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木南先生、病院辞めるってよ。

 脳外ローテも残りあと一ヶ月を切った頃、突然木南先生が病院を辞めると言い出した。

 

 何でも、父親が倒れてしまい、母親一人での看病が難しい為実家に帰るとか。

 

 家庭の事情だから仕方がない。分かってはいるけれど、木南先生と働くことが叶わなくなってしまったのが残念でならない。

 

 この病院の脳外のエースで出世街道まっしぐらだった木南先生は、周りから『もったいない』と言われながらも、何の未練も無さ気に医局にある自分の荷物を纏めると、俺に「最後までオーベン出来なくてごめーん」と悪びれさえも無く明るく謝って、病院を去って行った。

 

 俺の残り少ない脳外ローテのオーベンは、当初の予定通り春日先生がやってくれるらしい。

 

 春日先生は優しくて良い先生。


 だけど、もっと木南先生から色々教わりたかった。

 

 研修後、木南先生のいない脳外に戻って来ることに意味などあるのだろうかと、希望医局をも迷ってしまうくらいに、木南先生の存在は大きかった。


 

 木南先生がいなくなって数日後、名の知れた人物が紹介状を片手に脳外を訪ねて来た。


 「こちらに木南先生という有名な医師がいると伺って参りました。木南先生なら、私の病気は治せますでしょうか」

 

 切羽詰まった様子で春日先生に紹介状を渡すその人は、有名作家である野村和幸だった。

 

 紹介状に目を通す春日先生の表情が固まった。

 

 春日先生の様子が気になり、春日先生の手に持たれた紙を横目で盗み見る。

 

 そこに書かれていた病名は【グリオブラストーマ】。浸潤が早く、以前入院していた病院での摘出は困難とのこと。

 

 グリオブラストーマは、放射線療法や化学療法も本脳腫瘍にはほとんど効果が無いと言われている。放射線療法・化学療法を施すには絶対的にオペが必要。

 

 しかも、全摘するのはかなり難しい上、平均生存期間は約一年と極めて予後不良であるこの病気。

 

 敢えて手術をしない選択する患者さんも多いが、野村さんはそれでもオペを希望している。

 

 深刻な状況になっているグリオブラストーマのオペが出来るとしたら、木南先生しかいなかった。


 しかし木南先生はもういない。


 春日先生は、この病院でも手術を行うことは難しい旨を野村さんに説明したが、それでも野村さんは「少しでも長く生きたい。書きたいものがまだある」と、脳外に関しては最新鋭の設備と技術が整っているこの病院に入院することを希望した。


 俺は、そんな野村さんの担当医に指名された。


 治療を望む患者さんに緩和ケアしか出来ない。


『不甲斐ない』。


 山本蓮くんが亡くなった日、木南先生が零した言葉が頭を過った。


 俺は、藁をも掴む思いでやって来た野村さんが死に行く姿をただ見ているだけなのか?


 これで良いのだろうか? 


 野村さんの希望に沿いたい。不可能ではないオペを、諦めるなんてことはどうしても出来なかった。


 無力な自分が野村さんの為に出来ることは、一つしかなかった。


「春日先生‼」


 医局の自分のデスクで書類整理をしていた春日先生に駆け寄る。


「びっくりした‼ 何⁉ どうしたの⁉」


 俺に突然大きな声で呼ばれて驚いた春日先生が、少し身体を仰け反らせた。


「木南先生って、忙しい人だったからずっと有休取ってなかったですよね、きっと。今ってもしかして、有休消化中ですか?」


 そんな春日先生に顔面を近づけて質問をする。


「そうなんじゃないの?」


「近い近い‼ 顔‼」と言いながら、両手で俺の顔面を押し除ける春日先生。


「じゃあ、まだこの病院の医師ってことですよね⁉ 木南先生を呼び戻しましょう。木南先生なら野村さんのオペ出来ますよね⁉ 私、直談判します。木南先生の連絡先を教えてください‼」

 

 春日先生の腕力に負けじと顔圧を掛けると、


「分かった‼ 分かったからこれ以上顔を近づけるな‼ 男の顔なんか至近距離で見たくもないわ‼ 教えてもいいけど木南に怒られても知らないからな、俺は。それに、もう実家に帰ってるかもしれないよ」


 春日先生は椅子のキャスターを後ろに転がしながら俺から離れると、ポケットから携帯を取出し、「木南、木南」と呟きながら木南先生のアドレスを探してくれた。


「ホレ。今、木南のアドレス送信したから確認してみ?」


 春日先生が俺のタブレットを指差した。


「ありがとうございます‼」

 

 早速タブレットを手にしメールを開くと、木南先生の住所と電話番号が載っていた。


 デスクの上の電話機の受話器を持ち上げ、木南先生の電話番号をプッシュした。3コール後に、



『はい。木南です』

 

 木南先生は電話に出てくれた。


「木南先生、お久しぶりです。柴田です」


『柴田?』


「研修医の‼」


『あぁ。研修医の』


 受話器の向こう側で木南先生が「ヒヒヒ」と笑った。


 一度も俺の名字を呼んだことのない木南先生は、どうしても俺を【研修医】と呼ばなければ気が済まないらしい。


「木南先生、今どこですか?」


 真っ先に木南先生の所在地を確認。実家に戻られていたら困る。こっちに留まっていてくれないと、呼び戻すのが難しい。


『家だけど』


「実家の⁉」


『イヤ。まだこっちにいる。引越し作業中』

 

