第三話「秘艶の魔境に潜むは、売物の躯と鋼のヤクザ共!」
店の前に立つと、ヤサ場の空気が一枚、薄い膜で仕切られたように変わった。
曇りガラス。
控えめな看板。
扉の隙間から漏れるのは、ネオンではなく柔らかな間接照明の光だ。
外から見れば、ここはただの高級サロンだ。
表札のプレートには、崩した英字で店名が刻まれている。
ヤサ場では掃き溜めのように増殖した『リラクゼーションサロン』のひとつにすぎない。
「……ここ」
セラが言った。
声は平坦だが、語尾だけがわずかに硬い。
「アタシが働かされてた店。
捨てられるまではね」
ロウガは短く頷くだけだった。
「やめるなら、今」
セラは冗談めかして笑おうとしたが、ロウガはじっとセラの瞳を見るだけだった。
セラは短く息を吐き、扉を押した。
中は静かだった。
厚いカーペット。
深く沈むソファ。
甘い香料とアルコールの匂いが、空調に混ざって漂っている。
壁一面に、大型の電子パネル。
そこには、輪郭だけの身体のシルエットがいくつも並び、
体型、肌色、髪の長さ、雰囲気——そんな項目が、淡々と切り替わっていた。
どこにも露骨な映像はない。
それでも、ここが何の店かは一目で分かる。
「いらっしゃいませ」
受付カウンターの内側から、サロン仕様のホステス型サイボーグが滑るように出てきた。
完璧な笑顔。
よく調整された声。
「ご予約は——」
「ねえ、その前にトイレ行かせて。場所どこ?」
セラが自然な調子で割り込む。
ホステスは一瞬だけ瞬きをし、すぐに笑顔を整えた。
「はい。
奥の廊下をまっすぐ進んで右手でございます」
「ありがと。すぐ戻るから」
軽く手を振り、セラは歩き出した。
ロウガが半歩遅れてついていく。
二人は客用フロアを抜け、裏手の廊下に入った。
カーペットはここで途切れ、代わりに硬い床材に変わる。
壁には配線が這い、照明は簡素なラインライト。
客の目に入らない場所は、どこの店でも似たようなものだ。
廊下の途中、清掃用具のマークがついた扉がある。
セラは迷わずそこに手を伸ばした。
狭いロッカー室。
モップ、洗剤、清掃ロボのバッテリー。
その奥の棚に、小さなロック付きボックスがある。
セラは仮義手の指先を差し込み、ロックのパネルをなぞった。
内部構造を確かめ、探るような動き。
小さな音がして、蓋が開く。
「……あった」
中には、小型のテーザー銃がひとつ。
サイボーグを一時的に停止させるための簡易兵装。
警備用、トラブル処理用、備品扱い。
セラはそれを掴んだ。
掌側の人工皮膚と、グリップの列点がかみ合う。
指先の制御が、少しだけ乱れる。
「……」
ひと呼吸分、黙る。
その沈黙を、自分で切った。
「ロウガ…」
背中に声を投げる。
「アタシ、こんなの他人に使ったことないんだけどさ。
何も持ってないよりは、マシだよね」
ロウガが視線だけ向ける。
「使えるのか」
「さあ?
撃ち方くらいは、見て覚えたけど」
セラは苦笑気味に肩をすくめ、テーザーを左手に持ち替えた。
右の仮義手で、そっと扉を閉める。
トイレの前を素通りし、その奥にある従業員用のドアへ向かった。
通路のカメラはあるが、今は誰も見ていない。
見ていたとしても、すぐに追いつける距離ではない。
従業員用通路は、客用フロアより少し暗く、狭かった。
パイプとケーブルがむき出しで走り、床にはキャスターの跡が幾筋も刻まれている。
セラは迷わない。
身体が勝手に、正しい方向を選ぶ。
——ほんとは、二度と歩きたくなかった。
そんな感覚が、思考ユニットの底で小さく渦を巻いていた。
突き当たりの扉に、簡易ロックがついている。
セラは仮義手でそれを外し、そっと押し開けた。
中は、狭い休憩室だった。
簡素なベンチ。
壁際の充電端子。
床には雑誌と、壊れた外装パーツが散らばっている。
ベンチにもたれかかるように座っているのは、違法セクサロイドたちだった。
脚の一部が欠損している者。
皮膚パーツが剥がれ、合成筋肉がむき出しになっている者。
視線だけはわずかに動き、音に反応している。
セラは、その光景を見て、しばらく動けなかった。
見慣れている。
知っている。
自分もこの中の一つだった。
「……ちょっと、いい?」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど平板だった。
視線が、一つ、二つ、こちらを向く。
表情は動かない。
動かし方を忘れてしまった顔。
「今から、この部屋のロック外す。
ここから出るかどうかは、アンタらが決めて」
それだけ言って、セラは扉脇の制御パネルに手を伸ばした。
指先が淡く光り、ロックコードを読み取る。
カチリ、と小さな音がした。
休憩室と通路を隔てていたロックが解除される。
最初に立ち上がったのは、一番隅に座っていたセクサロイドだった。
ぎこちない動き。
それでも、足を前へ出す。
それに釣られるように、二人目、三人目が続く。
中には、座ったまま動かない者もいた。
セラは誰にも何も言わなかった。
ただ、そこに道ができるように、少しだけ身を引いた。
「行く奴は行けばいいし、ここに残るなら、それもアリ」
ロウガは、休憩室の入り口に立ったまま、それを見ていた。
