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多恵さん 旅に出る 2   作者: 福冨 小雪
1/1

北海道を舞台に多恵さんが幽霊さんの妻探しのお手伝いや、反対に幽霊さんに助けられたり!

9月になった。とは言ってもまだまだ暑い、真夏並みの暑さが続いている。あれから3ケ月経った。まだ3月しか経っていないのだ。しかし多恵さんの心に旅に出たい、旅に出て素晴しい景色に出会い、その感動をこの手で描きとりたい、表現したい、と言う思いが前より強く大きく燃え盛っている。

でも幾らなんでもそれは無茶だ。わたしは売れない画家、殆ど夫でありスポンサーである大樹さんに寄りかかって生活する身。大樹さんだって大学の准教授、聞こえは良いがそんなに大金を貰っている身ではない。次から次へと旅費が出せる訳がないと言うか、出せないと言うのが一家の財政を預かる主婦でもある多恵さんの下した結論だ。

しかし、捨てる神あれば(誰が捨てたんだと言う声あり)拾う神あり。吉報は矢張り大樹さんよりもたらされたのだ。

「君の絵を、ほらこの間描いたあの八島ケ池の絵、8号の絵を教授の奥さんがとても気に入って是非売ってくれだって」

「ええっ、本当、8号の絵を、本当に。嬉しい、是非額に収めて自分で持ってくわ」

天にも昇る思いで早速大樹さんと共に教授宅を訪れた。

東京の世田谷の一角、静かな住宅街にその家はあった。教授が生まれ育った家らしいと大樹さんが教えてくれた。杉並の大樹さんの実家も元々は住宅街だったが、この頃はややその面影が薄れつつあって、大樹さん自身は寂しく思っているのは間違いない。

インターホンを押す。返事の後直ぐに声の主が現れた。実に品の良い年配の女性が現れた。教授の奥様にしては少しお年を召されているように感じないでもない。

「島崎多恵と申します。あの、画名は河原崎多恵と成っております。主、主人が何時もお世話に成っております.この度は私の画をお買い上げ下さるとの事本当にありがとうございます」

「フフフ、何時もお世話なんかしていませんわよ、大抵,玄関で挨拶するくらいで、後は主人任せ」」

「あ,済みません、何時も簡単な挨拶で済ませまして。改めて、わたしが何時も教授に世話に成ってる島田大樹です」

「そんなことは如何でも良いわよ、それより画を見たいわ。主人から写真を見せてもらった時からズーと、本物に会いたくて会いたくて堪らなかったの。ささ此方に上がって上がって」

一応手土産を渡して通された部屋のテーブルの上に入れてきたビニール袋から箱を取り出した。

「ちょと待ってて、落ち着いてゆっくり見たいから、主人とお茶を持ってくるわ。主人を持って来るなんて可笑しいけど」夫人は笑いながら部屋を出て行った。

「やあ、島田君。それから此方が奥さんで画家の河原崎多恵さんだ。お目にかかるのは結婚式以来だなあ」

ニコニコ笑いながら教授が部屋へ入って来た。

「はい、ご無沙汰しています。あれから10年以上の歳月が流れました。でも10年ってあっと言う間ですね、まだ昨日のような気がしますなんて、もうウエデイングドレスなんて似合いませんが・・」

「ハハハ、いや、まだまだ似合いますよ、な、島田君」

「え、あ、はい、いやそのう、女性は、どの女性も幾つになってもウエデイングドレスは似合うと思いますよ」

「そうか、幾つになっても似合うか・・」

その時,夫人が紅茶とケーキを乗せたワゴンを押して現れた。

「何だか楽しそうね、ウェデイングとか何とか聞こえましたけど、どなたか結婚なさるの」

「いや、そうじゃなくて、多恵さんがもうウエデイングドレスは似合わないって言うから、僕がまだ似合うって言ったら、島田君が女性は幾つになっても似合うって言うんだ」

紅茶とケーキをテーブルの上に多恵さんと一緒に並べながら・夫人は呟いた。

「まあ、素敵な発想。うーん、ウエデイングドレスねえ、1度は着てみたかったわ、わたしも」

「では和装でなさいましたの?」

「イエイエ、わたし達ね、ほら、年が離れていると言うか、わたしの方が随分年上でしょう、此方の両親に反対されて、やっと認めてもらえたのがこの人が教授になれてから」

「と言うか、その時は両親も年取って体が弱り、介護の人間が必要だったと言う訳です。勝手なもんですよ」

「まま、そんな話はさて置いて、早く画を見せてくださいな」

「その箱の中に入っています。どうぞ、奥様の手で開けてやって下さい」

夫人は嬉しそうに両手で蓋を開く。。

「まあ素敵!思っている以上に素晴しいわ、これ少し霧がかかっているのかしら?」

「はい、霧が峰と言うだけあって良く霧が出る所なんです。晴れている時の八島ケ池の画も有ったのですが、此方の方がお望みだったので」

「ええ、此方の方が何となく心引かれるものがあって。ええ、ええ、、こっちの方がわたしにはピッタリよ、ウーン素敵。ねえ、あなたもそう思わない?」

「僕も初めからこの画が一番君にぴったりだと思っていたよ。こうして実際に手にすると、又格別に胸に迫るものがあるよ。島田君が多恵さんの画に一目惚れし、ついでに多恵さんにも一目惚れしたと言う意味が、今良く解ったよ。これまでは多恵さんの方に引かれて、照れ隠しにそう言ってるんだと信じていたんだがねえ」

大樹さん、大いに頭を掻き、汗もかいた。

「早速飾ろう、玄関に!もう準備はしてあるんだ」そう言うと教授は画を持ってスタスタと玄関へ。後から皆もゾロゾロ。無事画は教授宅の玄関を光り輝かせる任務に着いた。

大樹さんは教授に見せたい本が手に入ったと言われて、教授の書斎に消えた。多恵さんと夫人は応接間に戻る。

「わたしと主人の事、驚きません?初めて玄関で会った時、随分年配の女性が現れて、この人誰かと思ったでしょう?いえ良いのよ、わたしだってそう思いますもの。わたし昔看護師だったんです、ある大きな病院の」

「看護師さん、ですか?大変なお仕事ですよね。わたしの友人にも看護師さんになって、今も独身で頑張っています。彼女の家の前を通る事があるんですが、中々タイミングが合わなくて,高校卒業以来会えていないんです」

「わたしも40まで独身で頑張っていました。少し寂しいと思う事もありましたが、でも遣り甲斐がありますし、みんなが頼りにしてくれてますので、結婚の事考えてもいなかったんです。まあ好きな人も出来なかったんですが,フフフ」

「では、何処で教授とお会いになられたのですか?」

「俊彦さん、あの人中谷俊彦て言うのよ、わたしは」

「久美子さんでいらしゃいましたね」

「ええ、ご存知でしたの?」

「勿論ですとも、大事なお客様でも有りますし、島田が尊敬し、又目をかけて頂いている方の、奥様でもある方のお名前を知らないわけがありますでしょうか」

「フフフ、それもそうねえ。その俊彦さんが交通事故で緊急搬送されて来たの。彼は今もそうだけど本の虫で、丁度それまで欲しいと思っていた本をたまたま入った古書店で見つけ、手に入れたのは良かったんだけど、家に帰るまで待ちきれず、夢中になって詠み始めたの。まあ、それまでにも電信柱にぶつかったり、自転車に撥ねられそうには何回もあったらしいと言うか、今も有りますが、その時はバイクに撥ねられてしまったの」

「まあ、大変。お怪我はどの位だったんですか?」

「本人にして見れば大怪我,重症と思っていたんでしょうけど、医学的には足の骨1本折れていたのと、かすり傷、打撲がある程度。わたし達から見れば大したものでは有りませんでした。でも頭も打っていましたから1週間ばかり入院てことになりました。彼にとって世話をしてくれるわたしが光り輝く天使に見えたそうですよ。でも大抵の患者さんにとって看護師は矢張りありがたいものですからね、だから彼の思いを一過性のものだと受け止めていました。退院しても、リハビリが終わって普通に歩けるようになっても、彼の気持ちは変らなかったそうです。でも彼はまだまだ大学の博士コースに在籍する身、収入も時々入るアルバイトだけ。それも殆どが書籍代で消えてしまう。わたしの周りをうろつくしかない、声もかけられない、ストーカー状態ですよね、今で言えば」

「それで如何なさったの教授は?」

「わたし、言ってやりました、早く目を覚ましたら、あなたの足はもう治ってしまったの。もうわたしの看護も手助けも要らないのよ。そしたら彼はこう言ったの、足には介護は要らないけど、まだ僕の心には傷があってあなたの看護が必要だと言ってるんですって」

「まあ、素晴しい言葉。詩人にも成れましたわねえ」

「仕方無しに、少し付き合ってやったらわたしと彼の年齢差やわたしの容貌等に気がついて慌てて元の自分に戻るだろうと思ったの。デートと言ってもみんなわたし持ち、只時間だけは全てわたしの都合に合わせてね」

「勿論そ言う事になりますわね。それで如何なさいました?」

「彼は全然変らなかったの。変ったのはわたし。彼の誠実さや、学問に対する情熱。ああ、あなたのご主人も同じ穴の狢だったわねえ、彼等の学問、特に思想や宗教に対する考えを話す時の目の輝き、あれを見てると何だかぐいぐい惹き付けられて行って、気がつくとすっかり彼の虜。友人達は言ったわ、彼に利用されてんのよ、あなたは金ずるに過ぎないのよって。そうよね、馬鹿だなわたしって、16歳も年上、決して美人じゃない、スタイルだって寸胴型だし、大金持ちでもない。有るのは看護師やって遊びもしないでこつこつ貯めた小金だけ。でも独身で金も無く女の子とも遊べない男にとっては、そりゃあ勿体無いような物件だわ、ポンコツ状態の肉体を覗けば」

「まあ、随分謙遜なさるんですね、まだまだ40歳は女盛り、男性にとってみれば魅力一杯、返って

お尻の青い子より好きなんて言う男性が沢山いますわ」

「それは・・わたしには当てはまらないと思うわ。矢張り彼とは別れるべきと決心して彼に言ったの、もう会わない様にしましょう、あなたが職を得れば幾らでも若い女性と付き合えるわ。今まで色々な話を聞かせてくれてありがとう。とても楽しかったけど、これからはもう別々の道を歩かなくてはいけないわ。心の傷はもうすっかり治っているはずだわ」

「哀しい決断ですね。教授の返事は如何でした?」

「あの人は言ったの、僕は女性と話したくって、女性と付き合いたくってあなたとこうして向き合っているんじゃない。僕はあなたと話したい、あなたの側に居たいんです。御免なさい、僕にはお金がない、力も無いし、これと言って何の取り得もない。大学院を出てから先のことはまだ分からない。あなたが僕と別れたい気持ちはよーく分かります。でももう少し待っててくれませんか?何とか教授と話し合って進路だけでも決めてきます。そうすれば少しは僕を見直してくれますかって」

「まあ、彼は本当に奥様を愛していらしゃったのねえ」

「彼は暫くしてから,やっと空きが出来て助手になれたの。わたしの小さなアパートでささやかな祝福の宴を、と言っても二人だけの宴を、開いたの。結婚しようと言われたけど、年の差と言う壁が立ちふさがってる。聞けば世田谷の元々は何代も続く名家らしい。でも主人に言わせれば、今は只のサラリーマンに過ぎない,看護師の方が他人から見ればズーと世の為に尽くしている。何も臆する事はない、堂々と二人で報告しよう」

「まあ、益々素敵。ほんとに素晴しい方ですね」

「わたしの方は、もう娘は結婚しないものと諦めていましたから、万が一男に騙されていても、一度位は結婚してみたいだろうからって承知してくれました。でもちょと酷いですよね、これ。ホホホ」久美子さんは可笑しくて堪らないように笑い転げた。

「失礼、主人の方はさっき話した通り大反対でしたよ、でもそれは当たり前、何処の親が16も年上の女と大学院まで出した息子を諸手を挙げて結婚させようなんて考えるでしょうか?仕方なく式を挙げる事無く結婚生活を始めました。益々わたしの親は、貧乏男に騙されていると思い込んだみたいですよ。向こうは向こうで、早く目が覚めて年上女と別れ、若い女性と一緒に成ってくれないかと願っていたらしいです」「教授にはご兄弟はいらしゃらないのですか?」

「妹さんが一人。大学を出て直ぐに就職。間も無く結婚して今は多摩川の方に住んでいます。彼女はわたし達の事に口出しは一切無し、如何思っていたかは・・でも矢張りわたしを姉だとは言いたくないようで

その肝心の主人もわたしの事、なるべく人前に出したくないと思っているんです」

「えっ、そんな事・・」

「だって、ほらあなた方の結婚式の時、彼一人で出席したでしょう」

「そう言えば、奥様は風邪を召されたとかお聞きしましたけど」

「何時もそうなの。わたし、一年に2,3回ほど酷い風邪を引かされますの、熱も咳きも出ない風邪をね

フフフ」

今度も夫人は笑い転げたが笑い声には心なしか力が無かった。

「そんな訳で結婚しても、お陰でズーと、わたしも看護師の仕事を続けられましたし,煩わしい親戚づきあいや、近所づきあいなども無くて、気楽と言えば気楽でしたよ」

「それはそうでしょうけど・・」

「間も無くわたしの父が亡くなり、気落ちした母も亡くなりました。俊彦さんは講師から准教授になりどうやら、騙されていないようだと安心する一方、孫の顔が見られなっかったのが寂しいと言い残して。最後の一言が余計ですよね。両親は青梅の方に住んでいました、代々ね。看護師ですから看病はお手の物ですから、近くに住んでいたら、面倒見てやれたんですが、中々、手が回らなくて残念でした。それから暫くして、彼がやっと教授に成れたんです。教授になったと言うのは妹さん経由で此方の両親に伝わったらしいです。その頃俊彦さんのお父さんが脳溢血で倒れ、寝たっきりに成ってしまって、そこで白羽の矢がわたしに向けられたの。年も年ですので長年勤めた病院を辞め、ここへ足を踏み入れたと言うわけです」

「でも大変だったでしょう、何年くらいお世話なさったのですか?」

「義父の方は6年くらいかしら.男の方は女の方より矢張り手も焼きますし力も要ります。だから義母がいて助かりました。お陰でわたしと義母は大の仲良しになりましたよ。その後義母も病気になりましたけど、暫くこの家で過ごし入院しました。最後にはわたしの手を取って結婚を反対した事を詫びて、もっと早くわたしと一緒に過ごしたかったと言ってくれました」

「それは何よりだったですわ、お母様にとっても」

「ええ、本当。まあ長々とわたしの話につき合わせて仕舞いましたわね。あちらの話が終わるまで如何です、狭いですけどお庭でも如何ですか?」

「はい、お花綺麗ですね、この所暑かったり雨が続いたりして、中々花にとっては難しい季節ですのに」

「あら、あなたも園芸好きなんですね?」

「いえいえ、わたしの母が好きなんです。子供の頃は、わたしより花の方が好きなんじゃないかって、やきもちを起こして、母を困らせたもんです」

「まあ、それはそれは。じゃあ花の画は?」

「描く事は描きますが、それを主題にする事はありません」

「三つ子の魂って言うわけですね。でも花には何の罪もありませんよ,あなたの描いたバラやボタンの画も見てみたいわ」

「3号や6号のなら幾つか有りますが、今度花の画の写真撮って送ります。友達はこの頃のわたしの花の画は、前より愛情がこもっているようだって言ってくれるんですが」

「フフフ、大分恨みも消えてきたと言う所かしら」

その時こつこつとガラス戸を叩く音。ガラス戸の向こうには、教授と大樹さん。

「やっと本の品評会が終わったらしいわ。何時も島田さんが来ると二人で書斎に入り込んだ切なのよ、お茶も飲まないで」と夫人が笑う。

「済みません、何時もお邪魔しているみたいで」

「良いのよ、あの二人似た物同士、とても気が合うのよ。本とは養子に欲しいくらいなの、冗談抜きに」

「ええっ、で、でも、あの人、妹さんは居るけれど、男の子は一人だから・・・」

「無理は分かっているんだけど、そう簡単には諦めないわよ、あの人。わたしの時の事、考えるとね」

「そう、そうですわねえ」

大樹さんが庭に出てきた。

「良い本,見せて頂きました。ありがとうございます。今日はこれで失礼いたします。代金も教授から頂きまして、重ね重ね感謝いたします。この頃こいつがため息をついているので、ハハーン、屹度又何処かにスケッチ旅行に行きたいんだろうと思っておりました。何しろまだマンションのローンもありますし、娘もこれからですし、そう自由に使えるお金がないと考えて言い出せないでいたんだと思います」

