2 「私は変わらないよ」
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太陽の光がまぶしい四月のとある朝。
大学の横道にあるけやき並木のトンネルを自転車で走り抜ける。まだ少し肌寒いというのにじん額にじんわりと汗がにじんでいた。眼鏡をはずしYシャツの袖で汗をぬぐった。
自転車を部室棟前の駐輪場に停め、守衛所へ急ぐ。管理表に「濱田 健」と名前を書き入れ、管理人さんから部室の鍵を受け取った。そして、大学の裏側に存在する少し古くなった部室棟へと滑り込んだ。わが部室の鍵を開け、ソファへ腰を下ろした。
先輩もすぐ来るだろうと思い、ゆっくり腕を組んだ・・・
というのが、二時間前の出来事である。
そして結論を言うと、先輩はまだ来ていない。
「じゃあ明日朝一で行くから!」という先輩の言葉を信じて部室が開く朝七時ちょうどに来たというのにこのありさまだ。
時間をつぶそうと化学雑誌を開いてみても、気が散って内容がさっぱり頭に入ってこない。果たしてマウス実験はうまくいったのかという不安と期待が、頭の中で行ったり来たりしていた。
何度もメールを送ったし電話もかけた。しかし、二つ折りにされたケータイを何度開いても彼女からの返信は来ていなかった。一体こんな時間まで何を・・・!
「やーやーお待たせ諸君。天才薬学者、木下夏芽の登場だよ!」
イライラがピークに達する寸前、申し訳なさのかけらも持ち合わせていない夏芽先輩がドアを勢いよく開いてやってきた。右手で大きなマウスの籠を持っていた。
「遅すぎます、一体こんな時間までどこで何を・・・!」
「家で寝てた」
「寝てた⁉マウスの観察もせずに寝ていたと⁉」
「まーまー、寝てる間もちゃんと動画に撮ってあるからだいじょーぶ」
この人は・・・!どうしていつもこうテキトーなんだろう。
「ほんっと変わらないですよね、夏芽さんって」
「いやあ、それほどでも」
褒めたつもりなど一切なかったけれど、そんなことは気にせず夏芽さんはのんびりと僕へと近づいてきた。彼女の長い髪が春風と混ざり合ってさわやかな香りを僕へと運んだ。
「私は変わらないよ、この性格も、君への想いも」
その香りは、僕と夏芽さんの出会いを思い起こさせた。
夏芽さんとの出会いは僕がこの大学に新入生として入学した日、ちょうど去年の今日のことだった。
「そこの少年。いや、わが友よ!天文部に入らないか」
まっすぐ伸びた黒く長い髪を春風になびかせ、夏芽さんは胸に手をあて立っていた。鋭くきりっとした瞳が知的な印象を与えた。
「僕、星とか興味ないので、遠慮しときます」
「そうなの?さっき君を見たとき、『一応大学生だしサークルか部活は入っておきたいけど、自分のやりたいことがなくてどうしたらいいかわからない一年生です』って顔をしていたから声をかけたのだけど」
白のTシャツにデニムの短パンというラフな服装と、このデリカシーのないセリフが先ほどの知的な印象を台無しにした。
「あのですね・・・僕はそんな顔していませんし大体顔を見ただけでそんなこと分かるわけないじゃないですか」
「まあまあ、君が冴えない顔をしていたかはどうでもよくて、こうして二人が出会えたのも運命だとは思わない?」
「・・・はあ」
彼女が意味ありげな笑顔を浮かべたことよりも、いちいち鼻につく言葉のチョイスの方が気になって、あきれたような溜息が出てしまった。
「ちなみにうちの天文部は星を見ないよ」
「だったら何をしているんですか?」
彼女の印象も良くないし早くその場を立ち去ろうかと思ったけれど、「天文部なのに星を見ない」ということに一瞬興味を抱いてしまった。
「私、薬学部なんだけどさー、自分の研究室がほしくてね。それで、廃部寸前だった天文部を引き継いで、部室は実験スペースに、天文観測代って名目で大学から費用をもらってるんだ」
それまでの言動からうすうす感じてはいたが、この人は結構、いやかなりテキトーな人間なんだろうと思った。
「だからうちは星を見ない!個人的趣味のためだけに部活を運用してる!」
馬鹿馬鹿しい・・・。ほかの部活やサークルを見に行こうと思い足を動かした、瞬間だった。
「ああ、待って待って!私今若返りの薬作ってるの!昔のぴちぴちの肌やあふれ出る体力を取り戻せるかもしれないよ!」
なんだって?
