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あのころに戻りたい。

作者: 日下千尋

「木村くん、またお前か。このミス何度目だ?」

「はい、すみません。気を付けます。」

「正直、この言葉は聞き飽きたよ。」

私、木村雄介(ゆうすけ)は36歳になり、いまだに独身で結婚もしていない。

家は相変わらず実家暮らし。

文学部の大学を卒業して定職に就けず、派遣会社に登録して働くなど、職を転々としていた。

今は小さな食品会社で営業をしており、お得意様への挨拶まわりをする毎日であるが、仕事がうまくいかず、上司や先輩に怒鳴られる日々を過ごしている。

友達は一人暮らしを始めたり、中には結婚して子供が出来ている人もいる。

そんなある日、私は家から少し離れた場所で一人暮らしを始めた妹に電話をしてみた。

「あ、お兄ちゃん、どうしたの?」

「ゆかり元気でやっているか?」

「うん、やっているよ。急に電話してきて。お兄ちゃん、もしかしたら彼女ほしくなったの?今なら結婚してない友達がたくさんいるから、紹介してもいいよ。」

「違うんだ。今日電話したのは別の要件なんだよ。」

「別の要件?」

「俺、今の会社を辞めようかと思っているんだよ。」

「なんで?」

「なんていうか、今の仕事自分には向いていなくて…」

「お父さんとお母さん、知っているの?」

「それがまだ話していないんだよ。話すと面倒になるから。」

「それって逃げていることだよね。向いていないじゃなくて、嫌になったからやめて逃げようと思っているだけだよね?お父さんとお母さんに話せないのも逃げているだけでしょ?じゃあ聞くけど、お兄ちゃんは今の仕事なんで向いていないと思ったの?」

「よく失敗して上司や先輩に怒鳴られているから…正直パワハラには耐えきれないんだよ。」

「お兄ちゃんは何か努力をした?失敗しないための努力とか。」

「してきたよ。でも、ダメなものはダメなんだよ。今の会社にいるより、やめて他へ行った方がマシなんだよ。」

「本当にやめるの?」

「うん。」

「じゃあ、聞くけどやめてどこの会社に勤めるっていうの?」

「これから探す。」

「呆れた。後でお父さんとお母さんに話しておくから、もう一度ゆっくり話し合ったほうがいいよ。」

妹は一方的に電話を切ってしまった。

改めてかけ直そうとしたが、すでに手遅れで母の電話につなげてしまった。

その日の夜、父と母から呼び出しがあり、長時間の話に付き合わされてしまった。

転職はもちろん猛反対。母からは「今の仕事もう少し続けられないの?」って言われ、父からは「自分で選んだ会社なんだから、責任もって最後まで続けろ!」って言われる始末だった。

