107話 智の終焉
老人へ襲いかからんとする黒竜はしかし、何一つ抵抗を許されず地に伏した。
筋肉と鱗で編まれた屈強な肉体は、紙くずのような気軽さで潰されている。
「なにが起こってますの?」
聖女が辺りを見渡す。
炎も氷も雷も無い。
ただ唐突に、目に見えぬ強大な力が竜を押しつぶさんとしている。
か細い老人が呪文を唱えただけにも関わらず……空気そのものが強烈な殺意を持っているかのようであった。
「ギッ、キキキィィ……ッ」
黒竜の抵抗は意味をなさない。
不可視の力で叩かれ、捻じられ、つぶされる。
変形させられるたび、竜はおびただしい血を流し、苦悶の声をあげた。
"テレキネシス"……初級呪文でありながら、老魔術師にかかれば最強の攻撃手段であった。
「僕の防御魔法が!」
勇者がうろたえつつ展開した防護魔法は、すぐに破られた。
魔術における練度の違いは明白である。
「スキルレベルに頼るなと何度も教えたはずじゃ」
熟練魔術師のみが許される高速詠唱、および詠唱破棄により絶え間なく魔法を繰り出す老魔術師。
虚空から現れた濁流が勇者の足元をさらい、稲妻が水を伝って襲い掛かる。
間一髪、跳んで逃れたと思いきや、波の一部が氷の槍となり串刺しにすべく伸びていく。
「魔法なんぞで!」
空中を足場のように蹴り、より高く跳ぶ勇者。
背から抜く剣は並ぶものなき神器――
「至天聖剣ッ!」
聖剣の一薙ぎ、そして光の奔流。
魔法の嵐と聖剣の光が衝突し、拮抗する。しかしすぐに光が魔法を打ち払い、老魔術師と聖女へ迫る。
「滅魔!」
「絶対障壁!」
それぞれ展開した防御魔法が二人を守った。
勇者の一振り。
「くぅ、どうにか耐えましてよ!」
「手心じゃよ」
かつて魔王を一撃で葬り去った威力ではなかった。
いまだに竜の餌として、加減するだけの余裕が勇者にはあるのだ。
それを老魔術師はわかっていた。
たとえ魔術で勝っていても、聖剣を出されては、勝ち目がなくなることを。
嵐のように魔法を連打し、防御魔法を展開しながら聖女へ願いを託す。
「聖女様、どうかあなたは逃げてくだされ!」
少女に押しつけられたのは年季の入った長杖――老魔術師の愛用品だった。
素手で魔法を操りながら、勇者とせめぎあいながら老人は続ける。
「杖に込められた魔力がなくなるまで防御魔法があなたを守りますじゃ! それでどうか――うぐっ!?」
小さな痛みとともに、自らの魔力が急速に失われていくのを老魔術師は感じた。
「どうしたのですか!?」
やや優勢だったはずの老魔術師が膝をつき、首筋を抑えた。
同時、急速に視界が霞んでいく。
魔術師は素早くローブの中から何かをつかみ取り、地面にたたきつけた。
その正体はグロテスクにくねる真っ黒いムカデだ。
もちろん、単なる虫であろうはずがない。
「……お主、オセか」
ムカデに対する奇妙な問いかけ。
しかし答えは平然と返ってきた。
「これは驚き。お初に――」
ぐしゃり。
オセの声を伝える虫は勇者によって踏みつぶされた。
その目には怒りがありありと浮かんでいる。
「ヤツめ、つけていやがったか。まあいい、先生は再起不能。残るはあなただけだ」
「そうは、させな……い」
強がる老魔術師の体は、もはや立ち上がることすらままならない。
魔力の枯渇による虚脱症状だ。
本来ならまだまだ魔力は残っていたはずだ。
しかしムカデのひと噛みによって、大量のマナを奪われたのだ。
老人は懸命に気を保ち続けるが、悪あがきという他ない。
「さあ、どうする? 僕の竜が復活するまで追いかけっこでもするか?」