僕は彼女の方へと振り返った。
「お?やっぱり美しい肌とみなぎる体力に興味わいた?」
「そうじゃなくて!若返りの薬を作っているって本当ですか?」
若返りの薬。それは僕が長年叶えたかった夢だった。高校生の時から望み続けてきたのだ。そのために僕はこの南大の薬学部に入ったんだ。
「・・・ああ、本気だ。自慢ではないが私、才能だけはあってね。きっと来年の今頃には完成させられるはずだよ」
その自信に満ちた表情。僕は彼女に賭けてみることにした。
「といっても信じてもらえないよね、あはは・・」
「入ります」
「え?」
「僕、天文部に入部します」
あれから一年たって、僕は大学二年生へと進級した。
そして先週、夏芽さんと僕の二人は、かなり期待のもてる若返り薬の開発に成功した。先日がその薬のマウス実験の日だった。
そして夏芽さんにマウスを預けた結果がこれである。
「変わらない、じゃなくて!変わろうとする努力くらいしてください!だから僕がマウス預かるって言ったんです!」
「別に私の家に泊まってもらっても良かったんだけど?」
夏芽さんは何の気なしに呟いた。
「あのですね・・・仮にも20を過ぎた男女が一夜をともにするなんて」
「私はケンになら何をされてもかまわないけど?」
「なっ・・・!」
ぐっと体温が上がっていく。目線をそらそうと視線を落とすと夏芽さんのショートパンツが目に移り、余計に体が熱くなってしまった。
補足しておくと、僕の名前は健と書いてタケルと読むのだけれど、なぜだか夏芽さんはケンという呼び方を気に入っているらしかった。天才の考えていることはわからない。
「そういうこといろんな男に軽々しく言っているといつか痛い目にあいますよ」
「私はこーいうことケンにしか言わないよ」
頬が熱くなるのが自分でもわかった。どうしてこの人はこういうことを真顔で言えるのだろうか。
「ともかく、私もケンがいないなりに頑張ったわけだよ」
「ふーん、そうなんですか」
またこうやって夏芽さんのペースに飲まれてしまう。いっつもそうだ。僕が優位に立っていたはずなのに、いつの間にか逆転されている。恐ろしい人だ。
「私だって、なんの成果なしに眠ったりしないよ」
その言葉に思わず体が前のめりになる。
「ということは?」
「わが友、ジェリーを見てあげてくれ」
ジェリーというのは実験につかったマウスの愛称である。
夏芽さんは持ってきた大きなバックを開け、中からケージを取りだした。光に当たると、ジェリーの体がよく見えた。
「どうだ、ジェリーの美しい身体は」
「これは・・・!」
僕は目を見開いた。ジェリーの、先日まであったはずの身体の傷が消えているのだ。
「傷が消えた、ということは・・・」
夏芽さんは目を閉じ、得意げな表情を見せる。
「そう、ジェリーは我々の作った薬によって、完璧に若返ったのだよ!」
呼吸が止まった、と感じるほど僕は驚きを隠せなかった。信じられない、待ち望んで来た瞬間が、ついに。
「つまり、若返りの薬が完成した、ということですか」
「うん、そーいうこと!」
ついに、夢が叶ったんだ。
「な、夏芽さん!」
「ケン!成功だよ!」
僕は立ち上がり、夏芽さんとハイタッチを交わした。
しかし、ふと冷静になる。
「でも、僕たちの作った薬に治癒効果があっただけという可能性は?」
「ない」
夏芽さんははっきりとそう断言した。
「この前教えたエサの場所を彼は覚えていなかった」
その言葉を待っていた。
僕たちはケージに三つの箱を用意し、毎回そのうちの一つ、同じ場所にエサを入れるようにしていた。エサは無臭のものを選んだ。最初のころは毎回すべての箱を確認していたジェリーだったが、しばらくするとエサの入っている箱しかあさらなくなった。でも。
「ジェリーは全ての箱をあさったんですね」
「そう。つまり彼はここ数日の記憶を失っている」
僕たちと出会う前からジェリーには傷があった。そして、傷が消え、僕たちと出会ってからできた記憶を失っているということは。