口で言うのは非常に簡単。これは実際に働いた人間でないとわからない痛みや苦しみである。

妹の言う通り、逃げているのも事実。

鬱に悩まされ、眠れない夜を何度も過ごしてきた。

妹は大学で税理士の資格を取り、税務署の責任者を務めている。

仕事をやり始めたころは父と母とよくぶつかって、喧嘩をしていたことが何度もあった。

2年前、家を出て近くの小さなマンションで一人暮らしをしている。

正月に一度だけ戻って来るが、それ以外は一人でいることが多い。

私はと言うと、インターネットの求人サイトで次の仕事を探す毎日をしている。

しかし、これと言ってなかなか見つからない。

出るのは大きなため息だけ。

収入は低いし、貯金もない。

このままだと、本当に将来も危なくなってくる。

久々に卒業アルバムを広げて、思い出に浸っていた。

あの頃が本当に懐かしい。もう一度やり直してみたい。

そんなことを口にするようになってきた。

体育祭、文化祭、すべてがみんな輝いていた。

社会人になってお酒とギャンブルに溺れ、自分をダメにする人を何度も見かけ、「ああいう人間にはなりたくない」と思って生きてきた自分が世の中の反面教師になっていた。

アルバムの最後のページに住所録があった。

ほとんどの人間が結婚や一人暮らしを始めているから電話につなげても無駄とわかっていた。

クラスメイトで唯一私と同じ、実家暮らしをやっている人を見つけたので、電話をすることにした。

高木紀夫君で、中学3年間ずっと同じクラスでいた。

「木村じゃないか、久しぶりだな。お前から電話してくるなんて。今、どうしているの?」

「俺は相変わらず、実家で暮らしているよ。」

「仲間だな。でも、悪く思わないでくれ、その実家暮らしの仲間から離脱することになったよ。」

「一人暮らしするのか?」

「まあな。実は俺結婚することにしたんだよ。」

「マジで?相手は誰なんだよ。」

「お前が3年間、片思いし続けていた、中林陽子。」

「中林陽子って、眼鏡(めがね)がとても似合う可愛い子だよな。」

「大学で一緒になって付き合うようになったんだよ。最初はお前に悪いと思って遠慮はしていたんだけど、話していくうちに気が合って今に至るって感じかな。あと、彼女、妊娠もしたんだよ。今まで黙って本当に悪かった。」

「ずいぶんとおめでたいんだな。」

「どうしたんだよ。中林をとったのは悪いと思っている。その代り、うちらの方でお前にふさわしい彼女紹介してやるから。」

「ありがとう。結婚っていつするんだ?」

「一応式なしで進めるよ。」

「そっか、うまくやれよ。陽子泣かすような真似したら、殴りに行くからな。」

「わかった。ありがとう。」

とても転職話を持ち掛けるような雰囲気ではなかったので、その場で電話を切った。

つい最近まで実家で暮らしていあた高木が中林と結婚するなんて思わなかった。

私はと言うと眠れない日々が何日も続くようになってきた。

ついに近所の精神科へ行くようになってきた。

今までのことを話してみたら、うつ病と診断された。

会社で2か月の休職期間を与えられたが、2か月で回復の見込みがない時には退職という扱いにされると言われた。

さらにきちんと回復できなければ就職活動もできないと病院でも言われてしまった。

それならと思って、私は退職の道を選んでしまった。

引継ぎと退職手続きを済ませ、晴れて失業者になってしまった。

しかし、両親から厳しい言葉を言われた。

もし、家にお金を入れられないのなら、この家を出て行ってもらう。

もちろん、妹のゆかり、親戚、友達などを当てにしてはいけないと言われてきた。

うつ病になって仕事探しも満足にできなくなってしまった。

母はこっそり、父にナイショで友人の会社を紹介してくれた。

営業がだめなら現場職という意見で、まずはアルバイトからスタートし、なれれば正社員になれる会社であった。

私がいた食品会社のグループ会社で生ものを扱う会社だった。

母は面接ではくれぐれも(うつ)であることは隠すようにと強く念を押すように私に行ってきた。

しかし、思わぬところで大きな壁にさしかかった。

「木村さんは今まで正社員で営業されていたのに、なぜアルバイトでここを選んだのですか?」

「正直、自分には向いていないと思ったからです。」

「条件はかなり悪くなるがいいのかね?」

「それは覚悟しています。」

「失礼ですが、ご結婚はされていますか?」

「これから相手を探そうかと思っています。」

「最後に伺いますが、今大きな病気を抱えていませんか?例えばうつ病とか?」

「特にございません。」

「本当ですか?私は過去にいろんな人を面接したのですが、君が嘘をついていることはわかっています。前職も自分に向いていないのではなく、(うつ)にかかり、嫌になってご自分から辞められたのではないですか?正直におっしゃってください。」

「本当に自分に向いていないと思ったからです。」

「わかりました。嘘か本当かはすぐにわかることです。とりあえずあなたを仮採用にします。しかし、何かあった時には採用を取り消しにします。それだけはご了承ください。」

面接が終わって3日後のことだった。会社から電話が来て採用の取り消しの電話が来た。

「木村さん、やはりあなたは嘘をついていますよね。」

「嘘と言いますと?」

「とぼけなくても結構ですよ。前職、やはりうつ病にかかって辞められたのですね。どうして正直に言わないのですか?うちは大勢でやる仕事なんだよ。万が一鬱が再発して倒れられたらうちの責任になってしまうんだよ。今回お母さんのご紹介で受けられたので君には充分申し訳ない気持ちでいっぱいです。今回はご縁がなかったということで。」

