第二話「貧民街に沈む灯は、まだ名を持たず!」
ネオジャパンの首都、ネオトーキョーの外れには、地図上では番号でしか扱われない区画がある。
行政の帳簿には整然とした文字で番号が並ぶが、ここで暮らす者たちはそんな呼び方をしない。
誰もがただ、この一帯を「ヤサ場」とだけ呼んだ。
照明は切れかけ、舗装は剥がれ、雨水と冷却液と油が排水溝から逆流している。
空を見上げれば、高架レーンと広告塔が層を成し、太陽の光はそのどこにも届かない。
ここにあるのは、都市からこぼれ落ちた人間と、用済みになった機械だけだった。
そのヤサ場の一角、鉄骨の隙間を無理やり均しただけの空き地で、男がひとり身体を動かしていた。
裸足。
古びたジャージに、薄汚れた黒いパーカー。
外装パーツも補助フレームもない。
男は黙って立ち、息をひとつ吐いた。
次の瞬間、拳がまっすぐに伸びる。
腰が切れ、肩が収まり、足裏が地面をしっかり掴む。
力は無駄なく流れ、動きに淀みがない。
突き、引き、捌き、踏み込み。
同じ動作を何度も何度も繰り返す。
周囲の建物では、古い空調ファンが軋み、サイボーグたちの駆動音が絶え間なく鳴っていた。
その中で、男の動きだけが静かだった。
機械特有の規則的な音はしない。
排熱も発光もない。
ただ、生身の肉が空気を押し、骨がきしむ音だけが、淡く積み重なっていく。
汗が顎から落ち、湿った地面に染みていく。
男はそれも拭わず、一定のリズムで動きを続けた。
どれだけ鍛えても、この区画の景色が変わるわけではない。
仕事が増えるわけでも、生活が楽になるわけでもない。
それでも男は、毎日この時間にここに立ち、同じ動きを繰り返していた。
やがて、動きがぴたりと止まる。
男は短く息を整え、壁際に置いてあった古びたリュックを肩に掛けた。
今日やるべきことは決まっている。
廃材を拾い、ロクロウの店に持ち込む。
代わりに、最低限の食い物を受け取る。
それだけだ。
ヤサ場の裏通りは、朝と夜とでほとんど変化がない。
昼間はすこしだけ人が増えるが、誰も他人を見ない。
誰が倒れていようと、誰が消えようと、足を止める者はいない。
男もまた、その一人だった。
高架下の影を縫うように歩き、廃棄コンテナの裏に目を走らせる。
外れた腕。
焦げた外骨格。
規格落ちした補助フレーム。
使えそうな金属と基盤を、手慣れた仕草で選り分けていく。
金属片がリュックの中で鈍くぶつかり合う。
それが、今日の食事に変わる。
しばらく歩くと、錆びついたシャッターの前にたどり着いた。
色褪せた看板には、かつてのロゴがかろうじて残っている。
〈ROKUROU WORKS〉
男はおもむろにシャッターを叩いた。
内側からロック機構が外れる音、続いて重い金属音。
少しだけ隙間が開き、皺だらけの顔が覗く。
「……おう。今日も、“ゴミ拾い”の時間か」
ロクロウ・タツミ。
本人はロックと呼ばれたがる男。
白髪。
右腕は旧式のサイボーグ義手。
左眼は古ぼけた赤いレンズの望遠式義眼。
だが、その眼光は鈍っていない。
男は無言でリュックを持ち上げ、中身を見せた。
「どれどれ……ほう。今日はマシだな」
ロクロウは指先で金属片をつまみ上げ、品定めをする。
基盤の世代。
合金の質。
溶かして使えるかどうか。
ぶつぶつと小さく文句を言いながらも、作業は早い。
「……よし。これだけあれば、缶詰二つ分は出せる」
店の奥から、保存食の缶詰が二つ転がってきた。
男は黙って受け取り、ひとつだけポケットに押し込み、残りをリュックにしまう。
「なあ」
ロクロウがふと、男の肩を見た。
「その身体で、まだやるつもりか」
男は答えない。
ロクロウも、それ以上は何も言わなかった。
このやり取りも、もう何度繰り返したか分からない。
「……まあいい。ロックの仕事がある限り、お前の腹も、たぶんどうにかなる」
シャッターが閉まる。
金属の音が、短く響いた。
男は缶詰の重さを確かめるように一度握り、また裏通りへ出た。
ヤサ場の路地は、どこを歩いても似たような景色だ。
ただ、臭いの配合が少しずつ違う。
油が強い場所。
血の乾いた匂いが残る場所。
冷却液の甘い匂いが立ち込める場所。
男が足を止めたのは、そのうちのひとつだった。