 急を要している俺とは正反対に、のんびりとした木南先生の返事。


『どうしたの? 私の患者さんだった人、誰かトラブってる? 大丈夫?』


 木南先生は、引き継ぎ時間がほとんどなかったことに責任を感じている様で、申し訳なさそうに俺の電話の理由を伺った。


「誰もトラブってません。新患の相談です」


『それは春日先生に相談しなさいよ。私はあなたのオーベンではありません。あなたのオーベンは春日先生です。それでは』


 しかし、自分に関係のない話だと分かった瞬間に電話を切ろうとする木南先生。


「待ってください‼ 患者さん、グリブラなんです‼ かなり進行しています」


『オペすればいいじゃない』


「木南先生、お願いします‼」


『何でよ。脳外にはいっぱい医者がいるでしょうが』


「他の病院でオペ出来なくて、うちの病院も断った患者さんです。木南先生にしかオペ出来ない患者さんです。お願いします。助けてください。木南先生、お願いします‼」


 電話だと言うのに、必死に頭を下げて懇願。


『悪いけど、無理』


 だけど、木南先生の返事は冷たかった。


「何でですか⁉」


『無理なものは無理。じゃあ』

 

 そして、木南先生より切断。話し相手がいなくなった受話器からツーツーという物悲しい音が鳴った。


「……何ソレ」


 握りしめた受話器を荒々しく電話機に戻す。


 木南先生に腹がっ立った。木南先生は命を見捨てる人じゃないと思っていたのに。俺、木南先生のこと、めちゃめちゃ尊敬していたのに。

 

 木南先生の行動が、信じられなかった。と言うより、信じたくなかった。こんなの木南先生じゃない。木南先生らしくない。

 

 壁に掛けられている時計を見上げると、時刻は十七時半。就業時刻は過ぎていた。


「春日先生、すみませんが今日はもうあがらせてください」


 いつもはオペの練習をしたりで何だかんだ二、三時間は平気で残業しているのだが、今日はどうしても行きたいところがある。


「うん。早く帰りなー。働きすぎは身体に良くないからね。お疲れ様―」

 

 春日先生は、野村さんのことで躍起になる俺が若干鬱陶しいのか『どうぞどうぞお帰り下さい』とばかりに手を振った。 

 

 春日先生から送ってもらったメールを見直し、病院を飛び出した。

 

 駅までダッシュし、電車に乗ること十分。そこから徒歩五分。着いたところは、


「この、金持ちが」


 オシャレで綺麗なマンション。木南先生の自宅だ。

 

 ホテルみたいなエントランスに、コンシェルジュはいるわで、自分だって親が医者だったおかげでそれなりに良い暮らしをしてきたはずなのに、


「ここ、管理費いくらなんだよ」

 

 と、思わず口をついてしまう程の豪華さ。


『木南先生は有名な脳外科医だから他の医者より給料が高いんだろうな』と、木南先生への憧れと羨ましさと、『俺も上りつめてやる‼』という悔しさを噛みしめながら、インターホンに近付き木南先生の部屋番号をプッシュした。


『……はい』


 おそらく木南先生の部屋のインターホンには俺の姿が見えるのだろう。木南先生が気怠そうに返事をした。


「お疲れ様です。柴田です」


『柴田?』


「研修医の‼」


『あぁ。研修医の』


「何回やるんですか。この件」


 さっきと全く同じ会話が時間の無駄過ぎて『早く中に入れてくれ』とばかりに貧乏ゆすりをしてしまう。


『研修医こそ何しに来たのよ』


「木南先生にお願いがあって来ました」


『電話の件?』


「はい」


『それは無理だと言ったはずです。お引き取り下さい。さようなら』


 またも一方的に木南先生にインターホンを切られてしまった。が、ここまで来たからには粘る。絶対に諦めない。


 再度インターホンを鳴らし、木南先生を呼ぶ。


『……オイ。警備員呼ぶぞ』


 物凄く低い声で返事をする木南先生。


「『無理』の理由を教えてくださいよ。納得したら帰りますから」

 

 しつこく食い下がると、インターホンから「はぁ」と木南先生のわざとらしい溜息が聞こえた。


『ずっとそこにいられると、他の住人の迷惑』


 そう言って木南先生はまたインターホンを切ってしまったけれど、セキュリティのロックを外しエントランスのドアを開いてくれた。

 

 やっとマンションの中に入ることが出来た。エレベーターに乗り、木南先生の部屋へ向かう。


 エレベーターの壁に備え付けられていた鏡を見ながら乱れた髪を直していると、木南先生の部屋がある階に到着した。


 木南先生に会うのは数日ぶりだから、少しだけソワソワする。


 木南先生の部屋の玄関ドアの前に立ち、ベルを鳴らすと、あからさまなしぶしぶ感を醸し出した木南先生が、中からドアを開けてくれた。

 

 白衣でも術衣でもない木南先生の私服姿に、ちょっとした違和感を覚える。俺の中では木南先生=医師だから。


「お邪魔しまーす」


 ウエルカム感ゼロの木南先生などお構いなしに、玄関で靴を脱ぐ。


「邪魔な自覚があるなら帰りなさいよ」

 