そのまま電話を切られ、終わってしまった。

自主退職なので失業保険は3か月先にならないともらえない。

ひたすら、ハローワークで探していても満足に見つからない日々を過ごしていた。

景気が悪い中、簡単には仕事が見つからないのはわかっていた。

まして、なんのとりえのない私を雇う会社などあるはずがないとわかっていた。

何人かの友達に紹介を頼んでみたが、みんな断られてしまった。

気分転換に電車に乗って郊外に出てみた。

着いた場所は緑豊かな自然公園でベンチに座り、ペットボトルのお茶を飲んでいたら、親子連れが私の前にやってきた。

「木村、久しぶりだな。」

「失礼ですが、誰でしたっけ?」

「それはないだろ。俺の顔を忘れたのか?」

「石井か?」

「そうだよ。石井だよ。中学2年の時、よくお前をからかっていたけど、まさかこの程度で担任の大石にチクり入れられるとは思わなかったよ。」

「あの時はごめん。」

「気にすんな。もう昔のことだし。」

「この子は?」

「あ、俺の娘だよ。名前は玲那(れいな)だよ。玲那(れいな)、このおじさんにご挨拶は?」

麗奈と名乗る女の子は小さくお辞儀をしてきた。

人生で初めておじさんと言われてしまった。でも、小さな子供から見たらおじさんと言われても仕方のないことだと思っていた。

「そういえば、お前いつ結婚したんだよ。」

「だいぶ前かな。」

「木村は?」

「俺は独身。っていうか、いまだに実家暮らし。一人暮らししてみたいけど、いまだにできないまま。」

「仕事は何しているの?」

「実は俺、失業中なんだよ。」

「クビにされたのか?」

「鬱が原因で、自分からやめたよ。]

