10:例えこの手が汚れようとも
部屋の奥に立つターゲット――アドニスは杖を携えており、その右手の甲と両眼が怪しく輝いている。
「っ!? 王子か!!」
「馬鹿め……隠れていれば良いものを! その可愛い面の皮を剥いでやる!!」
一人の影が嗜虐的な笑みを浮かべながら床を蹴って疾走。それは、常人であれば反応すら出来ない速度だが――
「遅いですよ――【竜水刃】」
アドニスがそう言って右手に持つ杖を振ると、その先端から細く圧縮された水流がまるで刃のように伸び、一閃。
「は……?」
疾走していた影の胴体が横に真っ二つに切り裂かれ、その勢いのまま下半身と上半身が床を転がっていく。
「なんだ今の魔術は!?」
「――貴様は脱出しろ。王子は俺が殺す」
リーダーの言葉に、影が頷くと窓から外へと脱出する。
「抵抗しなければ、殺しませんが……」
「死ね」
アドニスの警告を無視して影が疾走。
「残念です」
影がアドニスへとあと数歩の距離に迫った瞬間――その姿が消えた。
「……そういうスキルもあるのですね」
余裕ぶったアドニスの背後――にまるで最初からそこにいたかのように現れた影がアドニスの首へと短剣を突き立てた。
それは、【影移動】と呼ばれるスキルであり、影から影へと瞬間移動できるという、まさに暗殺者にぴったりのスキルだった。
初見でこれを見切ったものはいないという自負があり、影は間違いなくアドニス王子が死んだだろうと確信し、にやりと笑う。
しかし、次の瞬間――その笑みは絶望に変わる。
なぜなら、首に短剣を突き立てたはずのアドニスが、水の塊となってパシャリと音を立てて床へと落ちたからだ。
「ば……馬鹿な!? まさか今のは分身だったのか!?」
影はしかし混乱しながらすぐに行動を開始した。アドニス王子が聞いていた話と全く違う。下手をすると……ベラノ王子以上の怪物かもしれないという恐怖が影を襲う。
「任務を放棄――この事実を伝えることを優先する」
影がスキル【影移動】を使い、一瞬で窓の外に見えた影へと移動。一度使うと、十秒の間をおかないと再び使えないが、その間も村の中を疾走する。
「どういうスキルと魔術があればあんなことができる? とにかくベラノ王子に報告しないと――っ!!」
影が村から出て、草原を走り出した瞬間――彼に向かって何かが飛来してくる。
それは、先に脱出を試みた影の――頭部だった。その顔は苦悶の表情を浮かべており、何よりまるでつい先ほどまで水に浸かっていたかのように濡れていた。
「くそ!」
影はそれをこちらへと投げつけた、笑みを浮かべる白色の混じった青髪の美女を見て、悪態をつく。戦わなくても分かる――あれは……化け物だ。
影はスキルを使って、その美女から離れた位置に移動。戦うことを放棄する。
「早く王都に戻らな――っ!?」
移動した瞬間――彼の周囲に木が生え始めた。
「なんだ……これは!」
彼が困惑したその一瞬の間に――草原が鬱蒼とした森へと早変わりしていた。
「そのスキルってあれでしょ? 見えている範囲の影にしか転移できないんだよね? だったら視界を著しく悪くすれば――あとはゆっくり狩るだけだよ。さあユグの森から逃げられるかなあ?」
森に響く少女の声が恐怖を駆り立てる。何より、森の木々の一本一本がまるで意思を持っているかのように蠢いているのだ。
「ああ……なんなんだ……なんなんだこれは!!」
「あはは、頑張って逃げてね?」
それから影は必死にその森からの脱出を試みたのだが――翌朝には、全身を枝で串刺しになった姿で発見されたのだった。
こうして、あっけなく〝王の影〟は全滅したのだった。
☆☆☆
「うーん。まだまだこの力、上手く使いこなせてないな」
村の外れにある櫓の上にいたアドニスがそう呟いた。隣には既に警戒を解いたグラントとスコシアが立っている。
「いやいや……遠視で見てましたけど……アドニス様、いつの間にあんな超魔術を……」
スコシアが呆れたような声でそうアドニスへと告げた。
木の根の召喚、水の刃による攻撃。何よりも――それらを全て水を使った分身にやらせるという超高等技術は、はっきり言って、大魔導師や賢者と呼ばれる者ですらも困難なのだ。
「スキルとティアマト達のおかげだよ」
「なんつーか……俺の役目ないんじゃないか?」
「そんなことないよ。万が一があるし、グラントには僕だけじゃなくてこれからも色々と守ってもらわないと」
「なら良いが……しかし、他の王子共は本当にろくでもないな。実の弟に刺客を送るなんて」
グラントの言葉に、アドニスがため息をついた。
「よほど、僕が邪魔だったみたいだね。もはや王位継承権なんて僕にはないのだから、放っておけば良いのに」
「それだけ、あの男は用心深いってことですよ。私は大っ嫌いですが!」
スコシアが怒ったような口調でそう言うのをみて、アドニスが苦笑する。そういえば彼女はベラノ兄さんに喧嘩を売った結果、この開拓への参加命令が出たのだとか。本人は自身の意思でついてきたと言っていたが……王宮に居場所はもうなかったのだろうことはアドニスにも分かっていた。
あの場所では、それほどまでに王家は絶対なのだ。それはそれは恐ろしいほどに。
「いずれにせよ、刺客を殺してしまった以上――向こうから再び干渉があるのは必然」
「はん、いつでも来やがれってんだよ」
グラントが不敵な表情になって、西の方角をにらみ付けた。
「出来れば穏便に済ませたいけども……そうはいかないでしょうね。まあ喧嘩を売られたら買うだけよ」
「そうだね。ただ、向こうが何をするにしても、まだ少し時間はありそうだ。僕は、この力でこれから農業を始めようと思ってる」
「この枯れた土地でか?」
「竜の力があれば可能だよ。まずは自給自足しないとね。この村のみんなにも協力してもらおう。彼等にも利はあるはずだからね。グラントには村の人達との仲介をして欲しいんだ。それとスコシアは農作物の選定を手伝ってほしい」
「了解だ。ここ数日でだいぶ村の連中とは仲良くなったからな。きっと協力してくれるさ」
「任せてください!」
アドニスが二人の頼もしい返事を聞いて嬉しそうに頷いた。
そして彼は西――つまり王都のある方を見つめた。
「僕は……ここで生きますよ、賢者様。例え、この手が汚れようと……」
その呟きはしかし誰に聞かれることもなく、朝の風と共に、吹き抜けていった。
こうしてアドニス君が少しずつ覇道を歩み始めていきます。
次話で、チート農業そして新たなる問題発生です。