
一撃で届く場所に立ったまま、視線だけで親玉の動きを封じる。
背後で、セラが動いた。
倒れて気絶した手下のそばへ寄り、壁に噛ませたドスの根元へ左義手をねじ込む。
楔のように押し入れ、回し、抉じる。
義手の外装が潰れ、内部の部品が噛み合って悲鳴のような擦過音を立てた。
ぐしゃぐしゃに潰れて形が崩れていく。
それでもセラは止めない。
息遣いが変わる。外れないなら壊してでも剥ぎ取る、というリズムに。
知識が先に動いて、感情が後から追いついた。
セラは刃を握り、親玉へ向き直った。
親玉はセラを見て笑う。
「人間モドキの売りモン野郎が……」
口の端が歪む。
「お前らみてぇなのはな、嬲られて、壊されて、捨てられてお終いだ」
「それが“役目”だろうが」
セラの刃先が微細に揺れる。
揺れの理由を、セラ自身が説明できない。
怒りと恐怖と、あの店の匂いの記憶が、いっぺんに押し寄せている。
親玉は、その揺れを嗅ぎ取ったように続ける。
「殺しってのはな、勝ちてぇ奴がやるんじゃねぇ」
「負けたら終わりの世界で、勝ち続けた奴がやるんだよ」
声が低くなる。
「お前に、できるか?」
「できねぇだろ」
「その顔が答えだ」
セラは刃を振り上げたまま、慎重に歩を進める。
身体は強張り、心は混沌。
刃は在る。だが、振り下ろし方は決まらない。
親玉の喉が鳴る。
笑いを飲み込むみたいに。
(来いっ…)
(確実な距離まで、近づけ)
(最期に、連れてける)
親玉の奥歯の裏に、硬い感触がある。
噛み潰して作動する最期の悪足掻き。
歪んだ銃腕の内部に残った弾薬が、暴発するように——そう仕組んである。
セラが刃を、ほんの少しだけ近づけた。
その瞬間だった。
親玉の内側の“決裁”が落ちる。
奥歯に力が入る。
次の瞬間、親玉の頭部が“欠けた”。
上から何かを奪い取られたみたいに、輪郭が一瞬で崩れる。
血飛沫と冷却液が噴き、火花が混じって濡れた床へ散った。
親玉の言葉が途切れた。
機械仕掛けの奥歯は、噛み合わさる先を失った。
遅れて、ロウガの足が戻る。
神速なる回し蹴り。
胴への回しとローキックの中間の軌道で、低く、鋭く、正確に。
狙いは顎の継ぎ目——硬い関節の隙間だけを打ち抜く角度。
ロウガは親玉の目が完全に止まったのを見て、わずかに肩の力を抜いた。
殺すつもりで来たわけじゃない。
けれど、残しておけば——。
セラは刃を握ったまま動けなかった。
振り下ろしていない。
振り下ろせなかった。
刃先の震えが止まらない。
震えは“手”ではなく、刃と腕を繋ぐ関節のどこかで起きている。
口から声が出ない。
脳が、言葉を組み立てられない。
遠くのフロアでは、音楽がまだ鳴っていた。
誰も止めない。誰も気づかない。
受付もスタッフも、通例通り稼働している。
この通路だけが別世界だ。
血と火花と、金属の匂い。
甘い香料は、もうどこにもない。
代わりに、肉と混ざった冷却液の匂いが鼻の奥に居座る。
セラの視界に、親玉の“終わり”が残る。
勧善懲悪だと信じたかったものが、命の取り合いとして即座に決裁される現実が残る。
膝が折れそうになるものの、ぎりぎりで踏みとどまった。
立っているのか、立たされているのか、区別がつかない。
ロウガは何も言わなかった。
ただ、通路の先——目的の場所へ、視線だけを向ける。
そして、セラの中だけで、何かが静かに崩れ続けていた。