「大丈夫なのか?」

「何とか落ち着いている感じかな。」

「これからどうする?」

「まだわからない。でも、いつまでもこうしているわけにいかないから、早いところ次の会社を見つけて落ちつつかせようと思っている。」

「そっか、大変かもしれないけど頑張れよ。」

「ありがとう。」

「あ、そうそう。これ俺の連絡先だから、何かあったら連絡してくれよ。」

私は石井の連絡先をもらい、公園を後にした。

彼は石井良太郎(りょうたろう)、中学の時は正直近寄りがたい存在だったが、久々に会ってみたら、結婚して子供もできていた。

それに引き換え、私は会社をやめて何もしていない日々を過ごしていた。

最初の頃はがむしゃらに仕事を探していたが、だんだんの気力を失い、ついに私は引きこもりの生活を送るようになってきた。

来る日も来る日もオンライゲームの日々。

このままではいけない。そう思って、再び仕事探しに専念しようと思った。

私は石井からもらった連絡先に電話してみた。

「もしもし、木村だけど今大丈夫?」

「大丈夫だよ。どうしたの?」

「・・・・」

「木村?どうした?」

「実はあれから仕事探しに専念してみたけど、見つからなくて引きこもりの生活が始まったんだよ。」

「マジで?それってやばくないか?」

「そう思って探しているんだけど、うまくいかなくて…」

「うまくいかないから、俺に泣きついてきたってわけなんだよな。」

「言っておくが、俺の会社だって、お前が考えているほど甘くはないし、この不景気だ。人だって募集はしていない。厳しいことを言って申し訳ないが、他へ当たってくれ。」

「わかった。忙しい時に申し訳ない。」

「気にすんな。ちょっと玲那(れいな)と遊んでいただけだ。」

「玲那ちゃんによろしく伝えてよ。じゃあな。」

そういって電話を切ったとたん、大きなため気が出てきた。

日増しに鬱が悪化してきた。最初は外出がしんどかったのが、今度は自分の部屋に出るのもしんどくなってきた。

それでも頑張って食事の時には食卓へ向かおうとしていた。

次の日の夜、珍しく妹から電話がかかってきた。

「あ、お兄ちゃん、お母さんから聞いたよ。会社辞めて引きこもりになったんだって?」

「ゆかりには分からない痛みってあるんだよ。」

「痛みってどんな痛みなの?」

「心の痛みだよ。」

「鬱になったことを気にしているの?」

「・・・・」

「お兄ちゃんって、昔からそうだよね。都合の悪いことを言われると黙ってしまうこと。そういえば覚えてる?子供のころにテストの答案かくして、見つかって怒鳴られた時のこと。あの時もお父さんの前では何も言わなかったよね。お父さんがなんで怒鳴っていたか分かっている?赤点をとったことを責めたわけじゃないの。答案用紙を隠したり、わからないところを理解しようとしない姿勢が見られなかったからなんだよ。仕事だってこのまま行ったら、間違いなく昔の二の舞になっちゃうよ。逃げるのは簡単だよ。でも、時には嫌なことに立ち向かって戦うことも大事なんだよ。」

「人間には適材適所(てきざいてきしょ)ってあるんだよ。」

「お兄ちゃんの場合、ただ逃げているだけ。病気を理由にして逃げているだけじゃん。」

「なんでも出来るゆかりには、わからないよ。」

「わからないよ。ちゃんと言わなきゃ。私だってここまでたくさん努力したよ。夏休み友達は海水浴、カラオケ、花火大会、家族で旅行を楽しんでいる時、私一人だけストレスを抱えながら勉強してきたよ。卒業して今の職場に入ってからも、嫌な上司や先輩にいびられながら、仕事と勉強を両立させて、やっと責任者になれたんだよ。病気を理由に昼間から嫌なことから逃げて遊んでいるお兄ちゃんと一緒にしないでよ。」

電話越しから妹の鳴き声が聞こえてきた。

「お兄ちゃんが悪かった。だから泣かないでくれ。一日でも早く仕事を見つけるよ。心配かけて本当に悪かった。」

「私も言いすぎてごめん。暇なときにお兄ちゃんにふさわしい仕事を探すよ。」

「ありがとう。」

その1週間後、再び妹から電話が来た。庶務の人間で一人欠員が出たからアルバイトでよかったら、始めてみないか?という誘いだった。

私にとって願ってもないチャンスだった。早速作った応募書類をもって面接を受けて何とか入れてもらえた状態だった。

妹のが作ったチャンスだから絶対に棒に振ってはいけない。そう思って頑張る決意をした。

朝は掃除から始まって、備品の整理、雑務全般。そして午後は簡単なデータ入力やパソコンによるテプラの出力もあった。

他にも妹の仕事の手伝いを引き受けることも何度かあった。

税務署に入って最初の夏休みを迎えた。

職場復帰を祝ってくれると言うので、近所のステーキハウスでおごってくれることになった。

「お兄ちゃん、もう2度と『嫌になったから辞めたい』とか『うつになった』って言わないよね。これは私との約束だよ。」

「わかった。ありがとう。」

1年後、私は相変わらず庶務でのアルバイトだが、春になって新人が入ってきて、税理士や庶務などの雑用で入ってきた人がやってきた。

私の配属先にも2人ほどやってきて私が教える立場になった。

妹がやってきて耳元で「ちゃんと教えてあげなかったら、あとでお母さんに言いつけるよ。」と言って、いなくなった。

新人たちは少し緊張した表情で私の前にやってきた。

振り返れば、去年の今頃がこんな感じではないかと思っていた。

ここまで来たらもう逃げることは許されない、前に進むのみと言い聞かせて新人のお世話をすることになった。

お仕事が終わって、帰宅途中空を見上げていたら、後ろから「何空を見上げているの?」と声をかけてきた。

妹はと言うと再び実家での生活が始まった。

なぜかと言うと、鬱になって逃げださないように見張るためだそうである。



おわり


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