ある夜、街の片隅にて
1)
貴方のために、爪を磨いて赤い色を乗せたわ。
黒い衣装も新調したの。
髪を結わなかったのは貴方の好みだから。
よく理解している。
あなたのこと。
あらあら。おかしいぐらい真剣にあなたが駆けて行く。
何度転んでも、その足は止まらない。
どこへ逃げようというのかしら。
ふふ。ほら、また転んだ。
仕方ないわね。その若柳のような容姿で女性をとりこにする貴方ですもの。
囁きは得意でも、運動は苦手なのね。
大目に見てあげる。
豪華なお仕着せは身動きを封じるっていことに、今このときになって初めて気がつくなんて。
残念なおつむりですこと。
― Latro 『傭兵』のように。
― dectus そっと貴方のことを『咬む』わ。
― mactance 『賞賛』などいらない。
ただ、決して獲物を逃がさない。
これがLatrodectus mactance(黒後家蜘蛛)の哲学。
男は悲鳴を上げた。
したたかにぶつけた膝も悲鳴を上げていたが、それをこらえて後ろを振り返った。
扉の開いた馬車はぽつんと月光を浴びて、主を失った悲しみを嘆いている。
そして、まさに起きていることが現実だと告げている。
つややかな女のしのび笑いが耳朶を撫でて、ぞくりと首筋に怖気がはしる。
そうだとも。逃げなくては。
酒気を帯び、ままならぬ足をいらだたしく思いながら、どうにか立ち上がる。
一歩踏み出そうとして男は悲鳴を上げた。
転んだついでに足を挫いたようだ。
舌打ちをして、壁に手をつく。
こうして壁伝いで進んでいては、追いつかれてしまう。
早く、少しでも早く人気のある通りにでて助けを求めなくては。
急く気持ちとは裏腹に一向に足が進まない。
このようなうらぶれた場所、縁もゆかりもない。
さっぱり路地の構造がわからないではないか。
どうしてこうなった。
最近自分に熱を上げている女の家から戻る途中のことだった。
馬の大きないななきの後、辻馬車が急に止まった。
御者に悪態をつくが、全く返答がない。動き出す気配もない。
不審に思って馬車を降りると首に吹き矢を撃たれた御者が仰け反って気を失っていた。
そうして、今逃げている。
物思いに沈んでいる場合ではなかった。
角を曲がった先は、絶望的な行き止まり。
あわててきびすを返すと、ちょうど8歩ばかり離れたところに、長身の男の影。
その金髪をつややかに照らし出しているのは今夜の満月。
それが、ゆっくり一歩踏み出した。
逆光のせいで見えなかった男の顔が、青白い照り返しで少しずつ明らかになる。
品良くとがった顎。細心の注意をはらって仕上げた彫刻のような鼻筋。
極めつけが、造形の神の置き土産といわんばかりの瞳。
こちらを見据える二つの澄んだ青はそれ自体が光を放っているかのように、はっきりと輝いていた。
端整な顔にあって、軽くひそめた眉はどこか退廃的な香り。
「稀代の色男の顔を拝みに来ては見たが、何のことはない。私の方が格上だな」
薄く笑った唇の傲慢さよ。
後ずさりかけて、男は悲鳴を上げた。
そのまま、耐え切れずうずくまる。
「どうした、立てないのか。手を貸してやろうか?」
申し出とは裏腹に、害意ある微笑みを浮かべて男が間合いを狭めてきた。
本能的に手を後ろに這わせて、無様に尻をこすりながら後ずさる。
「往生際がよろしいこと。ジュール・マッディリア。覚悟はできて?」
おのが本名を呼んだのは、しっとりと濡れた薔薇の花びらのようなつややかな声。
夜の空気が甘い香りに満たされる。
「何故、私の名を・・・」
いつの間にか、行き止まりのはずのその場所に黒衣の女が立っていた。
前の男に負けず劣らず完璧な造形。
緩やかにカーブを描いて肩から腰まで垂れた髪は暗い色で、濡れたように艶やかな色。
揃いの瞳に宿っているのは強い意志と聡明さ。
白磁の肌は夜目にも隠しようがない。
完璧な美貌に文句のつけようのない気品。
そこに程よいアンバランスを添えるのは、その紅いくっきりとした唇。
「貴方のことなら、なんでも知ってるわ。懺悔の時間に遅れるなんて、悪い子」
そう言って、女は踏み出した。
「エリザベス、メアリ、ロザンヌ、イメリア、イザベル・・・。いかが?」
思わず体が震えた。
この二人は何者だ。金で雇われた殺し屋なのか?
「君が、凋落した令嬢達だ」
男の冷たい声が上から降りてくる。
「『婦女の品行悪きは、家名の恥』とは、よく言ったもの。口止め料を脅し取り、今度は許婚の家へ。そこでも強請りを働くなんて、いかがなものかしら」
「親からも、婚家からも冷遇されて、令嬢達のうち何人かは命を絶った。何か言い分は?」
男がからかうように言うが、喉まで渇きがひりつき声もでない。
「どうしたの?怖いの?震えてるのね?でも、だめよ。貴族は家名に傷がつくのを恐れる。公に訴え出られないのをいいことに、随分と荒稼ぎしたようね」
何もかも、お見通し。
「まて、か・・・金でやとわれたんだろう。金なら雇った奴の倍、出す。だから、助けてくれ・・・」
「だ・め」
むなしい叫びを、女が無言の微笑みで一蹴。
男は愉しむように言う。
「私たちの雇い主は、国一番のお金持ちでね」
聞いたことがある。
国王陛下は公には出せない爪を持っていると。
「何か、付け加えることはあるかね?遺言があるなら聞こう。私は、今宵『証人』だから」
男が低く笑う。
「無ければ」
女が影をたたえて告げた。
「『執行人』の務めを果たさせていただくわ。さあ、お祈りは済んで?」
恐怖で胸が満たされる。