奥まった細い路地。
水溜まりには光学広告の色がぼんやり映り込み、その中に金属の塊が沈んでいる。
最初は、よくある廃棄パーツの山だと思った。
だが、その中央に、
人の形に近いものがあった。
上半身の輪郭は、まだかろうじて残っている。
左腕は肘のあたりで断たれ、断面から焦げた繊維と配線が露出していた。
右腕はない。
脚もない。
胸部は無理やり開かれ、思考ユニットが半ば剥き出しになっている。
髪を模したパーツは泥と油で固まり、色も分からない。
顔の表面にはひびが入り、光学レンズは片方が割れていた。
違法セクサロイド。
使い潰され、捨てられた残骸。
ヤサ場では、珍しい光景ではない。
男は一度、その前を通り過ぎた。
足音は変わらず一定のまま。
何かを助けようという意志も、見捨てようという意図も感じさせない歩き方。
路地の出口に差し掛かったとき。
「……た……す……」
かすれた音が背中に届いた。
言葉になっているのかも怪しい、微かなノイズ。
だが、その響きだけは、機械の定型音ではなかった。
男は、ゆっくりと振り返った。
さっきまでただの廃材の一部にしか見えなかった顔が、ほんの少しだけ動いていた。
割れたレンズの奥、淡く光が明滅する。
その瞬間。
男の中で、遠い記憶の断片が揺れた。
黒い髪。
静かな笑み。
よく通る声。
それを、男はすぐに振り払った。
過去を具体的な像として掴む前に、意識の底へ押し込む。
残っていたのは、ひとつだけだ。
――このままここに放置されれば、
この“何か”は、完全に壊れる。
男はため息も吐かず、泥水を踏んで戻った。
躊躇は一度きり。
二度目には、その姿を抱き上げていた。
軽い。
人間の身体とは違う、部品の重さ。
支え方を誤れば配線が千切れそうな、かろうじての重量。
男は思考ユニットの周囲だけを慎重に支え、肩に乗せ直した。
誰も見ていない。
誰も止めない。
誰も声をかけない。
ヤサ場では、それが普通だった。
ROKUROU WORKSのシャッターを、男は再び叩いた。
「……もう今日は閉めたぞ。ロックは老体なんだよ」
ぼやき声とともにシャッターが上がりかけ、
その向こうにいる“荷物”が見えた瞬間、ロクロウの顔色が変わる。
「おいおいおい……冗談だろうが」
ロクロウの視線が、露出した思考ユニットと、欠損した手足を舐めるように追った。
眉間に深い皺が寄る。
「違法セクサロイドだ。
それも、裏でも相当悪名高い系列のやつだぞ。
お前、どこからこんなもん拾ってきやがった」
男は答えない。
代わりに、ただ一歩前に出た。
「……頼む」
その一言に、ロクロウの表情がわずかに揺れた。
この男が、自分から何かを頼むことはほとんどない。
毎日廃材を運び込み、最低限の食料を受け取り、無言で帰る。
それだけの付き合いが、もうどれくらい続いているか分からない。
その男が、今、たった一言だけ口にした。
「……ったくよ」
ロクロウは頭を掻きむしった。
義手の関節が小さく鳴る。
「ロックはな、こう見えてここまで“関わっちゃいけないモン”を避けて生きてきたから長生きしてんだ。
それをだな……」
文句を言いながらも、ロクロウの手は動いていた。
店先に古びた簡易ベッドを引き出し、男に視線で合図する。
「そこに置け。思考ユニットを下にするな。
今外されたら、さすがにロックでもどうにもならん」
男は無言で従い、慎重に少女の身体を横たえた。
ロクロウは工具箱を引き寄せ、義手の関節をわずかに調整した。
その動きは、老いを感じさせるどころか、研ぎ澄まされていた。
露出した思考ユニットの縁に、保護用の簡易シェルをかぶせる。
ジャンクの山から規格の合いそうなケースを探し、
削り、削り、面を調整し、かろうじて収まる形にしていく。
使えそうな繊維筋肉を引き出し、焦げた部分を切り落としながら繋ぎ直す。
古い義手の基部を分解し、肘まで残った左腕に仮接続する。
脚部には、かつて軍用サイボーグに使われていた補助フレームの残骸を流用した。
どれも新品にはほど遠い。
色も、質感も、規格もバラバラ。
だが、ロクロウの手の中で、それらは少しずつ“ひとつの身体”に近づいていった。
義手の指が仮固定され、脚部フレームがベッドの下で固定されるころには、