 木南先生は面倒くさそうに俺の足元に来客用と思われるスリッパを用意してくれた。


「どうもでーす」


 木南先生の嫌味など気にも留めずにスリッパに足を通すと「こっち」と木南先生が突き当りの部屋を案内した。

 

 そこは広くてオシャレなリビングだった。


『この成功者め』と心の中で木南先生を羨ましがりながら突っ立ていると、


「その辺のソファに適当に座ってて。飲み物、紅茶でいい?」

 

 木南先生は俺をお高そうなソファに座る様に誘導し、自分はお茶を淹れにキッチンに向かって行った。


「あ、お構いなく。あ‼ すみません‼ 手ぶらで来てしまいました」


 紅茶を用意しながら、冷蔵庫からチョコを取り出す木南先生を見て、手土産を買い忘れていることに気付く。


 気持ちばかりが焦ってうっかりしていた。


「私、上司の家に何も持たずに行ったことなんて、今まで一度もないわ」

 

 紅茶とチョコが乗ったトレーを呆れながらリビングに運ぶ木南先生。


「お願いをする立場だというのに……」

 

 どこにも寄らず、何も買わずに木南先生の家にやって来たのだから何も入っているわけないのに、何かないかと鞄の中を探ってみる。


「今日のところはこれで……」


 鞄を弄り見つけたのは、半年前に風邪を引いた時に購入して余っていたのど飴二つだった。しかも、若干溶けている。


「それは何も差し出さないより失礼だわ」


 木南先生がしょっぱい顔をしながら、有名店の高級チョコをサラっとテーブルに置き、格の違いを見せつける。


「……ですよね」


 即座に適当にのど飴を鞄の中に放り込んだ。こののど飴の存在は鞄を買い替えるまでもう思い出すことはないと思う。


「たいした給料貰っていない研修医に貢物をせびる気なんかサラサラないけど、まぁ、その程度のお願い事という解釈でいいんだよね? 当然」


 テーブルに紅茶とチョコを並べ終えた木南先生が、俺の正面に腰を掛けて、意地悪な顔をしながら紅茶のカップに口を付けた。


「俺、何か買って来ます‼」


 スクっと立ち上がった俺に木南先生が、


「よし、そのまま帰れ」


 なんて言うから、


「嫌です」


 秒でソファに座り直してやった。今買い物になど行ってしまったら、木南先生は二度と俺をこの家に入れてくれないだろう。


「木南先生、どうしてオペをしてくださらないんですか?」


 手土産についてこれ以上グチグチ突かれたくなくて、本題へ入ることに。


 そもそも木南先生は手土産の有無など気にする様な人間ではない。木南先生はただ、俺のお願いを聞く気がなくていちゃもんをつけているだけだ。


「だって私、もうあの病院の人間じゃないし」


『自分には関係がない』とばかりに、俺の話を真剣に聞こう

としてくれない木南先生。だから、


「まだあの病院の人間ですよ。今、有休中なんですよね? しっかり籍残っているじゃないですか」

 

 俺の反論にも、


「有休中に仕事をしたら、それは最早有休じゃないでしょうが」


 間髪入れずに言い返す。


「だったら有休日をずらせば良いじゃないですか」


 が、俺も負けない。負けたら終わりだ。野村さんのオペが出来なくなってしまう。


「引っ越しの荷造りで忙しいの」


「手伝いますから‼ ……てか、引っ越しの準備やってます?」


 ふと周りを見渡すと、ダンボールなんか一つもないし、今いるリビングは手を付けている様子は一切なかった。


「リビングは一番最後。他の部屋からやってるの」


 木南先生が「他人の家をジロジロ見るな」と、俺のあちらこちらに動き回る黒目を注意した。


「それにしても遅すぎじゃないですか? 有休消化し始めて結構日にち経ってますよね? 捗ってなさすぎでしょ。本当にちゃんとやってます? あっちの部屋とか、片付いてます?」

 

 リビングの隣のドアを指差し、見てやろうと立ち上がる。


 木南先生はきっと、夏休みの宿題は最終日までやらないタイプの人間で、どうせ退去日ギリギリまで何もせずに、どこの部屋も片付けてなどいないのだろう。


「そこ、蓮の部屋」


 しかし、木南先生の一言で動きを止めた。


 俺が開けようとしていた扉は、他人が気軽に踏み込んではいけない、木南先生の大事な大事な場所だった。


『やってしまった』と気まずくなりながらソファに腰を埋め、紅茶のカップに手を伸ばすと、紅茶を飲むフリをしながらカップでバツが悪くなってしまった顔を隠した。


「私が私の有休をどう使おうが、私の勝手でしょう? のんびり引っ越ししていたって、とやかく言われる筋合いないと思うけど」


 カップで顔を隠し続ける俺に、木南先生が「おかわり飲む?」とティーポットを近づけた。「大丈夫です」と断り、俯いたままカップをテーブルに戻す。


「……それはそうですけど、『忙しいから無理』なんじゃないんですか? 家庭の事情で病院を辞めることは仕方がないです。その件についてどうこう言う気はありません。でも酷いですよ、木南先生」


