011話 マンスプレイニング
夕暮れ時に目黒で拾ったその老夫婦は、汐留の劇場へと行き先を告げる。
思い返せば今日最初のお客様も汐留に運んだ。彼等から忘れ物についての連絡は未だ入っていない。
忘れ物のピンクのスマートフォンは、現在は営業所の金庫の中だ。もし自分がいない間にお客様が訪問されたら、お返しするようにと菖に鍵を渡した。眼のこともあり直接応対をさせるのはためらわれたが、菖がやる気を見せていたため任せることにしたのだ。
俺には失明を微塵も気付かせなかったのだから杞憂なのかもしれない。なにせ1人で5時間かけて上京したのだから。
「眼は見えないけど、眼球を動かす感覚は残ってるんだよ。だからね、音が聞こえたら先ずそっちに眼球を動かすの。ホントは頭のカメラにさえ映ってれば私には視えてるんだけど、ちゃんと眼も動かさないと怪しまれるからね」
そんなともすれば不気味に感じる事を、菖は得意そうに言っていた。どちらかといえば違和感は眼球運動ではなくヘルメットにある気もしたが、俺は黙っておいた。
そして忘れ物を菖に預けた俺はというと、また直ぐに営業所を出て仕事に戻った。あの時点ではまだ2件しか営業をこなしていなかったため、一日の営業目標にまったく届いていない。
そこから6時間ほど細かい営業をこなし、今日最後にしようと決めたお客様を汐留に届ける。
老夫婦は支払いを都走券で済まされた。今日の営業のうち、半数以上が都走券の利用者だ。
『トソウケン……』
「あぁそうか、そう言えば菖の実家は遠いんだったな」
『……田舎者で悪かったですねー』
仕事を終え営業所に戻るまで間にも、無線を通して話し相手がいるというのは、なんだか気恥ずかしい温もりがある。
「首都経済圏構想は知ってるか?」
『……あー、3年くらい前の、ずっとニュースでやってたやつ。私その頃ちょうどこっちに住んでたからねっ』
歯切れの悪い反応からして、内容はあまり解っていないだろう。
ちょうど渋滞に嵌まりかけているところだ、しっかりと説明してやろう。なにせ、個タク営業には切っても切れない話題だ。
首都経済圏構想。
今から3年前に当時の都知事候補が提唱し、2年前に実行に移された、東京都内での雇用と消費を活性化させる改革だ。
当時の東京都には、移民、雇用、保育、通勤、そしてそれらを解決するための財源など、首都一局集中に起因する難しい問題が山積みであった。これらに圧迫されていた都民は、必然的に強力な、解決能力のある指導者を求めていた。
そんな時代に応えるかのように彼は現れたのだ。
『郷田和義だね』
「流石に都知事くらいは知ってるか」
郷田和義は当時、過激とも言える都民ファーストの思想で支持を得ていた。そのマニフェストの核となっていたのが、首都経済圏構想であった。
都内の小売や飲食などの雇用は、増加中の移民に奪われ始めている。そんな中で郷田都知事は日本人の雇用を守るべきだと考え、タクシー業界に目をつけたのだ。
日本のタクシー運転には第二種運転免許と呼ばれる資格が要る。さらに地理試験にも合格せねばならず、外国人がこれらを突破するのは非常に難しい。このタクシー運転手という職業を、移民に奪われ辛い雇用と位置づけて大幅な拡大を図ったのだ。
『確かに、外国人のドライバーってあんま見ないよね』
「地名には独特の漢字や読みが頻出するからな。ちょっとした発音の違いから、真逆の土地へ運んでしまうリスクもある。想像以上に、外国人にとってハードルが高いんだ」
郷田は都知事選出馬前、国土交通大臣であった。
この時に彼は、タクシードライバーを目指す上で障害になっていた数々の問題を是正する法案を提出した。
「昔はな、個人タクシーの開業には、法人タクシーに10年以上勤務経験があることが必須だったんだ。郷田都知事はそれを2年に引き下げた。個タクにとって煩わしかった数々の問題を一本化するjoxiの発案も大臣時代の成果だ。まぁ、当時は個人ドライバーになり易くなったところで、需要も頭打ちだったからそこまでの効果は無かったんだけどな」
今にして思えば、郷田が大臣の頃に行ったこれらの改革は都知事選への布石だったのだろう。法案成立後、都知事選に出馬した彼は、東京都内に限りタクシー需要を生み出す公約を掲げた。
それが『都走券』と呼ばれる都民限定タクシー券である。