さっきまでガラクタの山にしか見えなかったものが、
たしかに“ロボット”の姿を帯び始めていた。
ロクロウの額に汗が浮かぶ。
義眼が一度だけ瞬きをした。
「……こんなところだな。
大盤振る舞いだ。なかなかの大手術だったぜ。」
ロクロウが電源ラインを仮接続し、起動信号を流す。
数秒の沈黙。
やがて、胸部のユニットが淡く点滅し始めた。
損傷した光学レンズに、薄紫の光が宿る。
少女の胸が、わずかに上下した。
肺呼吸の真似事をする機構が再起動したのだ。
開いたまま固まっていた口元が、わずかに震える。
「…………ん」
かすかな声。
光学レンズの焦点が合い始め、天井と、薄暗い工房と、
自分の身体を見下ろす老人の顔を認識していく。
「……ここ……」
掠れた声で、少女は言った。
「……天国……?」
「天国にこんな油臭いジジイがいるかよ」
ロクロウは即座に切り捨てた。
少女は一瞬ぽかんとした顔になり、
すぐに自分の身体の方に視線を落とした。
左腕には、塗装の剥げた古い義手。
右側には何もない。
両脚の代わりに、細いフレームがベッドに固定されている。
胸部には、仮組みしたケースが無理やりはめ込まれていた。
「……ちょっと待って」
少女の声のトーンが変わる。
「え、なにこれ。なになになになに?!
ねえ!センス、どうなってるの?」
ロクロウの眉がぴくりと動いた。
「命拾いした初手が文句とはいい度胸だな、お嬢さん」
「いや、命はマジで感謝してる。してるけどさ。
これはない。これはひどい。
この腕、いつの時代のモデルよ。教科書でしか見たことないんだけど?」
少女は自分の左義手を持ち上げようとして、関節の重さに顔を歪めた。
「おまけにこの脚フレーム、補助フレームの残骸じゃない。
街中コレで歩いたら、一発で変な目で見られるやつだよ。
というか、これで生きてけって言うの?」
「動くだけマシだろうが」
ロクロウは工具を片付けながら言った。
「ロックはな、廃材の山からそこそこマシなもんを引っ張り出して、
最低限“生き延びられる形”にはしてやった。
見た目まで注文つけるなら、別料金だ」
「はいはいはいはい、ロックじいは仕事が早くて助かりました〜。本当に〜。
でもね、これじゃ、"女の子"の身体じゃないの!」
少女は不満げに口を尖らせたが、その瞳にはちゃんと感謝の色があった。
そのやりとりを、男は黙って見ていた。
ロクロウがふと男の方を振り返る。
「……で、お前。
この喋るガラクタを、これからどうするつもりだ」
少女が、そこで初めて男の顔を正面から見た。
濁った照明の中で、感情の読めない表情。
筋肉は無駄に膨らんでおらず、外装もない。
だが、さっき自分を抱えて歩いた腕の硬さを、少女は覚えていた。
「……助けてくれて、ありがと」
少女は、ほんの少しだけ表情を和らげた。
男は、短く頷いた。
「で、お嬢ちゃん、名前は?」
ロクロウが、少女に向き直る。
「聞いといた方がいいだろ。
ロックの店で転がしておくにも、呼び名がいる」
「名前かぁ…」
少女は一息ついてから、少し面倒そうに笑った。
「長いよ?」
「ロックも長いのは嫌いだが、まあ聞いてやる」
「……ヴァレンシュタイン・セラフィーナ。
父と母が、そう届け出たはず」
ロクロウは一瞬、目を細めた。
「……ヴァレンシュタイン?」
「そう。
たぶん、あちこちの技術者界隈では名前だけは知られてると思う。
でも長いでしょ? だから“セラ”でいいよ」
少女――セラは、あっさりとそう言った。
「ロクロウはロックでしょ。
だったら、あたしもそれくらいでちょうどいいじゃない」
「ロックを真似るとは30年早いわ!」
ロクロウはぶつぶつ言いながらも、どこか納得したように肩をすくめた。
「……で、お前は?」
今度はロクロウの視線が、男に向く。
しばらく沈黙が流れた。
男は、名乗ることに意味があるのかを一瞬だけ考えた。
ヤサ場で名前を使う場面など、ほとんどなかったからだ。
それでも、何かがわずかに変わった気がした。
セラという少女が、ここにいること。
ロクロウが、それを生かしたこと。
その場の空気に押される形で、男は口を開いた。
「……カガリ」
短く、男の姓が落ちる。
「カガリ?」
ロクロウが復唱した。