 そしてそのままポツリポツリと話し出す。


「…………」


 やっと俺の話を聞く気になったのか、木南先生は黙って耳を傾けてくれた。


「木南先生、山本蓮くんが亡くなった時に言っていたじゃないですか。『助けることが出来たなら、誰も悲しまずに済んだのに』って。グリブラの患者さんは、そりゃあ根治は難しいかもしれません。でも、木南先生ならオペが出来る患者さんなんですよ⁉ 忙しくないならオペする時間くらいあるでしょう⁉ それに、急いで引っ越しする必要がないなら、俺のオーベンだって最後まで出来たじゃないですか‼ 木南先生はそんな風に人を見捨てる人間じゃないでしょう⁉ どうしちゃったんですか⁉」

 

 木南先生が黙った隙に、不満と疑問を爆発させた。


「……私ならオペが出来る? どうしてそう思ったの?」


 木南先生は、俺の疑問の中に疑問があった様で、俺の質問に答える前に質問を返してきた。


「だって木南先生は優秀なんでしょう⁉ 有名なんでしょう⁉」


 根拠と呼ぶには幼稚すぎる俺の理屈に呆れかえったのか、


「何、その理由」


 木南先生は眠そうに、右手で目を擦った。


「グリブラの患者さん、最後の希望を賭けて木南先生を訪ねて来たんですよ。木南先生が患者さんにとっての最後の砦なんですよ。病状確認をした上でオペ不能の診断を下すなら納得も出来ますが、それすらせずに拒否しないでくださいよ‼ 命が懸っているんですよ⁉」

 

 どんなに漠然としていようとも、俺の根拠は【木南先生だから】だ。俺は木南先生の信じる医学を、腕を信頼している。


 熱弁を振るう俺に根負けしたのか、木南先生は「ふぅ」と小さな息を吐くと、


「……分かった。診るだけ診る。でも、無理だと判断したらオペはしない」


 快諾とは言い難いが、首を縦に振ってくれた。


「ありがとうございます‼」


 嬉しさ余って、思わず木南先生の手を取り握った瞬間、


「その代わり、これで私がアンタのオーベンを最後まで全うしなかったことについてはチャラってことで」


 思いっきり振り払われた。木南先生は、オーベン変更について文句を言う俺にイラっとしていたらしい。でも、木南先生にとっては『たかがオーベン』なのかもしれないが、俺にとっては大きな問題だったんだ。


「了解しました」


 振り払われた手を「相変わらず扱いが酷い」と言いながら後ろに引っ込める。


「目上の人に対しては『承知しました』ね」


 更に、些細な言葉使いまでも指摘してくる木南先生。


「細かッ‼ 面倒臭いなぁ、もう」

と突っ込みを入れると、木南先生が「フッ」と息を漏らして笑った。


 やっとにこやかな木南先生の顔が見られた。

 

 手術の約束を漕ぎ着けた後は、軽い仕事の話をしてアドバイスを貰ったり、桃井さんと何の進展もないという恋バナをして馬鹿にされたり、久々に木南先生とたわいもない話をした。楽しかった。


 そして、野村さんの脳のCTを取り直したら木南先生に連絡をするという段取りを決めて、木南先生の家を後にした。


 翌日、早速CT検査室の予約を入れ、野村さんの画像を撮ることに。


 野村さんの脳内の様子を見て愕然とした。


 野村さんが紹介状と一緒に持ってきていた、前の病院で撮影したCT画像より浸潤が進んでいた。


「……早く木南先生に連絡しないと」

 

 技師さんに野村さんのCT画像のROMをもらい、医局へと急ぐ。


 自分のデスクに着くと、即座に木南先生へ電話をした。


「木南先生、グリブラの患者さんのCT撮りました。いつ来られますか⁉ 早く来てください‼」

 

 名乗ることさえ忘れ、木南先生に緊急出動要請をする。


『分かった。すぐ行く』

 

 俺の声色に何かを察知してくれたのか、木南先生も余計な無駄話をすることなく返事をし、電話を切った。

 

 待つ事十五分。木南先生が医局に現れた。


 医局員が「どうした、木南」と言いながら木南先生を取り囲む。


「急用が出来た」と人の輪から出てきた木南先生が「CT、見せて」と俺のデスクにやって来た。


「これです」とパソコンに野村さんのCT画像と、電子カルテを映し出す。


「野村和幸さん、六十二歳、作家。……厳しいなぁ」


 患者情報を確認し、CT画像に眉を顰める木南先生。


「オペ、出来ますか⁉」

 

 そんな木南先生の顔を覗き込むと、


「腫瘍の場所が……良いようで悪い。術後、小説が書けなくなる可能性がある」


 木南先生が「私の顔じゃなくて画像を見なさいよ」とパソコンを指差した。


 腫瘍の位置は右前頭葉の先端。大部分を切除出来、術後の治療が上手く行けば余命を伸ばすことは可能。しかし、左半身の麻痺、失語症の発祥確率が高い。


 それでも野村さんが命を優先するのなら……。助けられるのなら、助けたい。


「野村さんに説明してきます。それでも野村さんがオペを希望したなら、やってくれますよね⁉ 木南先生‼」

 

 木南先生に最早強要に近いお願いをすると、


「オペをするなら条件がある」

 

