001話 これを偶然と言うのなら
その奇妙な少女との出会いは、半日前に遡る。
今日は俺の新しい人生が始まる日。
平日正午の渋谷区役所は思いのほか空いており、必要書類の準備は比較的スムーズに終わった。とはいってもそれはこの数十日での奔走の一端にすぎない。
俺にとってのこの1ヶ月は、今日のようにスマートなものではなかった。
勤務先が倒産した29歳の誕生日、路頭に迷った俺はタクシードライバーに転職した。当時は生きる気力を失いかけており、雇用の受け皿とも揶揄されるタクシー業界へと吸い寄せられたのだ。
しばらくは毎日をただ虚しく浪費していたが、2年ほどの月日を経て個人タクシーを開業する決心をした。己の裁量で生きねばならない代わりに数々の自由を獲得できる魅力に惹かれ、現在31歳の俺は独立の必要手続きのためにこうして役所を回っている。
そこら辺の知識に特別疎いつもりはなかったが、それでも開業に必要な資格試験の勉強は大変だった。そして合格後は届出の連続だ。出向いた場所は区役所に始まり、運輸局や公証役場、銀行、賃貸仲介業者などなど。必要書類の過不足や届け出窓口の勘違いやらで何往復したかなどもう思い出せない。
ふと、出入り口の自動ドアに反射した自分の姿が目に入る。
くたびれてしまったスラックスとシワだらけのワイシャツには目を瞑るとしても、顔立ちはここ数年で随分と老け込んでしまったように感じる。顎をこすって無精髭の感触を確認しながら、そういえばここ数日はヒゲすら剃っていなかったことを思い出す。
だが、そんな煩雑な日々とはもうおさらばだ。
そして本当に頑張らねばならないのは、今日ここからだ。
気合いを入れるつもりで緩んでいたネクタイを締め直し、スマホでスケジュールを確認する。
午後に物件の引き渡し予定が入っているが、まだ時間には余裕がある。近くの飯屋でも探すかと地図アプリに指を伸ばすが、その横にあるファイルが目に入り手が止まった。
『12/21 鳥狩村取材メモ』
それはたった2年半前のことなのに、もう十何年も前のことのように感じられる。
あの寒村でのオカルトじみた伝承の取材が、前職での最後の仕事だった。直後に会社が倒産し、終ぞその記事が世間に出ることはなかった。
タクシードライバーになる前の俺は記者だった。
ジャーナリストと言えば聞こえはいいが、そんな立派なものじゃない。小さな出版社で胡散臭い記事ばかり書いていた。俺が入社した当初は勢いがあったが、じきに自社出版の雑誌はすべて廃刊。最後の2年は二束三文の原稿料で他誌に寄稿して食い繋いでいたような、しょうもない記者だった。
最後の取材メモファイルに指をかける。こいつはもう不要だ。
過去の楔を断ち切るように、俺はそのファイルを削除した。
さて、と。
区役所出口に歩を進める。
自動ドアが開くと、強烈な太陽光と熱波、そして例年より早く鳴き始めたセミの声が降り注ぐ。
まだ梅雨明けも発表されていない7月の頭だというのに。
それはどうしようもないほどの真夏日だった。
正面からの熱気に押しやられ、自動ドア前で足が止まってしまう。しかし次の瞬間――背後に何か大きな衝突を感じた。
俺は足を止めた軽率さを悔やむ。外気と衝撃の板挟みに堪えて振り返ると、そこにはへたり込んだ少女が微かに唸りながら頭を押さえていた。
華奢な身体に似つかわしくないヘルメットがまず目を引く。工事現場で被るようなそれはオレンジ色で、ヘッドライトが付いている。白いブラウスにショートパンツ、スニーカーにミニリュックという実に夏らしい服装と比べると、より異様さが際立つ。頭のサイズに合っていないヘルメットを確認するように押さえていた少女だったが、直後何かに気付いた様子で不意に声を上げた。
「アイちゃん……っ!」
俺の足元に視線を落とすと、一台のスマホが目に入る。
重量が倍加しているんじゃないかと見紛うほどのとんでもなくゴツいスマホケースに収まっていたそれは、ある意味ヘルメットと調和している。しかしそんな重装備を嘲笑うかのように、画面には蜘蛛の巣状の亀裂が走っていた。
少女はそのスマホをすぐさま手に取ると、へたり込んだままの姿勢で脇目もふらずに画面の確認をしていた。
「スマホは……すまなかった、怪我はないか?」
出入り口という動線のど真ん中で不用意に立ち止まってしまった事に負い目を感じつつ、恐る恐る少女に声をかける。少なくともスマホの安否は絶望的だろう。
しばらく固まっていた少女は、我に返ったかのように勢いよく顔を上げた。奇怪なヘルメットの下には元気に跳ねた赤茶のショートカットが覗いている。イタズラっぽい色を浮かべて見上げている瞳は、真っ直ぐ俺を見ている筈なのに、何処かもっと奥の方を見据えているかのような錯覚に陥る。
彼女は屈託の無い笑みを見せて、口を開いた。
「スマホ、弁償してね、おじさん!」