大樹さんはお見通しだ。多恵さん驚くやら、恥ずかしやらで上を向いたり下を見たり。

「フフフ、何もかも分かっていらしゃるのね。羨ましいような、怖いような。これじゃあ隠し立ては全く出来ませんわね、多恵さん」

「ええ本とに」

「それは一緒に成ってからの話で。その前の彼女の事は全く分かりませんし、ま、知りたいとも思いませんが、ハハハ」

教授にも挨拶を済ませ、夫人には花の画の写真をメールで送る約束をし門に向かう。そこで多恵さん、あることを思い出した。

「あのう、中谷先生、奥様はもう風邪は治っていらしゃいますよ。そうおしゃっておられました」

「え?」教授は吃驚して奥様に目を向ける。奥様は只ニッコリ。

「では、本日は本当にありがとうございました。必ず良い画を描いてまいります」と多恵さんは大樹さんともども教授宅を後にした。

 

 さあこれで資金は十分出来た。少し気がかりな事もあるけれど、それは今後のことに任せて、今は目指せ秋の北海道。あの紅葉の雄大さよ、若い時に見た時とは心も環境も違う、北海道も又そうだろう。その違った北海道に向き合い、わたしは如何感じるのか、待ってろ、描きとってくれよう、なんて言ってみても二泊三日の旅、そんなに大見得切れるわけではないのだ。

 先ずは目的地は旭岳。伯父が昔熊に襲われそうになり、アンパンかジャムパンかで手なずけて逃げたとか云うホラ話に彩られた山。

今回は飛行機で行こう。しかし旅行の手助けになればと買ってきたガイドブック、何処を見ても旭岳の記述がない。昔そこへ行く宿泊先に選んだ天人境などその存在さえ怪しい。ええい、これじゃあ何にもならない、カラー写真で厚くて大きくてとその見栄えに騙されて買ってきてしまった。

買いなおそうと思ったがあれやこれやと主婦は忙しい。頼るはパソコン。こっちもホテルだ、グルメだと商業第一主義の匂いがぷんぷんするが、あの本よりは百倍は良いかも。

一日目は旭岳と決めていたので空港から近いから問題はなさそうだが、2日目が黒岳、層雲峡だ。そこは旭岳の反対側になる。よって、旭岳からその日の内に、旭川に戻って泊まり、朝、そこを出発した方が一番、時間的に有効的旅と言えよう。天人境には未練は有るが、一日目の宿泊地は旭川に決めた。

でも、旭岳をゆっくり散策し、スケッチするためにはどうしても早朝の出発を余儀なくされる。

逡巡する多恵さん。

「大丈夫だよ、真理の事なら僕がいるよ。安心して行っておいで。只、ヒグマが出没する時期だろう、人気の無いとこには余り行かないようにね、腕に自身はあるだろうけどさ」

「まさか、ヒグマとは決闘なんかしないわよ、一目散に逃げるに決まっているわ」

「大伯父さんみたいにアンパン投げて」真理ちゃんが横から口を挟む。

「そうね、アンパン10個ぐらい買っていかなくちゃ」

これで無事1日目は決まった。

2日目は黒岳にロープウエイで山頂近くに立てば、あの這い松とハーモニー織り成す大紅葉を又目にする事が出来るのだ。ここはゆっくり層雲峡も十分堪能して、そう、この地に宿を取ろう。

3日目、ここでレンタカーを借りる。そして新しい観光地、美瑛町に突如出来たと言う白金の青い池を目指して突っ走る。

如何だろう、一応これが多恵さんの立てた計画。

今は便利に成った、商業主義ではあるけれど、昔みたいに時刻表と睨めっこしながら計画を練るなんて事も無くなってしまった。あれはあれでとても味わい深く、人知れず期間限定の臨時列車を思わぬ所に発見し悦に入っていた事もある。こんな事を利用して推理物を作ったりするんだろうなとも思ったりもした。

 翌日から予約やお隣の藤井夫人に真理の事を頼んだり、たった三日ではあるが家の用事も片付けていく。主婦が家を空けるのって大変だ。

飛行機は羽田発7時45分だから、何かトラブルが起こらない限り、月見駅を5時30分に出発すれば余裕で間に合う筈だ。

流石に早朝のホームには人影はまばら。今は東京、上野ラインが出来た為、品川から羽田へ行けるので可なり時間の節約になるし、乗り換え一本で済むのでとてもありがたい。

トラブルなしで無事飛行機に乗り込む事が出来た。当たり前と言えばそれまでだが、昔、長崎へ行く時、電車が何かのトラブルで長い事信号待ちをさせられ、焦りに焦ったことがあり、それがトラウマになっているのだ。

飛行機もガラガラだった。荷物も全部機内持込。何故なら旭岳ロープウエイ駅行きのバスに乗るには、

余り時間に余裕がないから、着いたら即猛ダッシュしなくてはいけないのだ。悠長に自分の手荷物が出て来るのを待ってはいられない。

まあ朝も早かったことだし、少し仮眠を取ろう。この間みたいに幽霊のお供もないし、気分も最高。何しろ、自分の稼いだお金で旅行出きるんだもの。多恵さんにして見ればヤッホーと叫びたいくらいだ。

ウトウトとしたと思ったらもう旭川空港に到着のお知らせ。ウーンまだ寝たりない、でもバス停までダッシュしなくちゃいけないんだ、ここはハッキリお目目を覚まして置かなくちゃ。

空港に降り立つ、旭岳温泉行きのバスは何処かしら?ここは案内員の人に聞こうと足を向けた時だった。

「旭岳はこっちですよ、こっち」と声がする。

「あ、ありがとうございます」まだ尋ねてもいないのに教えてくれる親切な人がいるもんだ。

わたしの行く先分かるなんて凄いと思いながら、多恵さんギョッとする。そこには何とまたまた彼が、杉山君が良介君を従え立っていた。

「あなた達、又来たの?何処から情報仕入れてんのよ、気持ち悪いわ」

「ヘヘヘ、蛇の道は蛇って云うでしょう。好きな人の情報は聞こえて来るんですよ、勝手に」

「ウーン怪しい、見張ってるんじゃないの、何処からか」

「そんなことよりバスに乗らなくちゃいけないんでしょう、ここは先ずバスに乗ってから」

多恵さん、バスの事を思い出した。何の為早起きして、早朝の飛行機に乗ったのか、幽霊と言い争っている場合ではない。兎も角バスに飛び乗ろう。

ゆっくり、バスは動き出す。久しぶりの北海道。あの時も一人旅だった。お金はなかったが、時間だけはたっぷりあった。今回は見かけは一人旅だが幽霊のお供が二人。お金はあの時より増えたが、時間はない。人生は大抵が上手くは行かないものだ。その中では多恵さんはズーと上手く行ってる方だ。教授夫人に引き合わせてくださった神に感謝、あの画を描かせてくださったミユーズに感謝。これから屹度素晴しい景色に逢わせてくれるだろう北海道に感謝。だから少ないチャンスをしっかり受け止めて、必ず良い画を描こう。

その時、あれ幽霊君たちはと気になって周りを見回す。居た居た。このバスは旭川がスタート地点なのと旭岳の麓に着くのに一番良い時間と成るので、結構込んでいたから、わたしの側に座りたくてもそうは行かない。彼等は何と運転席の横に設けられた手荷物置き場の上辺りを浮揚していた。多恵さんが気付いたのが嬉しいのか、盛んに手を振っている。しかし多恵さんが手を振るわけには行かない、只にんまりとするだけだ。

どうやら旭岳ロープウエイ駅に着いたようだ。どどっと大抵の人が降りていく。勿論多恵さんも降り立った。おおっ、さっきはバスの時間と幽霊君に気を取られて余り感じなかったが、今しみじみと北海道の空気を肌に感じる。からっとした中に少しの冷気、これが北海道の秋だ。しかしこれはか描けないなと密かに思い密かに笑う。兎も角邪魔な旅行バックなどをロッカーに預けよう。

勿論その前に、もっと寒くなった時のため、一応ヤッケを出して置かなくちゃいけないなと多恵さんバックの中をガサコソ。ヤレヤレやっと荷物をロッカーに押し込んだ。直ぐ隣で同じような事をしている若い女性と顔を合わせ、思わずニッコリ。

「どちらからですか?」多恵さん、声をかける。

「札幌からです」

「えっ、随分近くからですね。わたしはマガタマ市から、朝2番目の飛行機で」

「それは大変でしたね。札幌は確かに近いですが、わたしはこれが初めての北海道旅行なんです。元々は栃木出身で大学は青森。札幌には就職で来たんです。中々休みが取れなくて今回やっとまとまった休みが取れて、手始めに大雪山当たりから攻めようと思いました。何しろ大雪山は北海道のど真ん中、それにこれから行く旭岳はその中心、一番高い山でしょう。ここに上らなくちゃ、北海道に住んでるって大きな顔出来ませんよ」

「まあ、登山もなさるの?縦断なさったりして、ヒグマには気をつけなきゃ」

「この頃は、この旭岳には出没する事はなくなりましたが、旭岳を外れるといるらしいですね。でもそこまでは登山好きではないので、今回は止めて起きます。若しするとしたら高山植物が咲き乱れる6,7月頃が良いと思います」

二人連れ添ってロープウエイ乗り場へ向かう。

彼女、多恵さんの荷物に気がついた。

「随分沢山の荷物を持っていかれるんですねえ、登山はなさらないんでしょう?」

「はい、わたし、実は画家やってるんです。これは描く為の道具が入ってるんです。勿論カメラも入っていますけど。記憶が定かでない時にはとても便利です。嫌う方もいらしゃるけど、わたしは大いに活用してますわ」

「画家でいらしゃるの?じゃ、旭岳描きたくなりますよね、絶対」

「ふふふ、山を描かない画家の人もいますけど、わたしは自然の織り成す景色に心動かされる方だから、絶対、旭岳描きたくなります」

二人は顔を見合わせて笑った。ロープウエイに乗り込む。

10分ほどの空中散歩。そこから見える木々もうっすら色好き始めているのから推理すればロープウエイの先には期待に答える景色が待ってるはずだ。

「わたしの伯父にホラ吹き男と云われる人がいまして、その人がこの旭岳に登った頃はまだヒグマの目撃情報があって、帰り道、徒歩で下山している時、後ろの方でガサゴソ熊らしき音がしたそうです」

「ええっ、それで如何したんですか?」

「伯父は熊に俺は食べても旨くないぞ、このアンパンの方が百倍は旨いからこっちを食べろと、持っていたアンパンを投げて必死に走り降りたそうです。だから今回、家族の者がヒグマの事を心配しまして、アンパンを10個位持って云ったらと勧められました。でも今はヒグマは出なくなってしまったから、あのヒグマも押しかける観光客には勝てなかったと言う事か」

「日本人は随分色んなものを絶滅に追いやりましたから」

「本当、狭い国土だからと言っても何とか守って生きたいですね、自然は人間だけの物じゃないから」

走行しているうちに目的地姿見駅に着いた。

流石に山の上は肌寒い。

「そうそう、このの駅のコロッケは美味しいそうですよ、わたし、機内で持ってきたお握り少し食べたきりだから、ちょっと腹ごしらえしなくちゃ。勿論アンパン、ジャムパン、チョコレート等言われた通りパンは色々取り揃えて来ましたけど」

「じゃあ、わたしも腹ごしらえしましょう。モチ、朝御飯はきちんと食べてきましたし、お弁当も持ってきましたけど。それにここから先トイレはないそうですからそちらも済ませておかなくちゃ」 

二人はコロッケとソーセージ、コーヒーを手に入れた。

「何処辺りで描かれます」

「そうねえ、決めてないけど、最終的には姿見池のあたりに成ると思うな、わたしが一番感動を受けた所。でもその他の所も感動受けたらスケッチするのよ。これから描くモチーフにも成るから」

「そうですよね、わたしも色んなとこ写真撮って・・」

「見せたい人が居るのね」

彼女、下を向く.さっきまでの快活さが消えてしまった。

「写真沢山とって、見せてあげれば良いじゃない。こんな素晴しい所の写真見せられて嫌がる人は居ないわ」

「彼、研修でアメリカに行ってしまったんです。2,3年は帰って来ないと思う。それに彼にはもう、奥さんも居るし、子供も居るんだ」

多恵さん、言葉に詰まる。目の前には緑の中に鮮やかな黄色や赤、オレンジの紅葉、黄葉が広がっている。

「手紙書きなさい。写真も送ればいいわ。そして、どんなにここが雄大で素晴しいか、あなたも奥さんや子供さんを連れて、日本に帰ったら是非訪れて見て下さいって言葉を添えるのよ。今は彼のことを諦めるのはとても出来ないと思うから、わたしは、今あなたにその人と決別しなさいとは言わないわ。わたしは屹度、時があなたの心を癒し、あなたに何かが、別の何かが生まれてくると信じているわ」

コロッケは暖かく,そのホクホク感がこの少し肌寒い山に向かう人々の心を満たしてくれる。

女性は前を見つめていた。彼女の目にも公平に色鮮やかで、広大なる山の世界は広がっているはずだ。

「わたしには、今の自分の心が分からない。本当に彼を好きだったのかさえ、今になって振り返るとあやふやで、定かでない気がします。屹度彼も同じ思いではないでしょうか。わたし達が遠く引き裂かれたのは、天の配剤かも知れませんね。少しは一抹の不安を感じていらした奥様も今頃はホッとしていらしゃるでしょう。でも写真は撮ります。沢山撮って、そうですね、もし気が向いたら送ってやります。あなたの言われた言葉を添えて。若しそれが出来ればわたしの心が彼に別れを告げた時だと思います」

彼女はそう言うと、コロッケとソーセージをパクパク平らげた。多恵さんも負けずに平らげる。ついでにコーヒーも飲み干した。

「そこまで、夫婦池と言われる擂鉢池と鏡池のある辺りまで一緒に行きましょうか?第3展望台まで」

「その前に描きたい所があったら如何します」

「そうねえ、一応、チェックと写真は撮るとして・・どうしても描きたい時にぶつかったらそのときは失礼して、さよならと言う事にさせてもらうわ」

「ええ、ええ。それなら安心してご一緒しましょう」

そこで多恵さん気がついた。あの二人、一体どうしてる。屹度いじけているに違いない。

おんや?二人ではない、又三人連れに成っている。しかし一人は新入り,4,50代の優しそうな男性。

いじけては居なかった。何やらソフトクリームを食べながら談笑している。

これなら彼等も心配無用と言う所かな、と荷物を背負って立ち上がる。

「何方かご存知の方でも見かけましたか?」多恵さんの様子に彼女が尋ねる。

「いいえ、ちょと気になることが。大したことではありません」

二人は歩き出す。良い天気だ、秋晴れだ。この間来た時はこんなには晴れていなっかった様に記憶している。その証拠にはこんなに紅葉が色鮮やかでなっかった記憶がある。

第一展望台に着く。雄大な旭岳から此方に向かって、流れでているように迫る高山植物の紅葉。赤も深い赤から赤、ピンクがかった物、オレンジを帯びた物、朱色。それに黄色も少し。白い穂のように突き出た物も良いアクセントだ。みんな興奮してるかの様に写真を取り捲る。多恵さんも彼女も負けてはいない。

「でもここは本の入り口だわ。ここで興奮してちゃ後が続かないわね、増してあなたはこれから登山するんでしょう。ここはこの位にして次行きましょう」

「だけど、山の方には植物は生えていないんですよ,紅葉はここいらだけの楽しみなんですよ」

「ああ、そうか、森林限界線と云うのがあるんだっけ」

でも二人は次の展望台へ向かう事にする。

ここはその草紅葉の真上に作られている感じでより一層その華やかさを、そしてその終わりを感じ取る事が出来る場所だった。

「植物は自分達の最後にあたって、どうしてこんなに華やかな色で幕を閉じるのかしら?どんなに華やかにまとっても、虫一つ飛んで来はしないのに」

「若しかしたら、わたし達を喜ばせる為かも知れないわね、死という物は怖くない,死んで土に返り,又蘇って来るんだからって」

ここでも勿論二人は写真をドッサリと撮る。

いよいよ次が二人が分かれる所になる、夫婦池。深くて少し小ぶりなのが擂鉢池で、大振りでゆったりとしているのが鏡池と名付けられている。

本当に今日の天気に感謝すべきだ。花も紅葉も、そして水の色も太陽と青い空あってのこの美しさ。

「ああ、綺麗。まるで夢の中に居るみたい」

感動一しきりの彼女だが、この先にある姿見の池を見たら何と言うだろうか?