 木南先生はすんなり受け入れてはくれず、交換条件を要求した。


「それは、何ですか?」


 オペが出来るなら、どんな条件であっても何がなんでもクリアする。


「研修医が見ても分かる通り、時間がない。オペをするなら今日中に野村さんに承諾を得て、オペ室の予約を入れること」


「はい」


 木南先生の話を聞きながら、デスクの上のメモ用紙に【同意書】【オペ室予約】と書き込む。


「それと、第一助手に早瀬先生、第二助手には研修医、アンタが就いて」


「はい……えッ⁉」


【第一早瀬】までメモしたところで、事態に気付く。聞き間違いかと木南先生の方を見るが、


「このオペ、時間との勝負になる。長時間は体力が保たない。グリオーマのオペは早瀬先生の得意分野だった。彼の力を借りたい。早瀬先生のスケジュールを確保して」


 俺の驚きを気にも留めずに木南先生は淡々と指示を出し続けた。


「あの……第二助手って……」


 一応確認の為に木南先生に聞き返してみる。


「聞いてなかったの⁉ 研修医がやってって言ったでしょうが」


 やっぱり聞き間違いではなかった。


「無理ですよ‼ 出来ません‼」


 木南先生に向かって『二年目の研修医に何を言っているんだ』と首を左右に振った。


「私の『無理』は通らないのに自分の『無理』は正当だとでも言う気?」


 木南先生の反論は『だったら私もオペを拒否します』の意を含んでいる。


 しかし、木南先生の『無理』と俺の『無理』とでは誰がどう見ても大きく違う。


「このオペは時間との勝負なんですよね⁉ なんで何の戦力にもならない俺をオペに入れるんですか⁉」


「アンタ、医者でしょう? 医師免許持っているんでしょう?」


『医者ならやれよ』という木南先生の言い分。


「専門医ではないじゃないですか。俺はただの研修医です」

 

 だけど俺は、やりたくないから拒否をしているのではない。出来ないから『無理』なんだ。


「研修医だったら自分の担当患者を丸投げしてもいいんだ。楽でいいね、研修医って」


 木南先生は「ガッカリだわ、研修医」と言うと、俺のデスクから離れ、医局から出て行こうとした。


「待ってください‼ ……だって、俺に出来ることなんてあるんですか⁉」

 

 木南先生の腕を掴み、退室を阻止する。


「あるから言ってるんでしょう? 時間との勝負の中でアンタに教えたいことがあるから、早瀬先生の力が必要だって言ってるの。大きなオペだし不安なのは分かるよ。でも、言い訳を並べて逃げるな」

 

 木南先生が俺を睨みつける様に見上げた。


「それに、執刀医は私で、第一助手は早瀬先生だって言ったでしょう? 何があったって第二助手の研修医に責任は及ばない。だからって無責任なオペをしろっていうわけでは当然ないけど、オペを怖がる必要はない。……ここまで言っても拒否するの?」


 俺のオーベンではなくなった木南先生が、俺に経験を積ませようとしてくれていた。


「……拒否しません。すみません。オペに参加させてください」

 

 だから、さっきと違った意味で首を左右に振って否定した。


「よし、じゃあ戻るよ」

 

 俺のやる気を汲み取ってくれたのか、木南先生は機嫌を直すと、さっきまでいた俺のデスクまで俺の背中を押した。

 

 そして俺のデスクの引き出しから患者さん用の手術説明用紙を取り出した木南先生が、


「今回のオペは、腫瘍の大部分は一塊切除、深部や機能領域近傍はCUSAで吸引除去しようと思う」


 オペの手順を図にして説明した。


「はい、これを野村さんに説明してオペの同意書貰ってきて」


 そしてスッとその紙を滑らせ、俺の方へ置いた。


「俺がですか⁉」


「アンタ、担当医でしょうが」

 

 木南先生が「さっさと行けと行け」と俺を急かす。


「執刀医が説明した方が良いんじゃないですか? 木南先生、まだ野村さんとお会いしてないですよね? 挨拶がてらに行ってきたらどうですか?」


 グリブラのオペをしたことも見たことさえもない俺の説明で良いのだろうか? と疑問に思い、手術説明用紙を木南先生の方へ戻してみたが、


「本来有休中の私を必要以上に働かせないでくれない? 野村さんの病室には後でちゃんと顔を出すわよ」

 

 やっぱり突き返された。


「……はーい」

 

 ここはおとなしく引き下がることに。木南先生にまた臍を曲げられたら面倒だ。


 パソコンから野村さんのCTのROMを抜き取り、手術説明用紙を手に取ると、早速野村さんの病室へ行こうとした俺に、


「このオペの段取り、早瀬先生にも伝えておいてね」


 木南先生が「行ってらっしゃーい」と手を振った。


 早瀬先生の件は、オペの為だから仕方ないが極力は関わりたくないだろう木南先生の気持ちは分かる。だから、俺がお願いに行くのは別に良い。ただ、野村さんの手術説明に関しては『どうせ暇なんだから木南先生がやってくれよ』と正直思ったが、言えるわけもない。


「りょ……承知しました」


 危うく『了解しました』と言ってしまいそうになり、慌てて訂正。


「お、ちゃんと覚えてたな。偉いぞ」


 そんな俺を「ククク」と木南先生が笑った。


「じゃあ俺、野村さんと早瀬先生のところに行ってきますね」


 今度こそ医局を出て行こうとドアノブに手を掛けると、


「ほーい」

 

 と言いながら、木南先生が仮眠室の方に向かって行った。


「……寝る気ですか?」


 諸々のことを俺に押し付け、まさかこの人……。と木南先生に問いかける。


「昨日、遅くまで荷物纏めていて寝不足なんだもん」

 

