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絵空事イデオロギー  作者: 千枝幹音
第07章 回顧録メタノイア
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122話 大輪と波打ち際

 翌日、俺はアカリに連絡を入れた。


 今日は木曜で、アカリと出会ったあの日から既に6日が経っていた。大学の講義次第だが会えるとしたら夕方くらいからになるだろう。

 あんな言い合いをして、その後しばらく連絡を取り合わなかった末の今日だ。また部屋に招き入れるなんて胆力は俺には無く、だから落ち合う場所はアカリに選択権を委ねた。


『16時、葛西臨海公園駅で』


 アカリの返信は淡白だった。

 怒っているのか、呆れているのか。でも返事をくれたということは、最低限の許しは貰えたと思っても良いのだろうか。


 場所の選定に疑問はあるが、ここは彼女に従っておくのが吉だ。

 機嫌を損ねて取材不可になってしまえば、多角的な視点の記事が書けなくなりこちらも困る。これは俺の仕事なのだ、最後まで責任を持って臨まなければならない。


 ――求めるフェアな部分にストイック過ぎるんスよ、乙郎サンは。発信者にバイアスのかかった報道はフェアじゃないって。


 ――自分の心が動いたからこそ、人の心を動かす記事が書けるんじゃないの? 当事者の心に寄り添わないでどうするの?


 仕事だから、俺はアカリに会いに行くのか?

 機嫌を損ねたくないのは、アカリが依頼人だからなのか?

 誰のために、何のために記事を世に出すんだ?


 見つけるんだ、その答えを。この仕事で。




 駅を出ると開けた場所に鎮座する噴水広場。

 その正面に、腕を組んだアカリが立っていた。


 キャミソールの上から羽織る、膝下まであるシースルーのカーディガンが潮風になびいている。あらわになった小麦色のデコルテにはそばかすが浮かび、裾の広い膝丈のハーフパンツはスカートのようなシルエットを描き出していた。これまでのアカリの印象とは対象的にガーリーな装いだ。トレードマークのサイドテールもどことなくウェーブがかかっている。

 晩夏の日はまだ高く、そんなアカリの姿を俺の目に焼き付けた。彼女の表情は固く、どこか怒っているようにも見える。


「着いてきて」

 俺がまだ横に並ぶ前に、アカリは歩き出した。

 その態度から隣を歩くことも憚られたため、俺は黙って後ろを着いていく。


 アカリはどんどんと先へ進むが、その先は地形的に海の筈だ。潮の香りが吹き抜ける中、アカリは一度も振り返らない。やはり、相当に腹を立てているのだろう。俺がお門違いの怒りをぶつけてしまったことを。


 これだけ進むと、海岸線を前に聳えるガラスドームが嫌でも目につく。これは確か、葛西臨海水族館。


「葛西臨海水族“園”ね」

 ドームに目をやっている間に、アカリは振り返って俺に何やら差し出している。無表情でその思いは読み取れない。

「チケット……? って、おいアカリ……!」

 俺がそれを受け取ると、アカリはまた踵を返す。


 水族館に何の用が? なんて質問は今はできない。俺は黙って入園していくアカリの後に続いた。


 事前に調べたところ、この辺りに日笠が携わった事業は見当たらなかった。アカリが俺をここへ連れてきた理由はまだ読めない。



 ドームを潜り、エスカレーターを下っていくと、そこには一面の青が広がっていた。暗い空間を覆うパノラマの青い水槽、その中にだけ降り注ぐ太陽光のカーテン。

 アカリの方を見ると、先刻までの強張った表情は解け、少女のような眼差しで水槽を見上げている。回遊魚の影がアカリの瞳を揺らし、まるで宝石のように輝く。


「昔から、悩み事がある時はよく来るんだ、ここ。この深く透き通った青色の世界が好きでさ」


 アカリは水槽から目を離さずにそう言った。

 それは家族連れの多い館内の喧騒に包まれて消え入りそうなほどであったが、俺の耳には確かに届く。

 しかし俺が何かを言いかけようとした時には、既にアカリは次の目的地へと歩き出していた。


 珊瑚礁、クラゲ、磯の生物からダイオウグソクムシまで。でも俺は、海の生物よりもアカリの方ばかり見ていた。

 俺たちの間に流れる不和など忘れたかのように爛々と輝く瞳、その服装の所為もあって端々で目に入る小麦色の肌色、彼女が髪を揺らすたびに通り抜けるコロンかなにかの柑橘の香り。


「見てっ、ペンギン! あの子この前見た時はまだ小さかったのに!」

 アカリがペンギン紹介の説明板と見比べながらはしゃいでいる。よくここに来るという話はどうやら本当らしい。


 アカリは定期的に俺に話しかけてくるのだが、視線は直ぐに切ってしまうので表情で返すこともままならない。あぁ、とか、そうだな、とか、気の利かない返事で誤魔化しているうちに、俺たちは水族館を一周してしまったようだった。



「はーっ、半年ぶりでひっさびさだったけど、やっぱいいぜー水族園っ!」


 外へ出るともう日も落ちかけており、アカリは夕焼けをバックに伸びをしながらそんな独り言のような事を言った。


「アカリ」

 俺は、言わなければならないことのために、少し強めに言葉を放った。アカリがこちらに視線をくれる。真っ直ぐ、俺の眼を見ている。


「俺の一方的なこだわりで言いがかりをつけてしまって、それで脅すように怒鳴ってしまって――」


 俺は、精一杯頭を下げる。

「――ごめんなさい」


 水族館でまたアカリのペースに呑まれそうになったが、これだけは先ず伝えなえればならなかった。


 人通りもまばらな遊歩道で、ヒグラシと波の音を遠くに感じながら、俺はアカリの返事があるまで頭を下げ続けていた。


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