信じよう、彼女がこの山を登って見るであろう景色が自分の思いを吹き飛ばしてくれる事を。やがて歩き出す彼女の前に新しい夢と希望が現れることを。

彼女の目の前で画を描く準備を始める。と言っても、イーゼル等立てることもない、スケッチブックに描いて行くだけ。勿論近場の公園等ではイーゼル立てて本格的に描く事もあるが、遠出をする時はこれが一番。荷物が少なくて済む、時間の節約になる、よって沢山の下絵を手に入れることが出来る。万々歳だ。

とは言っても、スケッチブックを立ったままで描くのは少々不安定感を否めないので、出来たら何処か安定した所を見つけて、寄りかかるか、座って描ければ最高だ。

だがこの観光旅行者でごった返す所では贅沢は言っていられない。荷物の入ったバックを台にして色鉛筆やクレパスなどを置き、鉛筆で手に持ったスケッチブックに書き込んでいく。

池が二手に分かれているので先ずは一つずつを主対に据えて描く事にする。

先ずは擂鉢池の方を。やや、左側に寄せる。青い水面に白い雲が浮かんでいるのが良いアクセントだ。

遠くに旭岳、周りは緑の這い松の緑と赤や黄色のナナカマドやタケカンバの織り成す錦絵、ちょっと出来過ぎかなとも思うが、何しろ色鉛筆やクレパスで色をつけるのだから、どんなに強めに塗っても淡い色合いに仕上がるので心配後無用。

そこに写真撮りに夢中になっていた彼女が帰って来た。

「わあ、早い。もうそこまで描けてるんですね。素敵、良い色合い。実際の景色も素晴しいけど、こうした画を見せられると、画にはこう云った色の方がズーッと良い様な感じです」

その言葉に周りに集まった見物人達も一斉に賛成の声を上げた。

「ありがとう、あなた登山をするんでしょう。早く出発した方が良いわ、お名残惜しいけど」

「ええ、わたし、香山由佳といいます。忘れても構いませんけど、ほんの少しだけ心に留めて置いてもらえたら、とっても嬉しいです」

「あ、そうだったわねえ、本とは最初に自己紹介しなくちゃいけなっかったのに、御免なさい。わたし、画名は河原崎多恵と言うの。まあ、それだけで良いわよね、戸籍上のなまえは?でもわたしの名前も直ぐ忘れて良いわよ、お互い袖擦れ合った仲だけなんだから。若しこの次ぎ会う事があるなら、それは余程の縁に違いないと思うから,その時はきちんと互いに憶え合いましょうか。では、気をつけて登ってらしゃい。さようなら」

「ええ、気をつけて登ってきます。良い画を沢山描いてください、失礼します」

由佳さんは暫く行ってから、1度後ろを振り返り、ニッコリ藁ってお辞儀をして去って行った。

再び多恵さん、目の前の景色に向かう。今度は鏡池。しかし、ここからのアングルが多恵さんにはピッタリ来ない。場所を移動しよう。道具を持って前に来た方へ戻ることにした。その方がどうも収まりが良いようだ。

「相変わらず、場所探し大変ですね」後ろから声が掛かった。杉山君の声だ。

「生きてる人間なら、あらあなた、生きていたのねって声かけるとこだけど、もう死んでる人には何と声をかけるべきか?兎も角今まで随分大人しくしていてくれたと思ったら、またまた、知らない人が増えたのねえ」

多恵さん,新入りさんを見やる。彼、笑いながら頭をかき、会釈をした。

「わたしは宇田川恵介と言います。杉山さん達がとても暖かい,幽霊の身で温かいは可笑しいかな、でも兎も角良い人達、いや幽霊さんみたいで声をかけたんです。一人ぼっちは矢張り、幽霊でも心もとなく寂しいもので、ハハハ。ほんとにこの二人は良い人達で楽しく旅が出来るように思えます。聞けば、あなたには幽霊がお見えに成るらしいいとか、実はそう云う人が居たら良いのにと願っていたんです。まあ、その時が来たら詳しくお話いたしますが、わたし、悪い人間では、いや、幽霊では有りませんので安心してお側に居させてください。では今後とも、何とぞ宜しくお願いいたします」

宇田川氏は前に出会った頃の3人とは少し違った雰囲気を持つ幽霊さんだ。どう見ても酒や博打に溺れるん人間には見えないし、悲恋の果てに事故死する男にも見えない。

「あ、はい、こちらこそ宜しくお願いします。でも宇田川さんはこっちの二人みたいな不幸の影は見えないわ、幽霊らしくないと言うべきか、この世に恨みを残して死んだんじゃないでしょう?」

「流石、河原崎さん、御名答。彼は僕らより数段上のもう少しで守護霊に成れるかなあと言うところの幽霊さんでいらしゃるのさ」

「それがどうして昼間からうろついているわけ」

「彼は愛妻家なんだ。でも運命は残酷、その愛する妻と息子二人を残して彼は40半ばで癌で死んでしままわなければいけなかったんだ。それから彼は残された奥さんが心配で心配で、二十数年、今までズーと見守って来たとか。今は子供たちも夫々独り立ちし、ヤレヤレと肩の荷を降ろそうと思ってたら、その愛する奥さんが」

「あ、ちょっと待ってて。ここ、ここが良いわ、ここが一番、わたしの心に来る場所。ここに決めたわ。描く準備をするから、少しどいてね」

多恵さん、又スケッチブックを取り出し描き始めた。

「画家さんも中々大変な仕事なんですね」

「それで画が売れなきゃ、もっと大変。好きなことを仕事にして食べていけるのは、本当にそれだけで幸せなことだと思うわ」

「生前に画が売れる人は本の一握り。大抵が諦めて他の仕事をやりながら、本当にやりたい画の方は細々と描いては美術展に発表する。俺の知り合いの画家もその一人」杉山君がため息混じりに呟く。

「それに奥さんもね」多恵さん、幸恵さんの顔を思い浮かべて付け足した。

「え、奥さんが居らしゃるんですか?」宇田川氏が吃驚して杉山君の顔を見つめる。

「はあ、居る事は居るんですが、娘に幽霊になって出たいのは、お母さんの方だと言われましてね、居ずらくなって昔好きだった河原崎さんの所に、ま、旅行中だけなんですが、こうしてお供してるんですよ」

「とても迷惑なんですが、彼が立派な守護霊になるまでは我慢しようかなと、半分諦めムードでいるんです」

「わたしには考えられない。愛する奥さんをほったらかしにして、昔の恋人の所に居るなんて」

「それは違います。わたし達一度も恋人同士になったことは有りません。喫茶店にすら行った事も有りませんし、思った事もありません」多恵さんきっぱり。

「そ、そうです。多恵さんの名誉の為にそこははっきり断言します。勿論そうだったら好いなあとは、思いますよ、おれ自身は。若し、それが適っていたら、あそこまで賭け事にのめりこまなかったかも知れない」

「あら、あなたが賭け事にのめり込んだのはわたしの所為なの?あなたの性格の弱さ故じゃない?」

「河原崎さんが少しでも俺に感心を払っていたら、どんなに嬉しかったか。こんな性格弱い俺でも、それを心の糧に生きて行けたかも知れないって」

「まあ、まあ、二人ともそうむきにならないで。分かりました、要するに杉山さんの一方的な、それも熱烈的片思いと言う訳ですね。ウーンわたしはそれほど情熱的ではありませんから、そう言った女性は居ませんでしたね。妻だけ一筋と言えば格好良いんですが、仕事が忙しくてそれ所じゃなかったですよ。その妻とは30もとうに過ぎて見合い結婚だし、その後直ぐ子供が次々生まれて、妻は子育てに必死、わたしは3人を食べさせる為に必死。上の子が10、下の子が5歳の時、胃癌それも可なり進んでいましてね、手術はしましたが、駄目でした」

宇田川氏は遠くにそびえる旭岳を見つめていた。

「わたしの人生は一体何だったんでしょうね。仕事が、わたしがその仕事が好きだったのか、命と引き換える位に好きだったのなら、ああわたしはこの仕事に命をかけたんだと、胸を張って言えますがね。食用油のセールス、スーパーなんかに売り込みをやってたんですがね、わたしの会社は小さなメーカーなもんで、値引きされるのが厳しくて。取引は成立させたい、でも品質を落とさない為にも、そんなに値引きは出来ないとね、毎日毎日心を痛めましたよ、ハハハ」宇田川氏の寂しい笑い声。

ウーンと多恵さん考える。そう云えば、大好きだったスペイン産のオリーブ油がある日忽然とスーパーから消えた。じゃこっちのスーパーは?矢張り消えていた。何処もなくなっていた。スペイン産のは他にもあるけれど、安いのも高いのも、懐具合と相談しながら先ず高いものから試してみた。全く期待はずれだった.安い物は論外だ。小さな(?)貿易会社だったから消えたのか、スーパーの人に聞いても分からない。今だ謎である。今は仕方なく大手の会社のスーパーでは高い方のオリーブ油を使っている。

ま、オリーブ油は香りや味とかに個体差がはっきりしているが、ごま油やエゴま、亜麻仁油,米油などメーカーでどれほど差が有るのか今の所、多恵さんにはサッパリ分からない。増してサラダ油や天麩羅油にいたっては、哀しいかな主婦の性、売り出しに出ている安い方に手が伸びる。

「メーカーとスーパーの両方の為に頑張ったんですね。それは消費者の為でも有るんですもの、それなりに立派な事だとわたしは思います。ねえ、杉山君。と言ってもあんたら、家事のかの字もした事がなさそうな輩には皆目分からないかあ」

「は、はい、建築の事なら分かりますが。お前は如何だ、良介」

「ぼ、僕もさっぱり。僕が分かるのは電気関係ですね」急に振られておたおたする二人。

「ありがとうございます。今までそこまで考えた事無かったので、この長い年月、只残した妻や子供の為に何にも出来ず、死んでしまった事を悔やんできました。これからは少し胸を張って行こうかなと思います」

やれやれ、幽霊さんにも幽霊さんなりの夫々の悩みがあるんだ。それで思い出した、一体彼は何故、ここに居るのだ。幾ら杉山君が愉快で人が良さそうに見えても、用なくしては付いては来ない筈。

「所で宇田川さんはどうしてこの旭岳に来ようとしたんですか?」ここはズバリと聞こう。

「ああ、そうですね。さっき話が途中になってしまったんですね。妻が、妻が息子達も何とか独り立ちしたので、旅行に出かけようと決心したんです。この年月妻もスーパーで働き詰め。ま、職場でのちょとした旅行にはこの頃は出かけていたみたいですが、何処か遠くに行きたいと、この北海道旅行を計画したみたいなんです。わたし、息子達も独り立ちしてホッとして、妻の事をほっぽり出して今まで知らない世界も覗いてみようと、あっちこっち出歩いていたんです。ふと気になって妻の所に戻ると、彼女が居ない。慌てまして、アレコレ調べた所、どうも北海道旅行に出かけたらしい。秋でしょう、北海道は寒い、秋だからヒグマも出る。心配でねえ。居ても立っても居られなくなってわたしもここへやって来たと言う訳です。でも、さっき言った通り、初めての一人旅、心許無くて心許無くて。そこでお会いしたのが杉山さん達。助かりました地獄に仏、いや幽霊ですね、ハハハ」

スケッチを描き終わり、第4展望台に向かうべくそこを手早く片付けるとひょいと道具箱を肩に乗せ、周りで彼女の画を覗いていた人達に会釈をして歩き出す。

「それにしても奥さん思いなんです。もう20年にもなるんでしょう、ほっといても大丈夫ですよ、奥さん一人でも立派に生きて来られたんですから」

「ええ、それはそうですが・・でも矢張り気になります。わたしが生きてる時にはとてもシャイで、何でもわたしに頼ってましたから」

多恵さん、可笑しくなって少し笑う。

「それは、屹度奥様も同じ。家の人は何にも出来ないんだから、わたしが死んだら如何するのかしらって大抵の奥さん方が思っていますよ。でもどうにか成るんですよね、人間ですもの、生きて行くからには、夫々工夫し、強くなって生きて行くしかないのですもの。奥様はもうあなたが生きていらしゃた頃の奥様じゃない,大地にしっかり足を着けてこの20年間を生き抜いていらしたんですわ」

「それはそうですよね、やんちゃ盛りの男の子二人を抱えて生きていかなくちゃならなかったんですから。これでどちらか女の子ならアイツも少しは楽だったかも知れませんが、あの子達と来たら、歳は離れているのに、取っ組み合いの喧嘩ばかり、幽霊のわたしさえ溜息が出る始末。まあ、それでもまともに育って呉れて、ほんとに妻には感謝感謝ですよ」

「杉山君聞いてる、あなたもこんな所でアイスを食べてないで、幸恵さんの所に帰ったら如何なの?初めはお嬢さんに煙たがれても、そのうち許してくれるわよ、仕方の無いお父さんだけどと」

いきなり喋りかけられ、又ソフトクリームを手に入れて、良介君と二人味わっていた杉山君、あたふた。

「ええっ、な何ですか?幸恵がどうかしたんですか、彼と関係あるんですか?」

多恵さん、大きく溜息をつく。

「関係はありません。只あなたも幸恵さんの事気にならないのかと思って」

「イヤー、河原崎さんに幸恵のことまで心配してもらって、ありがたいことです。なあにアイツは大丈夫です、今は実家暮らしですし、職場も近くて、娘はしっかり者だし、なーんも心配なし」

「相変わらず、ノー天気な人。とても自殺なんて考えられないけど、それでも自殺しなくちゃいけなかったとは、余程山程の借金をつくったのねえ。娘さんが怒るのも仕方ないか」

「そうですか、あなたは自殺をなさったんですか。それにしちゃ明るいですね,わたしの方が余程暗いかんじですよ。そちらの若い人は如何なさったんですか?」

良介君がまた聞くも涙、話すも涙の例の話を宇田川氏に聞かせ始めた。

第4展望台に到達。ここには池はない。只見晴らしは素晴しい、まるで紅い海にいるようだ.風が吹くたびに白い穂がうねって、一層その感じが迫って来る。そこも2,3枚スケッチし、写真も3枚撮る。

「そりゃ、酷い。結婚の招待状まで出してねえ、笑い話のネタにになる所でしたよ。生きていたのが良かったのか、交通事故で死んだ方が益しだったのか、分かりませんね、わたしごときには」