 木南先生が「んー」と言いながら伸びをした。


『クソが‼』という言葉が喉元まで出かかったが、力技で飲み込んだ。


 無理を言ってオペを頼んだ手前、そんなことは言ってはいけない。


 胸元を擦りながら「落ち着け、自分」と自分で自分を宥め、


「おやすみなさいませ」


 木南先生に引き攣っていただろう笑顔を見せると、医局を出た。


 野村さんの病室を訪ね、野村さんに木南先生がオペをしてくれることと、オペによって小説を書くことが出来なくなる可能性がある旨、どんなオペをするのかを説明をすると、野村さんは「今から書き始めても、書ききる前に死んでしまうかもしれない。ならば可能性に賭けたい。手術がしたい」とオペを希望した。


 野村さんから手術の同意書に署名を貰い、次は早瀬先生がいる外科へ。


 外科の医局のドアを開けると、早瀬先生がデスクで論文作成をしていた。


「早瀬先生、お忙しいところ申し訳ありません。今、少し宜しいですか?」


「あ、柴田くん。何でしょう?」


 俺に声を掛けられ、早瀬先生がパソコンを打つのをやめ、俺の方を見た。


「あの、早瀬先生にお願いがあって来ました。木南先生が執刀するグリブラのオペ、手伝って頂きたいんです」


 早瀬先生に「これ、見てください」とROMを手渡す。


 早瀬先生が書きかけの論文を保存し、そのROMをパソコンにセットした。


「……このオペを、木南先生が?」


 野村さんのCT画像を見て少し驚いた表情を浮かべる早瀬先生。

 

 早瀬先生の目からも、野村さんのオペは難しいものなのだろう。


「はい。早瀬先生のお力がどうしても必要なんです」


「お願いします‼」と頭を下げると、


「それは構わないけど……木南先生って病院を辞められたんじゃなかったの?」


 早瀬先生は木南先生のお願いだけあって、あっさり承諾してくれた。


「このオペ、木南先生以外で出来る人がいないので、頼み込みました」


「……なんで木南先生は突然辞めることになったの?」


 木南先生の質問を立て続けにしてくる早瀬先生。


 桃井さんといい感じになっておきながら、別れた元嫁のことが気になるらしい。


「お父さんが倒れたらしくて、介護の為って聞きましたけど」


 離婚したからと言って元旦那に何も話をしていなかった木南先生を【らしいな】と思いながら、きっちり早瀬先生の疑問に答えると、


「……そうなんだ」


 早瀬先生は不思議そうに首を傾げた。きっと木南先生と離婚する前に、木南先生の父親に会ったときは元気だったのだろう。

 

 オペの日取りが決まり次第、早瀬先生に連絡をする約束をして外科の医局を出た。


 あとはオペ室を確保し、早瀬先生のスケジュールを調整すれば野村さんの手術が出来る。

 

 足早に脳外の医局に戻ると、自分のデスクのパソコンを立ち上げ、オペ室の空き状況を確認。


 最短で明日の午後一に空きがあった。


 急ではあるが、明日出来るならしたい。グリブラの進行は本当に早い。

 

 早速ついさっきまで会話をしていた早瀬先生に電話を掛ける。


「研修医の柴田です。お疲れ様です。突然で申し訳ないのですが、明日の十三時からのグリブラのオペに入れませんか?」


『大丈夫です。宜しくお願いします』

 

 早瀬先生は、俺の急なお願いを快諾してくれた。


「こちらこそ宜しくお願い致します。それでは、明日」


 電話を切ると、今度は仮眠室で熟睡中であろう木南先生の元へ。


 他に寝ている職員がいるかもしれない為、そっとドアを開ける。しかし、使用されているベッドは一番奥だけだった為、頭から布団をすっぽり被っていて顔は見えなかったが、そこで寝ているのが木南先生であることが特定出来た。


「木南先生、木南先生」

 

 木南先生に近づき、布団の上から軽く揺すると、


「んー?」

 

 木南先生は布団から顔を出すことなく、怠そうに返事をした。


「オペ室、明日の午後一で予約入れました。早瀬先生もOKだそうです」


「了かーい。もうちょい寝るー」

 

 寝足りない様子の木南先生は、俺に返事をした後すぐに眠りの世界へ戻っていった。


 明日がグリブラのオペだと聞いても余裕をかましている木南先生に、ちょっとした腹立たしさを感じながらも『カッコイイな』と思ってしまう自分が、やっぱり悔しい。


「ごゆっくり」

 

 木南先生の眠りを妨げぬよう、足音を立てない様に静かに仮眠室を退散した。

 

 木南先生は優雅に寝ていられても、俺はごゆっくりなどしている場合ではない。


 再度野村さんの病室へ行き、オペが明日になったことを告げると、医局でひたすらにグリブラ手術の予習をした。

 

 木南先生の第二助手を務めなければならない緊張感と、もう一度木南先生のオペを見られることへの興奮で、胸の高鳴りがなかなか収まらない。


 木南先生の足を引っ張らない様に、何か役に立てる様にと、木南先生が言っていた術式を何度も何度も確認し、頭に叩き込む。


 万全の態勢で挑もうと、今日も残業をせずに上がらせてもらい、いつもよりだいぶ早い時間にベッドに入った。……が、なかなか眠りに就けなかった。

 

