どこまでも、哀れな女。
あれから、早瀬先生と桃井さんが一緒にいるところを目撃する機会が多くなった。
二人が付き合ったのかどうかは分からないが、より親しくなっているのは確かだ。
そんな桃井さんは、最近より木南先生を嫌い出した。
木南先生に仕事を頼まれても、『今手一杯なので、他の人に振ってください』とあからさまに木南先生を避けまくっている。流石に目に余り、
「桃井さん。木南先生と何かあった?」
早番の仕事が終わり、帰ろうとしていた桃井さんを捕まえて事情を聞こうと試みる。
「……木南先生、初めから苦手なタイプだったけど、あんなに自分勝手でヒステリックな人間だと思わなかった」
桃井さんは、木南先生への文句を誰かに話したくて仕方がなかったらしく、すんなり話し出した。
そんな桃井さんを病院の中庭に連れ出し、事情を聞くことに。
自販機コーナーで缶コーヒーを二本買い、二人で中庭のベンチに腰を掛けた。
「どっちが良いですか?」と微糖とブラックのコーヒーを桃井さんに差し出すと「こっちで」と桃井さんが微糖を指差した。
微糖の方の缶のプルタブを開け、桃井さんに手渡すと「ありがとう」と受け取った桃井さんがコーヒーを一口含み、
「この前、早瀬先生の息子さんの命日に、早瀬先生にお願いして、私もお墓参りに連れて行ってもらったんです。私、分かり易いからもう気付いていると思うんだけど、早瀬先生のことが好きなんです。だから、好きな人の息子さんに挨拶がしたいと思ったんです」
飲み込んだ途端に話し出した。
分かってはいたけれど、桃井さんの口からはっきり『早瀬先生が好き』と言われると、流石に胸がチクチクする。
「うん」
相槌を打ちながら、胸の痛みを誤魔化す様に、俺もコーヒーに口を付けた。
「お墓参りの時間が木南先生と被ってしまって、木南先生にバッタリ会っちゃって。そしたら木南先生、ものすごい剣幕で『蓮のお墓に無関係な人を連れて来ないで‼』って激怒して。早瀬先生から家も仕事も取り上げたくせに、別れた後も早瀬先生には自分を好きでいて欲しいとでも思っているんだよ、木南先生は。だから、早瀬先生と私が一緒に蓮くんのお墓参りをしたのが許せなかったんだよ。蓮くんのお墓は木南先生だけの所有物じゃないのに」
桃井さんは木南先生に腹を立てながらも「年下の女相手に敵意剥き出して怒り散らして。木南先生には羞恥心ってものがないのかな」と、木南先生を【恥ずかしい女】とでも言いたげに嘲笑した。
木南先生が激怒……。なんかピンと来ない。俺は木南先生から叱られたことも注意を受けたこともあるが、怒られたことは度も一ない。木南先生はいつも淡々としていて、感情ではなく思考の元で動く人だと思っていたから。
桃井さんは木南先生にご立腹の様だが、俺は木南先生の人間らしい一面が聞けて、『やっぱ完璧な人間なんていないよな』と少しホっとした。というか、正直そんなことは俺にとってはどうでも良い。俺が気になるのは……、
「……桃井さんは早瀬先生と付き合ってるんですか?」
早瀬先生が桃井さんの彼氏になったのかどうかだ。
「そうなればいいんですけどね。今頑張っている最中です。応援してください‼」
桃井さんが残念そう眉を八の字に下げた。
恋する乙女の笑顔とはどうしてこんなにも可愛いのだろう。だけど、
「……そっか。俺、そろそろ仕事に戻りますね。帰り際に引き留めてしまってすみませんでした」
桃井さんの恋の応援要望には返事をせずにベンチから立ち上がった。桃井さんの恋、成就しなければいいのにと思うから。
「全然。柴田先生に話したらスッキリしました。ありがとうございました。ひたすら愚痴を聞かせてしまってすみませんでした」
桃井さんも腰を上げ「コーヒーごちそうさまでした」とお礼を言うと「また明日」と手を振って俺から離れて行った。
俺は本当に単純な人間なので『ありがとう』とか『ごめんなさい』とか『ごちそうさま』をちゃんと言える桃井さんのことが、やっぱり好きなわけで、