セラも興味深そうに首を傾げる。
「カガリ…ロウガ・カガリだ」
男は続けた。
「ロウガでいい」
セラが、一拍置いて笑った。
「ロウガね。
名前まで、強そうじゃん」
ロクロウは、ふっと鼻を鳴らした。
「やっと名乗ったか。
ロックの店に出入りしてるくせに、ずっと“お前”呼ばわりさせやがって」
ロウガは何も返さなかった。
それを否定する理由もない。
セラが、自分の左義手を持ち上げ、もう一度眺める。
「……ねえ、ロックじい」
「なんだ」
「このダッッッセーの、全部付け替えたい」
セラは真顔で言った。
「動きは申し分ないくらい万全だけど、この見た目じゃハズくてまともに歩けない。
この区画以外で歩いてたら、笑われるか引かれるか、ヘタしたらソーシャルネットで有名人よ。
そんなの、まっぴら」
「ロックにこれ以上タダ働きしろってのか」
「違うよ。
パーツがあれば、設計と調整くらい自分でやる。
でも、そのパーツを拾いにいく手段がないの。
だ・か・ら――」
セラの狡猾めいた視線が、ロウガへ向いた。
「ロウガ〜。
アタシに似合〜う部品がありそうな場所、ひと〜つ心当たりがあるんだケド〜」
「……」
「そこまで連れてって♡
ついでに、ちょっとだけ暴れて♡」
ロクロウが露骨に顔をしかめた。
「おい待て。
お前が言ってる“場所”ってのは、まさか――」
セラは視線を外さなかった。
「うん。
あたしがここに投げ捨てられる前に、働かされてた店。
セクサロイドの運営店。
客の好みに合わせた換装義体が、山ほどストックされてる場所」
工房の空気が、少しだけ重くなった。
ロクロウは義眼を細め、机を指先で軽く叩いた。
「……あそこは、ヤサ場でも一番面倒な連中の縄張りだぞ。
ヤクザ崩れのチンピラサイボーグの溜まり場だ。
ロックは関わりたくねぇ」
「ロックじいはここで待ってていいよ」
セラはあっさりと言い切った。
「ロウガがいる。
さっき、あの状態でアタシを運んでくれた腕、覚えてるから。
それに――」
セラは一度、息を吸った。
その目の奥に、一瞬だけ暗いものが浮かぶ。
「どうせあそこは、あたしを何度も“壊した場所”だから」
ロウガはセラの横顔を見た。
笑っているようにも見えたし、笑っていないようにも見えた。
「……どうすんだ?」
ロクロウがロウガの方を見た。
ロウガは少しだけ視線を落とし、それから静かに答えた。
「乗り掛かった船だ。やろう。」
返事を聞くや狂喜乱舞するセラ。かたや、ロクロウは大きく肩を落とした。
「はぁ……。
ロックは長生きするつもりだったんだがな」
そう言いながらも、ロクロウは工具の位置を整え始めていた。
帰ってくる場所を、自然と片付けている。
ヤサ場の路地に出ると、空気はさらに冷たく感じた。
ネオンの光が下水に映り、虹色の筋が揺れている。
セラは工房の前で一度足を止め、仮の脚フレームにそっと荷重をかけた。
「……よし、と」
ぎこちないながらも、一歩。
フレームの関節が小さく鳴り、重心が前に移る。
もう一歩。
今度は左義手で壁を押さえ、バランスを取る。
「ふふん。ほら、ちゃんと動くじゃん。
……ダサいけど」
最後の一言だけ、やけに力がこもる。
「見た目は後だろう」
隣で歩き出したロウガが、短く言う。
「ロックじいの腕が良いのは分かってるの。
でもさあ……アタシ、こう見えて結構オシャレ命なんだよね?」
セラは片膝を持ち上げ、フレームの形状をじろじろ眺めた。
「この脚、形からして“重機”じゃん。
色も質感もバラバラ。
“生き延びるだけ”って感じが滲み出てる」
「間違ってない」
「間違ってないけどイヤなの!」
そう言って、もう一歩。
今度はフレームが段差に引っかかり、身体が前に泳ぐ。
「わっ——」
ロウガが肩を押さえ、姿勢を立て直した。
「……ダサい以前の問題だな」
「今コケそうになったのは、この段差の設計と、この脚の相性が悪いだけ。
ロウガのフォローは、まあ、ギリ合格」
口ではそう言いながら、セラの義手の指先はロウガの袖をしっかり掴んで離さなかった。
路地を抜けるにつれ、空気の密度が変わっていく。
人の声が増え、機械の音が増え、視線の温度が変わる。
中古義体を吊るした屋台。
違法改造を謳うネオン。