宇田川氏、大いに良介君に同情する。

「所であなたの奥様は?ここいらに居らしゃる事に成ってるのかしら」

さっきから、気になってしょうがなかった事を聞く。

「アー、そうですね。予定ではここいら辺りを旅行する事になってるんですが、詳しくは分からないので一応此方から探してみようと考えましてね」

「ここいらは沢山観光する所があるから・・・富良野でしょ、ガーデン巡りや動物園も女性には人気ですから」

「へー、男のわたしには思いつかない発想ですね。そうか、アイツは花や動物好きだったからな、そっちの方に行ってるかも知れない。うん、屹度そうだ。道理で見つからない訳だ」

「でも、ここまで来て旭岳か層雲峡に行かないとは考え難いので、そのうち此方にもいらしゃるとは思いますが・・」

「うん、それはそうですが、ここで野宿をして家内を待つのはどうも。夜は真っ暗でしょう、ヒグマのお化けが出るかも知れないし、第一、夜はここいら寒いし・・」

多恵さん、噴出した。通りすがりの人は一体何事かと彼女を見やる。

「笑わせないで下さい。周りの人から可笑しな奴、頭が変な奴と思われるわ。あなた幽霊でしょう、もう死ぬことないんだから、ヒグマのお化けも怖くないし、幽霊はわたし達よりもうんと体温低いというか、元々体温ないんだから、凍え死ぬなんて考えられない。とは言っても一人は寂しいわよね」

じっと他の幽霊さん達を見やる。二人大慌てで頭と手を振る。

「いやですよ、俺達は今夜、カニを食ったりウニを食べたりしなくてはいけないのです。ここで野宿だ何てとんでもない」

「久しぶりにちょっと温泉にも入りたい気分でもあるんです」

多恵さん先ほどのこともあるので笑いはグッと堪えた。

「はいはい、贅沢三昧の幽霊さん達、仕方がないわねえ。今夜は三人一緒、わたしの泊まるホテルの何処かに隠れていなさいな、大人しくね」

どんどん最後の目的地である姿見の池に近づいて行く。旭岳もグッと近づく、立ち上る白い煙。圧倒的迫力。ケーブルカーの駅名にもなってる姿見の池、風がなければ旭岳を水面に映すと言う池。でも今日は風が少々強い。

「無理かなあ、今日は」多恵さん溜息交じりに呟く。

「な、何が無理なんです」杉山君が心配して尋ねる。

「いえねえ、ちょっと風が強くて水面が波立っているでしょう?だからあの水面に旭岳が映っているのを描くのは無理かなあと思って」

勿論、水面に旭岳が映っていようがいまいが、それはそれで十分迫力満点だし、尾根の間の彼方此方から吹き上がる噴煙とのコントラストは抜群だ。右手には石室、その上は森林限界線を超えて火山エリアだが、良く良く見れば枯れ果てた小さな高山植物らしきものがチラホラ。一通りそこいら辺をスケッチして周り、又姿見の池から真正面に旭岳が見える所まで引き返してきた。

「え!」池が波立ってない。

そう云えば何だか風が穏やかになっている。

まさか彼等に、下っ端幽霊さん達にそんな力が有るとは考えられない。これは神の思し召しに違いない、

早く描かなくては、このチャンスを逃したら神様に申し訳ない。

スケッチ帳を鷲掴みするようにすると、一番ここから描きたいと思っていた所に駆け寄ると、そこを陣取り写生に勤しむ。

良い、最高に良い。煙の上がり方も赤みを帯びた灰色熊を思わせる山肌。その水面に映る少し透明感のある色。それにこの泣きたくなるような青い色をした空、秋から冬に向かう時を感じさせる雲。

何もかもに神様、ありがとうございます。

「もう直ぐ描き終わりますね。流石に早い河原崎さんは。お陰でぎりぎり持つようですよ、俺達3人の合わせ技」杉山君の言葉に多恵さん我に返る。

「ええっ、矢張りあなたたちの力なの、この風を鎮めてくれたのは?」

「そんな事より早く仕上げた方が良いと思います、もう、僕達の力ではこれ以上続けられないですから」

良介君がせかす。

多恵さん、急いで仕上げに掛かる。でももう殆ど多恵さんの頭の中にその画は出来上がってはいるが、写真だけは一応記憶のために撮っておこう。

「ありがとうみんな。あなたたちにそんな力が有ったなんて信じられないわ、この間の結界騒ぎは分かるけど、今回は風でしょう?それを止める事が出来るなんて」

「ヘヘヘ、大体幽霊って話しの中では生暖かい風が出てから現れることになってるんですが、ま、その反対ですよ。でも今回うまく言ったのはこの宇田川さんの力大ですけど。先ほども言った様に彼は我々よりずっと守護霊に誓い幽霊さんですから、こんなに長く風を止めておけるんです。良かったでしょう、俺達が一緒で」

「まあ、そう言う事にしましょうか。今回はほんとにありがたかったわ。改めて御礼を言わせて、特に宇田川さんには」

「いえいえ、そんな事は何でもありません。なんだかこれからもお世話になりそうだし、運が良けりゃ家内にわたしの事をそれとなく伝えてもらえるかも知れません」

「うーん、でもわたし奥さんの顔知らないし、出会っても互いに知らないままですれ違いそう」

宇田川氏、少しの間考えていたが、体の彼方此方を擦っていたかと思うと、1枚の写真らしきものを取り出した。

「こ、これはお棺の中に、妻が一人じゃ寂しかろうとそっと入れてくれた家族の写真です。何しろ20年も前の写真ですから、妻も息子もすっかり容貌が変っていますが、その面影はあると思います」

うすらぼけた写真に一家4人が勢揃い。彼は写真よりも痩せてはいるがそんなに変わっていない。問題は奥さんだ。たおやかなコスモスの花を思わせる人だ。

「これがまだわたしが癌だなんて、知らなかった時撮った最後の写真です。近くの遊園地で他の人に撮って貰ったものです。幸せでした、このまま生きて行けたら何にも要らなかったのに」

みんなしんみりと彼の写真を眺める。

「本当に健康で居られるって幸せなことだわ」

多恵さんもしみじみ残してきた大樹さんや真理ちゃんの事を思いやった。家族皆健康で、私自身は好きな事を職業とし、贅沢さえ言わなければ、何不自由なく生きていられるなんて、何て幸せな事か、これぞ神様に感謝しなくてならない。

「これが奥さんなのね、20年も前だから顔も少し変っているかも知れないけど、体系はお変わりないのかしら?」

「ああ、体系ですね。大分太りました。コスモスがヒマワリになったと言う所でしょうか」

へえ、旨いこと言うな、と多恵さん感心する。

「何しろ逞しくなくては生きて行けませんから。わたしの生命保険や会社からの一時金が支給されてはいますが、さっき言いましたように、二人の男の子を育てるのは体力要りますし、矢張りお金もある程度要りますから、スーパーに初めはアルバイト、そのうち認められて正社員になって働き出しました。女性仲間ですから余り飲み会はやらないですが、みんな、食事会や甘いものには目がないほうですからね。ハハハ、太りますよね。そこの所を計算に入れて探して見て下さい」

鋭い、多恵さんが彼女の事をコスモスのようだと感じた事を宇田川氏は察していた。

「ハハハ、自分の妻をコスモスだ何て言うのもなんですが、ほんとにわたしが生きてる時には、きゃしゃで、風に煽られれば倒れてしまいそうな女性でしたよ。今じゃ少々の風にはビクともしません、倒れたらそこから又伸び上がって花を付け、でっかい種をつけているゴッホの画の中のヒマワリみたいな女性です。分かります?」

「まあ、感じは分かりますが・・・一応それを参考に探してみましょう。でも探せるかどうか確約は出来ません、幸運を祈って下さい。でも本当は奥さんが心配なのではなくて、奥さんが一人で遠くに離れていかれたのが寂しいんじゃありませんか?逞しくなった奥さんを、あなた自身も頼っておられる感じがします。奥さんが恋しくて恋しくて早く会いたい、自分が彼女の事をほったらかしにしたのに、彼女が何の躊躇もせず、北海道と言う大地に飛び立ってしまった事が寂しい、又少しの間妻の顔を見ていない、早く会って安心したいなんて思っているんでしょう」

「へへえー参りました。わたしの方が、彼女が居なくてとても不安で。まあ彼女がわたしの守護霊見たいなもんでして。ハハハ、情けない守護霊見習い幽霊です」

他の2人の幽霊さん達も釣られて笑う。

「お陰でここのスケッチは素晴しい収穫になったわ。みんなに感謝以外ないわねえ。お礼に何とか彼の奥さんを探し出さなくてわねえ。少し早いかも知れないけど下へ降りましょうか?ここより奥さんに合える可能性があるでしょう」

すばやく荷物をまとめ、名残は惜しいが戻る事にする。そこへ前にあった女性、香山由佳さんが、旭岳からもう下山して来たのにぶつかった。

「あら、もう下りて来たの?それともわたしがゆっくりスケッチしてたのかしら」彼女が笑う。

「わたしの方は普通です。北海道ですよ、しかも山ですからね、のんびりしてたら遭難します」

前も聞いたような台詞だ,元蕎麦屋の幽霊さんが確か蓼科の山に登った時に言っていた。

「そうですよね、一緒に降りましょうか」

連れ立って、もと来たルートと反対の道を辿ってロープウエイの駅に向かう。

向こうのルートとは又違った趣がある。ここでもスケッチはしないが写真を10枚ばかり撮る。彼女も同じだ。

「如何、山の方で、良い写真は撮れまして」

「ええ、余り変化はないですが、これぞ北海道と言う写真、わたしなりに撮れたと思います」

彼女のデジタルカメラを覗き込む。

「ほんと!良く撮れてるわ、北海道を愛してるのね。それが感じられる写真だわ。出してあげなさいよ、会社宛に送れば問題ないわ。それであなたの心がふっ切れれば、それが一番なんだけど」

麓に下りてきた。

「お腹すかない?ここにはちょと有名な」

「あっ分かります。野菜ゴロゴロカレーでしょう。わたしも帰りに食べて行こうかと考えていたんです」

「朝は少し食べる気に成れなかったけど、今はとてもとても食べたい。ロープウエイの中でもそのことばかりか考えていたの」

「実はわたしも、お中が空いて空いて。ゴロゴロカレーが目の前にちらついて」

「あなたは山登りして来たのだもの、お腹空いているわけよ」

「でも菓子パン沢山持って行きましたから」

二人は笑いながらお目当ての食堂に入る。素朴な構えのお店の素朴なカレー。それを目当ての人が、夫々の事情で腹を空かせて、超満員状態。店の隅にやっと二人分の席を確保して座り込む。

「ウーン、こんなに込んでるんじゃ中々順番、回ってこないわね」と覚悟して待つ事に。

しかし、案外早くその順番は回って来た。殆どの客がカレーだから、ご飯とカレーがある限り思ったよりはかどるらしい。

「良かった、も少し時間が掛かっていれば、お腹と背中がくっ付くとこだったわ」

「ほんとほんと、でも美味しそう、。いただきます」

二人は綺麗に平らげた。

「わたしはこれから旭川に行って、駅の近くのホテルに泊まるのだけど、あなたは?」

「わたしはこの近くの天人境温泉と云う所に泊まります」

「まあ、天人境?わたしも泊まりたかったけど、明日は層雲峡に行かなくちゃ行けないので諦めたんですよ。羨ましい」

「では本当にここでお別れなんですね、お名残惜しいわ。何だか人生の先生に出会ったみたいで」

「大丈夫よ、あなたはこれからも立派に生きていけるわ。それに愛するこの北海道があるんですもの」

彼女は頷いた。二人の分かれの時が来た。

彼女は多恵さんの行きたいと思っていた天人境へ、多恵さんは又バスに揺られて旭川へ。

本当に北国の夜は早い.バスに乗り込む時には外にはもう夕暮れの気配が忍び込んでいる。

段々窓の外は暗くなり、外の景色も見えなくなって行き、何処をどう走っているのかさえ分からないまま旭川駅に降り立った。

さあ、ホテルは何処だ。そのホテルも幽霊さん達の力を借りる事無く見つかった。ヤレヤレだ。

幽霊さん達を無視してホテルに入り、部屋に行く。それから、ざっと内風呂に入って1日の汚れを落とし、仕事着のトレッキングスタイルから持ってきた一枚だけのスカートとセーターに着替えると、食堂へ向かう。

バイキング形式のホテルの何時もの光景、ごった返す老若男女、それに小さい子供が入り混じる。初めは圧倒されるばかりで引き加減だったが、後ろから声が掛かった。

「あなた、遠慮なんかしてたら何時まで立っても、食事にありつけないわよ。自分の欲しい物を目標に、それを目指して突撃あるのみ。アッ、カニ、今追加されたわ。わたしを見てなさい」と言うが早いか、五十を少し過ぎたぐらいの女性は本当にカニを目指して突進していった。

「ほうらこの通り、ゲットしてきたわ。あなたも頑張ってね」カニをてんこ盛りにしたお皿を掲げ、その女性はにこやかに自分の席に戻って言った。

じゃ、多恵さんもと身構えたが、カニを目指す勇者達によって、もう大盛りにされたはずのカニは殆ど残っていなかった。

仕方なく他の料理に向かって突撃を開始する事にせざるを得なかった。

でもそれはそれなりに、北海道ならではの新鮮な貝や海老、魚が豊富にあるし、肉料理も美味しく頂く。

「あーら、ヤッパリカニは駄目だったの。でも大丈夫、暫くすると又追加されるから、良-くあのサラを注意してて、アッ、持って来てるなと思ったら、直ぐ席を立って突進するのよ。分かった?」

「あ、はい分かりました、ご教授ありがとうございます」

「やだ、ご教授だなんてハハハ」豪快な笑いだ。

コスモスがヒマワリに成ったと言う宇田川氏の言葉を思い出した。一応聞いておこう。

「今日はどちらから?」

「わたしは千葉から来たの。昨日は札幌でラーメン食べて、夜は同じようにカニを中心に食べまくって今日は富良野や美瑛、もう秋出し、シーズンオフと言う所だけど、それはそれで又別の味わいが有ったわ。それに白金の青い池がそりゃ綺麗で、あなたも行ってなかったら是非行って見なさいよ、写真以上だから」

そうだ、宇田川氏が何処に住んでいたのか聞きそびれていた。

「わたしはマガタマ市から今朝来ました。絵描きなもんで、先ずは旭岳を描こうとロープウエイで登って来たんですが、今紅葉が盛りで圧倒されました」

周りを見回すがあいつらは居ないようだ。何処か豪華なホテルか老舗の料亭にでも入りびったって、カニだアワビだ,イクラのてんこ盛り、ボタン海老、ホタテなんて腹包み打っているんだろう。

そうそう、良介君は確か温泉に入りたいなんて幽霊にあるまじき発言をしてた。

「あら、マガタマ市なの。お互い近くに住んでるのね」

「ええ、千葉には子供をつれて良く海水浴に行きます。それに1度だけですが、何でも日本一大きいと言われている石仏も見に行きましたよ。そこには崖に確か観音像も彫られていましたっけ」

「あら、そうなの、崖に彫られた観音像は有名で聞いた事が有るけど、石で造られた仏像は知らなかったわ。子供が居るんだ。旦那さんは?」

「ええ、子供も主人も各一人ずつ。あなたは?」

「わたしは子供が二人、と言っても、もう二人とも大人。亭主はとっくに癌で死んでしまったのよ。だから今まで必死で働いてきたわ、あなたみたいに人が料理を取って行くのをボーッと眺めていたら、とてもとても親子三人生きてはいられなかったわ」

ウーン、近い、かなり近い、ヒマワリさんに。

「ホラ来たわよ、早くあそこに行くのよ」

彼女に急き立てられ,皿と箸を手に持ちまだ空のカニ皿の前へ。どさっとカニが盛られる。人がわあっと寄ってくる。後はシチャカメチャカだ。でも今度は大丈夫、何しろ一番前だもの、これで取れなかったら生きてる資格なしと彼女に言われるに違いない。

