『恐怖』の病気
先に言い訳させて下さい。
いやね、実は最初は参加するつもりなかったんですよ、夏ホラー。
だって去年、嫌ってほどホラー小説を創作する才能が無い、って思い知らされましたもんでね。
でも、初のなろう主催の正式企画だし、他の参加作家様方々にも以前別の企画で一緒だった人もいらっしゃったし、さらに忙しかったはずの仕事も急遽転職する事になり時間が出来たもんで……。
なかなか連載中の作品の方の執筆にかかる気にもならないので、気分転換でちょっとだけ書いてみようかなぁ、ってついつい。
だから、酷い出来です。
ろくすっぽ推敲もしてません。
内容はほとんどないよう。
なんちゃって。
そんな事ですから人気投票も辞退しております。
とにかく、暇だったら夜長の読書で疲れた頭をリフレッシュする為の気晴らし程度で覗いて戴けると光栄です。
ミラージュのなんちゃってホラー、はじまりはじまり。
今から一年前のこんなジメジメとした梅雨の曇り空、私は世界で一番大好きで親友のようだった母を亡くしました。
あまりに突然でした。まだ四十一歳の若さでした。小さい頃から一人娘の私の事をとても大切に可愛がってくれて、普段の家事はおろかスーパーマーケットでのパートタイマーの仕事も笑顔でこなす、明るくて元気で近所でも好評判の自慢の母でした。
当時まだ高校三年生で大学受験を控えていた私は、毎日の忙しい受験勉強の日々に追われながらも、『もし志望大学に合格したら、お祝い代わりに影ながら私達家族の為に頑張ってくれている母を誘って海外旅行に行こう』と、私なりの親孝行プランを考えていました。
受験勉強前にやっていたコンビニのアルバイトで貯めた二人分の旅行資金。あくまでも目的は私の合格祝いの旅行ですから、母にはその時まで内緒にして合格の報告と共にチケットをプレゼントして驚かす予定でした。私のプランに父も喜んで協力してくれて、その日の事を思うとどんな厳しい勉強にも耐えられました。
その結果、私は無事に大学に合格する事が出来ました。しかし、その時すでに母はこの世から旅立ってしまった後でした。合格の報告も、親孝行も兼ねた二人での海外旅行もプレゼントする事が出来ませんでした。私の合格通知とそのチケットは今、母の遺骨と共にこのお墓の中で静かに眠っています。
誰もが予想していませんでした。まさかあのアクシデントが、まさかあの傷が、大切な母を命を奪い去ってしまうだなんて、私達家族も近所の人達も想像すらしていませんでした。
甘かったのです。私は今も後悔しています。もし私が、もう少し様々な病気の知識を身につけていたら、傷の見た目だけで判断せずにすぐ病院へ連れて行ってあげてたら、もしかすると母は死なずに済んだかもしれない、あんなに苦しまずに済んだかもしれないと……。
◇
「……お母さん!? どうしたのその手の傷!?」
一年前の夏休み、図書館で一通り勉強を済ませてきた私が家に帰ると、リビングにはまだ鮮血が滲むガーゼと包帯を使って自分で傷の処置をしている母の姿がありました。私は一瞬、料理中に誤って刃物で切ってしまったのか、とも思いましたが、母から帰ってきた答えはそんな心配を白けさせるような呆れたものでした。
「……いや、あのね、ごめんね理香、驚かしちゃってね? 違うのこれ、母が調子ノリすぎちゃったのよ、ついつい可愛いからって向こうが怯えてるのも気にしないで容易に手を出したからいけないの」
母は大の動物好きで、特に犬を見ると鳴き叫ぶ小型犬だろうと自分より大きい大型犬だろうと喜んで近寄りスキンシップを取る人でした。明らかに犬の方が怖がって牙を剥き出し警戒していても、まるでムツゴロウさんのように根気よく接して、最後には犬の方が参っていつしか仲良くなっちゃう不思議な力を持っていました。