 明日のことで頭がいっぱいだ。

 

 こんなに明日が来るのを待ち遠しく思ったのは、中学時代の初デートの前日以来かもしれない。



 翌朝は、やはりいつもより早く目が覚めた。


 なので、いつも適当に済ませている朝食を時間を掛けてしっかり取り、毎日時間に追われながら雑に剃っていた髭も丁寧に剃りあげ、余裕を持って病院へ出勤。


 診察をしたり、野村さんの身体の調子を確認したりしていると、あっという間に午前を過ぎ、お昼になっていた。


 木南先生が出勤してくると、早瀬先生も脳外の医局に合流。三人揃ったところでオペ室に向かう。


 手を洗い、オペ室に入ると、オペ看と麻酔医と技師さんが準備をしながら俺らを待っていた。


 木南先生が手術台に寝ている野村さんに近付き、


「頑張りましょうね。よろしくお願い致します」


 と微笑み掛けた。


「はい。どうぞ、よろしくお願い致します」

 

 本当は怖い思いをしているだろうに、木南先生が執刀してくれることに安心しているのだろう野村さんは、笑顔で木南先生に頷いた。


「では、始めましょうか」


 木南先生の一声で手術が始まった。

 

 麻酔医が麻酔薬の薬物動態を推測しながら野村さんに麻酔をする。暫くすると、


「はい。もう行けます」


 麻酔医が木南先生に開頭OKのサインを出した。


「はい。じゃあ頭開いて。研修医」


 そして木南先生が俺に指示を出す。


「はい。……え⁉ 私が⁉」


 目を見開きながら「いきなり俺かよ‼」と木南先生の方を見ると、


「そう、あなたが。それくらい出来るでしょう? 医者なんだから」


 木南先生の伝家の宝刀『医者なんだから』が飛び出し、拒否権を奪う。


「…………」

 

 反論出来ずにしどろもどろになりながら固定器で野村さんの頭を固定。


「落ち着いてやれば大丈夫。頭皮を切って頭蓋骨を削るだけですよ」


 そんな俺を、早瀬先生が心配そうな目をしながら励ましてくれた。しかし、早瀬先生にとっては朝飯前のことでも、俺にとってはそんな風に簡単に言える作業ではない。


 まだ何もしていないというのに、額から汗が吹き出し、背中には冷や汗が流れた。


 野村さんの頭皮にメスを入れる作業に躊躇している俺に、


「私ね、アンタを同期から出し抜かせたいのよ。医局ってさ、必ずしも優秀な人間が上に行けるシステムにはなっていないじゃない。上司に好かれた人間が出世したりするじゃない。有名作家である野村さんのオペが上手く行ったなら、この病院の評判は上がる。そのオペに携わったアンタの評価も上がる。私にとってこのオペは、最後までアンタのオーベンを勤めあげなかったお詫びの意味も多少ある。もちろん、野村さんの命が第一だから、研修医が二進も三進もどうにもこうにも出来なさそうだったら、メスを取り上げて全部自分でやるけどね。だから、出来るところまでやってごらん」


 木南先生が「肩に力が入り過ぎ」と自分の肩を上げ下げしながら、俺にリラックスする様促した。


 俺には木南先生がついている。早瀬先生もいる。大丈夫。


「はい。頑張ります」


 深呼吸をして、何回か肩を揺さぶると、野村さんの頭部にメスを入れた。


 ドリルで骨を削り、野村さんの脳を露出させると、モニターに映し出す。


「よし。じゃあ、剥離しよっか。電メス」


 木南先生がオペ看に電メスを要求し受け取ると、腫瘍周囲の脳溝、脳裂の剥離解放の作業に取り掛かった。


 周囲の血管を損傷させない様、慎重に進めなければならない中、やはり木南先生の手の動きは早かった。


「……凄い」

 

 俺の思わず零れ出た感嘆の声に、


「ちゃんと見てた? 研修医」

 

 木南先生がしたり顔でドヤって見せた。


「はい。流石です」


 いつもなら木南先生のドヤ顔にツッコミを入れているところだが、あまりの素晴らしさにそんなことをする気にもならなかった。

 

 木南先生のオペに感動さえしていた俺に、


「じゃあ、交代。研修医、やってみ?」


 木南先生が無理難題を突き付ける。


「……はい⁉」


「ちゃんと見てたって言ったよね?」


 驚き固まる俺を余所に、木南先生はオペの手を止め、自分が立っていた場所を明け渡した。


「木南先生、いくら何でもそれは無理です。柴田くんは研修医です。研修医にそこまでさせるのは危険です」


 木南先生の指示に早瀬先生も流石に焦っていた。


「研修医だから、危険なことはしなくていいの。野村さんは実験台じゃない。だから出来るところまででいい。オペは見ているだけじゃ上手くならない。場数を踏むしかない。回数を重ねると、オペに勘が備わる。『勘で手術します』なんて論文にも書けないし、そんな不安にさせるようなことを患者さんにも言えないけど、繰り返しオペして得た勘って、他人には説明出来ないけれど、自分にとっては確固たる根拠になるじゃない。早瀬先生には分かるでしょう? 今は私の言っていることが理解出来なくても、研修医にもそのうち分かる日がくる」


 木南先生が「最初から出来ないと決めつけるな。私が傍でちゃんと見ているから」と再度俺を呼んだ。


「……やってみます」

 