「やっぱり、ジェリーは若返ったんだ」
一瞬、部屋の中が静まり返る。
「な、夏芽さん!」
「ケン!大成功だよ!」
今度は両手で二人はハイタッチを交わした。僕は体の底から幸せが湧き上がってくるのを感じた。
「ほんとに夏芽さんは天才薬学者ですよ!わずか二十一歳という若さにして若返り薬を完成させちゃうなんて!世界的、歴史的大発明です!ネイチャーに名前が載るのもそう遠い未来ではないですよ、ノーベル賞だって夢じゃない。というかほぼ確定ですよ、これ。すごいです、夏芽さん‼」
普段はだらしなそうに見えるが、薬創りに関してはものすごい実力を持っているのが夏芽さんだ。そして、普通の人がすぐ根を上げて諦めてしまうようなことも彼女は諦めない。才能の陰には彼女の努力があることを僕は知っていた。
「君も良かったね。幼いころからの夢だったんだろう?君のお父さんのようにガンだったり、病気の人を若返り薬で助けたいって。その夢も叶うかもしれないよ」
もうお父さんは亡くなってしまったけれど、これからガンになってただ死を待つしかない人達の命を救えるかもしれない。そう思うと僕は嬉しくなった。
「それもこれも夏芽さんのおかげですよ!若返り薬を創れる人なんて、全世界を探したって夏芽さんしかいないですよ!」
「いやーそこまで言われると照れるなー。もっと言ってくれてもいいんだよ?」
夏芽さんは照れ臭い気持ちを隠すように冗談を言った。こうしてみると普通の大学生って感じで、天才科学者だなんて思えないほどだ。
「でも、この薬を完成させられたのも、ケンの協力があったからだよ。君の冷静さや分析力がなければこいつは完成させられなかった。ありがとう、ケン」
夏芽さんは優しい目をして僕を見つめた。
「な、なに言ってるんですか。自分の才能を認めてください。僕はただ、夏芽さんの隣でデータを取っていただけですから・・・」
今度はこっちが恥ずかしくなって、視線を窓の外へそらした。
「まあ、世界的大発見になるかは、これから次第だね。まだ個体差や年齢差による効果のギャップも調べてないし、もっと詳細なデータを取っていかなければならない。マウスでは成功したかもしれないが、人間ではどうなるか分からない。それにホルモンの影響によって男女で効果の差が大きく出るかもしれないね。それに私も大学4年生だから、卒論の準備も取り掛からないといけないしね」
そうだった。夏芽さんは大学4年生で、本来なら部活も引退してなくてはいけないのだ。
「そうですよ。喜ぶにはまだ早いです」と言いながら若返り薬の完成に顔がにやけてしまう自分がいた。
「もうテーマは若返り薬に決めているから、そんなに時間はかからないだろうけど、これから忙しくはなるだろうね。しばらくは部室にも来られないかもしれないけど泣いちゃだめだよ?」
「泣きませんよ、別に」
「あ、そうだ。せっかくだし成功をお祝いして一杯やろうじゃないか!缶ジュースおごってあげるよ。ちょっと待ってて」
「ありがとうございます」
バタンとドアが閉まる音がした。
さっきは強がってみせたものの、やはり夏芽さんがいなくなるのは悲しい。大ざっぱでテキトーで、いつも強引に自分のペースに引っ張って、わがままで身勝手で。でも、いなくなると思うと、少し、つまらないと思う部分はある。なんだかんだであの人は、物静かな自分とは合っていた。あまり喋らない僕だったが、いつでも夏芽さんは僕に笑顔で話しかけてくれた。そんな彼女がもうすぐ居なくなるのだ・・・。
「もしかして寂しいとか?」
「うわっ冷た!」
夏芽さんに冷えた缶ジュースを頬にあてられ思わず大声をあげてしまう。右手にはオレンジ味の、左手にはグレープ味の炭酸ゼリー飲料を持っていた。ジェリーとゼリーをかけているのだろう。
「戻ってきたなら言ってくださいよ、やることが古いです。あと別に寂しくないです」
「本当に~?」
夏芽さんのいつも一歩先で余裕そうに構えているところが僕は気にくわなかった。