母は子供の頃から常に犬と一緒に生活する事に慣れていて、とても犬の扱い方に自信があったみたいです。本当は家でも犬を飼いたかったそうですが、父が犬アレルギーの症状を、私が小さい頃に軽度のアトピー症状を持っていたので断念せざる負えなかったそうです。
その為、その代わりとばかりに近所の家で飼われている犬は片っ端から母によって手懐けられて、いつしか近所の愛犬家達の間で知らない人はいないと言われるほどの有名人となってしました。『犬おばさん』なんて言うあだ名までつけられてしまったほどです。
「この前の日曜日、三丁目の新築の家に若いご夫妻がお引っ越してきたじゃない? あそこでね、まだ子供でスゴく可愛い柴犬のワンちゃんが飼われてるって近所の人が教えてくれたの! 母それ聞いてもういてもたってもいられなくなっちゃって、お引っ越しのご挨拶がてらちょっとその子に会いに行ってきたのよ」
柴犬は母がまだ父と結婚する前、自宅に住んでいた時に最後に飼っていた犬種でした。その為か一番思い入れが強く大好きな犬種で、柴犬の姿を見ると明らかに他の犬種より嬉しそうな様子で飛んでいってしまう母の姿を良く覚えています。今回も多分そんな感じだったのでしょう。でも、違ったのはその柴犬が飼われていた若夫婦の家の環境でした。
「……でも、その子ね、最近は中型犬でも室内で飼われて綺麗にして貰っているのに、あの若い夫婦間での約束事なのかしら、外にある汚い小屋に鎖で繋がれて、側にあったアルミのお皿には水一滴すら入ってなくて放ったらかしにされてたわ、母それ見て可哀想になっちゃって、いけないとは思いながらもスーパーで牛乳とパンを買ってきちゃったのよね」
「えっー!? ダメだよお母さん! 余所の家の犬の飼い方に余計な茶々いれたらいけない、って私達にいつも言ってるのはお母さんじゃない!? そんな事してそこの家の人は怒らなかったの? ヤダよ私、こんな事で変な近所トラブルとかになったりしたら!?」
「うん、それは大丈夫よ、だってお家の人留守だったもん、でね、お皿に牛乳注いであげたらその子、スゴい勢いでペロペロ飲みだしたのよ! 余程喉が渇いていたんだと思うわ、それでね、多分ご飯もまともに食べていないんじゃないかと思って、母買ってきたパンを千切ってあげてその子に食べさせてあげようと手を出したのよ」
その時でした。余程腹も空かせていたと思しき子供の柴犬は、勢い余ってパンと一緒に母の右手の親指と人差し指の間の手のひらにまで噛みついてしまったらしいのです。牙はかなり深くまで突き刺さり、傷口からは血が滴り落ちるほど出血したそうです。弘法も筆の誤り、猿も木から落ちるとは正にこの事。母らしくもない、極めて軽率なミスでした。
「……多分あの子、人から物を貰う時のしつけをして貰ったりとか、人から撫でて貰ったり可愛がって貰ったりした経験がほとんど無いのかもしれないわね、お腹が空きすぎて必死だったのよ、だから加減無く母の手まで噛んじゃったんだと思うわ、あの子に罪は無い、罪があるとすればその飼い主であるあの家の若夫婦よね」
「……それはいいけど、肝心のお母さんのその傷は大丈夫なの!? 傷、かなり深いんでしょ? 念の為病院行く? 自分で処置するだけじゃなくて消毒くらいはした方が良いと思うよ?」
「何を言ってるのよあなたは、私を誰だと思ってるの? この近所で知る人ぞ知る『犬おばさん』よ? これまでの人生で何度犬に噛まれてきたとお思いかしら? 所詮は子供の犬が噛んだ程度、これくらいの傷なら家事にも仕事にも影響無いし、一週間もすれば傷口も塞がるわよ」
「……でもその犬、お世辞にもあまり清潔には飼われていなさそうなんでしょ? バイ菌とか傷口から入ったら炎症起こしたりしないかな? ねぇお母さん、本当に大丈夫なの?」