「お陰様で、カニ、ゲットしました。これで一人前に北海道に来たと言えますね」

後に残ったはずの彼女、その彼女がもうカニをほうばってる。

「カニ、お好きなんですねえ」と言う言葉しか思い浮かばない。

「明日目が覚めたらカニになってるかも知れないわねえ、ハハハ」

その彼女の顔の中にコスモスだった面影を探す。ウーン、全然分からない。

「あら、わたしの顔になんか付いてる?」

「いえ、そうじゃありませんが、何処かでお会いした事があるような気がして見つめていたんです」

こうなったら名前を聞くしかない。でも姓は分かっても名前はこれも聞きそびれた。

「そうね、でもわたし、殆ど職場と家の往復に明け暮れていたし、生まれも育ちも千葉市だから逢ってないんじゃないの」

「あのう、わたしは島田多恵と言いますが、あなたのお名前伺ってもよろしいですか?」

「ええ、良いわよ、わたし渡辺霞と言うの。霞なんて笑ちゃうでしょう。でも昔は細くてかよわい感じの女性だったのよ。想像できないわよね,でも、逞しくならざるを得ないじゃない、二人の子供を抱えていきるためには」

違った、彼女ではなかった。だが何と捜し求める人とそっくりの人生を歩いている女性である事か。

「ほんとに立派な生き方をして来られたんですね。わたしもも少し逞しくならなくちゃいけないわ」

「裏を返せばズーズーしいおばちゃんと言うところよ。少しの軽蔑の目で何時も見られてきたわ。でも平気、そうやって二人の子を育て上げたんだもの、わたしはそのわたしを誇りに思うわ」

「わたしもあなたを誇りに思います。本当に強い人とはあなたのような方を言うんですわ」

彼女との楽しい会話を終えて部屋へ戻る。今度は大浴場に行く事にするが、朝早かったのでもうそろそろ睡魔が襲ってくる頃だ。早く切り上げて寝る事にしよう。それに層雲峡行きのなるべく早目のバスに乗らなくては。良いことに今日は幽霊さん達は料理に夢中なのか、お風呂を楽しんでいるのか、ここには出没しないようだ。

もう何もする事がなくてノンビリお風呂に浸かるって、こんなにリラックスした気持ちになるんだ。いやいや後一仕事、スケッチだけはチェックして置こうか。多恵さん思い切りお風呂の中で伸びをした。

 早朝のバス、余り込んでいない。近くの他のホテルからも十数人が乗り込んだから20人ほどの人数でバスは動き出した。

旭川の街並みを過ぎれば、広々とした世界が続く。道路沿いに植えられたナナカマドが早くも真っ赤に色づいて、北国の秋の深まりが近い事を報せているようだ。

やがて見覚えのある絶壁が見えてきた。層雲峡、もうすっかり秋の衣装をまとい、その美しさを見せ付けている。

先ずは予約した旅館に荷物を預けて、身軽になろう。旅館は直ぐ見つかった。

そこでラッキーな情報。そこの旅館は自転車をただで借してくれるとかで、これに乗って大函までのスケッチ旅を楽しむ事にする。

余りのラッキーさに鼻歌交じりのサイクリングだ。これなら好きな所で止めて画が描ける、写真も取れる時間も節約、言う事なし。

初めのスケッチ地点は双漠台,流星の滝と銀河の滝が一緒に見られる所で絵描きには勿論、画を描かない人にも大人気の場所なのだ。

着いた着いた、この駐車場から少し登ればそこがお目当ての場所。

ウーン、今紅葉の真っ盛りな上、水量も今年は十分あって、流星の滝は大迫力、銀河の方は岩肌に白い筋を幾つも描いて流れている。このコントラスト,描き止めなくて如何するものぞ。

そのためには、先ずは一番多恵さんの心を引き付ける所を探そう。

ここ、ここ。ここが一番、多恵さんを引き付ける。幸い見物人がそこにはいない。何時ものように道具入れを足元に置き、柵の上にスケッチブックを置いて描き始める。

暫くすると2,3人の人だかりが出来る。何時もの事だ。初めの頃は(遠い昔の話だが)恥かしいのと煩わしいのとで,外で描くのはやめようとまで思ったが、描くものが何しろ自然相手だから、それも出来ず、何時の間にかそう云った事から心が解き離されて行った。

「ああ、ここに居たここに居た」

うむむむ、この煩い声は杉山君だ。どうして幽霊らしくか細い声が出ないのかしら、幾ら躁期の幽霊と言ったって、こんな元気一杯の声で話しかけられたら、誰が幽霊だと信じられましょうか。

「良くここが分かったわねえ」多恵さんは見物人に気付かれないように、小さく囁く。

「ヘヘヘ、まあ今日はこっちに来る事は分かってましたからねえ。山の方に先ず行って見ましたが、姿がないようなので、此方へふうらり、ふうらりと降りて来ましたら、神様の思し召しでしょうか、こうやって巡り会えたって訳です。良かった良かった、なあ良介」

「あ、はい。杉山さんには」

「如何したの、何か変、今日の良介君は」

「べ、別になんでもないんです。別に何にも」

「そんなに剝きに弁解する所があやしい。一体何があったの、わたしの居ない所で」

杉山君、ニタニタ笑っている。

「幽霊の恋って奴ですかね。ま、無理もないです、若い身で失恋の挙句、死んじまったんですから」

「え?恋、恋をしたの良介君?」

「ホラ、昨日河原崎さんがずーと話していたでしょう、あの女性」

「アア、あの香山由佳さんだっけ、あの人に恋をしたと言うの」

「香山由佳さんって言うんですね。素敵な名前だ」

「ほんとにこいつ、恋煩いでしょう。心ここに非ずってとこです」

「で、あの宇田川氏は何処に言ったの?」

「あの人は奥さんを待つと言って、又旭岳に戻っていきましたよ。誰かそれらしい人、見つかったんですか」

「ウーン、それらしい人はいたんだけど、どうも人違いみたいで。何しろ生前何処に住んでたかも、奥さんの名前も聞いていなかったから」

「あ、なるほどね、ヒマワリだけじゃ分かりませんよね、ハハハ」

ここはなるべく早く切り上げてと行きたい所だが、そうは行かない。この場所は一番層雲峡らしい、しかも一番晴れやかな衣装をまとった層雲峡だ、手抜きは許されない。

「話しは後でね、外野が多くて今は無理だわ」

「外野かあ、じゃあ少し待ちましょう、と言うか少し待っててください」

描くのに夢中で彼の言葉の後ろ半分は聞いていなかった。

「ほうら、もう大丈夫ですよ。少しの間は静かなもんです」

「え、如何したの、又何かやらかしたのね」

「やらかしたのは酷いなあ。ちょっとばかりここいらに居た人に冷却光線当てて、立ち退いてもらい、少しの範囲にバリアーを張っただけですよ」

「もう、杉山君のすること言ったら、自分勝手なんだから。そんな事では中々守護霊にはなれないぞ」

「へへへ、守護霊に慣れなくても今は十分幸せですから。昨日もあれから老舗の料理屋に行って、たらふくと言っても満腹感は得られないんですが、兎も角食べに食べ、お酒も名酒中の中の名酒を飲みたいだけ飲んで、それから温泉ですよ。そこで問題出現」

「そうね、旭川のホテルじゃ物足りないわよね、贅沢三昧の幽霊さん達には」

「そ、そうじゃなくて、いや俺としては河原崎さんの居る旭川を離れたくなかったんだ。ところがこいつが、良介の奴が天人境の温泉に行きたいと言い出しまして」

「天人境へ。ああ、あの香山さんが泊まると言ってたとこね。わたしも日程が許せば行きたかったわ」

「殆ど苦労なく彼女の泊まったホテルは見つかりました。何しろ旭川と違って旅館の数うんと少ないですから。そこの温泉に三人仲良く浸かり、リラックス。幽霊ですからそんなに長く湯船に浸かちゃいられませんよ、お湯も直ぐ冷めちゃいますから。でもこいつはボーと浸かりっぱなし。他のお客さんに迷惑だからと湯船から宇田川さんと一緒に引き上げました。如何したんだと聞くと、香山さんが忘れられないと言うじゃありませんか。確かに彼女は清潔感溢れる美人だし、何となく憂いを帯びているから、幽霊には取っ付きやすい」

「やだあ、彼女今確かに失恋中だから、憂いは帯びているはずだけど、お願い彼女に取り付かないで頂だい良介君」

「ぼ、僕は彼女が好きなだけで、別に彼女に取り付こうなんて思っていません。彼女が今悲しみの中にあるなら、遠くからでもそっと見守りたいだけなんです、彼女が心から明るくなれる日まで」

「そうね、彼女は直ぐに元気になるわ。わたしは確信してるの。良介君の気持ちがそれで晴れるなら、見守ってあげたら。出来たら杉山君も一緒にね」

「俺もー」

「その方が良介君にも一つの歯止めになるし心強いと思う。勿論、彼女も安全だし」

「仕方ないなあ、河原崎さんの今度の旅行が終わったら、良介に付き合うことにしよう」

「本とですか、嬉しいなあ。又彼女に会えるんだ。それにこの北海道、長野も良いけど、ここの素晴しさはスケールが違う。是非ここに居る間楽しみましょうよ、ね、杉山さん」

「そうだな、カニはうまいし、ウニもアワビも最高だ」

「杉山君の頭の中には美味しい物の事しか浮かばないのね」

「そんな事ないですよ、河原崎さんの事でしょう、娘の事、そして勿論幸恵の事。一時も忘れちゃいません。カニを食べながらでも、ああ、これを二人に食べさせてやりたいなあって思っていましたよ」

「そうだと良いんだけれど、あなたの事だから他の話に夢中で忘れている事が多いのじゃなくて」

「ハハハ、ばれていましたか。今度から美味しいものを食べる時は必ず妻子の事を思い浮かべながら食べる事にします。はい」

良介君もやっと明るさを取り戻しニコニコしながら二人の話を聞いている。

やっとここは描き上げた。

「早く結界を解いて頂だい、今度は大函の方へ向かうから」

道具を手早くバックに終い、再びサイクリング。二人も何処でどうして調達したかは不明だが、多恵さんよりずっと立派な自転車に乗っている。

切り立つ断崖に緑、赤、黄色、橙色と常緑と紅葉の織り成す模様、流れるは石狩川。

この石狩川の上流、柱状節理と呼ばれる断崖絶壁は25キロも続くらしいがとてもそれを見届ける時間がない。川が1万年以上かけて作り上げた芸術品を川には悪いがその本の一部分をほんの少し、味あわせてもらおう。

見所の一つ小函に先ず着いた。成程柱状の崖が紅葉の中でもはっきり分かる。ここも勿論スケッチ。特に川との折り合いが抜群だ。写真も5,6枚。

写真で思い出した。あの八島ケ原湿原の時の写真。ばっちり移った3人の幽霊。しかもズーズーしく多恵さんに手を振るなんて。

「あのねえ、勝手にわたしのカメラに写らないで頂だい。娘には霧が出た時に知り合った人達と説明してごまかしたけど、今度から絶対にしないと約束してくれないと絶交よ」

多恵さん強い口調で講義する。

「ヘヘヘ、一寸した悪戯心で済みません。今度からは、ハイ、しないと思います」

「思いますじゃなくて、誓いなさいよ、ほんとに困るんだから」

又、次へ向かってサイクリング。

今度は大函だ。大が付くだけあってさっきよりもスケールがダイナミックだ。

ここはこの柱状節理を中心に描こう。男性的に描きたい。ウン、心は男だ。どうも女のままだとダイナミックさの中にややたおやかさが出てしまう。それはそれで良いのだろうが、多恵さんには気に入らない。

力強く、力強く、男の中の男.あの石柱も、こっちの石柱も筋骨隆々、少し武骨だが堂々と立ちはだかる雄ライオンのように。

「俺、こういう画、好きだな。何時も描いてる画も好きだけど、こういった作風が俺にはマッチしていると思うんだ」

「ぼ、僕も好きです。旨いとか綺麗だとかじゃなくて、何となく好きです」

二人の男性幽霊さん達にはいたって好評のようだ。

描き上げた。我ながら男らしくここの景色を描き取ったと思う。

「ヤレヤレ、やっと女に戻れるかな。体の力も腕や、それに心の力も抜いて、ああ、女性に戻って良かった、良かった。景色だってこの方がす・て・き」

「ええっ、今まで河原崎さん、如何してたんですか、女に戻ったなんて」

杉山君、ギョッとして一歩下がる。幽霊を脅かすなんて、なーんて面白い事。

「ここはね、男の気持ちで、男らしく描きたかったの。それには心から男になって描かなくっちゃあ駄目だと思って、少しの間男性に変身していたのよ」

「まあ、気持ちは分かりますが、見た目は少しも変身してなかったですよ。綺麗なままの河原崎さんでした、ずーっと。ま元々、剣道、空手、ボクシング等々、武芸に長けてるから凛々しくはありますけど」

「見た目じゃないの心を変身してたの。ああ、もうお昼、過ぎてんのね、何処かで食事を取って、自転車帰して、今度は黒岳に登らなくちゃ」

近くのラーメン屋に入り、北海道名物、味噌ラーメンを注文.自転車とはいえせっせと動き回り画を描きまくったから、すごくお中が空いていた。

「う、旨い」幽霊二人が、多恵さんより先に声を挙げる。多恵さん、思わず顔をしかめる。

「あのう、何か不都合でも?」店の女将さんが心配そうに尋ねる。

「あ、御免なさい。少し嫌なことがあって、それを思い出したんです。ラーメンはとても美味しいです」

もう本当に幽霊連れての旅は便利な事もある代わりに、こうやって周りの人に変な奴と取られかねない誤解を生む。よくよく気を付けねば。

黒岳ロープウエイにやってくる。丁度良い時間帯だから、人人でごった返している。山の方を先にすべきだったと、少し反省。でも待とう。順番はいずれやってくる。

「平日なのに込んでますね」一人旅らしい中年の女性が声をかける。

「ええ、時間帯が丁度良いんでしょうね.紅葉も見頃らしいですから」

「わたし、初めてなの。楽しみだわ」

「わたしは2回目。一人旅ですか?わたしも一人旅ですが」

「はい、一人旅です。気軽ですからね、自分の行きたい所へ好きなだけ居れるんですもの。費用は嵩みますけどね」

「そうですよね、誰に気兼ねなく居られるって貴重ですよ。まあわたしは仕事がらみですから、夫には感謝してます、娘の事を押し付けてきて」

「まあまあ、良いご主人だこと。わたしはとっくに主人なくしてますから」

「まあそうでしたの。お子さんは?」

「男の子が二人居まして、二人ともまあ無事に母親離れしたもので、前から行きたかった北海道へ、自分へのご褒美だと考えてやって来たんですよ」

多恵さん、それとなく彼女を観察する。まあ痩せてはいないが、それ程太っている訳じゃない。丁度良い肉付きだ。

「男の子二人って大変じゃありませんでしたか。伯母の所にも男の子が二人居まして、年が近いもので、何時もどったんばったんやってて苦労したと言ってました」

「ええ、ええ。でも喉もと過ぎれば何とやらで、今となってはいい思い出ですよ」

「アッ、そろそろ乗れそうですよ。良かったですね、そんなに待たなくて済んで」

ゾロゾロと乗り込む。ロープウエイを降りたら、今度は二人乗りリフト。

下は見渡す限りの緑地の中に繰り広げられる紅葉の錦絵が続く。

「ああ、なんて素敵なの。こんな世界があるだなんて今まで考えた事もなかったわ」

横に座った彼女が叫ぶ。

そうだ、今度は早めに名前を聞こう。

「あのう、わたし島田多恵と言いますが、あなたのお名前伺っても宜しいですか」

「ええ、勿論。わたしの名前は柳沢雅美、宜しくね」

そんなに人探しが旨く行く訳がない。

「ところであなた、島田さんは仕事がらみっておっしゃっていたけれど、一体どんなお仕事」

「はい、実はわたし、ホラ、絵描きなんです」多恵さん、スケッチブックや画の道具の入ったバックを指し示す。

「あーら、絵描さん。成程ねえ。ここを描かなくて何処を描くかって言うくらい素敵ですもんね」

終点だ。

「でも、スケールが大きくて中々画として収まりにくいかもしれません。特にこのスケッチブックには」「挑戦あるのみ、ですね。ここに来たという事は、屹度、自信あるんでしょう。そうでなければ、お嬢さんを旦那さんに押し付けて,来やしませんよね」