「ちょっとは寂しいです、けど」
「ふーん、そっかあ。僕には夏芽さんが必要ですってことかー」
「そこまで言ってません!」
なんだか僕はからかわれ体質な気がする。
「でも私にはケンが必要だよ」
夏芽さんの声が鼓膜を優しく揺らす。
「研究者としての腕だけじゃなくて、ケンといるとすごく楽しいし、ずっと一緒にいたいと思ってる」
「夏芽さん・・・」
夏芽さんの顔が僕に近づく。さわやかな香りが鼻を掠める。触れていないのに夏芽さんの体温が伝わってくるようだった。
「ケン、私は・・・」
彼女の顔が近づく。僕の眼鏡をはずし、鼻先十センチ前まで迫っている。おちょくっているのか、本気なのか。でも、僕が拒絶しなければ、僕と夏芽さんは。
「ダメ、です」
それでも拒絶してしまうのは、ケン、という呼び方があの子の記憶を呼び起こさせるからだった。
『―くん、ケンくん』
小学校のころ、ずっと僕の片想いだと思っていた相手、なっちゃん。
高校三年生の夏、久しぶりに帰ってきたお母さんに庭のバラのことを初めて聞いた。その時、バラたちがなっちゃんから送られたものだと知り、僕たちは両想いだったということが明らかになった。結局その恋は叶わなかったけれど、夏芽さんに「ケン」と呼ばれるたびに、あの子の顔を思い出してしまう。
「ん、何がダメだって?私まだ何もしてないけど?」
夏芽さんの笑顔をみて、ようやく僕がおちょくられていたのだと察した。
「何を期待してたのかな?」
「何も期待してません!近いです!離れてください!」
またやられてしまった。遊ばれているだけだと分かっているはずなのに毎回引っかかってしまう自分に嫌気がさした。
「いやあ、私がいなくなって寂しいって言うケンがかわいくてつい。私もしばらくはこの部活にいるから心配しなくていいよ」
夏芽さんは明るく笑って見せた。夏芽さんのがさつでテキトーな性格を知らない大学生ならイチコロになりそうな笑顔だった。中身を知っていて良かった。
「むしろずっと部活にいられても困りますよ。夏芽さんはもう大学四年生なんですから、ずっと部室にいて就活大丈夫ですか?」
「これだけすごい薬を発表すれば私も引く手あまただろう。あるいは大学院に入って研究を本格化させるというのも手だし」
そうだ、彼女は将来に困るような人間ではなかった。
「私もこんな蒸し暑い部屋にずっと居座り続けるつもりはないよ。もう21世紀だよ?部室にエアコンないってどういうこと?」
部室では扇風機の羽がせかせかと回っていた。
「まあまあ、部室借りられているだけでもありがたいことですから・・・」
若返り薬も完成したことだし、夏芽さんは大学を卒業してからも将来の心配はなさそうだ。
「君こそ大丈夫なのか?」
「え、何がですか?」
心当たりがないので僕は首をかしげる。
「部員だよ。私も形式的には先月で引退ってことになってるから、幽霊部員になっている子たち三人を含めても現在部員は四人だよ。五人以上いないと廃部になっちゃうから、今年最低でも一人集めないと廃部だよ?」
あ、そうだった。今僕と同い年の子たち三人には天文部に入ってもらう代わりにこの部室を荷物置き場兼、寝床として貸し出しているが、夏芽さんがいなくなるから部員が一人減るのか。
「すっかり忘れてました。新入生歓迎期間っていつからでしたっけ?」
僕が尋ねると夏芽さんはさらりと答えた。
「ああ、今日から三日間だよ」
今日から、三日間・・・?
「もちろん勧誘チラシやその他もろもろ、準備してるよね?」
「う、うわあああ!」
若返り薬に夢中ですっかり忘れてた!
「なんでもっと早く言ってくれなかったんですか!入学式が終わるのは?」
「十分後だね」
「嘘!今からじゃチラシ作りも間に合わないしどうしよう」
「とりあえず口頭で勧誘するしかない!大丈夫、それでケンも入ってくれたし」
「それは僕が特殊だったんです!ああもう、とにかく行ってきます!」
春、新しい年度の始まり、僕は不安しかないスタートダッシュを切った。