「大丈夫、さっきささっと軽く水で傷口も洗ってるし、それに、ワンちゃんをそんな病原菌みたいな目で見たらダメよ? さっきも行った通り、悪いのはワンちゃん達じゃない、全ては飼い主に責任があるの、飼い主が然るべき対応をしてあげないと、飼われるワンちゃん達は幸せに暮らす事が出来ないのよ、あの子もそう、ちゃんとお水とご飯をあげていれば、母の手を噛まなくたって澄んだはずなんだから」
「……でもお母さん、そろそろ人の家の犬にまで構ったりするのやめたら? この近所の人達はみんな犬好きで付き合いも長いから良いけど、最近は近所付き合いどころか一般常識が薄い人達もたくさんいるみたいだし……」
「だったら、あなたは人の心配してる暇あるなら自分がそういう人間にならないように注意しなさい! 動物の飼い方の常識を知らないなら、それを教えてあげるのが母の役目よ! 今度あそこの夫婦に会ったら、ガツンと一言忠告してあげないといけないわね!」
「……本当に、トラブルだけはやめてよ、お母さ〜ん!」
その日一日、母は自分で言った通り午後からの仕事も帰ってきてからの家事も難なくこなし、いつもの元気そのものの姿でした。夕方頃には傷口からの出血も止まり、患部が極端に腫れる事も無く異常は見られませんでした。
しかし、それが命取りになったのです。噛まれてすぐに何かしらの異常が見られれば、私は即座に母を病院に連れて行き正しい対応をして貰っていたでしょう。私も母も、これまでの浅い人生経験と知識だけで事の重大さを見誤り、気づいた時にはもう手の施しようの無い状態まで許してしまったのです。
「……うわぁ、ヒドい雨……」
それから一ヶ月後の夏休み最終日、私が目を覚ますと外はバケツをひっくり返したような大雨が降っていました。時計を見るともう午前十時、いくらまだ夏休みとはいえ明日からは学校、完全に寝坊です。この時間では父はもちろん、母も仕事に出ていってしまっている頃。『自分の朝ご飯、まだあるかな? この雨でコンビニ行くの嫌だなぁ』なんて事を考えて、私は眠い目を擦りながら二階の自分の部屋から一階へと降りてリビングの扉を開けましした。すると……。
「……うわっ! 何、この部屋!?」
いつもならば曇り空でも窓が東向きなので午前中は灯りを点けなくても十分明るいはずの我が家のリビング。しかし、窓は厚手のカーテンどころかどうやら雨戸まで閉めてあるみたいで真っ暗闇でした。
それより異常だったのは室内の温度。いくら天候が悪いとはいえ七月の夏真っ盛り、外の気温ですら軽く二十五度を超えていたというのに、その時のリビングはまるでサウナのように汗が滲み出てくるほど蒸し暑く、普通に呼吸をする事すら困難なくらいでした。
「何なのこれ……? 誰かいるの!?」
驚いた私がほとんど利かない視界の中で手探りをしながら部屋の灯りのスイッチを入れると、そこには冬のシーズン終了に合わせて物置に片付けたはずのストーブが三台も稼働していて、室内付けのエアコンからも吐き気がするほどの温風が吹き出していました。
そして、部屋の中央に置かれたソファーの上には、蓑虫が冬眠する時の蛹のように何枚もの布団を重ね合わせてくるまっている人型のシルエットが寝そべっていました。頭から足の先までスッポリとその体を包み込み、中で微かに震えているような動きも確認する事が出来ました。
「……まさか、お母さん? お母さんなの!?」
父にしては体が小柄、ならばあと、家族でこの家にいるとすれば母以外に考えられない。そう直感した私はこの異常な光景に恐怖する余裕もなく母の元へ駆け寄り、どうしていいかわからないまま必死で母に呼び掛けました。
「……り、か? 理香……」
「お母さん!? 一体どうしたの、これ!? 仕事に行ってたんじゃなかったの!? 何なのこの部屋の暑さは!? ストーブとか、布団とか、雨戸閉めたのも、これってお母さんが一人でやったの!?」
「……理香、助けて! 寒い、寒いの……!」
