6 「自分が後悔しないと思う選択」
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その日は若返り薬のことや、新入生勧誘やらで忙しい一日だった。
新入生のちなみちゃんが帰った後、僕は部室へ戻った。朝は新入生勧誘で忙しく夏芽さんから若返り薬のマウス実験の監察結果を詳しく聞けていなかったので、先輩からマウスを撮影した映像を見せてもらい、その結果を僕が文章化する作業を行った。驚いたことに、投薬してからみるみるとジェリーの体にあった傷が消えていった。これが若返り薬の力か、と改めて実感させられた。
「ケン、もうそろそろ夜の九時、部室が閉まる時間だ。まあ急ぐ必要はないし、考察とかこの続きはまた明日やることにしようか」
夏芽さんは前の年に発売したばかりの、確か名前はiPhone3Gだっただろうか、その待ち受け画面を僕に向け時間を知らせてくれた。青い海が印象的な待ち受けだ。
新しいもの好きの彼女だったから、発売日当日に買って僕に自慢してきたことを覚えていた。最初はただの板きれじゃないかと思っていたら、触ってびっくりした。僕らが使っている二つ折りのケータイと比べると操作性も写真の画質も段違いに良かったし、何よりボタンなしで画面に直接文字を入力できることに驚いた。
「遠回しにスマートフォンを自慢しないでください」
「高かったんだ。肌身離さず持ち歩いてはいるけど、もし私がスマホをその辺に放り投げたまま忘れてることがあれば教えてくれ。ちなみにパスワードは1107、いい女と覚えてくれ」
「教えちゃったらパスワードの意味ないですから・・・。はあ、今日は朝からのストレスと新入生歓迎のプレッシャーで疲れてるんですから突っ込ませないでくださいよ」
本当に濃い一日だった。若返り薬が完成して喜んでいたら、今度は新入生が入部してくれないと廃部だとかで焦って勧誘を始めて、嘘をついて部活説明をして・・・いつばれるかとひやひやしていた。
「・・・でもこれで入部してくれれば、この部活を存続させることができるんですし、このくらいの苦労、なんてことない」
「なあケン」
「なんですか?」
古ぼけたソファに二人が向かい合って座っている。いつも通りの光景だ。
「もし君が、この天文部を自分のせいで潰しちゃ申し訳ないとか考えているのなら、それは杞憂だよ」
悩んでなんていないふりをしたけれど、僕の心はすべて見透かされていた。
「でも、それじゃあ・・・」
「たしかに私はこの空間が好きだし、この部活が大好きだ。でも、私はもう引退したし、今の部長は君なのだから、ケンの好きなようにやってくれればそれでいいんだよ」
僕だってこの部活が好きだ。抜けていて、いつもテキトーな先輩だけど、この部室で、他愛もない話をするのが好きなんだ。いつまでも夏芽さんが卒業しないで、ずっとこの空間が続けばいいと、そう思っている。でも、僕のせいで部活がなくなっちゃうだなんて、悲しすぎるじゃないか。
そう、伝えたかったけれど伝えられなかった。
「僕は・・・どうすればいいのでしょう」
こんな時でも、僕は他人に頼ることしかできなかった。何も考えていないわけじゃなかった。けれど、僕の頭の中に浮かんだ想いとか言葉とかは、メロンソーダの炭酸みたいにしゅわしゃわと浮かんで、やがで空気に溶けて消えてしまう。頭の中で考えるのは簡単なのに、どうして言葉にして伝えるのが、こうも難しいのだろう。結局僕は想いを伝えることができないまま、他人の意見に頼って流され、自分の気持ちを空気に溶かして捨ててしまう。
「僕にはどうしたらいいか、分からない・・・」
いつもの部室、いつもの光景。止まった時間の中で僕は変われないままでいた。
「まあ、自分が後悔しないと思う選択をすればいいんじゃないかな」
夏芽さんはいつもの口調で答えた。
「それが正解か間違いかなんてやってみないとわからないんだから。どんなに周りから反対されても、自分が後悔しないと思える選択なら、それでいいんだよ。たとえどんな結果が待っていたとしても、それが後悔しない選択だったと胸を張って言えるなら、君はきっと次へ進んでいける」