「応援なんか、絶対にしなーい」
と呟いて、病院内に戻った。医局に戻る途中、
「あ、いた‼ 研修医‼ アンタ、研修レポート提出してないでしょ。事務局から電話がきてたよ」
話題の木南先生に遭遇した。今日も普段と変わりない様子の木南先生が、相変わらず俺を【研修医】と呼びながら話し掛けてきた。
「柴田です。あー、デスクの引き出しに入れたままだったかもしれないです」
これを【充実】と呼ぶのだろうが、事務局にレポートを持って行くことをすっかり忘れるくらいに、ここ最近は仕事に恋にと割と忙しく過ごしていた。
「あ、なんだ。ちゃんと書いてあるんだね。良かったー。だったらさっさと事務局に出してきてよ。研修医がレポート書き忘れてて、オーベンの私が上からチクチク言われた日にはどうしてくれようかと思っていたわよ」
木南先生も医局に向かう途中だったらしく、俺の隣を歩きながら俺の横腹を軽くど突いた。
「柴田です。例えばどうしてくれようと思っていたんですか?」
「まぁ、研修後に研修医の希望医局に入れない様に裏から手を回すくらいはしようと思っていたわ」
「クククッ」と笑う木南先生の冗談は、他の人の何倍も毒気が強いが、いつものことなので桃井さんが木南先生に感じているだろう不快感はない。
「柴田です。木南先生には絶対に希望医局は教えません」
だから普通に言い返す。
「じゃあ私は研修医に何も教えません」
「はぁ⁉ オーベンでしょうが‼」
木南先生にど突き返すと、木南先生が「イヒヒヒ」と無邪気に笑った。
オーベンと研修医の関係で、こんな風に気軽に接することが出来るのは、とても珍しいと思う。ローテで色々な科を回ってきたが、こんな風に気を遣わずに話せたオーベンは木南先生しかいない。
桃井さんが思っているほど、木南先生は悪い人ではないんだけどなぁと思いながら、木南先生と歩いていると、
「木南先生、ちょっとよろしいでしょうか?」
前方から早瀬先生が近付いてきた。
さっきまでの笑顔を一瞬にして曇らせる木南先生。
「何でしょう?」
木南先生が立ち止まるから、何となく俺も足を止めた。
早瀬先生は俺をチラリと見ると、
「場所を変えましょう」
俺の存在が邪魔だったらしく、木南先生と二人で話せる場所に移動を提案した。
「それは、ここでは話せない患者さんの個人情報が関わる話ですか? それとも研修医の耳には入れたくない個人的な話ですか?」
木南先生は、後者であることを察しているだろうに『仕事以外の話は受付けません』とばかりに早瀬先生にわざとらしい質問を返した。
「……この前は、すみませんでした」
『後者です』と言ってしまえば木南先生が話を聞いてくれないと分かっている早瀬先生は、観念したかの様に本題を切り出した。
『先に医局に戻ります』と言って席を外せば良いのに、木南先生と早瀬先生の話が気になってこの場を動こうとしない俺は、かなりゲスだと思う。
「何の話をしているのでしょうか?」
仕事の話でなければすぐにでも立ち去りたい様子の木南先生は、何の話かも分かっているだろうが【仕事の話ではない】ことを聞き出す為に敢えて早瀬先生に問いただす。
「……蓮のお墓参りに……」「それは仕事の話ではありませんね」
早瀬先生が話し出した途端に断ち切ると、木南先生は止めていた足を動かし歩き出した。
「ちょっと待ってください‼ 木南先生に不快な思いをさせてしまったこと、本当に申し訳ありませんでした」
早瀬先生が木南先生の二の腕を掴んで止める。
「……不快な思い。……そうですね。しましたね。早瀬先生は、私が何に不快を感じたと思って謝っているのでしょうか?」
不快にさせられたことを謝罪されることにも不快感を滲ませる木南先生。
「私が蓮のお墓に桃井さんを連れて行ったから……」
「早瀬先生が桃井さんを蓮のお墓に連れて行ったことに、何故私が不快になったと思いますか?」