テレキネシスによって肉塊と化していた竜を見れば、なんと形を取り戻しつつある。
すでに前足で地面をかき、立ち上がりそうな気配である。
恐るべき再生能力だ。
遠からず食事をとれるようになるだろう。
「ば、バケモノ……」
伝承に聞く神々しいモンスターとはかけはなれた、醜悪で邪悪な怪物……聖女の目にはそう映った。
杖から発せられる防御魔法に守られてはいるものの、聖女ごときの足で勇者から逃げ切れようか。
たとえ熟練のレンジャーであっても、勇者から逃げおおせることはできないに違いない。
であれば杖の防御魔法は時間稼ぎにしかならない。
「耳寄りな情報をひとつ」
勇者の靴の裏からオセの声がする。
どうやらムカデは存命らしい。
「魔術師というのは死に際を心得るもの。おそらく竜に喰われるそのとき、彼は切り札を放つでしょう……さすれば致命傷は免れないかもしれません」
「……」
老魔術師は何も言わない。
もう失神しているのかもしれない。
しかし勇者には心当たりがあるのだろう。
舌打ちして考えを巡らせる。
どうやって老魔術師を始末するか、どうにか竜の餌にできないかと。
「魔族化を試してはいかがでしょう、十分に育ってきた今なら使えるはずです。……おっとそろそろコレの寿命のようだ、ごきげんよう」
ムカデの声が急激に小さくなり、消えた。
魔族の伝令は役目を終えたようだ。
「……アレか。面白い、試してみよう」
「魔族化!? なにをする気なの!?」
聖女の声に耳を貸さず、勇者はつかつかと老魔術師に歩み寄る。
「グケァ!」
「あぐっ」
翼が折れたままの竜が続き、尻尾の一撃で老人を地面にたたきつけた。
小さくうめくが、反撃するだけの力は置いた体に残されていない。
……それでも散り際に奥の手を残している可能性を、勇者は実体験から知っていた。
「やれ」
指令を受けて竜が顎を開く。
それは捕食のためではない。
ぽっかり開いた喉の奥から、竜はどす黒い泥のような液体を吐きかける。
魔術師の体にローブを濡らした泥は、すぐに跡形もなく染み込んでいく。
やがて服の下、皮膚から体内へと同じように。
「ぐっ!? ああああああああ!」
激しく震え、苦しみだす老魔術師。
細い手足を地面に打ち付け、体中をかきむしりながら転げまわる。
尋常ではない様子に聖女は震え、勇者はいぶかしげに眺めている。
このままでは苦悶のうちに息絶えるのではないか。
そうなっては高級な餌が勿体ない、と勇者は思っていた。
――ボキ、ゴキリ
やがて不快な音が漏れる。
太めの枝を折るようなそれは、老人の骨という骨が砕けていく音であった。
自らが竜にかけたように、体を潰され引き延ばされる魔術師。
裂けた皮膚から流れ出る血は、徐々に赤から黒へと変わっていく。
「ひっ……」
聖女には逃げることもできる腰を抜かしている。
陰惨な拷問の真意こそ死よりも忌むべきものだった。
魔族化――変形の果て、老いていたはずの肉体は変貌をとげていた。
その姿は明らかに人間を逸脱している。
力強い胴と四肢は獅子のもの。
タテガミこそないが、茶色い毛並みは硬く短い。
尻尾と足先は厚い鱗に覆われている。
闇のような黒い光沢は魔族化を施したドラゴンと似ていた。
何より異常なのは頭部である。
太い首に支えられるのは獅子ではなく人間――老魔術師の顔面だった。
不健康なまでに白く、血の気の通わない顔色は死体のよう。
生命力あふれる獅子の体に老人の頭。
そのアンバランスさが生理的な嫌悪感を見るものに与えるのだ。
