20 プロローグ
20
夏休みからの半年間はあっという間に過ぎていった。
夏芽さんは残りの半年間を大学生まで若返った状態で過ごすことになった。
僕の家はお父さんが残してくれたものだと思っていたが、それは夏芽さんと契約した組織が僕の住んでいた家を忠実に再現して作ったものにすぎなかった。
夏休みは詠太や美咲さんも誘って、僕、ちなみさん、そして夏芽さんの五人で海へ行ったり花火を見に行ったりした。五人はすぐに打ち解けて、短い間だったが、おもいっきり遊んだ。
学校が始まり、夏芽さんは通うことはできなかったけれど、放課後は家に集まり勉強会をするのが恒例となっていた。ちなみさんの家では夏芽さんが温かいコーヒーと手作りのお菓子を作って待っていてくれた。
冬、私大を目指す詠太は早々に受験を終え、僕らの応援に励んだ。美咲さんとちなみさんは国公立を目指し、春休みに入るまでずっと勉強を続けていた。夏芽さんは料理を作ったりして懸命に僕らをサポートしてくれた。僕はというと、もう一度南大に合格するためにラストスパートをかけていた。夏の間さぼっていた分のつけがきて厳しい戦いだったけれど、もう一度南大に入ってちなみさんと天文部を作るという夢を果たすために必死で勉強し、見事合格をつかみ取った。もちろん、今度はちなみさんも浪人することなく、現役で合格することができた。
そして、三月三十一日が来てしまった。
夏休みからの日々はあまりにも短すぎて、正直今でも夏芽さんとお別れだなんて信じられずにいた。
朝ごはんを食べていると、ちなみさんがチケットを二枚、テーブルの上に差し出した。
「水族館のチケット。二人で行ってきて」
僕は驚いた。今日は家で三人、ゆっくり過ごそうと思っていたからだ。
「悪いよちなみさん!そんなに気を使わなくても」
「もう一度行きたかったんだよね?私のことは気にしなくていいから、行ってきて?」
僕は夏芽さんと顔を見合わせた。僕たちは困ったような笑顔を浮かべて、ちなみさんのお言葉に甘えることにした。
「ねえ、夏芽さん」
ちなみさんは溢れる涙を抑えきることができなくて、ぼろぼろ泣きじゃくりながら言った。
「ほんとうにっ、いままで・・・ありがとう。わたし、夏芽さんのこと、忘れない!」
夏芽さんはちなみさんに駆け寄り、彼女の涙を拭った。
「うん、私も絶対忘れない。というか、忘れたくても忘れられないよ」
夏芽さんは泣きながら笑っていた。夏芽さんはこの半年間で、笑顔が似合う女の子に成長していた。僕は二人の気が済むまで待つことにした。
「五十年ぶりの江の島だー!」
「ちょっ、夏芽さん!周りの人から変な人だと思われるから!」
五十年ぶりに来た江の島はすっかり姿を変えていて、江の島の本島まで電車の路線が伸びていたり、砂浜が整備されてきれいになっていたりと、昔の面影を残しつつ近未来的に進歩していた。
僕たちはというと、五十年前と全く同じルートでデートを楽しんだ。ご飯を食べて、水族館に行ってイルカショーを見て、最後には五十年前いけなかった砂浜へと向かった。
「キーホルダー、落としちゃだめだよ」
「分かってる」
「もし落としちゃっても、いきなり飛び出したりしちゃだめだよ」
「飛び出そうとしても君が手をつないでいるから無理だよ」
「そっか」
僕たちは砂浜にたどり着いた。
「ケン、ありがとう」
「今日のことは、ちなみさんが計画してくれたんだよ、お礼ならちなみさんに」
「そうじゃなくて、この半年間、すごく楽しかったから、だから、ありがとう」
僕はこころの周りを雲で覆われたような、不安な気持ちになった。ありがとうなんて言われたら、本当に最後なんだなって実感しちゃうじゃないか。でも一番不安なのは夏芽さんのはずだ。僕はこころを覗かれないよう笑顔をつくった。
「僕のほうこそ、六十年間、ありがとう」
夏芽さんは微笑んだ。僕も微笑み返した。
「ねえケン」
「なに?」
「ちなみのこと、しあわせにしてやってくれ」
その言葉が何を意味するのか、僕には理解できた。
「わたし、もう」
「僕が代わりになる!僕が夏芽さんの代わりに研究所に行って、若返りの研究を続ける!だから、夏芽さんはちなみさんと暮らして・・・」
「駄目だよ」
夏芽さんは駄々をこねるわが子をたしなめるように、優しく語りかけた。
「私一人ですら苦戦したんだよ?ケン一人で若返り薬が創れる訳ないよ。それに、契約がある。組織は私のこと、手放したりしないよ」