何かを売っているのかも分からない店。
誰もが自分のテリトリーから半歩も出ないような顔で、通り過ぎていく二人を、ただ一瞥する。
セラのちぐはぐな義手と脚フレームは、十分すぎるほど目立っていた。
「ねえロウガ。
やっぱり見た目って、大事だと思わない?」
「生きる方が先だ」
「生きるついでにカッコよくいたいの。
アタシはロボでもサイボーグでもない、“女の子”だからね」
そう言って笑うセラの横顔には、泥と油の跡がまだうっすら残っていた。
「店はどこだ」
ロウガが問う。
「もう少し先。
この通りを抜けて、右に曲がって……」
セラは記憶の中の地図をなぞるように、短く案内する。
曲がり角を過ぎると、急に光量が増えた。
ネオンが密集し、色彩が飽和している一角がある。
その中心に、それはあった。
派手なホログラム看板。
薄着のシルエットが踊り、意味のない英語と数字が流れていく。
入口付近には、酔った客と、それをあしらうサイボーグ従業員らしき影。
色だけはけばけばしく、どこか寒々しい光景。
セラが、そこで足を止めた。
「ここ」
声が乾いていた。
「ここが、アタシが“使われてた”店」
看板に映る女のシルエットは、どれも作りもので、温度がない。
セラはそれを一瞥し、すぐに入口の扉へ視線を移した。
「中にはね、客の好みに合わせるための換装義体が山ほどある。
サイズ違い、色違い、機能違い。
“誰かの理想”を貼り付けるための、予備の身体」
ロウガは黙って聞いていた。
「アタシは、その中のひとつだったわけ。
付け替えられて、試されて、壊されて。
気に入られなければ、また付け替え」
言葉は淡々としているのに、義手の指先には力がこもっていた。
フレームが軋む。
「だから、ロックじいのパーツは嫌いだけど、すっごくありがたいの。
“生きるためだけの身体”って、案外まともじゃん」
セラは自嘲気味に笑い、それから肩を竦めた。
「でも――」
視線が、扉の向こうに向き直る。
「ここから、アタシの“ちゃんと生きるための身体”を貰う。
ついでに、今までの分、ちょっとだけ返す」
「ちょっと、で済むか?」
「さあ? それはロウガ次第」
セラはロウガの袖を軽く引いた。
「ねえロウガ。
アタシ、あんたのこと何も知らないけど……」
そこでいったん口を閉じ、
ほんの数秒だけ、言葉を選ぶように沈黙した。
「“助けてくれた人”に、ちゃんとケジメくらいは返したいの」
顔つきは普段の軽さを保ったまま。
けれど、その奥にある感情だけは、嘘ではなかった。
「ここまで連れてきてもらったんだし、
見た目も動きも最低限まともにしたら――
アタシ、やることあるから。
その前に、あんたにも“返すモン”は返すよ」
ロウガはわずかに眉を動かした。
問いでも拒絶でもなく、ただ受け止める反応。
「……そうか」
「そうよ。
別に深い意味はないけど、助けてくれた相手ぐらい、無視できないでしょ?
アタシだってさ」
セラは右の視線で店の扉を見据えた。
「まずは――ここでアタシが奪われた“身体”を取り返す。
それだけ」
言いながらも、その声にはかすかな震えがあった。
恐怖ではない。
怒りとも違う。
“過去に触れる前の息継ぎ”のような震え。
「ロウガ。
あんたが一緒に来てくれたってだけで十分だから。
それ以上を求める気はないよ」
セラはロウガの袖から指を離した。
「……行こ」
扉の前に立つその姿は、
古い義手とガタつく脚フレームのせいでひどく不格好だったが、
確かな意思だけは、装備の質に左右されない。
ロウガは短く頷いた。
「……わかった」
ただそれだけ。
だが、その返事で十分だった。
セラは小さく笑い、
ネオン灯りに照らされる扉を指でつつく。
「この先はアタシの“昔”が詰まってるからね。
たぶん面倒だよ?」
「慣れてる」
「そ。なら問題ないね」
セラは前を向いた。
ロウガもそれに続き、扉へと手を伸ばす。
油の臭いと酒の蒸気が絡み合う場所。
金属音と嬌声が乱反射する闇の奥。
二人の影が、扉に重なった。
ロウガが押し開けた瞬間、
冷えた空気と熱い喧噪が混ざり合い、二人の前へ溢れ出す。
――それが、のちに始まる長い旅路の、
ただ静かな一歩目にすぎないことなど、
このときは誰も知らなかった。