夏芽さんは「本当のことを言ってあげるべきだ」とか、「このまま部活を存続させるべきだ」とかいう明確な答えは出さなかった。
自分が後悔しないと思う選択をすればいい。それは、最後に決めるのは自分だと言われているような気がして、僕の胸を打った。
「もし君がどんな選択をしたとしても、私は君の味方でいてあげるよ。ずっと好きでいてあげる」
時々こういう真面目な瞳で僕のことを見つめるから困る。そんなにまっすぐな目を向けられたら、応えてしまいたくなる。
「す、好きでいてくれるかどうかは今関係ないじゃないですか」
「あはは、まあね」
いつも通りに僕が茶化して、夏芽さんが笑顔で応える。いつもと同じこの空間を、僕は壊したくない。そう思っていた。けれど最近、いつもの空間を飛び出した先にある、新しい世界に期待してしまう僕がいた。
僕も夏芽さんのことが好きだと伝えたら、僕たちはどうなるのだろう。
そんな仮定をしたってどうにもならないのに、その先を考えてしまうのはどうしてなんだろう。
夏芽さんと別れ僕は誰もいない自宅へと向かった。自転車の重たいペダルをこぎ夜風に打たれながらちなみちゃんに真実を伝えるべきかどうか考え続けた。しかし、一向に答えは出なかった。時間も遅く夕食を作るのも面倒だったので、その日はコンビニで済ませることにした。安くて量の多い冷凍チャーハンを手に取り、のどが渇いていたので大好物のいちごミルクも一緒に購入することにした。レジに並んでいる最中ふと肉まんが目に入る。なぜだか無性に食べたい気分に襲われた。しかも残り一つ。これは僕に食べてと言っているようなものじゃないか!
うん、買っちゃおう。
同時に両方のレジが空く。
「「すいません、肉まん一つ」」
「あっ」と声を漏らし視線をもう片方のレジのお客さんの方へやる。
「健さん!」
「えっ、うそ!」
そこにいたのは昼間の新入生、ちなみちゃんだった。
会えたのが今じゃなければ、どれほどよかっただろうか・・・。気持ちがもやもやしたままで、どういう表情を彼女に向けたらいいかわからなかった。
「あ、残り肉まん一個ですね・・・健さんがどうぞ」
「いやいいよ、買おうか悩んでたし」
「いえっ、わたしもこんなの買ったら太っちゃうので!」
「僕だって最近無駄遣いしすぎちゃってるし、ちなみちゃんが買いなよ」
「いや、健さんが!」
「いや、ちなみちゃんが!」
「・・・えーっと、どうなさいますか?」
店員さんが困った顔でこちらを見つめるので、「あ、じゃあ僕が買います!」ととっさに答えてしまった。
お店を出るとちなみちゃんがレジ袋を両手でつかみながら待っていた。
「ごめんね、肉まん僕がもらっちゃって」
「と、とんでもないです!並んでいたのも健さんが先でしたから、当然です」
「はい、半分」
「えっ」
僕は半分に割った肉まんの片方をちなみちゃんに差し出した。
「譲ってくれたのと、今日見学に来てくれたお礼。食べて」
「お礼だなんて・・・。部室でもお菓子もらったのに、これじゃあ申し訳ないです」
「いいよ。俺もこうして去年夏芽さんに肉まんをごちそうになったから。伝統みたいなものだよ」
僕が大学一年生だった頃のことを思い浮かべた。僕が夏芽さんに勧誘された日の帰り道、お腹すいたねと言ってコンビニに寄り、手に持っていた肉まんの半分を僕にくれたのだ。それ以来、僕が悩んでいるとき、夏芽さんはいつも僕の不安に気付いて肉まんをおごってくれた。急に肉まんが食べたくなったのは去年のことを思いだしたからなのかな、と思った。
ちなみちゃんは申し訳なさそうに僕の手から肉まんを受け取る。指と指とが触れ合って少しドキドキした。二人で並びながら肉まんをほおばった。
「もしかしてちなみちゃんもこの近くに住んでいるの?」
邪念を取り払うため、僕はちなみちゃんになんてことない話題を振った。
「そうなんです。先週引っ越してきたばかりで・・・。あれ、もしかして健さんもこの近くに?」
「そう、あそこの八階建ての学生マンションに住んでいるんだ。って言ってもあそこの一番下の階なんだけどね」
僕は笑顔で言ったのだが、彼女の反応がなかった。なにかまずいことでも言ってしまっただろうか?