布団の隙間から見えた母の顔は、いつもの元気な表情からは想像もつかないほど色白く血が引いていて、目の下にはペンで塗り潰したような真っ黒な隈が浮き出ていました。まるで死期が近づいている末期の難病患者のような変わり様に私は驚きを隠せず、何が起こったのか、どうしたらいいのかわからず頭の中が完全にパニック状態に陥ってしまいました。
「……お母さん!? どうしたの!? 何があったの!? どうして、どうしてこんな事に……!?」
「……救急車、救急車呼んで、お願い……!」
母に言われ急いで119番通報をした私は救急車が来るまでの間、別の部屋からさらに布団を持ち出して母に被せたり、しっかり温風が当たるようにストーブの位置を動かしたりと色々と出来るだけの看病をしようと試みましたが、一向に母の体の震えは止まりません。
それどころか、次第に意識も薄れてきているみたいで話す言葉も徐々に少なくなり、『このまま意識を失ったらいけない』と直感で思った私は必死に母に声をかけ続けました。母の体に一体何が起こっているのかわからなかった私には、これが精一杯の看病だったのです。
「……お母さん、まだ寒い? もっとストーブの風、強くする?」
「……嫌、嫌、風、怖い、風の音、怖い……!」
「……怖い? でも寒いはずなのにお母さん、凄い汗……!」
母の額からは滝のように汗が滴り落ち、布団の中に手を入れてみると着ているシャツが水を被ったみたいにびっしょりと湿っていました。これでは脱水症状を起こしてしまうと思った私は急いでキッチンへと駆け込みコップに一杯のぬるめの水を汲んで、再び母の元へと駆け寄りました。
「……お母さん、寒いかもしれないけど、このままじゃ脱水しちゃうから水分補給しよう? ほら、ちょっと体起こして、私がゆっくり飲ませてあげるから……」
私の声に反応した母は苦しそうながらもゆっくりと起き上がり、私が持っていたコップに震える手を伸ばしてきました。しかし……。
「……嫌、嫌ああああぁぁぁぁ!!!!」
次の瞬間、母は今まで見せた事の無い引きつった形相でそのコップを振り払うと、突然くるまっていた布団から外に飛び出し、リビングの隅へと四つん這いになってで逃げ出したのです。その姿にもういつもの母の面影はありませんでした。まるで、捕食される事を拒み逃げ回る小動物のような……。
「何するのお母さん!? 一体どうしちゃったよ!? 私、何が何だか全然わかんないよ!?」
「嫌、嫌、嫌嫌嫌嫌嫌ぁ!! 怖い、怖い! 水を近づけないで! 水が怖い! 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だぁ!!」
「お母さん、お願いだから落ち着いて! 水とか風が怖いって、お母さんおかしいよ! もうすぐ救急車来るから、お願いだから落ち着いてよ!?」
「嫌ぁ、寒い、痛い、怖いぃ!! 理香、助けて! 誰か助けて! 嫌ああああぁぁぁぁ!!!!」
「お母さーん!!」
母にはもう私の声も聞こえなくなっていたのか、私の必死の制止も振り切り何を言っているのか聞き取れない奇声をあげながら発狂したように床にのた打ち回って、救急車が到着した時にはすでに意識を失ってしまっていました。病院に運び込まれ入院している間も一度も意識は回復する事は無く、母は一週間後眠るように天国へと……。
◇
「……どうして、どうしてこんな事に……」
私は未だに、母の墓前に立つと自然に涙が零れてきて止まりません。当時母を担当したお医者さんの話だと、母の死因は脳のウイルス性炎症による呼吸不全だったそうです。その話を初めて聞いた時、私は母が犬に噛まれたあの傷口を清潔にしなかった為に運悪く何かしらのウイルスに感染したのだろうと思っていました。