「…………」
誰が聞いても簡単に答えられそうな木南先生の質問に、早瀬先生は答えを知っていながらも、木南先生の気を悪くしない為の日本語を探しているかの様に口を閉ざした。
「別れた後に、自分より若くて可愛い女の子を連れて歩いていたことに嫉妬して怒り狂った」
早瀬先生がなかなか答えないから、木南先生が自ら回答してしまった。……が、
「……とでも思っているんでしょう? あなたの中で、私はどこまで哀れな女なの?」
桃井さんと早瀬先生と俺が考えていた答えは、どうやら正解ではなかったらしい。
「人は死んだら人権はなくなってしまうのでしょうか」
木南先生は次々と早瀬先生に質問を投げかける。
「…………」
木南先生の意図の分からない問いかけに、早瀬先生は戸惑い、返事が出来ないでいた。
「蓮は四歳で亡くなった。だから、今年で七歳であっても四歳のままです。来年も、再来年も何年経とうが四歳です」
「…………」
木南先生の言いたいことが、早瀬先生にも俺にも分からない。
「蓮はあの日、知らない女に『お父さんの友達だ』と言われて連れ去られて殺された。それがどんなに怖かったと思うの⁉ どうして蓮のお墓に蓮の知らない女の人を連れて来られるのよ‼」
目に涙を浮かべながら早瀬先生を睨みつける木南先生。感情的になる木南先生を、初めて見た。
「桃井さんがそんな人じゃないことは知っているじゃないですか」
「知ってますよ、私たちはね。だけど蓮は知らない。四歳の蓮には桃井さんが良い人か悪い人かの判断は出来ない。知らない女の人は皆怖く見えるでしょうよ。桃井さんが蓮のお墓参りに行きたい理由は理解出来なくはない。でも、大人なんだから我慢できるでしょう? でも蓮は四歳なのよ。どうして四歳の蓮の恐怖ではなくて、桃井さんの気持ちが優先されるの? あなたが誰と恋愛しようが付き合おうが、そんなのどうでもいい。私には関係ない。ただ、蓮の気持ちを無視することは絶対に赦さない」
木南先生は『泣いてたまるか』と言わんばかりに、涙が零れる寸前で早瀬先生の手を振り払うと、身体の向きを変えて歩き出した。
木南先生の真意は【嫉妬】などという低次元のところにはなかった。
「……何やってるんだ、俺」
木南先生に振り払われた手を見つめて立ちすくむ早瀬先生。
木南先生があんなに怒って、傷ついて、涙まで見せていたというのに、早瀬先生が追いかけることが出来ないでいるから、
「木南先生‼」
俺が木南先生を追いかける。
名前を呼んでも木南先生は立ち止まってくれなかったが、すぐに木南先生に追いついた。
「……いい性格してるよね、研修医。普通、気を遣って席を外すところを、しっかり最後まで聞くんだもんね」
木南先生の隣に並ぶと、木南先生は涙を引くことが出来ないまま、いつも通りの嫌味を言い出した。
「根性が野次馬なもので」
この嫌味には乗らなければいけない。木南先生が俺とはいつも通りでいたいと思っているということだから。
「でもまぁ、研修医になら聞かれてもいいかなと思って喋り続けていたんだけどね」
鼻を啜りながら必死に涙を引っ込めようとしている木南先生。
そんな木南先生にハンカチを差し出すのは違うと思い、ポケットに突っ込みかけた手を止めた。
「なんで俺ならいいと思ったんですか?」
「どうせもうすぐ脳外ローテ終わるじゃん。だから、どう思わようがどうでもいい」
俺が脳外を希望していることを知らない木南先生は、このローテ以降は俺と関わる気はないらしい。
木南先生の、俺を切り離した様な言い方に、若干の寂しさを感じた。
「同じ科じゃなくても、連携することだってあるんだから顔合わせる機会だってあるでしょうよ」
『希望医局を絶対に言わない』と言ってしまった為、脳外希望を伏せたまま、『俺は木南先生と仕事する気満々ですよ』の意を込めて言い返すと、
「立派な医者になれよ」
木南先生は話の流れを無視した返事をして笑った。