 さっきまで木南先生がいた場所に立ち、電メスをオペ看から受け取ると、腫瘍の剥離を試みる。


 緊張と自信のなさが相まって、電メスの動きもかなり遠慮がちになってしまう。そんな俺に「もっと深く。もっと切り込んでも大丈夫」「そこでストップ」「電メスの角度を二度傾けてあと三ミリ剥離して」と木南先生の適格な指示が飛ぶ。


 木南先生の言う通り手を動かすと、自分で言うのも何だが上手く剥離が出来た。


 それが自信になったかというと、いくら単純な俺といえどもそんなことはないが、オペへの恐怖が薄らいだ。


 木南先生は、比較的見やすい部分だけを俺にさせると、


「よし、お疲れ様。あとは私がやる」


 俺と交代して境目が曖昧な腫瘍の除去に取り掛かった。


 木南先生はある程度腫瘍を除去すると、


「早瀬先生、吸引お願いします」


 今度は早瀬先生と交代し、木南先生が取り残した腫瘍を吸引除去することに。


 早瀬先生がCUSAを使用し、腫瘍に埋没した血管を剥離しながら吸引。


 早瀬先生は木南先生が言っていた通り、『グリオーマのオペが得意』らしい。


 神経を使う細かい作業を難なくこなしていた。


 しかし、やはり全部を摘出することは難しく、


「これ以上は無理です」


 腫瘍の十パーセントを残したところで、早瀬先生が手を止めた。


「ありがとうございました。代わります」


 だが、木南先生はオペを続行するらしく、早瀬先生が手放したCUSAを手に持った。


「これ以上はやめましょう。危険です。正常脳まで傷つけてしまいます」

 

 早瀬先生が木南先生に向かって首を左右に振り、吸引を辞める様に訴える。


「正常脳は絶対に傷つけない。まだ九十パーセントしか取れていない。これでは意味ない。五パーセント以上取り残してしまったら、放射線も化学療法も効果が出ない。もう少しなのに、諦めてたまるか」


 だけど、木南先生は早瀬先生の制止を無視し、吸引除去を始めてしまった。


 正常脳ギリギリの際どい部分を攻め、吸引を続ける木南先生。

 

 その様子を固唾を飲んで見守るしか出来ない。何も出来ない自分がもどかしくて情けなくて悔しい。


 しかし、木南先生はやはり天才だった。


 全摘は出来なかったものの、しっかり九十五パーセント以上の腫瘍を除去したのだ。


「研修医、頭閉じて。あとはお願い」

 

 よっぽど疲れたのか、木南先生は強めの瞬きを数回すると、オペ室を出て行こうと俺の横を通り過ぎた。


「木南先生、ありがとうございました」


 木南先生にお礼を言いながら振り向くと、そこにいるはずの木南先生がいなかった。


「……え?」


『瞬間移動⁉』と驚いていると、

「木南先生‼」



 俺の向かい側に立っていた早瀬先生が、慌てた様子で俺の方に回り込んできた。


 木南先生が、俺の足元に倒れ込んでいたからだ。


「貧血ですかね? 今日も寝不足だったのかな。また昼食抜いたとか?」


 木南先生に「大丈夫ですかー? 木南先生」と声を掛けるが、反応がない。


「寝不足? 昼食抜いたって何の話?」


 しゃがみこみ、木南先生の瞳孔や脈を確認しながら、早瀬先生が俺を見上げた。


「あぁ。木南先生、本人は認めてないんですけど、最近ダイエットしているみたいでよく昼食抜いてたんですよ。寝不足は、夜遅くまで引っ越し作業しているみたいです」


 木南先生は倒れてしまったけれど、ただの貧血だと思い、野村さんの頭部の縫合をしようとした時、


「ストレッチャー持って来て‼ 早く‼ MRI室空いているか確認もお願いします‼ 木南先生を検査に回して‼」


 早瀬先生が顔色を変えて、周りのスタッフに指示を出し始めた。


「柴田くん、野村さんの縫合は私がやります。柴田くんは木南先生の検査をしてきてください。私もすぐにそちらに向かいます」


 そして、俺を押しのけて手術台に立つ早瀬先生。


「え? なんでですか?」


 わけが分からず、早瀬先生に首を傾げると、


「グリブラのオペだよ? 長丁場になるって分かり切っているオペだよ? そんなオペに寝不足なうえに空腹で挑むほど、木南先生は馬鹿じゃない。早く行って‼ 柴田くん‼」


 早瀬先生は、今まで聞いた事もないような大声を出し、素早く野村さんの頭部の縫合に取り掛かった。


「……行ってきます‼」


 看護師さんが用意してくれたストレッチャーに木南先生を乗せ、オペ室を飛び出した。

 

 何なんだよ、早瀬先生のあの言い方。あれじゃあまるで……。


 早瀬先生の話に胸をザワつかせながらMRI室へ木南先生を運び、検査をした。

 

 MRI画像を見て、木南先生が病院を辞めた本当の理由を知る。




「……『時間との勝負』って、『体力が保たない』って、自分のことだったのかよ」

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― 新着の感想 ―
[一言] 一気読みしてしまいました。「僕等の、赤。」もそうだったのですが、作者さまのお話は心を揺さぶられます。余韻がすごいです。素敵なお話を読ませていただいて、ありがとうございました。
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