しかし、病院側の解剖検査やそれに併せて調査を依頼された市の保健所の資料により、私達遺族はとんでもない事実を知らされる事になったのです。まさかこのご時世に、この日本でそんな病気がまだ存在していただなんて、夢にも思っていませんでした……。
現在、あの移住してきたばかりの若夫婦はとうの昔に再び別の町へと引っ越し、そこで飼われていたワンちゃんも処分されもうこの世にはいません。私は彼らを恨んではいません。夫婦にも両働きをしていたという多忙な理由もあり、ワンちゃんに至っては決して悪気など無かったはずです。それに、母にも余計な手出しをした落ち度があった訳ですから。
でも、まだ怖いんです。友達の家で飼っているワンちゃんを紹介されても、私は絶対に触れる事が出来ません。人に懐いている野良猫も同様です。彼らのあの可愛らしい瞳の奥に潜む恐ろしい『悪魔』と、あの日の苦しみのた打ち回る母の姿をどうしても忘れる事が出来ないのです……。
◆
……以上、あくまで『ホラー小説』企画なのでノンフィクション風なお話を先に置かせて戴きました。もちろん、このお話は私ミラージュにより創作された完全なフィクションです。過去にこの様な事実、事故はございませんのでご安心下さい。
それでは、ここからは私がこのお話で読者の皆様に伝えたかった『恐怖』の本題に移らさせて戴きます。去年の夏ホラー企画で投稿させて戴いた作品、『白い糸くず』とほぼ同じような進行と思って戴ければ幸いにございます。
さて、早速ですが皆様、『この世界で最も発病すると死に至る確率が高い病気』とは、一体何だと思いますか?
不治の病として世界中で有名で、手術により摘出しても何度も再発する可能性のある『癌』でしょうか?
いや、人類が子孫を残す為に避ける事の出来ない性行為で感染し、未だに特効薬開発の目処が立たない『AIDS』でしょうか?
それとも、最近新型ウイルスが世界中で猛威を振るい、感染力においては最強と言われている『インフルエンザ』でしょうか?
あるいは『コレラ』? 『ペスト菌』? 『テング熱』? 『天然痘』? 感染症とか限りません、『心筋梗塞』? 『脳梗塞』? 『糖尿病』? それとも最近流行している精神を病み自殺行為に陥る『鬱病』でしょうか?
いいえ、どれも違います。これらの病気は完治する可能性やその治療法、進行を遅らせる方法などが医学研究により存在し、発病した全ての人間、生物が死に至る訳ではありません。確かに致死率が高い病気ばかりですが、発病した後も生還を果たした患者例は数多く記録されています。
ならば、その病気とは一体何か? それはあのギネスブックにも『最も致死率が高く生存率が低い病気』として登録されている意外な病名。確たる治療法が無く、発病したら死を待つしかない恐怖の感染症病気。
その病名とは、『狂犬病』。
「ハァ? 狂犬病? それって犬だけがかかる病気じゃねぇの?」
「最近狂犬病にかかった人なんて聞いた事無いよ? 第一、狂犬病なんて今のこのご時世にまだ存在してる病気なの?」
皆様も名前だけなら一度は聞いた事があるであろう狂犬病、これ実は哺乳類なら誰もが感染する可能性のある、ラブドウイルス科リッサウイルスに属する狂犬病ウイルスを病原体とする人獣共通感染症なのである。
人への感染の経路は一般には捕食などですでに感染した動物の咬み傷などから唾液と共にウイルスが伝染する場合が多く、場合によっては傷口や目・唇など粘膜部を舌により舐められた場合も感染する可能性が高い。一見コミュニケーションの一つと思える飼い犬とのキスも、実はかなり危険な行為と言える。
そして、狂犬病ウイルスは先程の説明の通り人を含む全ての哺乳類に感染する為、その感染経路は犬だけではなくもちろん猫や動物園でお馴染みの猿、馬、鹿、ヤギ、リス、イタチ、キツネ、アライグマ、レッサーパンダ、コウモリなどからも感染する。通常、ヒトからヒトへの感染は無いそうだが、角膜移植や臓器移植によるへの感染例が存在しているそうだ。
