106話 思惑と困惑
***
夕暮れ。
星々が薄く瞬き、肌寒い風が木々を撫で始めたころ。
白い僧衣に身を包んだ少女が枝をかきわけ森を往く。
あどけなさが残る顔立ちには焦りや不安、そして期待が浮かんでいた。
はためく金髪と清潔な裾が風になびき、
その様は森をさまよう妖精のようであった。
「あの泉は私と勇者様が初めて出会った場所……。そこに呼び出すということは『もらい』ましたわね」
額の汗をぬぐい、それでも歩く速度を全く緩めずに少女はほくそ笑む。
『今代の聖女は庶民の出であるからして、庶民の心に最も寄り添うものである』――聖教会が掲げる、彼女の売り文句だ。
聖属性魔法の資質に優れる血筋は聖教会によって守護されており、代々の聖女は生まれてから死ぬまで……死後さえ教会の庇護にあった。
聖女になるべくして産み落とされ死んでいくのが彼女たちの常だが、今代の聖女に限っては例外である。
「貧乏はもうたくさん。でも聖女ごっこも飽き飽きですわ」
幾重にも張り巡らされた魔族の謀略により、聖女の筆頭候補はおろか、その候補の候補まで10歳を迎える前に命を奪われた。
この類を見ない惨劇の末に残されたのが、今代の――市井から見出された聖女その人であった。
血によって有力なスキル・魔法的資質が受け継がれていく世にあって、上流の者たちはスキル遺伝学に基づき理想的な結びつきを求めてきた。だからこそ聖なる血筋は確固たる地位と尊厳を保ち、教会の庇護を受け続けた。
一方、雑多な交配を繰り返す庶民たちでは、聖女たりえる候補者を輩出することは難しいとされている。
実際、今代の聖女のあらゆる能力は歴代で最低と評されていた。
(私を見る高司祭たちの、あの蔑んだ眼……!)
何度思い返しても胸がむかむかする――聖女は眉をひそめた。
しかし、その不都合な事実を隠してでも――不適格者を担ぎ上げねばならないほどに、聖教会は『聖女』という旗印を渇望した。
来たる魔族の隆盛において聖女という象徴こそ、民から教会への求心力を支える絶対的主柱だったのだ。
魔王が討たれ魔族が潜伏期間に入った今、その支柱はやがて必要とされなくなるだろう。
看板としての価値と、偽りの聖女を掲げ続けるリスク。双方を図りにかけて聖女の処遇を決めるのは、やはり聖教会に他ならない。
「だからこそ私には必要なのですわ、聖女にとどまらない肩書が」
求められる聖女であるように常に振る舞う、その一点において今代の聖女は誰よりも優れていた。
庶民出身であるからこそ、理想の聖女像を演じられるということもあろう。しかし彼女の長所、その本質は立ち回りの上手さであった。
(見栄や権威を好む勇者さまのこと、私と婚姻が成れば聖王の座に手が届くことなど察しているでしょう)
単なる聖女では教会の駒にすぎない。
いらない駒をどう『始末』するか、彼女は何度も目にしてきた。
けれど勇者の伴侶であれば安全だ。英雄の妻においそれと手出しするわけにはいくまい。
(勇者さまと結婚し聖女の役割を捨てる。そうすれば、きっと教会の支配から逃れる……!)