しかしながらそう単純な話でもなく、当然の如く財源の問題にぶち当たる。都民の乗車料を安価にした分、その差額を都で負担しなければならない。
取得できる都走券の金額は、各市区町村への納税額で決まる――これこそが財源の解決案であった。
当時はふるさと納税の全盛期であり、都民の税金は地方へと流出していた。これを不当と主張した郷田は、東京都各自治体の返礼品のような形で、都走券の発行を立案したのである。
つまりは、地方から奪い返した財源を潤滑油に、都民の雇用と消費を活性化させる改革であった。これが、郷田都知事の都民ファーストが過激と呼ばれる理由だ。
当然、各地方から強い反発を受けた。
しかしながら、先に都の財源を奪ったのは地方であること、東京都民が最も国への経済的貢献が大きいのだから恩恵の享受も必然である、などの大義名分を掲げ、それらを押し退ける。
投票権のある都民としては地方の財源が減っても直接的な痛みはない。こうして、圧倒的な得票数で郷田和義は都知事に当選した。その後、1年の時を経て改革は実現する。
「都走券は、例えば妊婦や子育て世帯、免許を返納した老人、要介護人を抱える家庭とかには追加で配られている。車を持たない家庭も遠出しての買い物をし易くなり、消費が刺激された。この改革は弱い者の味方でもあるんだ」
『……なんかヒーローみたいに取り沙汰されてたよね』
郷田都知事は、電車で席を譲るか否かの議論はナンセンスであると強く主張していた。社会的弱者は電車に乗る必要は無い、私がタクシーを用意してやる、サラリーマンは安心して座席で居眠りをしろ、と語った当時を思い出す。
都民の日常のもやを払うような彼の言動は、ある種のカリスマ性を兼ね備えていた。
『そんで、そのタクドラバブルみたいなのに惹かれたわけだね、おつろー君も』
俺が記者を辞め、法人ドライバーになったのは約2年前。郷田が都知事に当選し、joxi搭載タクシーの運用元年で、都走券の施行も秒読みとなっていた頃だった。
「……まぁ、そういう事になるな」
タクシー業界には、不景気や移民に雇用を奪われた人々が殺到した。俺も理由は違えど、そうした時代の流れに身を任せたのだ。
「法人時代の昔を知る先輩も言ってたよ。一日の売り上げが倍近くも伸びたって。ドライバーの数も増えたのに、それ以上に都民がタクシーを使うようになったんだ」
今日の営業も過半数が都走券利用者。それは都走券が確かにタクシー需要を生んだという事実、そして都に税が納められている事を物語っている。
大量の買い物袋を持つ人を自宅にお届けする営業も多かった。運賃の分が別の消費に向かっているのだろう。
今や東京都を走るタクシーはかつての数倍に膨れ上がり、それでもドライバーが食いっぱぐれないのだから、地方を鑑みなければ郷田都知事の改革は大成功だった。
『あっ、電話!』
菖の声で、思考が現実に引き戻される。
無線口から菖の気配が離れ、電話対応しているのが遠くで聞こえた。微かに聞き取れる内容から、忘れ物のお客様であろうことが推測できる。
こちらからお客様に連絡を取る手段は無かったが、これで一安心だ。いつまでも落とし主が現れない忘れ物は警察に届け出なければならないが、その必要は無くなった。
『忘れ物のお客様から! 営業所の住所も解るからこれから向かうって!』
営業所兼自宅の固定電話を切った菖が、無線で俺に説明する。
忘れ物を取りに来るまでに、俺の帰宅は間に合うだろうか。そんな事を考えるていると、不意に窓ガラスがノックされる。
新橋周辺での渋滞からは未だ抜けられず、信号待ち中のことだった。ランプに目をやると、どうやら回送にし忘れていたようで空車表示になっている。ならばノックしたのは乗車希望のお客様だろう。
ここですぐ回送に切り変えるのは、余りにもお客様に対しての態度が悪い。忘れ物対応は菖に任せて、もうひと営業する決心をすると、後部ドアを開けた。
「――ったく、アイツらホントにアオなんでしょうね?」
どこかで聞き覚えのある少女の声が、車内に入ってくる。
「今は自分の仕事に集中しなさい。……運転手さん、こちらの住所までお願いしたいのですが……」
後部座席へと振り向いた俺と、後から乗車したスーツの男性、お互いそれに気付いたのはほぼ同時だった。
『あれっ、おつろーくん今なんか言った?』
切り忘れた無線から菖の声が入る。
俺に行き先を示そうとした男の手には、俺の名刺が握られていた。