肝心の感染から発病に至るプロセスとは、体内に侵入したウイルスは神経系を介して脳神経組織に到達し、その後脳内に炎症を引き起こす事により発病する。その速さは日に数ミリから数十ミリと他のウイルス性感染症と比べると潜伏期間が若干長く、したがって発病までの期間は咬傷の部位によってかなり違いがある。その期間は早くて二週間、大体一ヶ月と言われている。
そして、一番恐ろしいその症状。発病後の初期は風邪に似た悪寒症状のほか、咬傷部位に痒み、熱感などがみられる。急性期には強烈な不安感と興奮性、麻痺、精神錯乱、恐水症状、恐風症などの神経症状が現れる。
恐水症状とは水などの液体を飲み込む際に嚥下筋が痙攣し強い痛みを感じる為、それにより水を極端に恐れるようになる症状で、恐風症とは風の動きに恐怖感を抱き過敏に反応してそれを避けるような仕草をする症状である。
また、日光にも過敏に反応しこれを避けるようになる為、瞳孔反射にも異常が見られるようになり、腱反射などにも異常を来す。それらの症状から2〜7日後の末期には脳神経や全身の筋肉が麻痺を起こし昏睡状態となり、最後には呼吸障害によって死亡する。
また、発症後の生存率は極めてゼロに近く、つまり死亡率はほぼ百パーセントである。そして、この病気が認知されてから今現在に至るまでも有効な治療法は存在してなく、世界はおろかまだ現在の様な衛生事情が確立されてなかった頃の日本でも数々の感染者と死者を出した、正にギネスブックのワールドレコードホルダーとして相応しい『恐怖』の病気なのである。
しかし、確かに最近『狂犬病』というこの病名が世間でほとんど聞かれなくなったのは間違いない事実。それはなぜ? これだけの致死率の高い感染症が癌やAIDSやインフルエンザなどの病気と比べると、あまりその恐ろしさや詳しい情報が認知されていない。それはなぜ?
その理由は一つ、狂犬病とは発病してしまうとすでに手遅れになってしまう病気だが、発病・感染を『予防』する事に関しては完全なマニュアルが随分昔から日本でも世界でも存在しており、未然に防ぐ事が容易い病気でもあるのだ。
その予防法の一つが狂犬病ウイルスに対するワクチン接種。犬などのペットや家畜等の動物は狂犬病予防法や家畜感染症予防法などの法律によりワクチン接種が義務づけられている。犬などのペットを飼った事がある人なら保健所に赴いた経験もあったりしてご存知だろう。これにより狂犬病感染ルートはほぼ壊滅する事が可能となった。
また、戦後からの衛生面強化の一環として行われたワクチン未接種の野犬駆除や発病した家畜の駆除義務、各役所へのペット飼育登録により管理され日本では1956年以来、発病例は一つも報告されていない。しかし、まだ世界中では日本の様な徹底的な対応策がされていない国もあり、残念ながら渡航中に感染し死亡した日本人患者が三例ほど記録されている。
ちなみにワクチン接種は体内へのウイルス感染予防だけでなく、最悪ウイルスの侵入を許してしまった場合の最後の希望としても使用される。狂犬病とはウイルスの最終到達地である脳内に侵入した時に発病する病気、その進行速度は前文で説明した通り二週間から一ヶ月の間。その期間にワクチンを接種すれば発病・死亡を免れる事が可能なのだ。
狂犬病の致死率は『ほぼ』百パーセントであり、ウイルスに感染した人間全てが死に至った訳ではない。現在記録に残っている生存者は六人。その内の五人は発病前にワクチン接種を受けていた。ウイルスが脳内に到達する前にワクチンにより予防する事が出来た、数少ない生還例である。
しかし、それでも助かったのはこれまでの歴史と世界中で僅か六人のみ。残り一人に関しては現在も理由が解明されていないそうだ。この記録だけでもどれだけこの病気が恐ろしいものなのかおわかり戴けるだろう。しかし、正しい予防法と注意さえすれば未然に防げる病気。すでに猛威を振るう事の無い過去の病気と言っても過言ではないのかもしれない。