「・・・うそ、私もあのマンションです!」
僕は瞬きを二回した。
「えっ、ほんとに!?」
「はい、あそこの二階の角部屋です」
「ってことは僕の一個上の部屋だ」
信じられない。こんな偶然、あっていいのか!?体中に幸せが満ちていくような感覚がした。
「こんなことってあるんですね。もはや運命的な何かを感じます」
「ほんとビックリだよ・・・」
やばい、嬉しくて体が宙に浮いてしまいそうだった。一目惚れした相手が同じマンションで、しかも一つ上の階に住んでいるなんて!もう一生分の運を使い果たした気分だ。
「じゃあ私が洗濯物落としてももう安心ですねっ!下の階は健さんですし」
「ははは・・・」
それはいい意味で警戒されていないのか、異性として意識されてないのか、なんだか複雑な気分だった。でも、住んでいる所が同じということは「肉じゃが作りすぎたので、よかったらいかかですか」みたいなシチュエーションもあったりするのだろうか、なんてくだらない妄想をした。
「最初は東京が怖かったんです」
突然何の話かと思い、僕はトートバックの肩紐をぎゅっと掴むちなみちゃんを見た。
「上京して、高校の友達と離れ離れになって一人ぼっちだったんです。東京は人が多いし犯罪とかに巻き込まれないか不安でした。私がトートバックで通学しているのも、リュックだと後ろから財布をとられても気付けないかなと思ったからなんです」
それは心配しすぎなんじゃないかな、と僕は苦笑した。
「けど、少し安心しました。東京にもいい人はたくさんいるんだなって分かったから。とっても素敵な先輩がいて、頼りになる優しい先輩がいて。なかなか友達ができなくて地元の国公立大学に行った方がよかったのかなって悩んでいたんですけど、そんな悩みも吹き飛びました。同じ家同士、同じ部活同士よろしくお願いします」
彼女は屈託のない笑顔で僕の方に手を差し伸べてきた。
「ああ・・・」
握手をする。なんだか体中に毒が回ったような、罪悪感が這い登ってきた。僕がやっていることは彼女をだましていることに他ならない。こんなに純粋な、無垢な彼女の心を裏切っていいものかと、今更ながらに揺れた。
「・・・健さん?」
握手をする手が強くなる。これでいいのか。本当に後悔しないのか、僕?
「本当は!」
のどがつかえる。言葉が出てこない。でも、本当のことを伝えなくちゃ。僕は決意した。
「本当は、僕らは、星のことなんてこれっぽっちも興味ないんだ。屋上で星を見たことも。テントを張って星を見に行ったことも、一度もなかったんだ!」
「・・・それはどういう意味、ですか?」
僕は地面を見つめることしかできなかった。
「確かにうちの部活は天文部という名前だよ。でもそれは飾りにすぎない。本当は夏芽さんが自分の研究スペースとして部室を使うためのでたらめな部活で、ただ自分の好奇心や趣味のためにひたすら薬を作っているような部活で、僕らは一度も星を見ようと思ったことはなかった。天文部っていうのは、名前だけにすぎないんだ。」
「それって・・・」
はっきり言おう、そう思った。
「僕たちの天文部は、星を見ない」
風の音がうるさい。通り過ぎる車や歩行者たちの視線がうっとうしい。早く逃げたい。
「そう、ですか」
終わった、と思った。
でもいつかは分かることだった。
だったら彼女が苦しむ前に、早く別の部活やサークルを見つけられるように、僕は身を引こう。
「ごめん」
「いえ」
彼女はこれまでに聞いたこともないほど冷たい声で答えた。もう僕は二度と彼女と星について語り合うことも、肉まんを分け合うこともできないんだろうなと思った。
「帰ろうか」
そしてこれからも、落ちてきた洗濯物を笑顔で届けに行くことも、彼女が作りすぎてしまった料理を受け取ることもないんだろうなと思った。
「そうですね」
短い恋だったな。
淋しいな。
家の前の信号機がこれほどにまで長いと感じた日はなかった。
横断歩道を渡り、大きな桜の木が立ちそびえる共同玄関へとたどり着く。役目を終えた桜の花びらがヒラヒラと儚く散っていた。
「今日はごめんね」
「いえ」