僕は夏芽さんを見た。泣いているんじゃないかと思ったからだ。しかし、夏芽さんはちっとも悲しそうな顔をしていなくて、むしろすがすがしい、雨上がりの空のような表情を浮かべていた。
「どうして夏芽さんは笑顔でいられるの?」
「どうしてって、泣きながら別れるより、笑いながら別れた方がいいじゃないか」
半年間、夏芽さんは誰かのために生きるのを辞めた。自分が笑顔でいられるよう自分のやりたいことをやって、時には僕たちを巻き込みながら僕らのことを笑顔にしてくれた。
彼女は彼女のために生きられるようになった。これからじゃないか。これからもっと楽しくなっていくはずなのに、どうしてここで終わってしまうのだろう。どうして夏芽さんが犠牲にならなくてはいけないのだろう。
「いいんだよ、ケン。私はこの半年間、とてもとても楽しかったから、それだけで十分だよ。いつかくる死が、私の場合早く来ちゃったって、それだけの話だよ。だからケン、自分を責めないで」
夏芽さんには僕の心なんてお見通しだった。僕がいなければ夏芽さんは研究所に囚われることなく、もっと自由に生きられたんじゃないかって、そう思ってしまう。
でも、後悔したって何も変えられないことくらい分かっている。
これは私がこうしたいと思って選んだ道だから、ケンが気に病む必要はないよと言われ続けてきた。
分かってる、分かってるけど自分を責めずにはいられなかった。
「さっき薬を飲んだんだ。一般的に毒薬って言われてるやつ。だからあと数分後に私はいなくなるよ」
今日の晩御飯はカレーだよ、と言うくらいの気軽さで夏芽さんは言った。
「最後に二人で夕日を見るって約束、果たせて良かったよ」
僕は最後に、何ができるんだろう。
何を伝えることができるんだろう。
僕の口からこぼれた言葉は、とてもちっぽけな疑問だった。
「夏芽さんはどうして、自分を犠牲にしてまで他人のしあわせを願えるんですか?」
もっというべきことが他にもあったはずなのに、そんなことしか言えなかった。
「・・・それはね」
夏芽さんは夕日に照らされながら、笑顔で答えた。
「ケンのことが、大好きだからだよ」
それだけ言うと、夏芽さんはふらふらと体を揺らしながら砂浜へと腰を下ろした。
僕は弱々しいその身体を、しっかりと、消えてしまわないように支えた。
僕は手を握った。
夏芽さんがその手を握り返す。
その力が、次第に弱まっていった。
僕は、彼女の温もりを失わないように、強く、強く、握った。
そして、ふっと力が抜けていって、そのまま静かに眠ってしまった。
浅い呼吸が続いているけれども、これが途切れるのも時間の問題だった。
彼女の頬に、僕はゆっくりと触れた。
「・・・もう、いいよね」
僕は夏芽さんを見つめる。僕は、夏芽さんが頷いたように見えた。
僕の中で張り詰めていた糸が、切れた。
「・・・ごめんっ。絶対にしあわせにするって、約束したのに。夏芽さんが辛い時は、僕が支えるって、約束したのにっ」
涙がこぼれて、夏芽さんの頬を伝った。
「僕は、何もできなかった!君と一緒にいることすらできなかった」
君は、それでもいいよというのだろうけど、もっとできることがあったんじゃないかって思ってしまう。
「守れなくて・・・ごめんっ」
僕は眠っている夏芽さんを抱き寄せ、涙を流した。
「五十年間も、一人にさせてしまって、ごめん」
君は何を思っているのだろう。五十年前いなくなった仕返しだよ、と言って笑っているのだろうか。ほんとにひどい人だ、夏芽さんは。
「君といられて、ううん、夏芽さんがいたから、僕は、本当に、本当にしあわせだった!・・・ありがとうっ」
僕は泣いた。冷たくなった身体を抱き寄せながら、ずっと、泣き続けた。
浅くなった呼吸の声を聴きながら、僕は決意した。
「もう一度やり直そう、あの日を」
僕はポケットからあの薬を取り出した。そして
とある春の日。
大学三年生に進級した私は、欅並木をくぐり抜け、一人歩いていた。
緑色に色づく欅並木が懐かしく感じられた。22世紀になったというのに、世界は何も変わらないなと思う。
また、ひたすら薬の研究を続けて一年が過ぎ去っていくんだろうなと思っていた。
春風が木の葉とともに、懐かしい香りを運んできた。
「・・・ケンくん?」
一人下を向きながら歩くその姿は、私の初恋の相手に違いなかった。
彼の方は気付いていない。
なら、どうしようか。
私は昔を思い出して、飛び出しそうな胸をおさえながら言った。
「そこの少年。いや、わが友よ!天文部に入らないか」
終