「何だ、ならもう怖がらなくてもいい話なんじゃねぇか、ちょっと前に飼い犬に噛まれた事があったからビクビクしたぜ」
「法律でワクチン接種が義務づけられているんだったら、別に人に飼われている犬や猫に触ったって大丈夫なんでしょ? そんな衛生面の悪い国に旅行する予定も無いし、それなら感染する可能性なんて絶対無いじゃん?」
確かに、現在の日本では普通に生活していればまず感染する事が考えにくい狂犬病。しかし、果たしてその可能性がゼロなのか? と、言えば筆者個人の意見とすればそうとは思えないのだ。その理由とは大まかにまとめてざっと二つ。そして、その要因とは自然現状や動物達によるものでもなく、我々人間自らによるもの。
まず一つは、近年のペットブームによる外来動物の輸入によるウイルスの国内侵入。
外種犬に限らず狂犬病に感染している、あるいはウイルスを潜伏させている動物がペットとして海外から日本へ持ち込まれる危険性は十二分にある。輸入国である日本が狂犬病対策に対して万全であったとしても、その輸出国が万全な対策を施しているかどうかは保証されていないのが実際のところ。
特に最近は一風変わった多種多様な動物をペットとして飼う事が流行し、しかもそこに現在の狂犬病予防法では犬以外のペットに対するワクチン接種が義務化されていないという驚くべき事実もあり、完璧な国内へのウイルス侵入窓際防止対策が出来ていない問題点が存在しているのだ。
つまり、ペットショップやインターネット等で購入された犬以外の動物がウイルスを体内に潜伏させていて、それが日本の地で狂犬病を蔓延させてしまう話も有り得るという事。実際他国ではペットとして輸入されたハムスターが国内で大量の感染者を生み出した記録も残されている。
二つ目の理由は、それら哺乳類をペットや家畜として所有する個人や団体など、我々人間達のモラルの低下。
義務であるはずのワクチン接種やそもそも人に対して害を与えないように躾る事を怠るはもちろん、『飽きた』、『飼う事が出来なくなった』、『新しいのを買ったからもういらない』などという呆れた理由によりペット等を捨てる人間達が後を絶たない現実。
金銭的での理由によりワクチン接種を拒否する犬屋敷の住民や悪徳ブリーダー、資金繰りが上手くいかず動物と共に観覧施設ごと放棄し姿を眩ます企業責任者などの話題も最近良く耳にする話だ。
これらは全て人間達のエゴ、あまりに勝手極まりない無責任な行動。酷い話ではワクチン接種が義務づけられている事すら知らなかった飼い主もいたくらいだ。
狂犬病の恐怖は、決してすでに去ったものではないのだ。
感染が疑われる全ての輸入外来動物に対して公的な調査体制が整っていない事が日本国内へのウイルス侵入の危険性に拍車をかけているのは確かに事実だが、狂犬病予防法改正などの行政の問題は我々一般市民が今すぐどうこう出来る話ではないだろう。
それより前に、我々人間が動物と接する事に対し知識を蓄え理解を深め、各自一人一人が病気を未然に防ごうと思う心構えがこの『恐怖』に対抗出来る一番の方法だと言えよう。かく言う筆者も四匹の犬を飼っているが、ワクチン接種や躾はもちろん容易に手を出す人には簡単に犬を近づけないよう心掛けている。
単純に可愛がる事だけがペットに対する愛情ではない。狂犬病に感染させない対応、そして自分自身や他の人達が感染しない対応をしてこそ本当の愛情だと自分は思う。全ては我々人間次第、彼らにはこの『恐怖』から身を守る術が何も無いのだから。
あなたの家で飼われているペットは、ちゃんとワクチン接種を済ませていますか? 餌を与えようとして迂闊に手を出したりしていませんか? そして何より、最近動物に噛まれた経験はありませんか……?