「柳沢さんには降参です。死力を尽くす事を島田、あ、実は画名は河原崎多恵といいます、河原崎多恵はここに誓います。フフフ」

「その調子、その調子。あら、この上には雪が残っているのね、だからスキー板を持っている人がいたんだ」

「ええ、好きな人は僅かな雪でも惜しんで滑るんですね」

そんな会話の最中でも、多恵さはん良いスケッチポイントとなる場所を探す。

「アッ、ここが一番わたしの求めているビューポイントだわ、雪が残った山と溢れる紅葉とハイ松、先ずはここからスケッチします」

柳沢さんは微笑み頷いた。

「じゃあ、わたしはお邪魔虫の様だからここいら辺りでお別れするわ」

「あ、わたし、この前来た時、少しここいらで昼寝をしたんです。そしたら体の上を何かがチョコチョコ動き回っていて目が覚めたんです。蝦夷リスです。未だここいらに生き残っているなら柳沢さんも、合えると良いですね」

「期待してるわ」と彼女は手を振りながら去っていった。

期待しているものが、蝦夷リスとの出会いなのか、多恵さんの画に対するものかは不明だった。若しかしたら、その両方かもしれないと多恵さんは勝手に合点した。

「如何でした」杉山君がヌーと現れた。

「あー、あの人?全然はずれ。でも良い人だったわ、求めるヒマワリさんではなかったけれど」

「そんなに簡単に見つかりませんよね、顔も定かでない、ファーストネームも分からない、少し太り気味で50歳代の一人旅の女性ではねえ」

「宇田川さんの方は如何なのかしら、巡り会えたらもう探す必要は無いんだけれど」

簡易腰掛に座って、スケッチブックを開く。色鉛筆を道具入れバックの上に置き、鉛筆で描き始める。座った方がより視線が見上げる角度になって、黒岳が雄雄しく見え、紅葉はぐんと近くに迫って見える。

「いま、良介が様子を見に彼のところに飛んで行ってます。もう直ぐ情報を持って帰って来るでしょう」

「そう、会えたら良いわね、奥さんの為ではなく、寂しがりやの彼の為に。彼が奥さんを見守っていたんじゃなく、彼が奥さんにズーと見守り続けられていたんだと思うわ」

「ハハハ、河原崎さんもそう思います、俺も同じ意見です。奥さんが居なくちゃ屹度守護霊にもなれないとね」

山の頂上の方は遠景だからささっと描き殴る感じだから手短におえ、問題は下の錦絵的に広がる中腹の山肌だ。でもそここそ描いているのが一番楽しい処だ。

他の人が見て、何だか頭が痛くなるような細かい模様、複雑なものを描くのが得意な画家が居るが、あれは画家が苦行の為描いているのではなく,そう云う物を描くのが、彼または彼女には楽しくて堪らないのだ。

「良い色ですね、強すぎもせず、薄すぎもしない。一番魂に響く色合いだ」

「美大出身の幽霊さんにそう評価されて嬉しいわ」

「御主人は如何ですか?矢張り哲学的に批評するんですかねえ」

「そうねえ、あの人は初めからわたしの画に魂を揺すぶらされた人だから,わたしの描く物、みんな好きなの。わたしより好きかもね」

「河原崎さんより好きだなんて勿体無い」

「わたしは平気よ、画は画家にとって可愛い子供。わたしのその子供を愛しているんだから、文句は言えないし,それ故にわたしを養いわたしを旅に出させて呉れるんだから」

「ふうん、でも、勿体無い。河原崎さんとその人が描いた画のどちらを取るかと言われたら、俺なら絶対あなたを取ります」

「勿論、彼もわたしを取るに決まってますよ。只彼がわたしの画にぞっこんなのは揺ぎ無い真実ね」

「あ、良介が戻って来た」成程、次第に良介君の姿が浮かび上がった。

「如何だ、宇田川さん、奥さんに会えたのかな」

「未だ会えていないみたいです。彼泣きそうです」良介君、首を振る。

「会えなくて泣きそうかあ、これって相当酷い奥さん依存症ですね」

「まあ、それはそうだけど、可哀想ね、何とかしてあげなくちゃ」

「でも、奥さんもいつかは家に戻って来るんだから、彼も諦めて大人しく家に帰って待ってたら良いと思うんですが。ねえ」

「彼はこの地で会って、一緒に旅をしたいのよ。若しかしたら奥さんも彼が生きていたら一緒に旅をしたかったなあって思っているかもしれないわ」

「でも、姿は見えないし、声もかけられない。今側に居るよ、一緒に旅をしてるんだよってどうして報せるんですか」

「それを知らせる事が出来るのはわたししかいないのよね。何としても彼女を早く見つけなくちゃ」

でも、スケッチを疎かには出来ない。描きながらかんがえる、如何すれば彼女に巡り会えるのか。中々明暗は浮かばない。ええい、神様にお願いするしかないのか。

だが、その神様にお願いする方法も知らない。ああ、神様早く宇田川氏に奥さんと再会させてください。

画は描き終えた。道具をしまい、ヨイヤサアと肩に背負い歩き出す。

未だ少し時間がありそうだ。

本当にこうして画家である事を離れても、ここの紅葉の広大なる美しさには只只ひれ伏すばかりだ。

ふと前に、同じように簡単しきりの女性有り。年の頃は、5,60、一人旅のようだ。たった今、神様にお願いしたばかりだが、もしやもしやと多恵さん、胸騒ぎ。

「あ、あのう」思い切って声をかけた。

「え、わたし?」吃驚して彼女が顔を挙げ振り向いた。

「脅かして御免なさい。人探ししてまして・・あのう、宇田川さんではないでしょうか」

後先の事を考えず、単刀直入に聞く。

「宇田川?いいえ違います、残念ですが」

「そう、そうですか」そんなに旨く行くものか、とは思っていたけれど、妻依存症に成って泣いている情けない守護霊見習い、否そこまでも到底行ってない彼の為、心底ガッカリした。

「でも、待って。確か何処かで聞いた事がある名前だわ。ウーン、この頃物覚えが悪くって。あ、そうだわ、彼女、確か自己紹介した時、宇田川何とかって言ってたような・・ええ、そうよ、宇田川って余りない名前でしょう、でも目の前に石狩川が流れていたので、川つながりでうろ覚えながら頭の隅っこに残っていたわ」

「え、彼女に会われたんですか。まあ、一体何時、何処で」

「今日よ、今日のお昼前。彼女も一人旅みたいだから、二人で自転車借りて層雲峡を見て周ったの」

「それで、何時分かれたんですか、彼女と」

「それから二人でお昼を取ったり、写真撮ったり、ああ、そうだ、写真見る」

やっと彼女の今の顔を確認できる。只それが彼の愛しい妻だったらの話。

「ホラ、自撮り写真」彼女がスマホを突き出した。

拝むようにしてその写真を覗きこむ。似ている、あの若かりし頃の彼女の面影が残っている。

「そうです、彼女です。わたしの探している宇田川さんです。彼女の古い友人で、彼女がこちらに来ている所までは分かっていたのですが、旅行計画まで分からなくて困ってて、探してくれと頼まれたものですから」

「そう、でも彼女とは喫茶店に入った後、分かれちゃたの。確か紅葉谷の散策道の方を回りたいとか行ってたわ」

「紅葉谷・・ですか」今まで多恵さんの後ろに陣取ってた幽霊さん達がすばやく消えた。

「何とか探し出して二人を再会させたいと思います。ありがとうございました」

「いえいえ、幸運を祈っているわ。じゃ、わたし、も少し上の方まで行ってみるから、ここでお別れね」彼女は細い山道をスタスタ登っていった。

まだ日はある、彼女に会わなくては。屹度今頃、あの二人が必死になって探しているに違いない。

多恵さん山を下る事にした。リフトとロープウエイを乗り継いで元の層雲峡へ戻る。さあ、これから如何しようかと思案するが、一息入れて兎も角あの二人の情報を待とう。

喉が渇いたので目の前の自動販売機でコーヒーを買って、一口飲む。

そこに二人が現れた。

「どう、見つかった?」コーヒーを続けて飲みながら聞く。

「あの写真のお陰でばっちりですよ。直ぐそこの所で彼女待ってます」

「ええっ、彼女が待ってるってどういう事。彼女がどうしてわたしを待ってくれてる訳」

「ま、行けば分かります」杉山君がにたにた笑う。怪しい!

「何かしたんでしょう」

「宇田川さんの奥さん自身を半フリーズにしちゃったんです、杉山さんが」良介君が申し分けなさそうに呟いた。

「え、まあ、どうしてそんな事するのよ、宇田川氏が聞いたらかんかんになって怒るわよ」

「大丈夫ですよ、少し寒気がするくらいで。今ベンチで休んでいます。周りに結界張ってますから、河原崎さんが行くまで、誰も彼女に近づけません。結構良いアイデアだと俺は思いますがね」

「まあ兎も角急いで彼女の所に案内して頂だい。早く彼女を救い出さなくちゃ」

二人に先導されて、彼女の元へ急ぐ。

居た居た、ベンチでぐったりしている彼女を発見。

「早く結界を解いて。それからフリーズ状態もね」多恵さん、強い口調で命令する。

「大丈夫ですか。気持ち悪いんですか」

「え、あ、はい、何とか。少し自転車で走り回ったせいか、凄く寒くなって、風邪を引いたのかも知れません」多恵さん、必死で彼女の背中を擦る。

「ありがとうございます。大分気持ちが良くなりました。自転車を帰しに行かなくちゃ行けないんだけど未だ少しふら付くみたい」

「わたしが自転車押して行きます、バス停の所ですよね」

「ええ、そうですが、見ず知らずの方にそんなことまでしてもらって悪いですわ」

「袖触れ合うも何とやらですよ。遠慮しないで」

彼女を支えるようにして立ち上がらせ、傍らの自転車を押してレンタル自転車屋さんまで歩く。

「お一人ですか?」分かっているが一応挨拶代わりに聞かねばならぬ。

「はい、主人を早くに亡くしましたが、子供も独り立ちできましたので、自分への褒美の積りで北海道に来ましたの。まあ主人が生きていましたら、一緒に来れたのにとは思いますがね。只あの人は仕事人間でしたからこの旅行だって、お前だけ言って来い。俺は仕事があるからなんて言って、来やしませんですよ、フフ、寂しいもんでしたよ。ほんとに、生きてる間で夫婦らしい時を過ごしたのは、癌で病床に臥せっていた時だけ。それも短い間です、癌て分かった時はもう末期でしたから」

「そうですか。でも後悔なさっていらしゃいますよ、そして亡くなられた後それを悔いて、屹度ズーとあなたの事見守っていらしゃると思いますよ」

「ほんとにそうなら嬉しいけど、どうかしら。だとしても死んだあの人が見える訳じゃないし、心も通じ合えないんだから」

「まあそう言われればそうなんですけど、あ、レンタル屋さん、自分で行けます?」

「ええ、大丈夫」彼女自転車を帰しに中へ入っていった。

彼女が戻って来た。ここで分かれたら彼女に宇田川氏の切ない気持ちを伝える事が出来ない。

「色々お世話に成りました。層雲峡に登る積りでしたが今日は止めときます。これからホテルに帰って、ゆっくりお風呂に浸かって良ーく温まります。でもその前にお急ぎでなっかったら、そこの喫茶店にでも

寄って、なにかあったかいものでものみません?」

「ええ、わたしも何か飲みたい気分」二人顔を見合わせてニッコリ。。

彼女はコーヒーとビッグシュークリームを、多恵さんはココアと少しお腹も空いていたのでハンバーガーを注文する。

「あなたも一人旅なんですね」と彼女。

「ええ、わたしは絵描きなんです。だからここの紅葉を描きたくて、やって来ました。子供は主人に押し付けて」

「良いご主人ですね。羨ましいわ、わたしの場合、そんなこと主人が生きてる内には、全く考えられませんでした。典型的な過去の遺物みたいな夫だったわ」

コーヒーとビッグシュークリームが先に来た。

「わあ、美味しそう。学生時代良くお気に入りの喫茶店で食べました。一個だけで腹ペコ学生の胃袋を満たしてくれましたし、おまけに果物入りで、とても豪華で美味しかった。あの喫茶店まだあるかしら?」

懐かしさが多恵さんの脳裏に甦り、遠く離れていった友人たちの顔が浮かんでくる。

「どうぞ先に召し上がって。わたしの方が少し作るのに時間を要しますので」

でも、ココアもハンバーガーも直ぐに運ばれて来た。

ついでに幽霊さん達が、ニコニコ顔の宇田川氏も交えて現われる。

「ありがとうございます、又明日もあそこで待たなくちゃいけないんだと思うと、涙が出て止まらなくなって。情けない幽霊でしょう、家内にはご内聞に」

嬉しそうに頭を下げる宇田川氏。

ココアを一口啜る。疲れた体と心に優しい甘さが沁みて行く。

「ああ、ほっとするわ、無事に巡り会えて、良かっ二、三度失敗したけど、最後はホームラン」

「良い景色に出会えたんですね、良い画がかけたんですか、ホームラン的な」

「ええ、まあ今はスケッチの段階ですから、本当はこれから家に戻ってからの勝負になるんです」

旨くごまかした。

「ここの日暮れは早くて寒いですわ。今日は本当にゆっくりお風呂に入って、その後、ご主人の思い出に浸れたら?夜は長いですよ」

「そうね、あの人に言いたい事が山程有るの。でも、皆許してあげちゃいそう。恨みつらみは水に流して今から、二人一緒に旅行しましょう、と屹度言うわ。可笑しいかしら、でも、心は繋がっていると思うから」

宇田川氏、嬉しそう。

「いえ、ちっとも可笑しくなんてありません。ご主人も屹度あなたに寄り添って二人で旅をしたいと望んでいらしゃいますよ。生前にはしたくても出来なかった事でしょうから」

「そうだと嬉しいけど」

「勿論そうに決まってるじゃあありませんか」

幽霊たちが彼女のスマホを指差して写真を撮れと煩い。

「この喫茶店、良い雰囲気ですね。記念に一枚ずつ写真撮りません?」

「ええ、撮りましょう」

彼女のスマホで彼女とニコニコ顔の宇田川氏が彼女の方に手をかけ寄り添っている写真を撮り、自撮りで彼女と自分の写真を撮る。多恵さんの方は本当はそうする必要は無かったが、変に撮られてはと同じように撮る事にする。