これこそ非力な聖女が生き残るための唯一の筋書にして悲願であった。
魔王討伐の折、勇者が最高司祭を訪ねる以前から、勇者と同行する機会を得るべく彼女はあらゆる手段を講じてきた。
以前、この先の泉で待ち伏せしドラマチックな初対面を演出したのも数ある計画の一つ。
「ふと迷い込んだ泉で沐浴する美少女、まさにでしたわね」
思い返しても傑作だ。
むしろやりすぎたかもしれない、と聖女は反省する。
その後も彼女と勇者は『偶然の』接触を重ね、いつしか互いを意識するようになった。
男心に聡い聖女にとって、年頃の勇者に好意を抱かせるなど朝飯前であった。
たった一度きり同行を許された魔族討伐の去り際「必ず迎えに来る」という言質までとったのだ。
(ここを抜ければ、すぐですわ)
期待に胸が高鳴る。
数代前の聖女がお忍びで訪れていた秘密の泉。知る人ぞ知る秘境であり、恋人との逢瀬には打ってつけの場所だ。
ここで婚姻を切り出さないはずがない。
……ひょっとすると駆け落ちを懇願されてしまうかもしれない。
それならそれで悪くない、と聖女はニヤけた。
茂みの先、開けた場所には清らかな泉があり、聖女を呼び出した先客がいた。
紅の髪がなびき、完璧な造形の顔立ちを引き立てる。中性的な美貌は老若男女あらゆる者を虜にしてきた。
「呼び出してすまない」
「いえ、そんな」
吸い込まれそうなほど澄んだ瞳は、男慣れした聖女ですら息をのませるほど。
聖女も美人に類する容姿だが、彼――勇者には劣った。
未だに目線が合うだけで脈拍が早まってしまうのだ。
それは初めて出会ったときから変わらない。
「君に一度きりの頼みがあるんだ」
聖女の揺れる瞳をまっすぐに見据えて勇者が切り出した。
「い、一度きり……!? そ、そんな困りますわ」
嘘である。全く困っていないどころか、
心の中で踊りだすほど喜んでいる聖女である。
男が女へ一度だけ頼むことなど多くはない。
言いまわしはどうであれ、望むものが今まさに手に入ろうとしている……そんな手ごたえを聖女は感じていた。
(チェックメイト、ですわ)
もちろん、表情には微塵も出さない。あくまで唐突に呼び出されて不安と恥ずかしさに戸惑うウブな少女を装っていた。
「君を困らせるのは最後だと誓う。その、命……僕にくれ」
(命と来たかーーー!)
あくまで英雄的スタンスを崩さず荒々しい風の言い回しを好むか。
もっと率直な伝え方のほうが年相応のまっすぐさが感じられて良いのではないか。
あるいは、仰々しい言葉は精いっぱいの照れ隠しと捉えれば逆に可愛げがある……などど心の中で舞い踊る聖女。
胸中のお祭り騒ぎなど、おくびにも出さず理想の聖女は着実に演じられる。
一世一代の告白を受けた少女は一瞬目を見開き、指先で小さな口を覆う。
そして若干の涙を浮かばせ、一呼吸。
「ずっと前から、私はあなたのものです……」
はにかみ、まぶたを閉じる――完璧だった。
女がこうすることで喜ばぬ男はいなかった。
少女の震える顎に、青年の指が添えられた。
(はいキスきましたわー!)
上質な杯を傾けるように、少女の顎先が上へ向かされる。
聖女の鼓動が速まる。
勇者の体温が近づく。
……生ぬるい吐息が少女の全身を撫でまわす。
鉄臭い唾液が、頭にぽたぽたと滴り落ちる。
「えっ?」
違和感に目を開けてみれば、汚らしく並ぶ鋭い歯、
軟体生物のようにのたうつ舌が聖女を舐め回していた。
勇者に従う黒き竜。聖女を一飲みにしようとするモンスターの正体だ。
「ありがとう、聖属性の餌はとても貴重でね」
「ひっ」
悲鳴を上げさせる間もなく、勇者は微笑んだままモンスターへ捕食命令を下す。
ガチリ。
トラバサミのような顎が閉まり、聖女の姿は跡形もなく消え去った。
「ゴルルルル……」
黒竜が不服そうに唸る。
なぜか――それは最高の食事を口に入れる寸前で取り上げられたからに他ならない。
「あなたまで僕の邪魔をしますか……先生」
舌を打つ勇者が視線を向けた先。
つい先ほどまで、誰もいなかったはずの場所だ。
しかしいつの間にか、背後に聖女を庇う老魔術師の姿があった。
目深にかぶった鍔広帽と豊かな白ひげこそ大魔術師の象徴と定着させた人物。
王国最高の魔術師にして勇者の導師、その人であった。
「その竜と同じく、”紛い物”に成り下がるつもりか」
「生きながら伝説と化したあなたにとって、何者にもなれない僕の気持ちなぞわからないでしょう」
”テレキネシス”。
対象の物体に触れることなく移動させる初級空間魔法。
空間魔法の中では入門レベルとはいえ、
満足に扱うには高いセンスを要求される呪文だ。
生きた人間を傷つけずに、しかも竜に喰われる直前に瞬時に引き寄せるなど、
『空間魔法Lv.5』のスキルレベルをもつ勇者ですら不可能な芸当である。