「その・・・罪滅ぼしと言っては何だけど、これもらって。僕の大好物なんだ」
僕はレジ袋からいちご牛乳を取りだした。
しかし、彼女は手を差し出してはくれなかった。
「ごめんなさい、私いちご苦手なんです。それじゃあ、おやすみなさい」
オートロックの玄関でキーを差し込み、彼女は立ち去ってしまった。
これでよかったのだと、僕は言い聞かせた。
翌日、僕は重たい足を引きづって部室へと向かった。その日も新歓時期で講義はなかった。きっと部室には夏芽さんがいる。
先輩になんと伝えよう。怒るだろうか。いや、きっと彼女なら「君らしいな」と笑い飛ばして、「また一からだな」と何事もなかったかのようにペットボトルのコーラを飲み干すのだろう。
しっかり、ありのままを伝えよう。僕は部室の扉を開けた。
「おはようケン」
「健さん、おはようございます」
「おはよう・・・」
僕はドアノブに手をかけ扉を半開にしたまま立ち尽くしていた。
「ここに名前と住所を書けばよいですか?」
「そうそう。あと、メアドも教えて。個人的にメールのやり取りしたいな。友達として」
「じゃ後で交換しましょう!あと注意事項とかありますか?」
「そーだね、うちの部活緩いから、いつでもさぼってオッケーだし、というか活動日決まってないし。この部室も好きに使ってよ」
「・・・何してるんですか」
僕は眉間にしわをよせて二人に言った。
「ケンこそ何やってるのさ、そんなところで突っ立って。目障りもいいところだよ」
「そこに立たれたままだと落ち着きませんよ、健さん」
「お、いいね。でももっとびしっと言ってあげた方がちょうどいいよ、ケンには」
「じゃあ・・・。少しうっとうしいです」
「そう、その調子だよ!グッジョブ」
目の前にはちなみちゃんが、夏芽さんと仲良さげに話している。これは、幻覚なのか?この状況は一体何なんだ?
「健さん、私この部活に入部することにしたので、これからよろしくお願いします!」
もはや見慣れてしまった下げすぎなお辞儀にもうまく反応することができない。
「え、入部?な、なんで!?」
戸惑いに満ちた声で僕は尋ねた。
「昨日の僕の話、聞いてたよね?僕らは星を見ない天文部だって・・・なのに、どうして?」
そんな僕の言葉にも、ちなみちゃんはなんてことない顔で答えた。
「あれから一晩考えたんです。夏芽さんたちは自分たちの知的好奇心や趣味のためにこの部活を作ったって、言っていましたよね」
「そ、そうだけど」
「なら、私も部員になってしまえば、この部活をわたしの知的好奇心や趣味のために使っていいのではないかと思いまして」
「はあ」
「だから、お二人には今まで通り薬の研究を続けてもらって構わないんですけど、私が部員になった以上、この部活を『星を見る天文部』に変えていきます!」
「へ?」
ちなみちゃんは百パーセントの笑顔で言った。
「これからお二人には星の魅力をたっぷり伝えていくので、天体観測も付き合ってくださいね!」
「え、えええ?」
彼女が出した答えは予想外のものだった。この星を見ない天文部に入らないのではなく、この部活を星を見る天文部に変えていくという答え。僕はあっけにとられた。
「というか、もともとは天文部という名目で部活申請したんですから、本来は星を見ないとダメなんです!お二人には嫌でも星を好きになってもらえるよう、頑張ります」
本人が言っていた通り、彼女は星のことになると性格が変わる。僕らが星に興味がないと言ったところで折れるような人間ではなかった。
「ケン、面倒な子を勧誘してくれたね」
「え、僕のせいですか?」
「でももう入部届けにサインさせちゃったから、この子の面倒みてあげてね」
自分は引退したからって他人事だと思って!僕が目で訴えると、夏芽さんも「勧誘したケンが悪いんだよ。まあ、頑張りなよ」と意地悪そうに、そして楽しそうに笑った。
「よろしくお願いします、健さん」
「・・・どうしてこうなった」
とんでもない子と出会ってしまった、と僕はその時になってようやく気付いた。混沌としていたわが天文部は、さらに混沌さを増し、また新しい一年が始まる。