黄色い歯をむき出しにして、かつての大魔術師は下品に息を吐いた。
ぬめ光る舌が、己の血に濡れた顔を舐めまわす。
「ガァッハァァァァ……」
<<Lv.86 智を織る指ヨェム 種族:魔族 種別:マンティコア>>
魔族、マンティコア。
勇者が何度も葬り去ってきた、魔族の一種であった。
「人間を魔族に変えるなんて、なんという冒涜! 自分が何をしているか分かっていますの!?」
「安心しろ、あなたは餌にしたほうが価値がある」
さっきまで言葉を交わしていた人間が、醜悪な怪物に変えられてしまった。
人としての生命を否定し、魔族として傀儡にする。
善人を演じているだけの聖女にとってすら、吐き気を催すほどの邪悪だった。
生まれたばかりのマンティコアは本調子ではないのか、伏せたまま緩慢に呼吸をしている。
老人の目は混濁とし、だらしなくよだれを垂らしていた。
およそ知性的な人格が感じ取れない。
人間だったときの落差に、聖女は激しい悲しさを覚えた。
「……とはいえ顔がこれじゃ連れて歩くわけにもいかないな。放し飼いにするにも誰かに目撃されると面倒だ」
魔族化スキルの有用性が確かめられただけ良しとするか、と勇者が呟く。
そしておもむろに手をかざす。するとマンティコアの座る地面に穴が広がっていく。
穴の先は暗く、なにか機械が動くような重々しい音がする――地中ではない。
「収納」
吸い込まれるようにマンティコアの姿が消えた。
次いで不可思議な穴が収束して無くなり、元の地面が現れる。
勇者のユニークスキル、アイテムボックス。
あらゆるモノを保管できる亜空間を自由に使える強力無比なスキルだ。
本来は自由に取り出しできたが、現在は都合により収納しかできない。
偶然に転生者を収納し、しかもそれがアイテムボックス内で生き返ったため、法則を捻じ曲げてしまったらしい。
この原因究明をしたのが先のマンティコア――老魔術師だったわけだが、本人も収納されるとは因果なものだ。
ともかく、今では面倒なモノを片づける手段としてのみ使われていた。
「さて、杖の防御魔法が切れるまで何分かな。堅牢ということは、それだけ消費も大きいということ。先生作とはいえ半日もつかどうか」
「外道っ」
薄く笑う勇者へ吐き捨てると、聖女は後ろを振り返る。
たとえ一縷の望みだとしても、逃げるしかない。
悲壮な決意を聖女が決めた、そのとき――
「なんですの、急に杖が」
明滅を始める杖。
見るものに警告を与えるように、鋭く赤い光を放つ。
強烈な光は薄暗い森の中にあって、まるで誰かを呼び寄せるかのようだ。
ひょっとしたら魔術師の仲間を呼ぶ合図なのかもしれない、と聖女は希望を抱く。
「やった、これで助か――」
「消滅と爆発の複合魔法だと!? くそっ、悪あがきは杖のほうか!!」
<<危険予知 ダメージレベル:再生不可>>
勇者の顔色が変わった。
彼の持つ数あるスキルの一つ、『危険予知』が死を告げる。
近い未来に大ダメージを受ける可能性が高い場合に限り、警告を与えてくれる強力なスキルだ。
『ダメージレベル』とは字のごとく被る負傷の指標だが、『再生不可』は『消滅』に次ぐ2番目の危険度である。
あらゆる治癒手段、復活系の効力が及ばないダメージであることを示す。
どうあがいても死ぬという点で『消滅』と大差はない。
「えっ?」
事態を飲み込めない聖女が爆弾を握りしめる。
杖に込められた魔術は二つ。
ひとつは聖女を守る絶対防御の結界。
そしてもう一つこそ、堕ちた勇者を滅ぼす必殺の破壊魔法だったのだ。