「私いつの間に……宮廷魔術師様? どうしてここに?」
「若い二人を見守るつもりじゃったが、無粋が功を奏したようじゃ」
老魔術師が真に秀でているのはスキルレベルの高さではない。
膨大な知識量と、それを実践応用する卓越したセンスである。
「そ、それよりも私を食べさせようとしていましたの!? 勇者様、なにかの間違いですわよね?」
パニック状態の聖女が後ずさる。
無理もない。
彼女が思い描いていた流れはとは全く想定外の事態なのだから。
聖女が夢みていた甘い空気など、初めから無かったのだ。
「あの紛い物の竜。生物を喰らうことで形質を得るという……スライム属に似た習性をもっておる。ついに聖女の力が欲しくなった、というだけの話じゃろう」
黒い竜の習性について聖女も知ってはいた。
モンスター討伐をしつつ竜が強くなるならば一石二鳥だ、と勇者が嬉しそうにしていたのだ。
まさかその牙が自分に向けられようとは、露ほども思っていなかったが。
「そ、そんな! まさか勇者様が人間を襲わせるだなんて」
あるはずがない、しかし――
「ワシらから隠れ、討伐任務をこなしていたというのは半分嘘じゃろう。
ここ最近、冒険者ギルドで問題になっている上級モンスターの活性化、そしてSランクパーティーの相次ぐ失踪……黒幕はお主じゃな」
年季の入ったつばの下から、鋭い眼光が青年を射抜く。
対して勇者はこともなげに肩をすくめた。
「普通の人間じゃだめなんです。レベルが高くて、なおかつ珍しいスキルを覚えていないと……餌にならないんですよ。
活性化した強力なモンスターを狩りに行ったら、幸運なことに丁度いい冒険者が来た。彼らじゃ、あのモンスターは手に負えない。
そうなれば犬死でしょう? 僕の竜に取り込まれたほうが、ずっと有意義だ」
長らく存在自体が疑問視されていたハイグリフォン。
突如現れたそれらは、確かにSランクパーティーでも危険な相手だったに違いない。
しかし老魔術師は騙されない。
「上級クラスのモンスターが活性化したのは、お主らが縄張りを荒らし回ったからじゃろうが」
「すべてのモンスターを狩り尽くせば同じことでしょう?」
災禍を巻き起こしておきながら、勇者に罪の意識は全くない。
むしろ邪魔されたことに苛立ちを露わにしている。
「そんなことしたら誰からも敬われる王になんてなれませんわよ!?」
聖女はかつての勇者が掲げた夢を覚えていた。
『これから先、いつの時代も誰からも敬われる王になるのだ』と。
自己承認欲を綺麗な言葉で包んだだけの、しかし勇者らしい夢であると聖女は決して嫌いではなかった。
それに王を目指すのであれば、聖女を伴侶として迎えるのは有力な選択肢であったのだ……だから応援していた。
(なのに人を殺し、ドラゴンに食べさせていたなんて)
体裁だけでも善人であろうとした頃と違い、今の勇者は決定的に道を踏み外しているようにしか聖女には思えない。
「善いとか悪いとか、国とか立場とか、もう面倒なんだよ。最も強いものが理想の世界を作る……もっと世界は単純でいいんだ」
「オセとかいう魔族の受け売りですかな?」
「そこまで知っていましたか」
やはりか、と老魔術師は警戒を強める。
かつて多くの権力者をそそのかし、国の中枢に入りこんだ魔族がいた。
聖女候補を次々に暗殺することで人間側の勢いを大きく削いだ、最も警戒すべき魔族。
それがオセと呼ばれる個体だった。
「だから言ったのです、魔族など信用すべきでないと!」
聖女が悲痛に叫ぶ。オセが勇者に悪意をもって接していることは知っていた。
でも勇者なら問題にならないと聖女は思っていた。
「僕のほうがヤツより強い。邪魔なら殺せばいいだけだろ」
冷ややかな勇者の返答を聞いて、聖女はようやく間違いに気づく。
『勇者なら騙されないと信じていた』んじゃない。
(……そもそも相手にされていなかっただけ)
初めから聖女の言葉など、勇者にとって一考の価値すらなかった。
聖女は勇者にとって耳を傾けるべき存在ではなかったのだ。
薄々分かっていながら、それを認めることができなかった自分に聖女は気がついた。
でも出会ったころは違ったはずだ。
一体いつから勇者の心は離れ、自分の夢は破綻していたのだろう。
呆然と、聖女は膝をつく。
「予定より早いですが仕方ない。先生も餌になってもらいます」
冷酷に勇者が告げる。
彼にとって、この場にいるのは男でも女でも仲間でも恩師でもない。
ただの餌だ。
捕食の喜びに鳴き、翼を広げた黒竜が宙に舞い――
「魔術師に時間を与えるなと教えたはずじゃ」
竜が地上を離れるより早く、両の翼が枝のようにへし折られ握りつぶされた。
厳かな声が呪文を紡ぎ、湿った鈍い音が響き渡る。
「――”テレキネシス”」