「あらこの写真、何だか変。わたしの横がなんかオレンジがかって見える」彼女が異変に気付いた。

「あらあ、これは吉兆の現われだわ。何かいいことがある前触れだと聞いた事があるわ、羨ましい。けしてこれを消しちゃ駄目ですよ」

「まあそうなの、お守りみたいなものなのね」彼女、繁々と眺める。

「何だかこれを見てると、変な話だけど、主人が若くて元気だった頃の姿で寄り添っているみたいに見えるの。わたしの妄想ね、フフフ」

「まあ、ご馳走さまあ。フフフ」二人で顔を見合わせて又笑った。

「暗くなってきたわ。そろそろお別れですね、これからの旅が楽しくありますように」

「ええ、とても名残惜しいけど、お別れですね。良い画が沢山描けますように」

「ありがとうございます。今日はあなたはご主人と思う存分、お話なさるんでしょう」

「ええ、今までどうして話をしなっかったんでしょうね、忙しくも有りましたが」

喫茶店を出る時、少し揉めた。彼女が多恵さんの料金まで払うといって聞かないのだ。

「折角の思い出がちょっぴり心の負担になりますから」と断ったが、彼女の方が助けてくれたお礼をしない方がズーと心の負担だと言って、結局多恵さんが負けてしまった。

多恵さんの宿の方がずっと近かった。何しろ喫茶店の目の前だったから。

でもその前に明日の為、レンタカーの手配を確かめなくちゃ。

もう、出発前に予約は済んでいたが念のため。車は宿の前に朝着く事になっているのだから、これは多恵さんにはとても嬉しいサービスだ。

会社に連絡すると確実に明日の朝、8時少し前に着くらしい。

車の確約が取れて、これで安心して湯船に疲れるし、料理もたらふく食べらると言うものだ。

多恵さんが今日泊まる宿は昨日みたいなホテルではなく、こじんまりした、だけど温か味溢れる旅館だった。

宿泊客も少ないし、夕食はバイキング方式ではないが美味しい料理が沢山並んでいて大満足だ。

お風呂は勿論温泉だ。大浴場ではないが、十分手足を伸ばせる広さがある。

部屋に戻ると、もう布団が敷いてあった。そこには例の二人の幽霊君も。

「あら、居たの。どうあの夫婦、あれからどうした?」

「ああ、あの夫婦ならもう大丈夫ですよ、もう何の心配も要りません。でも河原崎さんにはとんだ迷惑をおかけしましたね、済みませんでした」

「あの二人が互いにハッピーに成ったんなら、めでたしめでたしと言う事でわたしは満足よ」

「スマホ大作戦、あれは流石ですね、旨く考えましたよ。河原崎さんを益々尊敬しちゃうなあ」

「ああ、あれね、。あれはこの間の八島ケ湿原のあなた方の悪戯写真がヒントになってるのよ。あの写真には脅かされたけど、宇田川氏は守護霊の見習いと言う事だから、彼女を怖がらせる事なく旨く行くだろうと考えたの」

「明日はもう誰にも邪魔されずにドライブ出来るんですねえ。楽しみ、楽しみ」

「あなた方は良介君の片思いの香山さんの所に行っても構わないわよ。彼女は札幌のポテト味覚研究所の研究員。あ、とっくに調べは付いてるのね」

「ヘヘヘ、こいつだけ彼女の後つけさせて、調べさせました」

「まあ、生きてる人間ならストーカーじゃなくて?」

「とんでもない、生きていたら紳士的に近づきますよ。若し嫌われたら、それまでです。失恋です。今頃号泣してます、こいつ。ハハハ」

「ぼ、僕、彼女をそっと見守っているだけで十分なんです。かと言って、彼女の為に何にもして上げられる訳でもないんですが。そこが一番辛いとこですね」

「ふーん、死んだ後までも良介君は優しいんだねえ、早く守護霊に近づけたら良いのに」

「まあ良いじゃありませんか、兎も角明日一日は、大いに楽しみましょう。ドライブ、俺好きなんだな」

杉山君だけが張り切ってる。

「良介君は彼女のとこに早く行きたいって顔に書いてあるわ。そうね、でも明日一日辛抱しなさい。わたしもこいつと二人だけでドライブしたくないから、どうしてもあなたが必要なの」

「分かりました。僕も白金の青い池、是非見たいです」

「そう、良かった。綺麗でしょうね青い池、わたしも初めて行くの。この前旅した時は無かったのか、無名だったか、見落としたか、いずれかよね」

「河原崎さんとその美しい青い池が見れるなんて、ああ、俺は日本一の幸せな幽霊だろう」

「良介さんについて来てもらえてほんとに良かった」

翌日も素晴しい天気になった。8時前、自転車などのお礼を述べ、宿の心優しいお握りのお弁当を頂き、やって来たレンタカーに乗り込んで、いざ出発。

でも初めての道、必死でカーナビにしがみつくようにして運転する。

そこで、声あり。

「あのう、俺達幽霊だから、大体の道分かります。ここは大船に乗った気持ちでいてください。曲がる時になったら教えます」

「ええー、そうなの。あなたが教えてくれるのは冥土への道だけかと思っていたわ」

「ひ、酷いな河原崎さん」

「冗談よ、ありがとう。とても助かるわ、ここからの美瑛までの道、結構複雑なんだもの。良かった、幽霊さん達がいて。これでお昼までには余裕で白金につけるわね」

「はい、周りの景色も十分楽しんで、余裕でたどり着けます」

「そうよね、こっちに着てからと言うもの、余り外の景色を堪能する心の余裕が無かったわ。この広々とした道路やすれ違う景色も含めて、北海道なんですものね」

多恵さんカーナビにしがみ付くのを止めて少し余裕を持って運転する事にした。

ウン、空は青いし雲は白い。山は高く野や畑も広-い。家々も多恵さんの住む町とは大違い、お互いにゆとりがある。屹度冬は雪に覆われ、寒いだろうが、それを間近に感じながらも皆が悠然と構えているように見えるのは買いかぶりだろうか?

「もう直ぐ美瑛ですよ。そこから左に行けば、素敵な白樺並木が続きます。そうそこそこ、その道です。ね、凄いでしょう、白樺やタケカンバ。でももう葉っぱが黄色くなって、散りかけてる。7,8月頃くれば、屹度見事なもんでしょうね」

「でも、少し寂しい感じがするけどこれはこれで良いと思うわ。この地はもう直ぐ晩秋を迎えるんですもの。ウーン、そうね、若しかしたら青い池も、見ごろは6月から9月上旬とか書いて有ったから、少しシーズン外れてるかもね。ライトアップには早すぎるし」

「もう直ぐ、池に着きますがその前に道の駅がありますよ、少し休まれたら如何ですか」

「あらそうね、旅館から貰ったお握りも、ありがたく頂かなくちゃ。あなた方は?」

「勿論、一緒に行きますよ。今日で又暫くお別れなんですから、どうか側に居させてください」

三人は駅の洒落た建物の中へ。コーヒーを注文。温かいのがとても嬉しい。

包みを開けて、鮭とイクラの入ったお握りをぱくつく。二人も側に来て、やはりお握りとコーヒーを飲んでいる。

「あなた方毎晩毎晩カニだ、ウニだと贅沢三昧なんでしょう。こんなお握りじゃ物足りないんじゃなくてどう?」

「それが、そんな物ばかり食べてると、今度は反対に、素朴なものが恋しくなるんですよ」

「まあそれはそうね。何の本だか忘れちゃったけど、ある男が死んで、神様に何を毎日食べたいか聞かれて、贅沢な食事を毎日食べたいと答えるの。でも、美味しい、幸せだと思えたのは本の数日間だけ、飽き飽きしちゃって神様にもうご馳走は要らないって言うんだけど、勿論聞き届けられないの。これから先どうなるのかは記憶に無いわ。もう、わたしはもう死んじゃっているんだから、食べなくても良いと思うだけどな。ああ、少し思い出した、そこは天国でなくて、本当は地獄だったんだ」

「うーん、俺も読んだ記憶があるよ。成程、俺達、がつがつしてるから成仏出来ないのかもなあ。でも暫くがつがつしていよう。今はこの時が天国だから。ハハハ」

多恵さん、大きく溜息をつく。これじゃ、成仏して天国に行く事も、守護霊になって愛する家族を守る事もできない。

「ホラこんなものがありますよ」

良介君が赤、青、黄色のビンを持ってきた。

「え、これ何?サイダーって書いてあるわ.赤いのが夕焼けの丘、青いのが勿論青い池、黄色が小麦畑って名づけられているのね。試しに代表して、定番の青いサイダーを買ってみるか」

ところが、売り子さんに赤いのはハスカップが入っていると言われて赤も買ってしまった。味はサッパリレモン味とハスカップ味だ。

さあ、いよいよ青い池だ。少し心臓がドキドキ。

何故池の水が不思議なまでに青いのか?それはこの上流にある白金温泉のその温泉水の中のアルミニュウムが他のものと交じり合ってコロイド粒子を作り、それが青い光線を散乱させている為だとか。

話しはさかのぼるが、この白金温泉はここの村長さんだった方が絶対に温泉が出ると信じて掘り当てたものらしい。それにこの池も十勝岳が1988年の噴火した際、その泥流対策として美瑛川の脇にブロック堤を作ったところ、その背後に川の水が溜まって出来上がったものらしい。

寄って、周り回ってこの世界的人気の青い池は、その村長さんとブロック堤のなせる技。そしてそれを取り巻く木々と池に飲み込まれた木々の絶妙なるハーモニー。

それに感謝すべきは、晴れた空。今日は青い池を見るには最高、と言いたい所だが少し風がある。

風が無い方がどうも良いらしい。中々気難しいのかな、青い池さん。

駐車場に車を止める。矢張り周りの木々は黄色く色づいている。タケカンバと白樺の木々が圧倒的に多いよいうだ。

それらを縫って池へ向かう。

青い。風が止み、光の加減で乳青色と青,濃青色と怪しく多恵さんに迫る。

「わたしが描ける?わたしの色が出せる?」池は多恵さんに呼びかける。

「分からない。でもあなたを描く為にここに来たの。だからわたしはあなたに挑戦するわ。あなたの一番のビューポイントを教えて」

多恵さんは、多恵さんの心に響く場所を探す為に歩き出す。早く見つけなくては、多分この無風状態はこの二人の幽霊さん達に寄ってもたらされたものだろうから。この間は三人、しかもより力の強い幽霊さんが混じって居たんだ。

見物人も多い。皆、写真を撮る為に一番人気の場所(本やウエーブで紹介されている)は順番待ちの行列が出来ている。

「人をどかして結界張りましょうか?」杉山君が囁く。

「止めて!風が吹かないようにしてくれた事には感謝するわ、でも、あの人達の歓喜する気持ちを取り上げるのは良くない事。いいの、わたしは別の所を探すから。そう此処が良いわ。この白樺の木が良いアクセントになるし、ここから見る色合いは、そうね、一番素晴しいと思う。早速描かせて貰うわ、あなた達の力が尽きない内に」

「ヘヘ、気付いていましたか?俺達、河原崎さんが書き終わるまで、何とか頑張りますから、どうか安心して描いて下さい」

それでも、多恵さん、なるべく早く仕上げようと、デッサンの手を早める。まあ、こちらに来る前に散々パソコンや旅行案内書でこの青い池の写真は見ていたので、大体の地形や形は頭の中にくっきりと刻まれている。違うのはバックの木々がすっかり黄色や茶色に変身している事と、実際に目の前で青空と太陽の加減で池が微妙な色合いを多恵さんに見せていることだ。

このグラデーションをどう描くか。それが画家の腕の見せ所だ。ウーン、こうして描いている間も色は変っていく。モネの蓮池の画を思い出す。母はクリスマスの日に、西洋美術館でモネの画を手が触れる、いや顔が触れる近さで見たといった。母はその絵の具の重なり合いや、筆捌きを脳裏に焼き付けているに違いない。「あなたと代わってやれたら良かったのにねえ」としみじみ語った。

「でも良い!わたし自身が今モネになる。モネの真似ではない、心がモネ自身なの。見てらしゃい、これがわたしの青い池」多恵さん、しばし、モネに変身。只管色鉛筆を走らせる。

この色鉛筆はフランス製の、中でも先輩が勧めてくれたかなりの値段のものだ。彼女のスケッチにはなくては成らないものだ。大抵のスケッチにはこれで十分用が足りる。

今回のこの青のグラデーションには如何なのか?ガンバレ鉛筆、ガンバレ多恵さん!

「あ、良い色出てますよ。この微妙なかすれ具合も良いですし、この深い青の所も素晴しい」

杉山君は褒め上手だ。

「ありがとう、少し自身が持てたわ。周りの黄葉で青さが強調されてるみたいね、これはこれで味わい深いわね」

どうやらスケッチの方は出来上がった。後は写真を撮ろう。

「何とか俺達の力、持ちましたね」

「ありがとう、素晴しい絵を期待しててね。新国立美術館に展示されたら、是非見に来て頂だい」

「勿論です。幽霊仲間を引き連れて見に行きますよ。楽しみだなあ」

「では次ぎ行きましょうか、この池がこんなに青くなる大元、白金温泉に。そこのブルーリバーブリッジから白ひげの滝が見れるらしいわ」

車の方に歩き出すと、遊歩道になってる細い白樺並木の間から歓声と拍手が沸き起こった。

「え?」見ると,おめかしをした若い人が集団を成している。

その先の方にウェデイングドレスを着た女性とタキシード姿の男性が腕を組んで歩いてくるのが見える。

みんなが写真を撮ってる。

そうだ、多恵さんに有る考えが浮かんだ。多恵さんも承諾を取って、その若いカップルの写真を撮る。

「如何したんです、知らない人達のウエデイング写真撮って」

「フフフ、わたしにはどうしてもやりたい、いえ、遣らせて上げたい計画があるの。これはそのための大事な道具なの」

白金温泉に到着。少し息抜きに喫茶店に入る。

ハスカップのジャムのサンドイッチがあるというので、それとコーヒーを頼む。ハスカップはここ美瑛の特産品らしい。サンドイッチもコーヒーも美味しかった。

ブルーリバーブリッジには公営駐車場に車を停めて少し歩く。結構の人が居て、覗き込んだり写真撮ったりしている。多恵さんもここではスケッチを諦めて写真一本で行く事にした。

「物足りなくありませんか?」杉山君が尋ねた。

「時にはこんな事もあるのよ、臨機応変。この滝はね、潜流漠で溶岩、十勝岳は火山だから、その溶岩流の裂け目から噴き出てるんだって。噴き出た水が美瑛川に注ぎ落ちた途端に青い水に変化する様、本当に心洗われる気持ちになるわね」

このまま、公営牧場に向かおうと思ったが、後一箇所、少し歩かねばならないが、途中羅漢さんなども見れるという白金不動の滝も見ることにした。何しろ足の丈夫さは、親や祖父母の吃驚ものの保障つきだ。

此方の滝のほうが近くで見られるだけ、迫力も紅葉に彩られた美しさも言う事なし。しかも見物人が少ないので、ゆっくりスケッチ出来る。

最後に残った公営牧場、美瑛富士の麓、誇大な敷地の中に牛達が放牧されているらしい。これぞ夢に描く北海道、らしいが、アンマリ広大すぎて、肝心の牛の姿が見えない、見られないと言う声が多いとか。

果たして、多恵さん達一行は見れるのか.時は晩秋、でもある。

ゆっくり、ゆっくり、これ以上ゆっくり出来ないくらいゆっくり走る。

「僕達、上空から何処いら辺にいるか見てきます」良介君が見かねて助け舟。

二人が消える。暫くして帰って来た。

「もう少し先の方にうろちょろしてます」良介君が報告。

「え、何、うろちょろしてる?どういう意味」

「ま、行けば分かります」杉山君の弁。

少し行くと成る程、牛が5,6頭本当にうろちょろしてる。

「車を停めて、スケッチの用意をしていれば、そのうち落ち着いてくると思いますよ」

うむむ、怪しい。

「何かやったのね。ありがたいような、はた迷惑なような、特に牛さんにとっては」

「別に食べてる場所を変えただけですから。ほら、又、何ごとも無かったように食べ始めましたよ」

ほんとに牛達は落ち着きを取り戻し、草を食み、暫くするとノンビリ座りこむものもいる。

それどころか、それに釣られたのか他の牛達も、2,3頭集まって来た。

「ずるしてありついた、これぞ北海道の図ねえ」とは言いつつも矢張り画家魂が鉛筆を走らせる。

「ああ、ここに居たー」と車を止め、子供つれの夫婦がやってくる。

「もう見れないのかと諦めていたんですが、見れて良かった」

次々車が止まり見物人で溢れかえった。

「ここは広いですから、中々柵の近くには牛達がやって来ないんですよ。でも、美瑛富士をバックにこうして草を食べたり、休んでる姿はいいですねえ。ほんとに絵になりますよ」