表情は変わらない。
通路に出た足音が、少しずつ増える。
ぎこちない歩調が、奥へ向かって散っていく。
その音が薄れていく頃、天井のスピーカーから声が流れ始めた。
『バックヤード、確認。
誰か清掃担当見てこい』
『さっきの個室、応答がないぞ』
まだ、フロアは騒ぎになっていない。
だが、時間は長くない。
「……行こ」
セラが言う。
ロウガが頷く。
パーツ倉庫へ続く通路に足を踏み入れた瞬間、向こう側から別の足音が聞こえた。
さっきの休憩室の足音とは違う。
重く、一定で、床板に金属が触れる音を含んでいる。
角を曲がった先に、三つの影が現れた。
一人目。
左の前腕全体が、黒い金属の塊に置き換わっている。
手首はなく、代わりにドスの切先が光る。
腕をわずかにひねると、音もなく刃が伸びる。
二人目。
右腕が不自然に膨らみ、関節付近に排煙孔のような孔が並ぶ。
前腕側面にはスリットが並び、先端には短い銃口が内蔵されていた。
右腕全体が、粗雑な銃身だ。
三人目。
両手の甲に分厚い金属の殻。
五指の節も強化され、拳全体が鋼鉄の塊。
握りしめるたびに、細かいジョイントがきしむ。
三人とも、安物のスーツを着ていた。
ネクタイは緩み、シャツの襟元には金属質のアクセサリー。
だが、立ち位置と間合いの取り方に、裏稼業の染み込みがあった。
「おいおい」
ドス腕の男が、口元を歪めた。
「通路にまで客が舞い込んでくるとは、有名店になっちまったなァ…」
拳銃腕の男が、セラの手元を見やる。
テーザーを確認し、小さく笑う。
「しかも、備品まで手ェつけてやがる。
しつけがなってねェ!」
セラの指先が、わずかに強張った。
テーザーの銃口がほんの少しだけぶれる。
機械拳の男が、肩を回しながらロウガを見た。
「兄ちゃん。
ここ、従業員区画なんだわァ。
一歩奥に行ったら、もう戻れなくなっちまうぞォ。」
ロウガは一歩前に出た。
通路の幅と、自分と三人の距離、背後のスペース。
それらを一度だけ測り、重心を静かに下ろす。
そこに、別の足音が混ざった。
「——騒がしいな」
奥から、別の声がした。
三人が、わずかに姿勢を正す。
通路の影を割るように、ひとりの男が現れた。
スーツはさっきの三人より明らかに上等だ。
だが目につくのは、その布地ではない。
左肩から先は、むき出しの金属フレームだった。
前腕に沿うように、長い刀身が格納されている。
男が軽く手を握ると、刃がレールを滑るように飛び出し、指先の位置まで伸びた。
右腕は、全体が銃器そのものだった。
前腕部にスリットが並び、先端に複数の銃口。
上腕側面に嵌め込まれた弾倉から、細いラインが前腕へ繋がっている。
顔つきは、驚くほど静かだった。
怒りも愉快もない。
ただ、力で金の流れだけを管理してきた者の顔。
セラは、その姿を見た瞬間、自分の内部信号の一部が少しだけ遅れた気がした。
殴られた記憶。
踏まれた記憶。
無表情でこちらを見下ろす視線。
テーザーを握る手に、細かい振動が走る。
セラは意識的に腕を固め、無理やり押さえ込んだ。
男は、セラを一瞥しただけで、すぐにロウガの方に視線を移した。
「裏に客が入り込んでるって話だったが」
男は言った。
「威勢いいワリには…ほとんど丸腰だな」
男にとって、セラのテーザーは「酔客のおもちゃ」と言わんばかりの態度だ。
称賛でも嘲笑でもない。
ただの事実確認のような声。
ドス腕の男が、せせり笑う。
「親父ィ!こいつら——」
「黙ってろ」
男はそれだけ言い、手下たちの前に出た。
親玉のその一言で、三人の間合いが変わる。
左右から挟み込み、正面から圧をかける配置。
「侵入者の処理は、お前らの仕事だ。
無駄グチ叩くのは、片付けてからにしな。」
機械拳の男が、肩を鳴らす。
拳銃腕の男が、前腕を小さく振り、内部の機構を起動させる。
ドス腕の男が、一歩前へ出る。
通路の先が、塞がれた。
セラは、息を整える代わりに、言葉を吐いた。
「ねえロウガ。今なら、まだ“ごめんなさい迷子でした”で誤魔化せると思う?」
「……さあな、試してみるか?」
ロウガは振り向かない。
その背中越しに、低い声だけが返る。
「踵を返すか、奴らと戦うのか、お前が決めろ」
「はぁ?ここで逃げたら、
きっと一生ムカムカする」
テーザーの銃口を、ほんの少しだけ上げる。
手の震えは止まってはいない。
親玉の男が、そこでようやく表情をわずかに動かした。
笑いとも怒りともつかない線が、口元に浮かぶ。
ロウガは、もう一度だけ足の幅を調整した。
「セラ」
名前を呼ばれ、セラは短く返事をする。
「なに」
「そこから動くな」
「……うん」
テーザーのトリガーにかけた指に、ほんの少しだけ力がこもる。
ドス腕の男が一歩前に出た。
その刃が、照明の光を細く反射する。
拳銃腕の男は、横へずれる。
機械拳の男が、構えながらじりじりと間合いを詰める。
親玉の男は、一歩だけ後ろに下がった。
攻撃姿勢ではない。
“俯瞰”の位置だ。
通路内の空気は、ぴんと張りつめる。
ドスの刃が細く光を返す。
拳銃の銃口が角度を探り、機械拳がわずかに揺れる。
ロウガは足幅を決め、セラはテーザーのトリガーを握り込んだ。




