17 時が止まった書斎
17
「・・・くん、健くん。大丈夫?」
僕はゆっくりと目を開いた。目の前には美咲さんがいて僕の体をゆすっていた。
「健!意識を取り戻したか!」
「詠太、美咲さん。心配かけてごめん。どのくらい気を失ってた?」
「五分くらいかな?ついさっきまですごくつらそうな表情をしてたから心配したよ」
僕は「ごめん、心配かけて」と言いながら体を起こした。
「全部思い出したよ。夏芽さんのことも、ちなみちゃんのことも」
僕は一番最後の夢を思い出して息を飲んだ。車のブレーキ音、鈍い衝突音、そのすべてが耳にこびりついている。
「夢の一番最後で僕は車に轢かれるんだ。きっと僕が若返ったのは、車に轢かれてボロボロになった体をもとに治すためだったんだと思う」
若返り薬の本来の用法、それは病気を発病前の状態に戻して早期治療につなげること、あるいはけがをしてしまった組織や細胞をもとに戻すことだった。車に轢かれてからそれ以降の記憶がないのも、若返り薬を飲むまでの間ずっと意識不明の状態だったからなのかもしれない。
「健、さっき犯人はこの家の中にいるかもしれないって言ってたけど・・・」
「簡単な話だよ。犯人は夏芽さんだ。なら、現在歳をとって74歳になってしまった夏芽さんは誰なのか?という問題になる。ちなみさんと面識があって、僕のことも知っている74歳のおばあちゃん、それは一人しかいない」
僕はゆっくりと、廊下の奥へと進んだ。そして、ちなみさんの部屋の隣の書斎のドアに手をかけた。
「夏芽さんはあなただったんですね」
扉を開けると、薬品の香りとともに夏芽さんの姿が目に写った。
長い睫毛はうるおいを失い、薄い唇は乾燥していて艶がなく、白い肌はシミだらけになっていた。しかし、整った鼻筋や、大きな黒目、確かにそこに夏芽さんの面影があった。
「久しぶりだね、ケン」
黒い椅子に座る彼女は、ちなみちゃんのおばあちゃんだった。
「どうして私が木下夏芽だと気付いたんだ?」
「詠太は知ってるよね?僕がどうして若返り薬を創ろうと思ったのか」
詠太は状況が飲み込めず、戸惑いながらも答えてくれた。
「あ、ああ。健のお父さんがガンで亡くなって、現代医学では治せないような病気の人達を救いたくて、若返り薬を創ろうと思ったんだろ?」
「その通り。そして、僕はそのことを詠太と夏芽さんにしか話していなかった。でも、おばあちゃんは電車の遅延で僕のことを家に泊めてくれたとき、こう言った」
『小さいころお父さんがガンで亡くなって、お母さんもニューヨークにいるから頼りたくても頼れなかっただろう?』
その言葉を聞いて、おばあちゃんの眉がピクリと動いた。
「僕は不思議に思ったんです。ちなみさんにも僕のお父さんやお母さんのことは話していないのに、どうしておばあちゃんがそのことを知っているのかって。今思えば自然なことでした。あなたが夏芽さんで、加えて電話越しに僕のお母さんのふりをしていたのもあなただったんだから!」
体にビリビリと電流が走った。しかしおばあちゃんは表情を一切変えるでもなく、ただ僕の話を聞いていた。それは無言の肯定だった。
「あなたは、いや、夏芽さんは車に轢かれて意識不明になった僕を救うため、僕を高校生の姿に若返らせた!ちなみさんも一緒に若返っている理由は分からないけれど、あなたは僕たちの両親がいないという矛盾をなくすため、あなた自身がちなみさんの親代わりになった。そして、僕のお母さんをニューヨークへ出張に行っているとすることで、お母さんがこの世にいないという矛盾をなんとかごまかそうとした。メールや電話の返信は全てあなたがやっていたんですよね?電話の時はボイスチェンジャーを使った。だから僕は電話のお母さんの声と、あなたの声が別物でありながらどこか似ているなと思ったんです。似ているどころか、同一人物だったんですよね?」
おばあちゃんは、夏芽さんは黒い椅子から立ち上がっていった。
「さすがだね。全部ケンの言う通りだよ。やっと会えたね、ケン」
あの日の記憶がフラッシュバックして、今すぐにでも抱きしめたくなった。けれど、それがあまりに久しぶりのことすぎて僕はどうしたらいいか分からなくなった。
「夏芽さん、なんだよね」
僕は消え入りそうな声で呟いた。聞きたいことがたくさんあった。どうしてちなみさんが昔の姿に若返っているのか、大学から僕が若返るまでの間何があったのか、話したいことがたくさんあった。けれど、何から話したらいいか分からなくて、僕はただ立ち尽くしていた。
夏芽さんは小さく微笑んで言った。
「さて、話をしようか。今まで何があったのか」
「待って」
僕はじっと夏芽さんを見つめながら言った。
「一対一で話がしたい。後で全部話すから、二人で話をさせてくれない?」
僕は詠太と美咲さんの方を向いて言った。詠太と美咲さんは顔を見合わせ、うんと頷いき静かにその書斎を後にした。扉がバタンと閉じる音がした。この空間には僕と、夏芽さん、二人きりだ。
「会うのは五十年ぶり、なのかな?全く実感沸かないよ」
目の前にいるしわだらけで腰の曲がったこの人が夏芽さんだなんて、なかなか信じられなかった。
「夏芽さん、僕は・・・!」
「まあ、時間はたっぷりある。ゆっくり話をしよう」
夏芽さんはキッチンに向かいポットに水を入れ、僕にホットコーヒーを差し出した。そして、書斎に戻り、彼女はゆっくりと語りだした。
「・・・話をしようか。ある男の子を六十年間追い続けてきた女の子の話を」
そう語りだした夏芽さんの瞳は、あの頃と何一つ変わっていなかった。