牛さん達がこうむった迷惑も知らず、見物人たちは無邪気にに喜んでいる。

ここのスケッチが済めば北海道とも別れを告げねばならぬ。

美瑛から旭川空港までは近い。そこで車は返す事になってる。先ずは空港へ向かおう。

でも、その前に美瑛で早目の夕食を摂ろう。北海道だものここは矢張りラーメンだと思う。

こじんまりした店に入る。お!ここは美瑛でもある、チーズバターラーメンなんてメニューが多恵さんの目に飛び込んで来た。これしかない!!即決。

流石、チーズもバターもラーメンもそれぞれがその風味を引き立てあって素晴しい。少し肌寒くなってきた夕暮れ時に、見も心もあったまる。北海道の最後を飾るのにこれ以上のものは無い、と多恵さんは思った。前を陣取る幽霊さん達もご満悦のようだ。

「では、ここで一旦お別れですね。寂しいな」杉山君が呟く。良介君、ニコニコ。

「一旦ではなく、長-いお別れであって欲しいわ」多恵さん切り返す。

「あ、今回は俺達、随分お役に立ったと思いますけど」杉山君は不満顔だ。

「そうねえ、思い返せばいろいろお世話に成ったのね、ありがとう。良い画が描けたら、半分はあなた達の力に寄るものと感謝するわ」

「ヘヘヘ、まあそこまでは行きませんが、少しは力に成れたと自分ながら、良介共々誇りに思います」

ああ、どうして彼はその力を奥さん、幸恵さんの為に使わないのだろう。多恵さん、心の中で溜息をつく。

空港では先ずお土産。目移りして中々決まらない。どれも北海道らしく、しかも美味しそうに見える。

決断あるのみ。先ずは隣の武志君と真理ちゃんにはアンバターサンドに決定。サブレのサンドイッチでアンとバターがマッチして、今人気沸騰中(?)らしい。

次に雪どけチーズケーキを教授夫人と藤井夫人、それに多恵さん用に求める。教授と大樹さんには、ふらのワインのツバイゲルレーベなるワインを仕入れた。考えて見るとワインが一番高いじゃないか。しかも重いし割れ物だ。だが、教授には少しやって欲しいことが有るので、ここは目を瞑るとしよう。

さあ、土産も手に入れたし、後は幽霊さん達に別れを告げて飛行機に乗るだけ。今回は良介君の恋に付き合わねばならないので、一緒に帰りたいなんて事は言わないだろう。

「じゃ、ここでお別れよ。今回はほんとにありがとう。これからあなた方は札幌に行って、香山由佳さんを探し出し、若しかしたらもう、探し出しているのかも知れないけど、彼女の為に働いて上げるのよね」

杉山君、黙っている。代わりにニコニコ顔の良介君が答える。

「はい、僕、彼女の為に出来る限り頑張ります。あ、勿論、杉山さんの手助けが必要ですが」

「じゃあね」とくるりと向きを変え、搭乗口へ向かった。


矢張り、我が家が一番だ。ご飯のしたく、後片付け、毎日の洗濯、掃除、お風呂の準備。やる事は切がないけど、でも何とも言えず居心地が良い、それを差し引いても。

先ずは留守中色々世話に成った藤井夫人に土産を渡す。

「これが武志君ね。こっちがあなた用よ。勿論わたし用にも同じものを買って来たわ。美味しそうだったから」

「チーズケーキね、わたしもチーズケーキ、大好き。ありがとう。旅行楽しかった?」

「ちょっと人探し頼まれたけど、無事見つかって良かったわ。それに気温は低め、その分紅葉が色鮮やかで行った甲斐があったわ。後で写真見る。変な写真が若しかしたら混じってるかも知れないけど、悪戯好きな人が、多分その人の成した事だから、気にしないでね」

多恵さんの脳裏に、前回の3人の心霊写真の一件が甦っていた。今回は無いとは絶対言えない。

 次に,教授夫妻だ。大樹さんに「お願いね」と渡してしまえば、簡単に済む話だが、多恵さんには出発前からどうしても二人にやって欲しいことが有るのだ。

「ねえ、今度の土曜か日曜、教授、お暇かしら。お土産、直接渡したいの。奥様に描いてきたスケッチも見ていただきたいし」

「分かった、聞いてみるよ。多分どちらでも大丈夫だよ。お互い古本屋めぐりしか、余程の事が無い限り用は無いし」

奥様が一刻も早くスケッチを見たいというので、早速、真理ちゃんは隣に頼んで土曜のお昼過ぎに出かける事となった。

先ずは北海道土産のワインとチーズケーキを渡す。

「まあまあ、ありがとう。重かったでしょう、ワインなんかお土産に選ぶなんて。今は宅配も有るけど」

「ええ、でも、自分で持ち帰りました」

「彼女、力自慢なんです」大樹さんが口を挟む。

「違うわよ、それは鹿児島の伯父の奥さんよ。わたしは普通、まあでも普通よりちょっとだけ上かな」

「ホホホ、ま、そんなことより早くスケッチ、見せて欲しいわ。今紅茶入れるから」

奥から教授も顔を出す。

「どう、北海道の旅の成果は?」

「なんか、人助けをしたらしいですよ」又大樹さん。

「えー何故それを知ってるの」

「隣の藤井さんがそう言ってたよ」

「そう、でもそれは少し違うの、人探しよ、人探し。奥さんにはぐれて、今にも泣きそうな旦那さんのために探してあげたの」

「奥さんの方も必死で探していたんだろう?」

「ううん、奥さんの方は自転車借りて、紅葉見物してたの」

「ええっ、幾らホテルで落ち合うからと言っても、旦那さんのこと気にならないのかなあ」

「まあね」

「ふうん、矢張り女性は強いなあ」

「あ、この写真見てください。青い池と言う所で偶然、その白樺の並木道を挙式を上げたばかりの新郎、新婦がみんなに拍手されながら通って来たんです。あんまり素敵だったので、一応断って写真撮らせてもらいました」

「まあ、素敵な所ねえ。こんな所でみんなに祝福される結婚式って、ずっと後までその感動が忘れられないに違いないわ」

紅茶を入れて、運んできた夫人も覗き込む。

「お二人とも、もう直ぐここいらも紅葉の季節です、どうです、黄色いイチョウの下で記念写真は如何ですか?白いウエデイングドレスとタキシード姿で」多恵さん、思い切って提案を述べる。

「ええっ、わたし達が!」驚いて夫人は教授の顔を見やる。

教授も少し吃驚したのか、夫人の顔を見返した。

「良いかも知れない」暫し躊躇した後、教授はきっぱりと言い放った。

「何時かは必ず、お前に花嫁衣裳を着せてやりたい、否、わたしが着て貰いたいと考えていたんだ。若し、お前に異存が無ければ、どうだ考えて見ないか」

「で、でも、少し恥かしいと思いませんか、こんな年になって、ウエデイングドレスを着るなんて」

「もうお前の風邪は治っていると多恵さんは言ってたぞ。あれからわたしも色々反省しましてね、どうして家内を表舞台に出さないようにしてきたのかとね。決心したのですよ、堂々とみんなに、これがわたしの、わたしが選んだ愛する妻です、と宣言しようとね。いい機会だ、何処か素敵なホテルの庭辺りで、知ってる人達、みんな呼んで盛大に結婚披露宴を催そう。良いじゃないかお前、少しも恥じる事はないよ、女性は幾つになってもウェデングドレスが似合うと、誰かがこの間言ってただろう」

「ほ、本当に良いんですか、本当に恥かしくないんですか、あなたもタキシード着るんですよ」

「アッ、それを忘れてた.ま、良いじゃないか、ハロウイーンも近い事だし、仮想大会だと思えば」

「あ、それいいですね。出席者全員仮想して来るなんて。但しタキシードとウェデイングドレスはなし」

多恵さんもアイデアをひねり出す。

「それは良い考えだと思います。四回生のゼミの子達も招待したらどうですか、屹度盛り上げてくれるでしょうから」大樹さんも賛同する。

「うん中々面白そうな披露宴になりそうだな。これならお前も異論は無いだろう」

「そうね、仮想パーテイーを開くと思えば良いのよね。何だかワクワクして来たわ。早速取り掛かりましょう、多恵さんも手伝ってくれるのよね、言い出しっぺなんだから」

「勿論です。じゃんじゃん用を言いつけてください。力も体力も普通以上ありますので」

肝心の北海道スケッチのことはそっちのけにして、仮想結婚披露宴の話は弾みに弾んだ。

 忙しい日々が続いた。午前中に教授宅に出かけ、真理ちゃんが学校から帰って来る前には帰宅。その間奥様と二人、パソコンを打っては、場所選びや日時の設定。何しろ時間が無いので、良さそうだと思ったら即決だ。丁度手ごろの値段で庭には大きなイチョウの木があるらしいホテルが見つかった。だが残念ながら未だ黄色く色付くには少々早すぎるの事だ。でもそれを差し引いても、中々の庭。奥様は「此処にしましょう」と気に入られたよう。

日取りは11月3日。祝日だったが急なキャンセルが出て、ラッキーにも予約できた。時間は12時丁度と云う事で決まり。これは1日で解決。

それから大変そうなのが招待状。親しくしている教授や准教授、友人、主な親戚。学生達には直接伝えて手伝いに来てもらう事に。

「くれぐれも仰々しくならないようにね。ほんとに打ちわの立食パーテイー、仮想パテイーにしたいの」

教授夫人の切なる望みだ。

「では、結婚披露パーテイーではなく、中谷俊彦、久美子銀婚式披露仮想パーテイーなんて如何ですか?少し長めですが、これなら仰々しくは誰も感じないと思います。招待状も大袈裟でないのを選びましょう」

それで彼女も納得。大体、学生や子供も入れても50名は行かない、40名そこそこと言った所だ。

招待状には一応仮想で参加の事、本式ではなくて結構、バンダナ風の物に絵を貼り付けただけでも良いし、被り物でも大歓迎。お面では食事が取れないので鼻から上のものが良いとも書き添える。

「パーテイーの時はあなたの画の写真も撮って持ってくるのよ。画を売るチャンスなんだから」

夫人の申し出に感謝して乗ることにした。

次にドレス選び。照れる教授を引き連れてやって来ました、ホテルの貸衣装部。

「あ、これが良いわ」と夫人が選んだのは、真にシンプルな物。

「ウーン、も少し飾りが欲しいわ。腰の辺りに大きな花の模様があるの。あ、これが良い。ホラこっちの方が豪華だし、全体的に引き立つわ、胸にはピンクのバラの花を飾るほうが素敵」

「あ、それは良いアイデアだわ。そちらの方に目線が行って誤魔化しが効くみたい」

二人は顔を合わせて笑った。

教授のほうもそれに合わせて、タキシードが決まる。バラの花一輪を忘れないように言い添えた。

司会、進行は勿論多恵さんと言いたい所だが、おまけに大樹さんも加わる事になった。

肝心の二人の仮想と云うのか、出で立ちは大樹さんが学芸会風に大きなイチョウの葉を貼り付けたワッカを被り、下は洋服の上から、多恵さんの大雑把仕上げによる黄色のロングマント、多恵さんも同じく紅葉を貼り付けた物を被り、下は真っ赤な大雑把仕上げのマントの装いだ。

真理ちゃんも是非と言う事で、多恵さんと同じ布で作った、矢張り大雑把仕立ての頭巾を被って、赤頭巾ちゃん姿で参加する事に。

 当日、招待客は夫々、貸し衣装店で準備したと思われる本式の仮想を凝らした組もあれば、頭のワッカに下手な絵を貼り付けただけの組もいて、ゴチャゴチャ。

それが一層肩の張らないパーテイーにしていた。

「本日は中谷俊彦、久美子夫妻の銀婚式にお集まり下さいましてありがとうございます。その上、皆様には仮想姿でご出席頂く様、ご無理まで願いましたにもかかわらず、快く、そうでない方もいらしゃるかも知れませんが、此処はめでたく、快く応じていただいた事として、重ね重ねお礼申し上げます。司会の私達もこのように仮想させていただきました。側に聳え立っているのはイチョウに扮しました、島田大樹、中谷俊彦氏に長年に渡り、子供のように可愛がられ、沢山の事を学ばさせて頂いた者でございます.さっきからペラペラ喋っているのがその妻、島田多恵、紅葉に扮しています。どうしてイチョウと紅葉かと言いますと、本当は久美子夫人が黄色く色づいたイチョウの大木の下でこの会をやりたいと言うお望みでしたが、少しそれには時期が早いようなので、それを埋めるべく彼が其のイチョウ役を買って出たというわけです。無理やりさせられたと言う声も聞こえなかった訳でも無い事は無いですが、ま、此処はめでたい席、そう言う事にいたしましょう。さあて、みなさん、では中谷夫妻は一体どんな仮想で出ていらしゃるのでしょう、楽しみですね。ハーイ、ではウサコちゃん達、ご夫妻の先導をお願いいたします」

会場にはメンデルスゾーンの真夏の世の夢からの結婚行進曲が勇壮に流れ渡る中、ウサギや狸の被り物を頭に頂く学生達に導かれ夫妻が登場。

「みなさーん、拍手を、ご夫妻の25年目の結婚式と銀婚式を祝って、熱い拍手をお願いいたします」

あっけに取られた招待客は我に返って一斉に拍手をする。

二人は席に着く。

「では皆さん、新郎と言うか、古郎と言うか、ご夫君から花嫁に皆さんの前で堂々と宣言させていただきたい事があります。では中谷先生お願いいたします」

教授、少し躊躇する。が、観念したのか、目を瞑りマイクの前に進み出た。

「はい、いきなり久美子、愛してると言うのもなんだから・・あ、言ってしまった」

みんな大爆笑と拍手。

「まあ良いや。皆さん、今日は良く着てくれました。ここに居ますのが、わたしをこれ迄影からズーッと支えて来てくれたこの世で只一人の愛する妻、久美子です。本当に本当にわたしの父、母に冷たくされても其の二人を看護し、手助けし、そしてわたしにも尽くしてくれました。この中で初めて久美子の顔を見たと言う人も多い事でしょう。これはわたしが久美子を疎んじたからではありません。世の中が彼女の美しさ、魅力を理解できないんじゃないかと勝手に思い込んでいたからです。これを気付かせてくれたのは、そこにいるのっぽのイチョウ君の方ではなく、赤い紅葉さんの方です。そこで仮想パーテイーと云う事で、25年ぶりにして初めて妻にウエデイングドレスを着てもらいました。妻の美しさに改めて感動し、感無量です。ありがとう久美子、誰よりも好きだ、愛してるよ」

二人とも抱き合い、涙を流しあった。

少しの間を置いて多恵さんは言葉を発した。

「感動的でしたね。でもあんまり涙を流しすぎますと折角の花嫁化粧が崩れてしまいます。それに皆さんお腹も空いた頃でしょうから、お食事、其の前にこの愛すべきお二人のために乾杯をして食事会と言う事にいたしましょう」

此処で初めて大樹さんの出番だ。

「中谷夫妻の永久の愛を祝して、カンパーイ」


北海道から帰って、1月余りをこのようにドタバタして過ごした。少し、疲れたかな?

だが、このパーテイーのお陰で、他の教授達も多恵さんの画に引かれて、買ってくれる人が増えたのは、何よりも有り難い事だった。勿論、教授夫人久美子さんの口添えが大きかったが。

今度は何処にスケッチ旅行に出かけようかな?思案する多恵さんだった。


    次回に続く  お楽しみに



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